7月7日


深夜1時。カーテンを開けた。窓の外は雨。耳を澄ますとぴしゃぴしゃと地面を打ちつける音がする。かなり強く降っているらしい。
 この分やと彦星も織姫さんには会えんなぁ。
 ちぇっ。アリスはカーテンを勢いよく閉めた。なんだか無性に腹が立って鉢植えを蹴飛ばした。植物に罪はない。でも“幸福の木”なんてベタなネーミングなのだ。運が悪かったと思うて我慢してくれ。
 こんなときは酒を飲んで寝てしまうのが一番。
 だが運気は降下中らしい。〆切という難物を抱え、逃避もままならない。
 あぁ、苛々する。
 問題は――。
 今、自分が欲求不満だということだ。火村に会いたい。声を聞きたい。
 でも詮無いこと。だって火村はアメリカにいるのだから。





 火村が日本を発ったのは先月の半ばのこと。向こうの大学で学ぶチャンスを得たのだ。夏季の短期留学。7月から8月の終わりまで、あちらが夏休みの間のみ限定で開催されるセミナーに参加している。折角行くのだからと、期日の少し前に旅立った。
色々と会いたい知人がいるらしい。
「寂しいだろうが我慢しろよ。たった2ヶ月のことだからな」
 頭をぽんぽんと叩かれ、なだめるように囁かれる。
 混雑した空港ロビーで、アリスは仏頂面で立っていた。
「寂しいわけあるかい、子供じゃないんや」
「そうだな」
 火村は笑ってそう言った。
「笑うなや。俺は君がおれへんかって全然平気やねんから」
 大人ぶって優しげな態度がひどく気に入らない。
 それよりもなによりも、自分がやはり寂しいと感じているのが非常に許せない。
 いつの間にやらこんなに依存している。そう思うと地団駄を踏みたくなるくらい、はたまたキィィィィっと叫びだしたくなるくらい焦燥感に駆られる。
「お土産買って来い」
「あぁ。何がいい?」
「そうやなぁ…」
 免税店でモンブランの万年筆でも。いや意地悪してジョニーウォーカーの青ラベルを10本とか。いやいやもっと火村が困るものはないだろうか。探し出すのに苦労してしまうようなもの。
「なんだよ、欲しいものないのか?」
「ちょお待ちぃや」
「…ゆっくり考えてろ。お金、両替してくるから」
 火村が財布を持って銀行のカウンターへと向かった。その後ろ姿を見送る。
 急に気持ちがしぼんだ。つっかえ棒がなくなったような、心もとない気分。火村がゲートをくぐるときも、こういう気分になるのだろう。置いてけぼりを食らわされて。
 何も予行演習させんでもええやないか。
 アリスは口唇を尖らせた。どすん、と傍らのソファに座った。
 あぁ。なんで只の男友達がしばらくおれへんくらいで、こないにめげるんやろ。死ぬの別れるの、そういう話ではないのやし。
 目をつぶる。目の裏では火村が能天気に笑っていた。実際は彼が笑うことなど滅多にない。笑ったとしても、大抵は口唇を片方引き上げるシニカルな笑みだけなのに。
いつこんな笑顔を見たのだろう。いつだったっけ? アリスは思い出そうと必死になった。
「おい、なんて面してるんだ」
 慌てて目を開けると、火村が真正面に立っている。
「俺、どんな顔してた?」
「渋柿を丸ごと呑みこんだような顔」
「なんじゃいそれは」
「百年の恋も醒めるような顔だってことだ」
「恋ってなんや。気色悪い」
「比喩に文句つけてどうすんだ」
 火村がふふんと笑った。例のシニカルな笑いである。
 ほら。火村はこんな顔しかせぇへん。
「それより土産は決まったのか?」
「まだ」
「早くしねぇと行っちまうぜ」
 出発の時刻が迫っていた。税関を通って出国審査を受けて、それを考えると確かにぎりぎりかもしれない。
「ほら早く」
 急かされると余計に思いつかない。
「いいのか? リクエストなければビーフジャーキーにするぞ」
「ううう」
「それともナッツ入りのチョコのがいいか?」
 絶対からかっている。火村がことのほか楽しそうで、なんだか意地悪する気が失せてしまった。
「ええわ、もう」
「チョコで決定か」
「ちゃう。…元気で帰ってきてくれればそれでいい」
 アリスは火村の顔を見つめて言った。
「出来るだけ早く。一日も早く元気に帰って来い」
 そう。自分が寂しい思いなどしないうちに。認めてしまえばラクなものだ。火村がいないと寂しい。ただそれだけのこと。
「アリス…」
 火村が不意に真面目な顔をした。
「好きだよ、アリス」
 そう言ってふわりと抱きしめられた。目がチカチカした。なに? 一体何をされている? 
 そして唐突に腕は離れ、あっという間にアタッシュケースを持ってゲートをくぐってしまった。
「おい! 火村っ!」
 我に返って叫んだが、火村はちろりと振り返るだけで戻ってこない。
「卑怯モン! 今の、今のっ…」
 狼狽する。あれってマジだろうか。どういうつもりで? あいつ、ほんまに? すると。
 火村がニカッと笑った。能天気な笑顔で。







 それっきりこれっきり。
 火村はメールはよこすが、電話はしてこない。居場所がわからないものだから、こちらからは電話のしようもない。苛々もしようというものだ。
 ふと気付いた。
 雨音がしない。アリスは立ち上がり、カーテンをそっと開けた。やはり雨は上がり、分厚い雲がところどころ切れている。
 もしかしたら織姫さんに会えるかもしれへんなぁ。ちょっとばかり気分が浮上する。ええこっちゃ。他人の幸せを喜べるとは、俺もまだまだ捨てたもんやない。
 雲がすごいスピードで流れていくのをアリスは眺めていた。
 星が東の方でちらりと瞬いた。


 そのとき。
 電話が鳴り出した。幻聴? 否、本物。
 アリスは慌てて部屋に駆けこみ、受話器を取った。
「もしもし、火村っ?」
「あぁ久しぶり……」





 七夕の奇跡は実在する。
 そう。あなたの元にだって、ほら。
 



くるみさま
ありがとうございます。
これは、実は直接交渉の折り、ちょうだいといって本当に頂いたお話なんです。
言ってみるものですね・・・。(笑)
くるみさまが書かないと言ってた、告白編・・・・。うふふふふ。
私がもらってしまったのです。
可愛いお話で大好き。



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