鎌倉幕府の歴史 (工事中) updated 5/5/2003 | |||
西暦 | 政治 | 社会・文化 | 天皇/院政/将軍/執権 |
1180 | 6 清盛福原遷、後白河上皇・高倉天皇を福原へ移す。8 後白河上皇の第二皇子・以仁王(もちひとおう)の平氏打倒の令旨(命令)に呼応して源頼朝、伊豆に挙兵するが、石橋山で平氏の大庭影親らに敗れる. 9 源義仲、信濃に挙兵、 10 源頼朝、鎌倉へ入る. 富士川の戦いに平惟盛の平氏の大群を破る. 頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれ、鎌倉に政庁を設け、関東一帯の大小の領主・武士を「御家人」とする地方政治を形成した.侍所別当(長官)に和田義盛を任命(上杉)。 11月には御家人統制のために、「侍所」を設けた.(井上) この時点で鎌倉幕府が事実上開始されたと指摘する歴史家もいる.(五味) 12 清盛、法皇の院政を復活する. | 頼朝、大倉御所を建てる. 上皇:天皇が譲位して着く地位、出家した場合は法王となる. 御家人:頼朝(およびそれ以降の鎌倉幕府)と主従関係を結んだ武士 |
安徳/後白河/-/− |
1181 | 清盛、三男宗盛を五畿内の国々(山城・摂津・和泉・河内・大和)及び伊賀・伊勢・近江・丹波の各国の惣官職(軍政官)に任命。これは実質上は歴史上初めて登場した、武士による広域行政区画を対象とした軍政公権の樹立と評価すべきもの(上杉) | 1 高倉天皇没(21)、2/24 平清盛没(65) | |
1182 | 3 後白河、院宣を下し諸国の荘園より兵糧を徴収する. この春、京都飢饉、死者多数 | 3 若宮大路の整備開始、頼朝が妻政子の安産を願って整備した. 8 頼家生まれる。(8/12) |
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1183 | 7 平氏一族、天皇(安徳天皇)・神器を奉じて西海へ逃げる(平家都落). 義仲・行家、入京 12 頼朝、義仲追討のため、弟範頼・義経を上洛させる. | ||
1184 | 1 義経らの軍、義仲を討つ. 頼朝、朝廷より平氏追討の命令を受ける 2 範頼・義経、一ノ谷の合戦で平氏を破る. 頼朝、8月には公文所を10月には問注所を設置、それぞれ大江広元・三善康信を長官にする. |
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1185 | 2 屋久島の戦、 3.24 長門壇ノ浦の戦、安徳天皇入水、平家一門滅亡 10 義経の奏請により頼朝追討の院宣下る. 11 頼朝の奏請により義経追討の院宣下る. 頼朝の要求で守護・地頭の設置と一反につき五升の兵糧の徴収が勅許される. このことは、頼朝にとってその後の幕府の国家をなす権限の獲得を意味し、1192年ではなく、この1185年の「守護・地頭の設置」が天皇より”許可”された時点で鎌倉幕府が事実上開始されたと指摘する歴史家も多い. また、このとき、摂関家の九条兼実(かねざね)を指名して法皇補佐の役につけている. 幕府:幕府とは、出征中の将軍の幕営を意味する漢語に由来するし、日本ではもとは近衛大将の居館またはその人をさした.のちに、頼朝が近衛大将に任ぜられて(後、征夷大将軍)鎌倉のその居館が幕府とよばれた.それより転じて、武将の資格でつくられた政権および政庁を幕府というようになった. | 3 安徳天皇入水 8 東大寺大仏の落慶供養 この年、勝長寿院(しょうちょうじゅいん、大倉御所の南にあった寺)の完成供養が催される. 勝長寿院は現存しない. |
後鳥羽/後白河/-/− |
1186 | 3 北条時政、7国の地頭職を辞退する。頼朝の奏請により諸国の兵糧米の徴収を停止する | 3 静御前、捕まって鎌倉に送られる. | |
1187 | |||
1188 | 2 頼朝、藤原基成・泰衡に義経討伐を命ずる | ||
1189 | 4? 義経、藤原泰衡により衣川で殺される 7 頼朝、藤原泰衡を討つため、奥州征伐に出兵する 9 藤原泰衡、郎従により殺される.藤原氏の土地を没収して御家人に与え、地頭にしていった. | ||
1190 | 11 頼朝、法王・天皇に拝謁右近衛大将となるが、この官位は天皇を守るものであるため、頼朝の望むものではなく、すぐに返上している. 12 頼朝鎌倉へ帰る. | ||
1191 | 7 栄西(えいさい、ようさいとも言う.日本臨済宗の祖で1168年と1187年の二度渡宋する)帰国し、臨済宗を伝える | 11 3月の石清水八幡の火災を機に11月山の中腹に移した. それが鶴岡八幡宮となる. 源氏の氏寺だったが、源氏滅亡後は鎌倉幕府の寺となる. | |
1192 | 7 頼朝、後白河法皇没後、朝廷(関白九条兼実)から征夷大将軍に任ぜられる.(教科書的には、この時点で鎌倉幕府が成立したとする. 1180年、1185年の項も参照のこと). この後、明治維新まで武家政治が700年間続く. 12 頼朝銭貨の流通を停止する. 11 永福寺(ようふくじ)完成祝賀式典がもようされる. 永福寺(大倉御所の東にあった寺)は源義経・藤原泰衡およびその他の怨霊供養のため建設された. 永福寺は現存しない. | 3 後白河法皇没(66才). 法皇:出家した上皇のこと | 後鳥羽/-/源頼朝/− |
1193 | 5 頼朝、富士に巻き狩りを行う.このまき狩りを通じて武人の棟梁であることを東国諸国に誇示した.この時、曽我兄弟の敵討ち事件が起きる.頼朝暗殺計画があったらしい. | ||
1194 | |||
1195 | 3 頼朝上洛し東大寺開眼供養会に出席. この時、頼朝は自分の娘、大姫を後鳥羽天皇の后にしようと運動しているが、後に大姫は病に倒れ実現できなかった. | ||
1196 | |||
1197 | |||
1198 | 後鳥羽天皇、頼朝の反対を押し切って天皇を譲位し、院政を敷く. | 土御門/後鳥羽/源頼朝/− | |
1199 | 1.13 源頼朝没(53才、落馬が死因といわれている) 4.12 北条政子、若い頼家が訴訟を親裁するのを止め、時政、義時、大江広元、三浦義澄ら13人の御家人の合議制を開始し頼家の権限を大きく制約した. この年栄西、鎌倉へ入り、同年寿福寺建立を許可される . | 土御門/後鳥羽/-/− | |
1200 | 1 道元生まれる. | 後鳥羽上皇、和歌の百首歌を企画 | |
1201 | 後鳥羽上皇、和歌所を置き、「親古今和歌集」を定家らに命じる. | ||
1202 | 土御門/後鳥羽/源頼家/− | ||
1203 | この年、時政は、後鳥羽と関係があり、実朝を擁する比企能員(ひきよしかず)を暗殺している. 9 元服した源実朝は、伊豆に流された頼家に代わり第三代将軍になる.北条時政は大江広元とともに政所別当になり、幕府の実権を掌握する.北条家の執権政治のはじまり. | 土御門/後鳥羽/源頼家/@北条時政 | |
1204 | 7 北条時政、源頼家を幽閉先の修善寺で暗殺(23才) | 土御門/後鳥羽/源実朝/時政 | |
1205 | 7 北条義時、父時政に代わって執権になる.この前に、政子は将軍実朝を廃して、朝雅を将軍にしようと陰謀した父時政を伊豆に追放している. | 3 藤原定家ら「新古今和歌集」選進する. | 土御門/後鳥羽/実朝/A北条義時 |
1206 | |||
1207 | 2 幕府、興福寺・延暦寺の訴えにより、法然・親鸞ともに流罪となる.(法然一門に対する王朝の大弾圧で、専修念仏が禁止される.専修念仏は阿弥陀如来の請願を信じてその名号、念仏を唱える易行のみが正行と主張し、それによってはじめて人は往生すると説いた. ) | ||
1208 | |||
1209 | |||
1210 | 後鳥羽上皇、土御門を天皇から退位させ、順得天皇を即位させる. | 定家近代の秀歌を選び実朝に贈る. | 順徳/後鳥羽/実朝/義時 |
1211 | |||
1213 | 義時、義盛を挑発し、その子息や甥が前将軍頼家の遺児を立てて謀叛を起こす謀議に与したとして、義盛を反乱に引き出し、これを滅ぼした。(和田の乱、和田合戦). この後、義時は政所別当と侍所別当を兼ね、幕府の実権を掌握する. | 12 源実朝の「金塊和歌集」成る. | |
1214 | 7 大慈寺(十二所の明王院の東にあった寺)の開堂供養が催される. 大慈寺は現存しない. | 2 栄西の「喫茶養生記」成る. | |
1215 | 1 北条時政没(78才) | 7 栄西没 | |
1216 | 11 実朝、渡宋を計画し陳和卿に造船を命令 | 2 鴨長明没(64才) | |
1217 | 4 実朝、陳和卿の作った唐船での渡宋を断念 | ||
1218 | 7 北条泰時、侍所別当を兼ねる. | 12 「宇治拾遺物語」成る | |
1219 | 1 実朝、甥の公卿に暗殺される.(28才) 公卿は頼家の子であり、実朝は公卿の叔父、公卿は実朝の甥にあたる. 当時公卿は鶴岡八幡宮の別当. この時点で源家将軍は三代で滅び北条政子の実家である北条氏が名目ともに幕府の権力を握るようになる. 以後、鎌倉は北条氏の都となる. 7 摂関家の九条家道家の三男頼経(よりつね)鎌倉へ入る. この将軍は当時2才であり、権力を持ったのは、北条義時とその姉、頼朝の妻・政子であった.(尼将軍の誕生、義時はその後見) |
12 大倉御所焼失 7.26 頼経が鎌倉に入る前に、四角四境祭(しかくしきょうさい:四境祭)が催されている. ただし、これは略式と考えられている. 1224年の項参照 |
順徳/後鳥羽/-/義時 |
1220 | 慈円「愚管抄」成る. | ||
1221 | 5 後鳥羽上皇、京都守護・伊賀光季(みつすえ)を討伐し、北条義時追討の院宣を諸国の武士に下す. ここに日本国の領域をほぼ東西に分けた東国・西国戦争(承久の乱)がはじまる. しかし、関東武士団はわずか一カ月で後鳥羽上皇の軍勢を破った。 6 幕府軍入京、泰時・時房、京都に常駐(六波羅探題の初め) 7 幕府、後鳥羽上皇を壱岐に、順徳天皇を佐渡に流し、10月には戦争計画に加わらなかった、土御門上皇を土佐に流す. この承久の変の後、これまでは平氏の荘園と関東を中心とする諸国にしか支配権をもたない東国を中心とした軍事政権にすぎなかった鎌倉幕府は、これを機に西国にも大きな影響力を持つようになった.以後朝廷は天皇や年号を決めるにも、幕府の意見を聞くようになった.泰時と時房はそのまま在京し、六波羅探題といわれて戦後処理、王朝管理にあたるとともに、畿内以西の西国御家人たちを統轄することになった.王朝側についた貴族の所領は没収され、戦功に応じて東国御家人に恩賞として与えられ、ここに、東国御家人は西国に大挙して進出した.以後、京都側から鎌倉に対する呼称として用いられてきた「関東」という名称を、東国の王権は自らの呼称として常用するとともに、鎌倉に視点をすえて、京都を含む西国を「関西」と呼んだ.(網野) | 5.26 鶴岡八幡宮で大仁会(だいにんえ:鎮護国家の重要な法会)が行われる. これは、鶴岡八幡宮が源氏の氏寺から、鎌倉幕府の寺になったことを意味する. | 仲恭->後堀川/後高倉/-/義時 |
1222 | 4 幕府、承久の乱後の守護・地頭の処務を定める. | ||
1223 | この年、東国御家人の無法を取り締まるため、幕府、新補地頭の得分率法(新補率)を定める. また大田文(荘園・公領の田地の面積、支配者などを記録した基準的な土地台帳)を守護に命じて作成させ、京都の王朝と、関東の幕府、それぞれの統治権のおよぶ範囲を確定し、内政不干渉の態度を示した. | 道元(23才)明全と入宋 | 後堀川/-/-/義時 |
1224 | 6 北条泰時、執権になる. 6.6 七瀬祓(ななせのはらえ:四境祭)を催す 12.26 四角四境祭(しかくしきょうさい:四境祭)を催す. | 6 北条義時没(62才)、親鸞「教行信証」成る. | 後堀川/-/-/泰時 |
1225 | 12 幕府、評定衆を置く、鎌倉大番役(宮中の守護のため京都に駐在した諸国の武士)の制度を定める. 叔父時房をもう一人の執権(連署)とする.御所を宇都宮辻子に移転. 泰時は六波羅探題として京に滞在した経験があるので、鎌倉を平安京をモデルにして作ったと思われる. これを機に、泰時は、丈尺制(じょうしゃくせい:度量衡の単位をさだめたもの)、戸主制(へぬしせい:土地の面積単位を定めたもの)、保の制度(ほのせいど:1199年-1235年の間作成された.:都市を保という単位で都市行政を管理するようにしたもの)を制定した、これらはすべて平安京的なシステム. | 大江広元没(78才)、北条政子没(69才) | |
1226 | 後堀川/-/藤原頼経/B北条泰時 | ||
1227 | 8 道元帰国(28才) | ||
1228 | 11 六波羅、高野山僧徒の武装を禁止する. | ||
1229 | 4 幕府、寛徳以後の新立荘園を禁止 | ||
1230 | 11 幕府、西国の荘園・公領の地頭のうち、領家側と訴訟して裁判に従わないものの注申を六波羅以下に命令する. | 全国大風雨、この年寛喜の大飢饉 | |
1231 | 4 幕府、新補地頭の所務・得分の率法を定める. 新補地頭とは、承久の変以降院側の勢力の持っていた土地をもらって地頭になった御家人たちをいい、本補地頭は頼朝依頼の地頭を言う. | この年、京都で餓死者が多い. モンゴル、高麗に進攻 |
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1232 | 8 北条泰時、裁判の公正を理念として関東御成敗式目51条を制定する(貞永式目) 武家の力が強くなって、荘園領主と地頭、および御家人どうしの争いが多くなったため貞永式目が作られた。武士階級の独自憲法ができた.この法律ができたことは、武士が貴族(公家)とならんで支配者になったことを示している. また、この法は誓約によって、そこで決せられたことは全体の共同意思であることを定めた高度な合議体、評定衆によって運用され、東国の王権-将軍の統治権行使の基本はここで確定した. 同じ年の9月、幕府は畿内・西国の境相論について、国領は国司、荘園は本所・領家を通じて朝廷-西の王権、天皇が最終的に判断すると定めた. この時点で、御家人に支えられた鎌倉の将軍、東国の王権を頂点とする東国「国家」が、京都の天皇、西国の王権を頂点に西日本を統治する王朝国家と並存しつつ確立したといえる.その結果、12世紀までにその骨格が作られていた荘園公領制は、日本国の支配下におかれた社会全体を覆う土地制度、租税・行政制度として確立した. ただし、荘園公領性の実態は、西と東ではその社会の差異に即して異なる.(網野) 東西の王権の政策は基本的には「農本主義」とういべき「徳政」を貴重としていた.しかし、13世紀前半には、宋から流入した金属貨幣-銭貨も米や絹、布とともに市庭で盛んに流通するようになってきた.「重商主義」の台頭.その後、政治面では「農本主義」<->「重商主義」の政策の違いとなって歴史が動いて行かざるを得ない.(網野). | 10 定家、「新勅撰和歌集」を撰進 この年、往阿弥陀仏による和賀江島の港湾建設成る. この和賀江港の管理をしていたのは律宗寺院の極楽寺(良観忍性の律宗寺院)が管理していた. 管理維持のかわりに積荷に一種の税(関銭)を徴収する権利を得ていた |
四条/後堀川/頼経/泰時 |
1233 | |||
1234 | 6 幕府、専修念仏を禁止 | モンゴル、金を滅ぼして華北を支配下に入れる.この当時、モンゴルから逃れ日本列島へ渡来する人増える.蘭渓道隆もその一人. | 四条/-/頼経/泰時 |
1235 | 1 幕府、僧徒の武装を禁止する 12 興福寺宗徒、蜂起 | ||
1236 | 8.4 御所が宇都宮辻子から若宮大路御所(若宮大路の東側)へ移転. 以後ここが政治の中心となる. | ||
1237 | |||
1238 | 常光、鎌倉に大仏を建立する | ||
1239 | 6 幕府、陸奥の百姓が絹布の代わりに銭納することを禁じ、白河関以東の銭貨の流通を停止する. 5 幕府、人身売買を禁止する. | 2 後鳥羽院没(60才) | |
1240 | 2 幕府、鎌倉市中の禁制を定める. 11 篝(かがり)の制度創設、警察の交番のようなものを辻に作って都市の警護を行った. 巨福路坂整備、以後、建長寺、円覚寺などの寺院が山内に作られる. | 1 北条時房没(66才) | |
1241 | 10 幕府、武蔵野の開墾を計画する. 六浦道整備 | 8 藤原定家没(80才) | |
1242 | この年、西園寺公経は独力で唐船を派遣し、10万貫の膨大な銅銭と珍宝を輸入し、巨大な財力を蓄えた.これらが、商業や金融の質を変化させていった.->「重商主義」の政策を重く見る勢力の拡大が進む. | 6 北条泰時没(60才) | 後嵯峨/-/頼経/C北条経時 |
1243 | 鎌倉大仏木造完成(12m) | ||
1244 | 2 幕府、奴婢の養子・飢饉救助・人身売買・西行奉行職などの諸法を定める. | 7 道元、越前大仏寺を開く | 後嵯峨/-/頼嗣/経時 |
1245 | 5 幕府、六波羅の召令に従わない守護地頭らの罰則を定める. 12 幕府、悪党を隠すものの所領を募集する. | ||
1246 | 3 北条時頼執権となる. 5 名越光時、前将軍頼経と諮り、執権時頼を除こうとしたため時頼によって滅亡させられる. 6 光時、伊豆に流される. 7 幕府、頼経を京都へ返す.(宮騒動) | 6 道元、越前大仏寺を永平寺と改称. この年、宋僧蘭渓道隆、博多に来る. | 後深草/後嵯峨/頼嗣/D北条時頼 |
1247 | 6 時頼、安達氏と手を結び、海上交通支配をめぐるライバルでもある三浦泰村とその一族や千葉氏を滅ぼす(宝治合戦、三浦氏の乱). この年、隆弁(りゅうべん)第9代鶴岡八幡宮別当になり、以後36年間別当を勤める. | 8 時頼、道元を鎌倉に招く. | |
1248 | 12 幕府、地頭と百姓の訴訟の書式を定める. | ||
1249 | 12 幕府、御家人の訴訟を扱う裁判機関として引付制(ひきつけせい)を置き、裁判の公平と迅速化を進めた.. | ||
1250 | 4 幕府、鎌倉の庶民(卑賤の輩)の武装(帯刀)を禁止する. | ||
1251 | 12 幕府、鎌倉市中の商売の区域を定める. | 2 鎌倉火災 10 藤原為家「続後撰和歌集」成る. | |
1252 | 時頼は、道家が幕府に対する謀叛の企てに関わったとして、将軍頼嗣(頼経の子)を廃して、後嵯峨天皇の第二皇子宋尊親王(むねたかしんのう)を将軍に迎え、皇族将軍制をはじめる.宋尊親王は王家出身の将軍を迎え、頂点にいあただくことで、北条一族は専制的な体制を強化・確立した. 幕府、全国の酒造業を禁止し、鎌倉で、酒がめ37000余を打ち砕く. |
この年、鎌倉大仏(阿弥陀仏)金銅製造が開始される. 完成は1262または1264年といわれる。管理は極楽寺. 1495年大仏殿は倒壊し、それ以降は雨ざらしの大仏になる. | 後深草/後嵯峨/宋尊親王/時頼 |
1253 | 地頭の非法を戒め物価を統制する. | 8 道元没(83才) 4 日蓮、安房小湊より鎌倉に移り、法華経を唱える. この年、時頼の庇護のもと、蘭渓道隆を開基として建長寺(天皇の勅願寺という寺格)が建てられ、建長寺は鎌倉禅寺五山制度でその第一位にされた.. |
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1254 | 4 幕府、鎌倉に入る宋船の数を5艘と定め、宋との交流をその統制下におこうとした.. 10 幕府、武士の狼藉・人身の売買を禁止する. | ||
1255 | |||
1256 | 11 時頼出家 | 後深草/後嵯峨/宋尊親王/E北条長時 | |
1257 | 8 鎌倉大地震 | ||
1258 | 9 諸国に疫病と飢饉があり、諸国群盗が蜂起する. | 1 鎌倉寿福寺火災 蒙古、高麗を服従させる. |
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1259 | この年、 材木座にある浄土宗の寺・光明寺(開山は然阿良忠)が建てられたという. 古くは蓮華寺とも言われていた. | この年、諸国に飢饉疫病つづき死者多し. | 亀山/後嵯峨/宋尊親王/長時 |
1260 | 8 鎌倉の僧徒蜂起して、日蓮の松葉谷の草庵を焼く. | 7 日蓮「立正安国論」を時頼に進める. (蒙)フビライ・ハン(汗)モンゴル国王に即位 | |
1261 | 2 幕府、61カ条におよぶ関東新制を発すす, 関東諸国の寺社修理の法も定める. 朝廷も公家新制を定める.両新制とも禁止項目の多い法令となっていることは、「悪党」を召し従い、その力を借りて商業・金融を積極的に肯定する動きが社会に広くあらわれてきたことを示しており、それはやがて、「農本主義」の政治路線に対する「重商主義」的政治路線が王朝・関東双方に、はっきり姿をあらわしてくる.(「農本主義」:荘園・公領における農業や、田畑の所領を基盤として、撫民による政道に基づく政治を理想とする路線、一方、「重商主義」:神人・供御人をはじめとする商工業者に依拠し、銭貨を蓄積して富を増やすことを積極的に肯定する路線) | 5 日蓮、幕府によって伊豆伊東に流される. | |
1262 | 幕府、物価と貸金利息を統制する. | 11 親鸞没(90才) | |
1263 | 4 高麗、日本人の沿岸侵略の禁止を請願する. この年、朝廷は41カ条の新制を発する. |
5 日蓮許される. 11 北条時頼没(37才) 諸国で台風が猛威をふるう. |
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1264 | 10 幕府、越訴奉行を置く. この年、三浦氏を滅ぼして、太平洋・瀬戸内海・九州・北陸の海上交通を支配するようになった北条氏は、唐船の発遣も統制下に置き、t中国大陸から渡来するひとを迎えた. |
モンゴル、サハリンに侵入 | 亀山/後嵯峨/宋尊親王/F北条政村 |
1265 | 4 幕府、延暦寺宗徒の武装を禁ずる. | ||
1266 | 3 幕府、引付衆を廃止. | 金沢称名寺律宗寺院となる. 称名寺は極楽寺の末寺であった。称名寺の隣には金沢実時が基礎を作った金沢文庫がある. 鎌倉幕府の公式歴史書である「吾妻鏡」は金沢氏によって作られたとされる. | 亀山/後嵯峨/惟康王/政村 |
1267 | 9 高麗の使、蒙古王世祖(フビライ・ハン)の書を持って来日. この年、幕府は徳政令を出して、御家人の所領の移動を停止し、非御家人・凡下の手にそれが渡ることを抑制して、御家人の動揺を抑えようとした. | ||
1268 | 2 幕府、蒙古の国書を奏上、讃岐などの御家人に蒙古襲来の防備を命ずる. 10 日蓮、書を時宗に送り、諸宗を排撃し外寇を警告する. 高麗使者大宰府に到着. 時宗、14才の若さで父時頼のあと得宋となり、執権職を継ぐ.正村は連署に退いて時宗の補佐をする. |
亀山/後嵯峨/惟康王/G北条時宗 | |
1269 | 9 高麗のフビライの使、対馬に来て国書を届ける. | ||
1270 | 1 朝廷は蒙古への返牒をつくり幕府へ送るが幕府は蒙古へ送らず無視、交通拒絶の意思を貫く.. 幕府、御家人の所領の質入・譲渡を禁ずる. |
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1271 | 9 蒙古の使、筑前今津に来るが、関東は黙殺. この年、三別抄という高麗の反モンゴル抵抗組織の武人組織から、モンゴルとの戦いへの援助を望んだ使いがきたが、朝廷・関東ともに、その意味がわからず、使いはむなしく引き上げた.、 モンゴルの使者が100人ほどで、北九州の今津に到着し、自らフビライの国書を王朝・関東に渡すことを要求したが、これをも黙殺. |
9 幕府、日蓮を滝口に斬ろうとし、さらに佐渡に流す.(滝口の法難) モンゴル元を国号として、都を北京に移す. |
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1272 | 2 政権内部の最大の反対派名越一族の討伐(二月騒動) 5 高麗の使、元の牒状を持ってくる. この年、幕府、諸国に大田文の作成を命じ、来るべき戦争に備えて動員しうる軍事力、その背景をなす経済力の調査を実施. |
亀山/-/惟康王/時宗 | |
1273 | 3 元の使、大宰府に来る. この年、調査の結果をみた幕府は、多くの御家人が所領を失っていることを知り、幕府は御家人所領回復令 -御家人が質入した所領を無償で回復することを認める徳政令- を出す.このような商業・高利貸資本をおさえるための法律は、幕府の御家人が高利資本から守ろうとする政策である.(井上) |
この年、「吾妻鏡」前半が成る. | |
1274 | 10 蒙古軍、900艘の船に2万の元軍と1万数千の高麗軍で壱岐・対馬を侵す. ついで筑前に上陸、しかし大風おこり、その戦艦200余沈没(文永の役) 11 蒙古襲来の報、鎌倉に達す. |
2 幕府、日蓮を許す. 5 日蓮、甲斐身延山に隠棲し、以後は著述と弟子の養成にあたる. | 後宇多/亀山/惟康王/時宗 |
1275 | 4 蒙古の使い、長門室津に来る.幕府、鎌倉に呼ぶ. 5 幕府、備後・安芸・周防・長門の御家人に長門警備を命令. 9 蒙古の使を滝口に斬る. この年、幕府は、兵員・兵糧の輸送の妨げになる西国の関所を撤廃、西国の交通路の支配権を王朝から奪取した. |
10 「紀伊国阿氏河(あてがわ)荘片仮名書言上「高野山文書」では地頭の横暴が述べられている。地頭は当時刑罰権まで行使しえたため、農民から恐れられた. | |
1276 | 3 幕府、鎮西将士に命令して石塁を築く.(石築地:いしついじ) | ||
1277 | |||
1278 | 11 元の皇帝・フビライ・ハン(中国の廟号:世祖)、日本商船の交易を許可する. | 10 蘭渓道隆没(66才) | |
1279 | フビライ・ハン、高麗に日本遠征用の造船を命じ、第二次遠征の準備をはじめる. 7 元使、筑紫に来る. 幕府これを斬る. | 6 無学祖元ら時宗の招きで来国. 8祖元、建長寺住持となる. | |
1280 | 2 朝廷、諸寺に異国降伏の祈祷を命ずる. | この年、尼仏尼の「十六夜日記」なる. | |
1281 | 5 高麗の兵船、対馬に襲来する. 6 元の本体、高麗軍と合流、志賀島・長門に襲来. 7 大風雨により元軍壊滅(弘安の役) 旧南宋人を主体とする江南軍10万人、モンゴル人・高麗人の東路軍4万で第二次日本遠征をしかけた.東国の王権、関東の統治権は九州はもとより、西国全体におよび、西の王権、王朝の基盤は一挙に狭められた. 奇跡とも言うべき暴風雨による元軍の敗退を、大寺社は祈祷による効果とし、これを「神風」と強調して、祈祷に対する恩賞を王朝と幕府に強く求めた. | ||
1282 | 10 北条時宗、無学祖元を開山として円覚寺を建て蒙古襲来で死んだ敵味方の戦没者を供養するため建てられた. | 10 日蓮没(61才) この年の春、時宗を起した一遍は巨福路坂から鎌倉入りを試みたが、時宗に阻止される. | |
1283 | 7 円覚寺を将軍祈願所とする. フビライ・ハン、第三次日本遠征を企てる. この年の末、幕府は全国の寺社に異国降伏祈祷令を出す. |
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1284 | 7 元使、対馬に来る. この年、フビライ・ハン、中国大陸南部の広東・福建に反乱が起こり、それがベトナムにも拡大したため、日本遠征を中止する |
4 北条時宗没(34才) 14歳の子息貞時が執権になる. | 後宇多/亀山/惟康王/H北条貞時 |
1285 | 11 北条貞時が平頼綱と組み安達泰盛一族を滅ぼし、金沢顕時を上総に流した事件.(霜月騒動または弘安合戦) 北条貞時の内管領の平頼綱の讒言により謀反の疑いをかけられたと伝えられている。 御家人の立場を擁護する安達泰盛と得宗御内人(北条氏の「御内」という意味で、御内人といい、将軍は「公方」といわれた.)の平頼綱の戦いで、泰盛が敗れたことで、得宗専制政治がすすんだ. なお、得宗(とくそう)とは北条家嫡流の家督のこと. 得宗専制政治の中で内管領(得宗家の執事)が重要な役割を果たした. 霜月騒動は、北条氏による、和田氏、三浦氏と続いた有力御家人打倒の最後であった。 この事件以降名実ともに鎌倉幕府の得宗専制政治が始まったといわれる。後に、得宗専制政治の密室政治が幕府衰退の一因となる. 安達泰盛の御家人派は「農本主義」的政策を、内管領の平頼綱の得宋御内人派は、借上、商人、廻船人などと積極的に結びつき、海上交通の支配を強化し、禅律僧を援助して中国大陸との貿易を推進する、「重商主義」的政策を進めようとしていた. |
3 円覚寺舎利殿成る. この年、東慶寺(縁きり寺)が北条時宗の妻・覚山尼を開山とし建てられる.時宗の子の貞時が開基となっている. 1902年までは尼寺. |
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1286 | 頼綱、九州の御家人の訴訟を処理するため、鎮西談義所を設置、得宗の意のままになる人々が送り込まれ、これは得宗による鎮西支配の大きな拠点になった. 10 幕府、鎮西将士に日元戦争(弘安の役)の恩賞を行う.同時に霜月騒動時の勲功章の配分もなされる.その時、諸国の守護を含め、霜月騒動で泰盛に加担した「謀反人」のあとに、北条氏一門がさらに大量に進出した. この年、改めて組織されたフビライ・ハンの第三次日本遠征が出発する予定であったが、ベトナムが元の支配に抵抗していたため、元は日本遠征に軍勢を割くことができなかたtため、中止された. |
9 無学祖元没(61才) | |
1287 | 1 鎮西奉行、肥前の将士に博多警護を命ずる. | 12 円覚寺火災 | 伏見/後深草/惟康王/貞時 |
1288 | 8 幕府、僧徒が勝手に官位に叙任されることを禁止する. | ||
1289 | 11 幕府、周防・長門の社寺に異国降伏を祈らせる. | ||
1290 | 2 幕府、人身売買・沽酒を禁止する. | 12 円覚寺火災 | 伏見/後深草/久明親王/貞時 |
1291 | 2 幕府、諸国の社寺に異国降伏を祈らせる. | ||
1292 | 10 高麗の使、大宰府に来て、国書を呈する. | ||
1293 | 3 幕府、初めて鎮西探題を置き、北条兼時を任ずる. 7 九州諸国に悪党蜂起のため、名越時家に警護を命ずる. | 2 肥後の国の武士竹崎季長が書かせた「蒙古襲来絵巻」成る. 若宮大路御所の様子も描かれている. 4 鎌倉大地震 | |
1294 | 3 鎮西探題、越前・肥前などに烽火を設置. 得宗貞時、多くの訴訟の一因となっていた霜月騒動の恩賞、処罰も打ち切り、すべての権限を自らの手に掌握して訴訟を即決しようとしたが、御家人の反対で、その年の内に越訴と引付を復活させた.. |
2 鶴岡八幡宮焼失 この年、フビライ・ハン没 |
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1295 | 11 勝長寿院火災 | ||
1296 | 時貞、鎮西探題・金沢実政に対して、九州の軍事指揮権だけでなく、訴訟の最終的な確定判決権も与え、椿事探題の権限を強化した. | この年、北条貞時、覚園寺を建立. | |
1297 | 3 幕府、徳政を行い、越訴・質券売買・利銭出挙・替銭借物などのことを定める.この徳政令では、売却されていた御家人の領地を無償で取り戻し、債権取立てのための訴訟は取り上げず、越訴も認めないという内容だった. (永仁の徳政令) この徳政令は貨幣流通の社会への深い浸透・金融の発展にともない、人とモノ、とくに土地がはげしく動き始めたことに対する社会全体の反発の表現であり、結果的には農本主義を志向したものといえる.(網野) |
この年、鎌倉に大きな彗星が現れる. | |
1298 | 1 債権者は前年の徳政令にだまってはいず、結局幕府は徳政令の実施を打切った.(越訴の復活、債権取り立て訴訟の復活など) 7 幕府、筥崎に石塁を築く. | 後伏見/伏見/久明親王/貞時 | |
1299 | 1 幕府、初めて鎮西探題に評定衆お余び引付衆を置く. ここで従来は西の王権−天皇の権限であった「本所一円地」-京都の王朝側の貴族・寺社が一円支配している土地に関わる境相論の裁判権が鎮西探題に与えられ、金沢氏は東の王権-関東の承認の下で九州の統治権を掌握することになった。(網野) 元使、一山一寧、鎌倉に来て国書を呈する. |
この年、円伊「一遍上人絵伝」を描く マルコポーロの「東方見聞録」成る | |
1300 | 7 幕府、所領の質入売買を禁ずる. また、鎮西探題に、海防を厳しくすることと、外国使者の取り扱い方を定めさせる. 元寇のときに御家人が払った負担は大きかったが、国内の戦いと違って恩賞として新しく領地をもらうことはほとんどできなかった.御家人の領地は、相続のたびに分けあったので、領地がだんだん小さくなり、中には生活に困って領地を質にいれたり、売ったりする者もであった. 幕府の基礎は根底からゆらぎはじめた.「奉公(軍役)」と「御恩(地位や土地などでの恩賞)」のシステムが働かなくなり、武士が困窮化していった. | ||
1301 | 貞時出家し執権を師時(もろとき)に譲るが、出家のみでありながら、得宗として幕府を公然と指導した. | 後二条/後宇多/久明親王/I北条師時 | |
1302 | この年、幕府、一向宗徒の活動を禁圧する. | 12 鎌倉火災 | |
1303 | 7 極楽寺忍性没(87才) | ||
1304 | 1 幕府、筑前の御家人に博多警衛を命令する. このように、幕府は幕府関係の武士だけで蒙古軍にあたるのは無理と考え、公領・荘園からも兵士を軍役として頭髪した。これが異国警護番であり、この役につくことで庶子家も独立した御家人として振舞えるようになり、庶子家が総領家の統制から離れはじた。 これも幕府の衰退を早めた一因である. |
1290年からこの年の間、「吾妻鏡」の後半成る. | |
1305 | 4 侍所所司・北条宗方、連署北条時村を暗殺する.宗方、貞時に殺される(嘉元の五月騒動) 得宗専制下の北条氏一門の暗闘が表面化する. 北条一門に不利な所領関係の訴訟はまったく動かず、北条氏一門の極度の専制が広く世間を覆うようになった.(網野) | ||
1306 | 4 日本商船、元に行き貿易を行う. | ||
1307 | |||
1308 | 8 将軍久明(ひさあき)、追放され京都に帰る. 守邦親王が将軍となる. | この年、と翌年にかけ、西国、瀬戸内海と熊野の浦々の海賊の大蜂起がある.北条氏の会場交通の専制に対する不満が爆発したもの. | 花園/伏見/守邦王/北条師時 |
1309 | 3 大宰府、元寇の警報を伝える. | ||
1310 | 6 幕府、苅田狼藉を検断沙汰に移す. | ||
1311 | 得宗貞時没後、9才の高時が執権になる. | 貞時没 | 花園/伏見/守邦王/J北条宗宣 |
1312 | 12 伏見上皇、院領の処分を行う. 九州の仏神領を仏・神の手に戻す、仏神領回復令(仏神領興行令)を発する.一種の徳政令. |
花園/後伏見/守邦王/K北条熙時 | |
1313 | |||
1314 | 7 幕府、地頭を興福寺の完全な支配下にある大和に置く.使者を諸国に遣わして悪党の追補を命じる. | ||
1315 | 3 鎌倉大火、幕府政所・問注所なお焼失 7 建長寺火災 | 花園/後伏見/守邦王/L北条基時 | |
1316 | 花園/後伏見/守邦王/M北条高時 | ||
1317 | |||
1318 | 大覚寺統の後醍醐が天皇の位につく. | 後醍醐/後宇多/守邦/北条高時 | |
1319 | 5 夢窓疎石鎌倉に行く. | ||
1320 | 「蝦夷」の蜂起、アイヌを巻き込んで安藤一族が戦う. | ||
1321 | 12 院政を廃し、天皇親政とし、記録所を再興する. 「蝦夷」の蜂起が本州出羽まで広がる. |
後醍醐/-/守邦/北条高時 | |
1322 | この春、陸奥安東季人の一族争う.高時、鎮定のため兵を遣わす.これは熊野海賊の大蜂起と同じように、東北アジア、サハリン、北海道、東北北部におけるアイヌの交易活動、および北海ふぉう南部、東北北部の海の領主安藤氏を中心とする本州人の海上交易と、北条氏による専制的な海上交通支配との激突と見られる.(網野) この年、幕府は九州諸国の守護に対し、神人名帳(神人の名簿)の作成と注進を命じた.これは、商業・金融活動をさかんに展開し、狼藉を行っている九州の神人の統制を意図したものと思われる.(網野) 後醍醐天皇、京都を天皇の直轄化に置き、商工業者、金融業者である神人をすべて天皇直属民にしようとする王権の強化を意図した政策を展開した. |
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1323 | 5 鎌倉大火 | ||
1324 | 幕府、法令を出して、王朝国家の最後の砦とも言うべき、本所一円地、寺社・貴族の一円支配下にある所領に対する強力な干渉を行なう.それまで守護不入の地であった本所の一円支配の下にある所領の悪党に対し、守護が入部して直接逮捕することを認めるとともい、その所領を募集し、朝廷で重要な役割をしている人に与えることとし、そうした所領には地頭を置くこととした.これはまさしく、王朝の死命を制するといってもいいほどの干渉であった。(網野) 9 後醍醐天皇、先の関東の大干渉に対し、青年貴族・僧侶を集め、無礼講(破礼講)を開き関東打倒の計画(第一次関東倒幕計画)をおしすすめていたところ、六波羅探題は天皇の倒幕計画を知り、平氏である北条氏に不満をもつ土岐頼兼・多治見国長らを殺す.(正中の変) |
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1325 | 8 夢窓疎石南禅寺住持となる. | ||
1326 | アイヌ蜂起鎮圧に有力御家人が追討使として派遣される. | 9 勝長寿院・建長寺造営料船、元より帰る. 北条高時出家する. |
後醍醐/-/守邦/N北条(金沢)貞顕 |
1327 | 2 夢窓疎石、鎌倉浄智寺に住み、瑞泉寺を創建する. | ||
1328 | |||
1329 | |||
1330 | 6 後醍醐天皇、沽酒(こしゅ)の法を定め、洛中の米価を定める。.また、独自に関所停止令を発してこれを実施した.これは、関東、東の王権に対する西の王権の完全なる挑戦であった.(網野) | ||
1331 | 8 自身の倒幕計画を吉田定房に密告された後醍醐天皇は、神器を持ち、京都より、奈良・笠置寺に逃れる. 子の護良(もりよし)、楠木正成は六波羅探題に敗れる、 8 笠置で後醍醐天皇は捕らわれ、隠岐に流される. 10 後醍醐天皇、神器を光厳天皇に渡す. | (南)後醍醐・(北)光厳/後伏見/守邦/O金沢守時(鎌倉幕府最後の執権) | |
1332 | |||
1333 | 4 足利高氏丹波で後醍醐天皇に応じ播磨の赤松円心や、千種忠顕らと挙兵し京都をせめる. 5.7 足利高氏六波羅探題を滅ぼす. 新田義貞、上野で挙兵し鎌倉を陥す. 得宗北条高時以下東勝寺で自殺し北条氏滅ぶ (元弘の変). 後醍醐天皇、光厳天皇を廃し、正慶の年号を元弘に復す. 二階堂氏など、鎌倉幕府の御家人で北条氏以外の御家人の多くが後醍醐天皇の建武政権に登用されたことに示されるように、幕府の滅亡とは、北条高時を中心とする北条氏一族の滅亡であった.(網野) | (南)後醍醐・(北)-/-/-/- | |
1334 | 5 徳政令発布 | ||
1335 | 8 足利尊氏、征夷大将軍に補せられ、時行を破り鎌倉に入る. | ||
1336 | 1 尊氏入京. 新田義貞ら尊氏を破り京都を回復. 5 尊氏、義貞・正成らを兵庫湊川で破る. 11 後醍醐天皇、光明天皇に神器を渡す.尊氏、幕府を開き建武式目を定める. 12 後醍醐天皇、ひそかに吉野に移る.(南北朝の分裂) | 1330年頃からこの間に、吉田兼好「徒然草」を著す. | (南)後醍醐・(北光明/-/-/高師直 |
1337 | 10 尊氏、諸将も占領する寺社・国衙領の返還を命ず. | この年、陸奥中尊寺火災 | |
1338 | 8 北朝、足利尊氏を征夷大将軍とする. (室町時代のはじまり、1338−1573) | 後醍醐/光明/足利尊氏/師直 | |
参考文献 | 1)日本史年表、第11版、歴史学研究会 編集 2)日本社会の歴史(中)、網野嘉彦著、岩波新書、第14刷 3)日本の歴史(上)、井上靖著、岩波新書、第51刷 4)武士の時代、五味文彦著、岩波ジュニア新書、第1刷 5)日本の歴史がわかる、小和田哲男著、第28刷 6)日本史入門、加藤文三著、第2刷 7)日本歴史全集 6、源平の盛衰、上横手雅敬著、第3刷 8)源頼朝と鎌倉幕府、上杉和彦 2003 初版 |