機嫌が悪い。 めちゃくちゃ、悪い……。 せっかく久しぶりに逢えたというのに火村はさっきから言葉も発しない。 不機嫌のオーラを放って近づくな、と無言に伝えてくる。 はっきり言って、むかつく。 なんでやねん、だ。アリスは内心かなりご立腹だった。 自分の〆切と火村の学会のせいで1ヶ月も逢えなくて、でも社会人だから仕方ないと自分を慰めて、寂しさを紛らわしてきた。 そして、やっと今日アリスのマンションに来ることになったのだ。 アリスはとても喜んだ。 嬉しくて、いそいそと部屋を掃除して美味しい珈琲豆も買ってきた。 今も鼻をくすぐる、いい香りが部屋中に漂っている。 な・の・に・だ。 あの男はマンションに来て、ソファに座りず〜〜〜と書類とにらめっこしているのだ。 仕事をするな、とは言わない。 でも、その態度はないんじゃないんか! アリスは、火村にささやかな反抗を試みることに決めた。 珈琲の入った火村専用のマグカップをことり、とテーブルの上に置く。 「火村」 アリスは火村に呼びかけた。 火村は面倒くさそうに、それでも顔を上げた。 アリスは、にっこりと笑った。 そこには、見るものを引きこむ、壮絶な笑顔があった……。 「ぎゅーしよう!」 「は?」 火村言葉が理解できなかったようだ。 しばらくセリフの変換をしているようだ。ちょっぴり口を開けた、まぬけ面の火村も珍しい。 アリスはしてやったり、と心の中で少し機嫌を治した。 「だから、ぎゅーや」 「だから、何だ、それは?」 不可解な言葉に火村は不信げだ。 「火村、両手出して。そうそう。そして、俺の背中に手回して」 アリスは火村の前に膝立ちになり背中に両手を回させる。そして自分の両手は火村の腰に回して。 ぎゅーと力を込めて抱きしめた。そして、火村のシャツに当たった頬をすりすりと摺り寄せる。 ああ、安心。満足。 アリスは大満足の笑みを浮かべた。一方、火村はそんなアリスの行動を見て、確認を取った。 「アリス、これがぎゅーなのか?」 「そうや!」 火村はどんな表情を作っていいかわからないようで、複雑そうな顔だ。 でも、嫌がってはいない、それは、アリスにはっきりわかる。 もし嫌がったりしたら、アリスの機嫌が悪くなるだけであるし、そんな勿体ないことを火村がする訳がなかったのだが。 「どこで、こんなこと仕入れてくるんだ、お前は……」 呆れ口調で火村は呟く。 「企業秘密」 アリスは得意そうに笑う。 火村もアリスの突飛な行動に驚きはしたが、徐々に低空飛行だった機嫌が上昇してきたようだ。 「飽きないよな、本当に」 火村は、はあと一つため息を漏らした。そして、アリスが反論する前に、唇にキスを一つ落とす。 今度はアリスが目を見開いて驚く。そして、花がほころぶような笑顔を見せた。 その笑顔は、火村の大好きな笑顔だ。 実は火村、なぜゆえこんなに機嫌が悪かったのか、というと。 教授に突然押し付けられた仕事がどうしても、片付かなかったのだ。結局ここまで持ちこむ羽目になって、自分に腹が立つし、片付けないことにはアリスといちゃつけない……。だから、彼なりに努力していたのだ。 けれど、その努力は無駄に終ったらしい。 意地を張らずに一言いえばいいものを、素直ではない助教授はいつもアリスに振りまわされる。何も言えない火村を、いつもアリスは甘やかす。 それは我侭だったり、抱擁だったり、キスだったりするのだけど……。 まったく、完敗である。 今回もアリスの作戦勝ちであった……。 それは、日常のささやかな風景……。 END |