北浦街道 長門〜萩

7:07 本日は行程が短いので、珍しくホテルで朝食を摂って、遅めの出発である。
7:50 国道やJR山陰線を横断して仙崎湾に向かう住友大阪セメントの巨大ベルトコンベヤの下を通過。
視界に入るのが巨大で驚いたが、帰宅後に調べると内陸部の秋吉台から繋がっており、18Km位ありそうである。
8:13 村田清風ゆかりの墓や三隅山荘を巡る。村田清風記念館は休館日であった。
8:42 三隅駅を通過。9:25 香月泰男美術館を通過。仙崎には金子みすず記念館もあり、活躍した人が目立つ。
10:18 宗頭大歳社を過ぎて三隅川を離れるように鎖峠を目指す。
10:52 榎谷洞道を通過。11:13 鎖峠を通過。
12:08 宿駅町三見市を通過。1665年に人馬継ぎ立ての宿駅になって「三見市」と呼ばれるようになったそうだ。まだ新しくて読みやすい詳しい説明板があった。

12:30 萩焼の窯元が現れ、萩に到着した実感が増す。
12:51 はるか高い所を萩・三隅道路が架かっている。
13:48 萩駅に到着。萩は以前にも観光で来ているが、萩駅に来たのは初めてで、無人駅であることに驚いた。立派な旧萩駅舎の横に小さな無人駅が現役である。
13:58 大木戸跡・金谷神社に萩往還の石柱が立っていた。防府天満宮にあったのと同じかも知れない。
14:27 唐樋札場に到着。ここが陽陰連絡道である萩往還の山陰側起点である。
このあとは気楽に萩市内を観光した。

北浦街道 小串〜長門

6:15 小串港近くの宿から歩き始める。6:49 福徳稲荷神社前を通過するが、高い階段と今日の道中が長いことから参拝はしなかった。
8:01 二見浦の夫婦岩を通過。朝日が映えて美しい海だが、夫婦岩は海岸に近いため路上からは全景が撮影しにくい。
8:35 津波敷(つばしき)温泉を通過。地名の由来は津波に関係があるのだろうか。
10:42 ようやく角島大橋が見えた。10:56 大橋のたもとに到着。土産物屋で一息ついて、リュックを預けて身軽になって角島に渡る。とにかく素晴らしい光景である。橋の景観といい、海の色といい、海原に行き交う小舟といい、海岸線といい、すべて大満足である。昨日、たまたま会ったおばさんに勧められたが、遠回りして歩いた甲斐があった。島内一周の余裕はないので、丁度、島の中央部から引き返すことにした。

12:27 土産物屋のおばさんと少し会話をした後、再びリュックを背負い長門を目指す。しばらくは人家のない山の中を黙々と急ぐ。
13:22 阿川八幡社を通過。13:51 山頭火の句碑を通過。
14:37 海岸沿いのR191を離れて山中の道をしばらく歩き、須方でR191に合流する。
日本海の景色が美しいと思っていたら15:06 西長門海岸国定公園の石碑を通過。
16:23 人丸神社を通過。暗くなってきたが、今夜の宿がある長門まではまだ10数キロある。しかも峠越えがある。ヘッドランプを準備して、ひたすら先を急いで歩く。
17:38 完全に日が落ちて、暗闇の中、椎木峠経塚を通過。
通勤帰りの車が増えたR191だが、歩道がないので、慎重に歩く。18:27 緑橋を通過して、ようやく市街地に入ったが、灯りの少ない暗い道路が続く。18:54 ホテルに到着。長い一日だったが、角島大橋に大満足である。角島大橋はこちらの動画をご覧ください。

北浦街道 下関〜小串

6:40 下関駅から歩き始め7:24 山陰方面からの商人が歩いた奥小路通りに出る。
8:02 幡生駅近くから街道を離れ、長門一宮を参拝し、9:46 街道に復帰する。
10:02 綾羅木駅を通過。10:35 安岡駅を通過。
11:26 北九州と思われる工業地帯と響灘が見える。
  
12:12 吉見温泉を通過。
13:18 庚申塚?と思われる石に奇妙な形の大根が供えられていた。この地方では色々な形の庚申塚に出会うが、注連縄のような縄の形状が微妙に違う。
ウオーキングをしていた地元の人に尋ねたらよくわからないが、変わった形状の野菜を供えることが多いとだけ教えてくれた。しばらく話をしているうちに、角島大橋に是非、寄りなさいとしきりに勧められた。
13:21 黒井村駅近くを通過。
14:04 川棚温泉を通過。14:37 川棚温泉駅を通過。
15:04 この日、最後の庚申塚の傍にいた人に尋ねると、地区によって違うが、大体年明けに注連縄を取り換えるという。最近は縄の結び方がわからなくなって簡素化したり、縄を掛けなかったりする集落もあるとのことである。
    

    
15:20 小串駅を通過。15:32 街道沿いの旅館に到着。一休み後に小串港周辺を散策する。
夕食後、検討を重ね、かなりの遠回りになるが、角島大橋に寄るルート変更を決意する。

竹内街道 長尾神社〜大小路

8:17 近鉄五位堂駅から歩き始める。
9:13 磐城駅近くの長尾神社に到着。ここが竹内街道の飛鳥側の起点である。多くの大陸からの文物が、子の官道を通って難波から飛鳥京に伝わったのである。
9:33 芭蕉旧跡の綿弓塚を通過。10:07 竹内峠(鶯の関)を通過。ここから堺までは下りである。
  
10:24 遠くにPL教団の塔が見える。10:35 太子町の住宅地に入る。孝徳天皇陵、小野妹子の墓、推古天皇陵、用明天皇陵、聖徳太子御廟所などが点在する。
羽曳野市の駒ヶ谷地区で「銅」が付く珍しい苗字に出会った。「金銅」、「真銅」である。何軒もあり、地元の旧家であろう。
11:59 古市駅を通過。この辺りも数多くの古墳が存在する。日本武尊陵は古市駅からすぐである。
 
14:05 金岡神社を通過。14:47 仁徳天皇陵に到着。2850mの周回路を散策して大小路に向かう。
  
16:05 堺駅前に近い大小路に到着。ここが難波側の起点である。大小路筋は摂津と和泉の境界でもある。

門司往還 御裳裾川〜常盤橋

11:16 関門トンネルの下関側からエレベーターで降りる。僅か780mのトンネルである。途中、県境を示すラインが床にひかれている。
11:42 トンネルを抜けて和布刈神社に到着。近くには殉職船員の碑、門司関の址などがある。
対岸の下関と違い、坂は殆どなく快適に歩ける。
12:32 前方に見上げるほど大きな和風建築が見える。門司港の繁栄の証しとなる旧料亭「三宜楼」で保存活動が進められている。
  
13:49 江戸時代に踏絵が行われた判行寺石碑址を通過。
14:01 豊前大里宿址を通過。大里地区には歴史案内の石柱が多くあり楽しませてくれる。
玄界灘に出没した密貿易船の取締りのため長崎奉行所の出張所もあったようだ。
15:45 貴布袮神社を通過。『きふね』いろいろな字があてられている。
近くに門司口門跡がある。
16:14 常盤橋に到着。門司往還の起点だけでなく、長崎街道をはじめ九州の諸街道の起点になっている。
  

町石道 九度山・慈尊院〜金剛峰寺〜作水(西高野街道)〜九度山

5:38 宿を立ち、5:55慈尊院橋を渡ると緊張が高まる。慈尊院にある180町石を丁度、6:00に通過して、いよいよ始まった。
町内の各所で見られた丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社の幟は10月28日の官省符祭を盛り上げるためだった。大餅投げのイベントが気になった。

400m以上を一気に登り、見晴台で少し休んで、六本杉まで更に登る。
町石道は直進だが、紀伊一ノ宮である丹生都比売神社を参拝するため、一度天野の里へ下りる。
7:55 丹生都比売神社に到着。境内には多くの人が作業着姿で集まってきていた。聞くと10月16日の例祭の準備で境内の雑草狩りや清掃をこれから行うとのことでした。一年で最も荘重な大祭だそうだ。

8:18 お詣りを終え、町石道に戻るわけだが八丁坂と名がついていて高度差約200mを一気に登る厳しいものである。
8:42 二つ鳥居で町石道に合流する。峠から少し下ると人声がする。ゴルフ場である。しばらくは比較的平坦な道でゴルフ場に沿うように歩く。
9:37 笠木峠を通過。
10:18 国道にある矢立の信号に出る。六十町石がある。ここから高度差約350mが残っている。
10:31 袈裟掛け石を通過。
11:01 R480を横断して、四十町石を通過。11:24 鏡石を通過。
11:55 十町石を通過して、ゴールの近さを感じる。
12:03 大門に到着してゴールをした感覚になるが、六町石である。
しかし、あとは平坦な街の中なので、事実上のゴールに違いない。

12:15 一町石を通過。12:17 ゴールの金剛峰寺に到着。
12:49 金剛峰寺を後に下界を目指す。
13:04 女人堂を通過。ここ不動坂口は堺から始まる西高野街道の終点である。

13:28 断崖絶壁の谷間である万丈転(ばんじょうころがし)を通過。現在は植林されているが、それでも足がすくんで、少し離れて撮影をする。つづら折りのいろは坂を降り切るとケーブルカーのトンネルに出る。
13:46 更に少し進むと南海高野線の終点極楽橋駅 である。ここからは車も通行する街道歩きである。
14:04 看板は現役のようだが廃校を通過する。どうしてこんな山奥に分校でもなく小学校があったのか不思議であった。たまたま近くにいた老人に尋ねたら詳しい説明を受けた。『かって、南海電車の鉄道建設で多数の人がここに家族ごと住んでいた。しかし鉄道が完成した昭和4年以降は徐々に人口が減って、10年くらい前に廃校になった』

14:53 作水集落で学文路へ向かう西高野街道を外れ、玉川峡や竜王峡に沿って、九度山の宿に向かう。
15:49 九度山に帰着。

大和街道2 (九度山〜隅田町真土)

5:25 宿を出発。5:55 高野口駅で大和街道に合流。
常夜燈や旧家の化粧瓦を楽しみながら夜明けの美しい街並みを歩くのは爽快である。
6:24 応其太(おうごだい)神社を通過。境内には神輿や山車がブルーシートで覆われて出番を待っていた。

紀伊山田駅を過ぎて、しばらく進むと少し低い所に橋本市の中心部を見下ろす形になる。
7:05 丁度、山車を倉庫から出す光景に出くわす。若者が威勢よく振る舞う姿は見ていて気持ちが良い。
少し歩くと主婦が大師の井戸のそばにあるお堂のお世話をしていた。先ほども同様な光景を見かけたが撮影をし損なったが、今回は自然にタイミングが合った。
7:23 今度は舟ダンジリに出会う。すぐに応其寺を通過。
木食応其上人は橋本の町をつくり、高野山を秀吉の砲火から救った高僧ということを初めて知る。

紀の川の河畔に出た後、隅田町に入る。ここにも美しい家並があった。惜しむらくは電柱と電線である。
7:58 道路に埋められた道標に利生護国寺が示されていたが素通りした。
8:34 犬養孝が記した碑が建っている。一昨日歩いた名手宿近くの妹山、背山を夫婦や兄妹に見立てた万葉歌は覚えがあるが、この隅田町真土も詠まれていた。
8:40 直進で五條市を示すのが大和街道の最後の道標だった。落合川を渡って五條市に入る。

大和街道1(布施屋〜九度山)

大和街道の起点は和歌山城近くの京橋である。
当初は京橋からスタートの予定だったが、2つの理由で今回は布施屋駅から出発である。
夜行バスが東名の集中工事で90分以上も遅れた。
紀伊一ノ宮を参拝した時に田井ノ瀬、千旦、布施屋と歩いている。
9:20 布施屋駅から歩き始めた。
10:29 岩出渡場跡で大和街道の道標に遭遇する。以後は道標に注意しながら進む。
10:37 道路側から見ると和歌山縣とのみ表示された石柱を訝しげに見ていたら軽バンの運転手がわざわざ車を止めて、声帯が悪いのであろう声を絞るように「ウラ! ウラ!」と教えてくれた。岩出町道路元標だった。
10:48 粉河寺や伊勢、高野を示す古い道標を通過。

信じられないところでタクシーが脱輪していた。西田中神社、東田中神社を経て、
12:43 粉河寺を参拝する。粉河駅から真っ直ぐ続く参道の両側はこの地域のメインストリートである。
13:53 旧名手宿本陣・妹背家住宅を通過。この辺りから幼稚園の運動会を思わせるように道路のあちこちに万国旗が飾られている。
宝来山神社、戎神社、若宮太神社、八太神社など祭礼のためらしい。それにしても古い街並みに万国旗は意外に調和していた。

16:42 高野口から大和街道を外れ九度山橋を通過。
16:50 真田庵に立ち寄った後、宿の位置がわからず九度山駅に向かう。
17:07 駅員に確認したら、真田庵から50m位のところに宿はあった。

伊勢街道3(松阪〜内宮)

4:58 ホテルを出発。朝まで飲み明かした酔人が騒がしくしている飲み屋街を過ぎたところに、昭和を感じさせる映画館『青春館』があった。昨日も『松阪大映』というピンク映画館があった。シアターでなく映画館の風情が懐かしい。
6:01 徳和駅を過ぎて、間もなく『是より外宮まで四里』の道標がある。この後、三里、二里と見つかったが、一里は見つからなかった。
櫛田橋の親柱を門柱にしている家を発見。こんなことができるのは地元の実力者か資産家であろう。
6:46 梵字で書かれていると思われる石柱に出会う。なんて書いてあるのだろう。昔の人は読めたのだろうか?

松阪辺りから南勢地方は一年中、注連縄を玄関に飾っている。そしてそこには、笑福とか蘇民将来の子孫の家也などと書かれている。取り換えるのは年末で古いお飾りは新年が明けて“どんど日”に燃やすそうである。
斉宮小学校を過ぎて、間もなく珍名さんが二軒あった。『登』と『高祖』である。
7:10 斎王宮之遺跡、斎宮城跡、竹神社などを通過。
8:03 『是より外宮まで二里』の道標を通過して、間もなく伊勢市に入る。
8:24 へんば餅店を通過。伊勢参宮街道は餅街道と名付けたいほど名物の餅が多い。四日市や神戸の長餅、へんば餅、赤福、二軒茶屋餅、太閤出世餅など。
紀州藩高札場跡や鳥羽藩本陣跡などのあるあたりが小俣宿の中心地であろう。

東国から来ても西国から来ても伊勢詣するものは宮川の渡しを渡らなければならない。神都との境界である。
9:15 二見浦に向かう道標がある。9:36 萬金丹が現在でも営業をしている。
9:51 外宮を参拝。10:44 猿田彦神社を参拝。
神宮に来たときは赤福とてこね寿司を食べるのがいつものパターンだが、今回はすし久のてこね寿司だけにした。
11:26 宇治橋を渡り、内宮を参拝する。

伊勢街道2(白子〜松阪)

7:47 鼓ヶ浦駅から歩き始める。すぐに子安観音を通過し、昔の道標が多く残る寺家地内を歩く。
田中川を渡り、上野宿に入る。参宮道の宿場町になる前は分部氏の城下町だけあって、町の中心部で道が直角に曲がる個所
がいくつもある。建て替えられた道路元標や河芸町役場跡などがある。
9:33 珍しい神社がある。痔神大明神である。古くから信仰されているらしく大正時代に立てられた『ぢ神参道』の石柱が
健在である。

10:30 江戸橋を渡ると高田本山への分岐を示す道標と大きな常夜燈がある。この街道沿いには大きな常夜燈と真宗高田派の
寺院が多い。少し進むと味噌・醤油製造元の阿部喜兵衛商店が古い商家を思わせる。
11:08 津市大門で理解できない道標に出会う。右 参宮道は分るが左 国府阿弥陀と読めるが、左は観音寺である。
帰宅後に調べると、観音寺には伊勢の天照皇大神宮の本地仏である「国府阿弥陀」もあることで納得した。
津市の中心部には旧地名の由来を記した石柱が多数あって歩き読書を楽しめる。

12:06 紀勢本線を越えて間もなく、日本では沖縄以外では珍しい『石敢当』を見つけた。
13:07 雲出橋を通過。まもなく北海道の名付け親である松浦武四郎の誕生地を通過。
14:26 『忘井の道』の道標があり、そう遠くなさそうだが、寄らずに街道を進む。
14:43 舟木家長屋門を通過。
三渡川から近鉄山田線まで1Kmの市場庄はなかなか素晴らしい街道である。

15:20 三井家発祥の地を通過。
15:31 松阪城址に到着。城内には本居宣長旧宅、資料館、本居神社、松阪神社などがある。
16:04 松阪駅近くのホテルに到着。

伊勢街道1(日永〜白子)

本来は日永から歩くべきだが、逆方向を選択したのは11時に四日市都ホテルで人と待ち合わせがあったからである。
5:40 夜行バスから降りて白子駅から鼓ヶ浦まで気ままに歩き、鼓ヶ浦駅から伊勢街道を日永に向かって歩く。
伊勢街道にほぼ並行して走るR23沿いに開発が進んでいるため、伊勢街道は昭和の面影を多く残しており、今後も残りそうである。
町の各所に立てられた案内板の説明や逸話は歩きながら読書をしている感じでとても楽しい。車や自転車ではなかなか味わえない歩き旅のメリットである。
道路標識で方向を右、左の漢字でなく、指で指している。北国街道でも同様な道標があったが、私の感覚では珍しいと思う。
ちょっと寄り道で街道を外れ、鼓ヶ浦の東端にある白子漁港に立ち寄る。紅屋橋の先にある緑地公園は平成になってからの整備だが、私には青春時代の思い出がいっぱいある場所である。
街道に戻って、和菓子「小原木」の大徳屋長久や旧役所、高札場跡など宿場の中心地を通り、江島、玉垣から神戸に向う。

7:47 神戸の常夜燈を通過。父の実家はこの街道沿いの商家で、子供のころは常夜燈の灯りをつけて、小遣いをもらっていたと言う。詳しくは聞かなかったが、こんな大きな常夜燈にどのようにして火を点していたのだろうと不思議でならない。
立石餅のあま新を通過。今は土日しか営業していないそうである。
7:58 神戸町道路元標を通過。8:07 神戸見付を通過。常夜燈から見付の間が神戸の宿場である。

8:27 街道から別れて、都波岐・奈加等神社に参拝する。
すぐ近くに立派な見たことのない塀がある。練塀の一種と思うが重厚さが半端ではない。
街道に戻って日永に向かう。9:34 日永追分に到着。







木下街道 木下〜行徳

木下(きおろし)街道の名前の由来は周辺で伐採した木材の木颪(きおろし)から来ているそうだ。
木下と行徳を繋ぐこの街道は鮮魚道だと知った時は利根川の川魚を運ぶものと独断していた。
実際は銚子沖で揚がった鮮魚を利根川で木下まで船で川を上り、木下から行徳を陸路で運び。
行徳から江戸川を下って東京湾から日本橋まで運んだそうだ。
8:14 木下駅から利根川の堤防に出て、しばらく川沿いに歩く。
視界も開け、気持ち良いのでもっと堤防を歩きたかったが、今日の目的は木下街道を歩くことである。
歩き始めて、間もなく歩道の中ほどに通行を妨げるように大きな馬頭観世音の石碑が建っている。
道路を供出した地主が条件でも出したのだろうか。だとしたら、なかなかの人物であろう。
この街道は道祖神、庚申塔、馬頭観音など古くからの石仏が多い。
大森、迎山、などのどかな集落を歩くが、宿場を思わせる物は殆どない。
そのあとは大規模なビジネス地区の造成が進められており、さらに進むと千葉ニュータウンが現れる。
木刈と言う地域である。
10:04 次に現れた集落は『十余一(とよひと)』と言う変わった地名である。
初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・九美上・十倉と並べると気づくと思うが、明治政府が開墾で新しく生まれた土地に順番に名前を付けたらしい。10を越えたら、良い名前が思いつかなかったようです。
12:26 東初富6丁目を通過。13:46 中山競馬場のそばを通過。
14:08 教会風の大きな建物が現れる。東山魁夷記念館である。
15:14 行徳橋を渡り、旧江戸川沿いの行徳の宿場町を歩く。
東京スカイツリーが遠くに見える。
15:42 旧家加藤家の前を通過。
それにしても街道には珍しい地名が目立った。
根(ね)、神神廻(ししば)、稲荷木(とうかぎ)、北方(ぼっけ)
行徳地区を歩いて初めて、歴史のある街だと認識した。
これまでは立ち寄ることもなく、浦安の近くの街くらいの認識しかなかった。
旧家が残り、江戸時代の名物うどん店跡があり、大きな常夜燈があり。
多くの寺社があり、ちょっと驚いた。
本日の街道歩きの最後に、歴史街道歩きの醍醐味が集中していたように思う。
最後良ければすべて良しである。
逆コースならば、ちょっとがっかりのコースかも。
帰宅後に調べた開墾地の所在地を調べたが、これらを歩くのも面白そうである。
鎌ヶ谷市初富、船橋市二和、船橋市三咲、柏市豊四季、松戸市五香、松戸市六美、
冨里市七栄、八街市八街、香取市九美上、冨里市十倉、、白井市十余一。

絹の道(浜街道)札次神社〜山下公園

7:24 多摩境駅を出発。小山ヶ丘、忠生、木曽、森野など何度も歩いたり、車で通過したりしているためか、寄り道もなく進む。途中、名前ははっきり覚えていないが、中村地蔵尊?に多数の地蔵さんが赤でなく黄色の前掛けをしているのが珍しく写真を撮影していたら、近くの老人が人懐こく話しかけてきた。
ここの地蔵さんでも毎年、七千円くらいの賽銭が集まる。ところが最近も近くの御嶽神社で賽銭が盗まれたし、昔、ここでも仏さんが盗まれたので、私が時々見回りをしているという。新しい仏さんは盗まれたので新たに作り直したものらしい。
11:17 横浜町田ICを通過。ICを通過するのに相当な遠回りをさせられ、辟易とした。しかも、インター通過後は絹の道はR16号と重なる部分が多くなり、がっかりである。それでも旧道が残っている地域は石仏や道標に出会える。
13:02 珍しいものに出会う。帷子川分水路トンネルである。大雨の時に帷子川の水を直接、横浜港に流すための分水路で、全長7,560mの内、延長5,320mのトンネル入口である。その断面は新幹線のトンネルよりも一回り大きい。
14:20 旧東海道に合流。14:36 浅間神社近くから旧東海道と関内を結ぶ旧横浜道になる。
野毛山、関内駅、開港記念館などを経て、大桟橋埠頭の象の鼻を終点として中華街経由16:01 石川町から帰宅する。
  

絹の道(浜街道)札次神社〜八王子&蚕種石巡り

八十八夜を過ぎて半月ほど経つが、蚕種石のことを思い出して、町田市相原地区の個人宅と多摩境駅そばの札次神社を訪ねるためWebで情報を入手している間に、絹の道も歩くことにした。
8:15 相模原北公園に駐車して、橋本駅でJR線を横断して、小山ヶ丘団地に向かう。
おおよその見当はつけて来ていたのが、個人の家なので見過ごしやすい。洗濯物を干している主婦がいたので尋ねると、ほんの10数m先だった。9:21 第一目標をクリアする。
八十八夜を過ぎたころ蚕種石が緑色になると農家は蚕の孵化の準備を始めると聞いている。
もちろん石が変色するのではなく、苔が変色すると思われる。目の前の石は苔はなく、残念ながら緑色ではなかった。
9:37 三つ目山公園を通過。ここから橋本駅方面の眺めが良い。
10:14 札次神社は多摩境駅のすぐ近くで、容易に見つかった。神社の説明板にも蚕種石があると記載されているが、どれが蚕種石なのか表示はない。しかし、足元に無造作に置かれている石は繭の様な形なので、これが実物と思われる。もちろん苔は生えていなかった。
10:31 戦車道で絹の道に合流する。戦車道と言っても多摩ニュータウンの造成で土砂を運搬するダンプ用に舗装されたので味気ない。しばらく尾根道を歩いた後、鑓水に下る。ニュータウンを通過するとタイムスリップしたような山里を歩く。小泉家屋敷も途中にある。
11:36 街道沿いにある絹の道資料館を見学して、園内で昼食を食べる。
12:29 峠にある大塚山公園は鑓水商人の大塚?郎吉たちが旅人や村内の安全を祈願して浅草から勧請した道了尊の跡である。
13:02 片倉城跡を通過。
13:37 八王子横山町で旧甲州街道に合流。ここが絹の道の始点と思う。
帰路は御殿峠経由でできるだけ、これまでに歩いていない道を気ままに相模原北公園に戻った。16:06着。



北国街道番外(姨捨SA)

北国街道から少し外れるが、JR篠ノ井線の姨捨駅周辺は『田毎の月』や『棚田』、『日本三大車窓景色』、『鉄道のスイッチバック』などで知られた地である。高速道路の開通に伴い善光寺平を一望できる『姨捨SA』が設けられ、相応の人気スポットである。姨捨SA周辺を散策してみた。
長野を一言で紹介するには『信濃では 月と仏と おらが蕎麦』に尽きる。月とは、この辺りの棚田に写る田毎の月である。仏とは善光寺のことだが、民衆に信仰心が根付いているように感じる。棚田の名称は千枚田のように誇張されることが多いが、ここでは『四十八枚田』と言う。阿弥陀如来の四十八願に由来している。田の中にも観音様がいる。
あまり蕎麦を食べないのでわからないが、信濃では戸隠に限らず、どこで食べても当たりはづれがないらしい。塩尻峠を越えて甲斐に入ると不味くなるらしい。
長楽寺にはおびただしい句碑がある。芭蕉が立ち寄ったり、月を愛でたり、宣伝したこともあり、古来より現在に至るまで中秋の名月のころに句会が開かれ、全国から愛好家が集うらしい。

北国街道3(長野〜妙高高原)

5:55 長野駅から歩き始める。善光寺はすぐである。門前町の奥、善光寺に一番近い旅館、藤屋旅館が善光寺宿の本陣跡であ
る。すぐ近くに、長野市道路元標があった。
6:26と早朝なのに、境内には何人もの観光客や朝のウオーキングを楽しむ人々がいた。
7:01 吉田神社を通過。ここに日本が六十八州に分かれていた延喜年間の各州の一ノ宮の祠があった。因みに相模国寒川神
社は見つけることができました。
7:24 新町宿を通過。この辺りの六地蔵は座っているのが多いし、赤子を抱いている地蔵(向かって左から四番目)もいて、何か由来がありそうだ。


9:44 牟礼宿を通過。十王坂を越えて行く。佐渡で産出した金銀を輸送する中継施設『金附場跡』の説明板がある。この辺りは黒姫山など山の景色も美しい。どこからか中部・北陸自然歩道と重なり、夏の日差しも遮られ快適である。小古間では水田の先に飯縄山、黒
姫山、戸隠山、妙高山などが一望できる。

11:25 一里塚を過ぎれば、間もなく古間宿である。
11:49 柏原宿を通過。古間と柏原は合宿で半月づつ分担していた。小林一茶に関する句碑や石碑が多い。
唱歌『村の鍛冶屋』のモデルになった鍛冶屋があった信州打刃物の里である。中村家住宅は昔の鍛冶屋の住宅を今に伝えて
いるそうです。

12:34 野尻宿を通過。一里塚が一対で残っている。野尻湖畔に立ち寄った後、2個ほどスノーシェードを通って
13:47 関川関所に到着。素通りする。
14:27 妙高高原駅に到着。

北国街道2(坂木〜長野)

9:45 坂城駅から歩き始める。ここに立つのは一年ぶりである。宿場名は坂木だが現在の駅名は坂城駅である。次の宿場も同様に宿場名と現在の駅名で表記が異なる。矢代と屋代駅である。
駅を出てすぐ、本陣表門があるが、私はそれよりも、本陣であった宮原家の屋敷の立派なのに驚いた。

葛尾山が千曲川に迫り500m位の区間はR18しかない。これはかっての横吹新道である。葛尾山の横吹坂は大変な難所で、明治時代に住民が役所に陳情して住民たちが川沿いに新道を建設したらしい。明治16年のことだそうです。6年間は有料道路だった。隘路を抜けると苅屋原集落で笄の渡し跡の案内板があった。
10:30 上戸倉宿本陣跡を通過。何ともかわいそうな案内板が松の木の根元に立てかけてある。すぐ横はごみ集積所である。
近くで掃除をしていた主婦に尋ねたところ、この位置で正しいことが確認できた。少し前までは立っていたんですけど、壊れましたとのことである。なるほど柱の役目をしていた棒が案内板の後ろ側に横たわっている。
10:54 下戸倉宿本陣跡を通過。かっては酒屋だったが、今は蕎麦屋が繁盛しているようだ。
10:57 姨捨、八幡道へ分岐する古い道標がある。田毎の月で有名な姨捨はここから左に入り、冠着橋で千曲川を渡る。
古来、多くの人がこの道を歩いたことが偲ばれる。
私は明後日、姨捨SA付近を散策するので、今日は直進して長野を目指す。

11:27 間の宿だった寂蒔を通過。この辺りは殆どが宮坂姓である。
12:01 屋代南高校の前に大きな筆塚と道祖神が建っている。ほどなく、須須岐水神社や本陣跡がある。
12:51軻良根古神社を通過。かってはこの辺りに矢代の渡しがあったが、今はなく千曲川を渡るのに篠ノ井橋まで迂回する。

11:57 篠ノ井追分宿跡の石碑を通過。この辺りは明治時代の更級郡の中心地で役所、警察、学校などがあった地区である。
13:08 見六の道標を通過。『せんく王うし(善光寺)道』と表記されているが、右や左でなく指先で方向を示しているのが
素晴らしい。丹波島宿の文化遺産として鍾馗さんの飾り瓦がある。飾り瓦は屋根の隅にあるものと思っていたので、現地で
は見つけられませんでした。しかし帰宅後に写真を見たら、窓と窓の間に写っていたのに驚きです。わかっていれば望遠で
撮影できたのに残念である。
14:41 丹波島宿本陣跡を通過。15:03 丹波島橋で犀川を渡る。15:31 長野駅に到着。



北国街道1(追分〜坂木)

北国街道を歩くきっかけは、中山道を歩いていて信濃追分の分去れの碑に刻まれた『さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿』のすばらしい案内に惹かれたからである。月は姨捨の『田毎の月』を言い、花は『吉野の桜』である。なんとスケールの大きい案内であろう。
6:47 信濃追分駅から以前に歩いた中山道を分去れの碑まで歩き、7:16北国街道へ入る。しばらくは別荘地のなかだが、長野ナンバー車が多い。おそらく別荘を購入してリタイア後に定住したのであろう。追分から善光寺平までは山はなく平坦な下りなので快調に歩けた。
8:07 馬瀬口を通過。8:34 平原宿に残る静かで落ち着いた屋敷がすばらしい。9:12 乙女駅近くを通過する。9:19 唐松の一里塚を通過。
9:26 『ここは与良街 北国街道』の大きな看板に出会う。小諸宿の入り口である。虚子や藤村ゆかりの地でもある。思わず『小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ・・・』藤村の一節が口から出てくる。若いころは藤村のほかの詩もそらんじていたが、今はもう出てこない。
10:00 観光客でにぎわう懐古園に到着。観光説明文を見て、初めて真田家の祖先は海野家だと知る。
青木の一里塚を過ぎ、宿場の面影を感じさせない近代的な田中宿を通過したのは11:34である。しなの鉄道の踏切を越えてまもなく海野宿である。木曽義仲の挙兵の地であり、海野一族の本拠地はその後宿場町として栄えたのであろう。立派な旧家が今も昔の名残を留めている点では本日歩いた中では一番である。
13:38 上田宿の中心と思われる柳町は夏祭りで賑わっていた。
15:09 上田宿と坂木宿の間宿であった鼠宿を通過。そろそろ最寄り駅で打ち上げようと歩くうちにテクノ坂城駅を通り過ぎ、16:17 坂木宿の坂城駅に到着。
  

大山街道3(峰岸〜山頂)

6:38 市光前を出発。 石倉、子易となだらかな登りが続く。先導師宅に各地の大山講の名前入り石柱が目立ち始める。
7:35 大山小近くの大鳥居に到着。ここより勾配がきつくなる。東京北部旭講に鳩山邦夫の名前を見つけた。加寿美橋を越えて大山阿夫利神社本庁などがある昔ながら旧参道を歩く。
大山は何度も歩いてきているが、この道は初めてである。緒方竹虎の別邸や移築された勝海舟神社があるのを知る。
愛宕滝、良弁滝(完全に枯れていた)を過ぎ良弁橋を渡れば『とうふ坂』の始まりである。私が知る限り豆腐を手のひらに乗せてすすりながら歩く人はまだ見たことがない。しかし、かってはそのようにして。この坂を登ったらしい。
 
8:28 『とうふ坂』を終わり、駒のタイルで有名な両側に土産物屋が並ぶ階段の参道に入る。
8:40 追分駅に到着。ここからは下りしか経験していない男坂を初めて登る。下りよりも断然、歩きやすい。追分からはさらに勾配がきつくなる。
9:15 下社に到着。10:55 山頂に到着。あいにくの天候で富士山も海もかすんでしまい見ることができない。早めの昼食をとり、ヤビツ峠に向かう。
 
11:59 ヤビツ峠に到着。ヤビツから蓑毛へは柏木林道経由の山道が近いが、前回歩いているのと、時間も早く、雨の心配もないので県道を歩く。若者がサイクリングで登ってくる。中には自転車から降りて曳いている人もいる。
13:50 蓑毛に到着。秦野駅行きのバスがちょうど入ってきたが、余裕があるので実朝の首塚を訪ねながら秦野駅まで歩く。
15:37 秦野駅到着。

大山街道2(長津田〜峰岸)

6:58 長津田駅を出発
8:10 堺川を越え、町田市から大和市に入ると、大山街道でも最も昔を偲ばれる風景になる。大山阿夫利神社御分霊や新田義貞の鎌倉進撃路にある縁の家、立派な旧家、資料館などが並ぶ。
9:48 綾瀬市北原を通過。ここより別れて小園へ向かう古道は崋山ゆかりの道である。
10:07 海老名市『逆川史跡』を通過。 
11:01 相模大橋を通過して厚木市に入る。
12:57 伊勢原市高部屋神社を通過。13:36 市光工業前に到着。これより先は大山阿夫利神社まで何度も歩いた道である。
    

大山街道1(赤坂〜長津田)

10:20 赤坂御門を出発する。地下鉄の永田町で降りたが、この赤坂御門を見つけるまでだいぶ時間がかかった。赤坂見付跡もすぐに近くにある。赤坂とは言っているが、紀尾井町や平河町、三宅坂の近くで赤坂見付駅からは数百mは離れている。大山街道はR246のもとになった矢倉沢往還を使って大山詣でした人達が多かったための呼称である。江戸から厚木までは厚木街道の呼称もある。
11:55 大坂を通過。厚木街道には四十八坂あり、急坂で一番大きな坂であったためこの名が付いたらしい。そう言えば『牛鳴坂』『薬研坂』『道玄坂』など坂が多かった。 13:07 R246から離れ旧道らしい雰囲気が感じられるサザエさんの舞台でもある桜新町を通過。
13:51 二子橋(二子の渡し)を通過。
14:06 大山街道と府中道が交差する溝口を通過。ここには我が国最初の人間国宝である浜田庄司の家や国木田独歩碑がある。
16:44 青葉区の柿の木台でいかにも病気平癒にご利益がありそう医薬神社を通過。気になって調べてみたら『医王山薬師院』というお寺を神仏分離のため明治時代に寺を廃して神社にしたそうである。医歯学部受験生が合格祈願に来るようである。
17:42 長津田駅に到着。
   

暗越奈良街道

大阪と奈良を結ぶ最短の街道であるが、思いのほか生駒山を越えるのは厳しかった。ゆっくり奈良市内を観光できる予定だったが、夜行バスが満席で新幹線で帰宅することになり慌ただしいウォーキングになった。
GPSにルートを入れずに、大阪府が発行している街道ウォーキングマップを頼りに歩いたが、何とか街道を外れながらも奈良に着くことができた。改めてGPSの利便性を感じた。
歴史や自然を感じる楽しい街道であった。
難波の宮跡、大阪の入口である二軒茶屋跡を歩くうちに暗越奈良街道の表示を見かけるようになる。
  
町工場の多い東大阪の朝を感じながらの歩行である。山越えの道は国道308号の表示が出ているが、軽自動車もすれ違えない狭い区間が長く続く。神戸や所沢ナンバーの車が「ひどい所に迷い込んだ」と車から歩行者に話しかけられるほどである。横を走る私道の農道の方が立派であった。所々迷ったかな?と不安になるような時、伊勢本街道保存会が整備してくれた「おいせまいり」の木札が安心させてくれるのはありがたい。
  
暗峠にあった休憩所で一休みする。牛乳が飲みたいので尋ねたがメニューにはなかったが、家庭用の牛乳を提供してくれ、さらに少し変わったキュウリほどの太さしかないトウモロコシを戴いた。話をしていて奈良に行くのだと言うと、あの丸い水道タンクの前を通り山を越すのだと教えてくれた。この一言が後ほど非常に役立ったことに感謝している。矢田山を越える辺りは住宅街が開け道が分かりにくくなっていたが、水道タンクをランドマークに無事に街道を進むことができた。
  
美しい棚田を楽しんだり、歩いてきた道のりを振り返ったり、しているうちに追分本陣に着いた。後は尼ヶ辻駅前を通過して奈良駅まで一直線である。山中のR308とは違い、市内では広いR308であった。奈良駅から京都駅経由で新幹線で帰宅する。