「これから、行く」 簡素に告げてある来訪の意思。 大阪府警に出向いた帰り、夕陽丘に向かう……。 時間が遅かった所為か、渋滞からは免れ思ったより早く着いた。 愛車を止めて、胸ポケットからキャメルを取り出し火を付け一口吸う。 ふう……。 白い煙が闇に立ち昇る。 見上げた先にはアリスの部屋の灯りがぼんやりと移る。 何度も見た風景。 今日の事件も後味の悪いものだった……。そして、火村はここへ来てしまうのだ。 「お疲れさん!」 チャイムを鳴らし玄関先で待っているとアリスがにっこりと出迎えてくれた。 合鍵は持っているが、アリスが居る時火村は使わない。 アリスはざっくり編んだセーターの上に暖かそうなクリーム色のブランケットを羽織っている。ことり、と小首を傾けた拍子に、少し伸びた茶色の髪がふんわりブランケットにかかった。 その、日常の些細な風景にやっと現実の世界に帰って来た事を火村は実感した。 抱きしめたいほどの日常。 アリスはくるんと瞳を回すと、にっとチャシャ猫のスマイルをして、火村の首に両手を回して優しく抱きしめた。 唐突な抱擁。 火村はわずかに目を見開いた。 アリスのざっくりと編んだセーターが頬に当たり、気持ちいい。 「どうした?熱烈な歓迎だな。そんなに逢いたかったのか?」 かなり嬉しいが、口から出るのはからかいの言葉。 「これがいいねん。いつもは君の方が背が高いから、抱きしめたくても、どうしても、抱き付くようになってしまうん。けど、ここなら、ちょうど段差があって俺の方が高いやん。だから、君をこんな風に抱きしめられる……」 玄関と廊下の段差が10センチちょっと。火村の方が6、7センチ高いから、アリスの方が5、6センチ高くなる。ちょっと背伸びすれば、いつもとは違った風景、火村のつむじもどうにか見える。 アリスは満足げにふふ、と微笑んだ。 可愛らしく愛おしい仕草に、火村はまいった、と思う。 どうも、先ほどの簡単な電話で、不安定な精神状態がばれていたらしい。 「どんなに機嫌が悪く見えても、疲れていても、アリスに逢えばこれでも大分良くなっている状態なんだよ。そうじゃなかったら、もっとひどいさ」 アリスは背中から手をほどいて、火村をのぞき込む。 「俺も、役立ってるん?」 「ああ、十分な」 アリスの柔らかな空気は人を癒す力がある。 傍にいると、ささくれ立った気持ちや人間の負の感情が弱まって行く。 まるで荒涼とした大地に恵みの雨が降り注ぐように、満たされる。 誰もが望む存在。 けれど、火村の傍にある。 誰にも渡せない、大切な唯一の存在。 火村は少しだけアリスをブランケットごと抱き返した。 けれど、さすがに冷え込んできたようだ。このままだとアリスも冷え切ってしまう。火村はまだ靴も脱いでいないし、コートを着たままだ。二人そろって、風邪をひくこともないだろう。 「そろそろ、上がってもいいか?なんならこのままベッドに直行してもいいが」 そう言って、火村はアリスの腰を引き寄せた。 「アホか!」 アリスは顔を赤くすると、火村から逃げて、ぷいっと顔を背けた。 けれど、数歩進むと、振り向いた。 「珈琲入ってる」 そして、ふんわり柔らかく微笑んだ。 火村は学生が見たら、顔を顰めて驚くだろう優しげな表情を浮かべると、アリスの後を追った。 それは、日常の幸せな風景……。 END |