電車が着いたのだろう、改札からごったがえした人が吐き出される。人、人、人、さすがは大阪である。アリスはそこから、一歩離れた柱に軽く背を預け火村を待っていた。 今日は火村と「待ち合わせ」である。 お互いに時間ができたので、久しぶりに食事でもしよう、と昨夜約束していた。 約束の時間まで、あと10分。 いつでも時間には遅れたくないが、時々そうもいかないこともある。今日はちゃんと待っていられるようで、安心だ。百貨店と隣接しているせいでここは暖かいが、まだ肌寒い季節、外で待たせるには気が引ける。 ただ、地下になるのか携帯の電波がちょうど届かないようで、もし連絡を入れてくれても、無理なのが気がかりだった。まあ、ゆっくり待つとしよう。 周りには人待ち顔の女性や男性がいた。恋人を待っているのか。それとも友達や家族。こんな時、ついつい相手を観察してプロフィールなどを考えてしまうのは、作家の性であろうか。 けれど、気にしているのは自分ばかりではなかったらしい。右斜め前にいた女性と一瞬目があった。アリスは軽く、茶目っ気に微笑んだ。すると、女性も目を見開くと、くすり、と微笑み返してくれた。きっと、恋人でも待っているのだろう。楽しげに、嬉しげに、改札口を見ていた。 自分もそんな顔をしているのだろうか。少し、照れくさくなる。 自分にごまかす様に、アリスはさっき買ったミステリーの文庫本を取り出した。 「アリス!」 聞くものをうっとりとさせるような、バリトンの声。彼に呼ばれる自分の名前が好きだ。 アリスは本から顔を上げて、火村を見つめる。 長身に整った容貌。黒く澄んだ瞳は何もかも見透かすようで、アリスのことを何でも見通す。その身体を包むのは、今日は会議の帰りらしく、ダークグレーの背広。胸元は、アリスが送ったシックな色合いのネクタイを、珍しくきっちりと締めている。その上にはアイボリーのトレンチコート。急いで来たせいか裾がひるがえる様が絵になっている。 見惚れるほどに、いい男だ。 「待ったか?」 アリスは火村の装いに満足して、にっこりと微笑んだ。 「そうでもないで……」 火村はアリスの微笑みに一瞬目を奪われると、背中に腕をまわして促した。 「行くか」 「うん」 アリスは火村と並んで歩き始めた。が、そこで先ほどの女性と目が合う。 その顔はアリスの相手の火村が、いい男だという賞賛の眼差しと、どういう訳かアリスと見比べて、胡乱げな表情を浮かべていた。そして、唇が作る言葉を読み取った。 「あいじん?」 火村はそっと隣に立つアリスを観察する。 今日のアリスの装いは早春に相応しい真っ白のAラインのスプリングコート。インナーはパステルカラーのシャツにブラックのスリムパンツ。はっきり言ってめちゃくちゃ可憐である。そう、街行く人の視線が先ほどから、痛いほどに……。 それなのに、アリスはなぜか俯きがちに、思考の海に沈んでいる。 「アリス?」 サラサラの茶色の髪に琥珀の瞳。アーチを描く眉に、薄い桜色の唇。小さな顔に微妙なバランスで配置されている美貌。 火村の呼びかけにアリスが視線を上げ真摯な瞳で火村を見上げた。その拍子に触り心地のよさそうな細い髪が、ふわりと細い首を飾っているカシミヤのマフラーにかかった。 「俺って、どんなふうに、見えるん?」 瞳は至極真剣だ。 何か、また考え込んでいるのだろうか?アリスには時々あるのだ。 「アリスはアリスだろ、それ以外に何があるんだ?」 火村の直接的でない答えに満足するだろうか? アリスはじっと火村の瞳を見つめながら、火村のトレンチコートの端を握り締める。やがて、うんと頷くと前を向いた。まるで迷いを振り切るように。その瞳の先に何があるのか見てみたいと、火村は思う。 そのまま無言で歩いて、やがてカジュアルなイタリアンレストランに着いた。落ちついた雰囲気で上品な内装、それに見合う味、けれど大変リーズナブルで、一度試しに入ってみてから二人のお気に入りになった。席も大抵、窓側の奥から2番目である。何度も足を運んでいるうちに、親しくなった店長が何も言わずに用意してくれる。 入り口でコートを渡し、馴染んだ席に座る。料理も大概「ペアセット」である。季節のサラダにマッシュルームとハムのピッツア、本日のパスタに食後のコーヒーとデザート。ボリュームもあるセットだ。 「今日は食前にハウスワインでも、もらうか?」 「そうやな、白がええわ」 向かいのアリスはもう今日のデザートに関心が向いているらしく、「今日のお薦めは?」なんて聞いている。先ほどの迷うような、瞳はどこにもない。 火村は安心したように、ワインを飲んだ。 程よい温度に冷やされていて、ほのかな甘さが口に広がる。アリス好みの味だ。 「火村、おめでとな!」 「何が?」 思い当たる節がない。 「論文、すごく高い評価を受けたって、聞いた」 どこから、聞いて来るんだか。火村はそんな情報をアリスに漏らす人間を思い浮かべる。 「誰から、聞いた?本地あたりか?」 アリスは肯定するように、こっくりと頷いた。 本地というのは火村の助手である。細かいことに気が利く好青年であるが、アリスが研究室に来るたび楽しそうに話しているのが気に食わない。心の狭い助教授であった。 「今日は、俺がおごったるわ。いっぱい食べよ!」 嬉しそうに、サラダを取り分けてくれる。 本地のことは気になるが、アリスが祝ってくれるのに、何ら異存はない。 大変、いい気分だ。楽しもう。 食後のコーヒーはカプチーノ。 イタリアらしく、ハート型が浮かんでいる。心使いが嬉しいものだ。 アリスはデザートのティラミスを美味しそうに頬張る。ぱくりと食べる姿が大変可愛らしい。 「さて、そろそろ帰るか?アリス」 「せやな。満足や」 二人で席を立つと、店長が近寄ってきて、ありがとうございますと頭を下げる。 アリスはそれににっこりと微笑んで、今日は俺のおごりやでなと言って、会計に向かう。会計に立っている若い男は見かけない顔だ。アルバイトだろうか? アリスがその前に立って、伝票を渡す。 「ご一緒、ですか?」 「そうやけど……」 バイトらしき男が不思議そうに、納得いかない、という顔でアリスと火村を見た。 途端にアリスの顔が曇る。火村が何か言う前に、アリスがさっさとお金を払ってしまった。 火村から、コートを受け取り無言で前を歩くアリス……。 寂しそうな横顔が、まだ冷たい夜風に浮かんでいて、火村まで悲しくなる。 夕陽丘のマンションに着くまで、ずっとアリスは黙ったままだ。 鍵を火村が開けて先にリビングに歩こうとすると、後ろを着いてきたアリスが火村のコートをひっぱった。廊下の途中で二人は佇む。 突然アリスが廊下に座り込んだ。 「どうした?アリス」 火村も同じように傍に片足をついて、アリスを覗きこむ。 アリスはじっと俯いていたが、思いきったように顔を上げ火村を真っ直ぐに見つめる。 「ごめんな」 小さな声で、呟くように謝る。 「何がだ?」 髪をなでながら、優しい声で火村は聞く。少しでも、アリスが話しやすいように。 「……愛人やて。今日、火村と待ち合わせた時に、近くにいた人に言われたわ。何で、そんな言われるんやろ?さっきも、お金払おうとしたら、変な目で見られたわ……」 アリスはポロポロと透明な涙を流す。 「ばかアリス……。そんなこと気にしてたのか?」 「そんなことって、結構なことやと思うで」 火村は頬に伝う涙を指ですくい取る。 「アリス、あのな。お前はすっげえ若く見えるんだよ、よく学生に見られてるじゃねえか。そうだろ?その上べらぼうに、綺麗で可愛い!そんなアリスの隣に俺みたいな、30過ぎの奴がいたら、誰だって不審に思うだろうよ」 「そんなこと、あらへん、火村いい男やん」 アリスの反論に火村は苦笑する。 「はは。とにかく、とても同じ年には見えなのさ。すると、どんな関係か知りたくなるのが人情らしいから、その女もいらない想像したんだろ。さっきのバイトの男も学生みたいなアリスが二人分金払って、驚いたのさ」 どうだ、わかったかと火村がアリスを見る。 「火村、嫌な気せえへん?俺、一緒に出かけて、迷惑かけてないん?」 「今更、何言ってるんだ?そんなこと、昔っからだろう」 アリスはどういうことだ、わからないという不思議そうな顔をした。顔中に疑問が浮かんでいる。 「だから、昔から見られることは、見られてたんだよ。それが俺達の見かけの年齢差が広がってきて、余計に目立つようになっただけさ」 「そうなん?」 「そうだ、だからアリスが気にすることは、ない。アリスはアリスだろ」 火村の言葉にアリスはじっと見つめる。 一度、ゆっくり瞼を閉じて、また瞳を見開いた。 その瞳にはもう、迷いも、何もない。 そして、アリスは両手を火村の頬に添えて、目を閉じながらそっと唇にキスを落とす。ゆっくりと離れて、もう一度火村の瞳を覗き込んだ。 「大好き……」 廊下の冷たい感触の中に触れた唇だけ温かい。 「ああ」 火村はアリスを引き寄せる。そして、ふせた瞼に、涙の跡に、頬に、細い顎に唇をよせる。最後には桜色の柔らかい唇に辿り着き、深く求めるように、キスをする。 アリスも火村にすがり付くようにして、身体を預けた。 冷え込む空気の中で二人の体温だけを感じる。 ひとしきり口付けを楽しむと、お互いの目を合わせくすりと笑いあう。 廊下で座り込んで、何やってるんだか。 けれど、とっても幸せで、ばかみたいに楽しい。 火村はアリスを抱き上げると、横抱きにしてリビングへ向かう。 「こんなに冷えて、俺が暖めてやるよ」 火村の意味深な言葉に、それでも素直にアリスは頷いた。 これからは、恋人の時間……。 END |