九十九王子を訪ねて

1日目  2009年12月13日 京都〜伏見

京都の熊野三山である熊野神社、若王子神社、新熊野神社と城南宮を参拝してから京街道を下る。
熊野神社は八ツ橋発祥の碑があり、向かいには聖護院八ツ橋総本店があった。
若王子神社は哲学の道の近くにあり、後白河法皇が熊野権現を勧請した鎮守社である。以前は本宮・新宮・那智・若宮の四棟からなっていたそうなので、紀伊熊野を模したものと思われる。  
新熊野神社は熊野の新宮・別宮として後白河上皇によって創建された。
城南宮は平安時代院政の中心であるとともに熊野詣で出立の地として、ここで精進潔斎されたことで有名である。
  

2日目 2009年12月14日 伏見〜枚方

今回の旅は東海道の関宿から歩き始めて、京都三条に到着した後、引き続き熊野詣で所縁の地を訪ねて大阪の天神橋まで行く計画であったが、雨のためひどい水ぶくれになり昨日から両足がかなり傷む状態である。
今朝起きても痛みは取れないので、枚方宿か守口宿辺りで打ち上げる覚悟で歩き始めた。
行ける所までと思い、朝早くホテルを出発した。
京街道は交通の要衝も多いが、戊辰戦役の地でもある。因みに城南宮は官軍の陣地になっていた。
朝日と朝霧に包まれた淀川の景色に見とれながら古い街並みを歩く。枚方宿では昔懐かしい味噌屋の光景を見つけた。
枚方宿の西見付は駅に近いので、今回の旅はここまでとした。ここから天神橋は20数キロだが、今の足の状態ではちょっと無理である。駅へ行く途中見つけた大きなたこ焼きの看板に釣られて中に入るとお好み焼きもやっている。母娘と思しき二人で切り盛りをしていた。お好み焼きを頼んだら、じっくりと時間を掛けて焼きながら、途中からは熱気をこもらせるためにお好み焼きにボウルのようなものを被せた。出来上がったお好みは今まで食したことがないほどおいしかった。
もちろん歩き続けてきて、打ち上げの安堵感や空腹のせいもあるだろうが素晴らしい逸品である。お好みはやはり、店の人に焼いてもらうのがおいしい。

   

 

3日目 2010年9月19日 枚方〜堺

淀川の堤防から遠くに見える高層は守口にある三洋の工場跡にできたマンションだと聞いた。門真の松下、守口の三洋は有名であるが、シャープは阿倍野が発祥地である。富士通ゼネラルも松下幸之助を慕っていた故郷の後輩、八尾敬次郎がこの近くに創業したのが始まりである。守口を過ぎると大阪市内である。京街道も良く整備され、路面の所々に京街道の地図をあしらった案内板が埋め込まれている。京街道の起点の道標は見つけそこなったが、熊野街道の出発店として名高い永田昆布店前の八軒家船着場跡に到着する。上皇や貴族の熊野詣は淀からここまでは船で下って、ここから陸路に入った地点である。  

    

熊野街道の起点には説明入りの碑が建っていた。坂口王子伝承の朝日神明社跡、上野王子跡、四天王寺境内にある熊野権現礼拝石、安倍王子神社、津守王子跡、境王子跡を巡り、仁徳天皇陵を過ぎて堺市内のホテルに入る。残念ながら郡戸王子跡と言われる高津神社は一本道を間違えて高津高校前を通過したため撮影はできなかった。

  

  

4日目 2010年9月20日 堺〜山中渓

夜明け前にホテルを出発する。大鳥居新王子は碑はなかったが、北王子商店街に解説板があったので、そこをマークポイントにした。。和泉市内の篠田(信太)王子跡、平松王子跡、井ノ口王子跡は容易に見つかったが、岸和田市や貝塚市は観光資源の整備に不熱心なのか、王子跡の碑はもちろん熊野街道に関する表示は一切なかったように思う。池田王子跡は碑も解説板も無いようであり、この辺りと言われている地点の住居表示をマークポイントした。同様に麻生川王子跡は三和製作所前を、鞍持王子と近木王子は合祀されている南近義神社を、鶴原王子は貝田会館をマークポイントした。
泉佐野市で佐野王子跡は見つけやすかったが、田尻町の籾井王子跡は全くの個人宅の庭にあり、事前情報を得ていなければ決して見つからない。チャイムを押して、家人にお願いをすると心得ていて、すぐに案内してくれたが、庭木の奥にあり、外から覗いたくらいでは見えない位置である。泉南市で厩戸王子跡は街道からかなり離れているが何人かに訪ねながら発見できた。信達一ノ瀬王子跡は馬頭観音になっているということで、見つけやすかった。大阪府南端の阪南市では長岡王子跡を探したが見つからず、諦めて地蔵堂王子跡、馬目王子跡を見つけた後、山中渓駅から再度和泉鳥取駅に電車で戻り、改めて地域の人に聞き歩いた結果、波太神社の遥拝鳥居の一段下に建っている個人宅の横にあった。地元の人と話をしているうち、『そういえば鳥居の近くに何かあったけど、家を新築する時邪魔になって駐車場の方に移したものがある』と言うことを聞いたことがあるがきっかけで発見できた。この鳥居の周辺は何度も見ておりながら、少しのことで最初は発見できなかった。

   

   

  

  

 

5日目 2010年9月21日 山中渓〜布施屋

今日からは和歌山県に入る。車では何度も旅行で来ている地だが、徒歩では初めての入県である。
日本最後の仇討場となった境橋を過ぎると和歌山県であり、間もなく中山王子跡である。厳しい雄ノ山峠を越え雄ノ山川沿いに下って行くと山口王子跡がある。続いて川辺王子、中村王子は近距離にある。紀ノ川を越えて、吐前王子、川端王子を訪ねて、時間は速いが、今回の紀伊路はここまでとして、大阪のスパワールドを楽しみに行く。明日は暗峠越奈良街道を歩くので体力を温存したい。

  

  

6日目 2010年12月11日 布施屋〜湯浅

体調不良などもあって約3ヶ月ぶりの紀伊路である。和佐王子を目指すが、ここは『松下幸之助』の出生地でもある。ほどなく旧家『中筋家』に到着する。現在は異なる表札が掛っていたが立派な屋敷である。歩いていると『和佐』の表札も見かける。和佐王子も例によって石碑と青い説明看板が立っている。矢田峠を越えたところで道を間違え隧道を過ぎた地点で気づき、気を取り直して平緒王子へ向かう。紀州一宮の伊太祁曾神社と鈴木姓の発祥地といわれる鈴木屋敷に立ち寄りながら、奈久智王子、松坂王子、松代王子、菩提房王子、祓戸王子そして最初の五体王子社である藤白神社の藤代王子までは極めて順調に歩いた。この後、大きな峠を3つも越えるのである。最初は藤白塔下王子を目指して藤白峠、丁石地蔵に励まされながら峠を目指す。眼前の山々は有田川町の山だろうか多くの風車が回っている。海南市街を見下ろして、加茂川の流れる下津町内で橘本王子、所坂王子、一壺王子を訪ねたら拝の峠を目指す。峠からは有田市街の宮崎町あたりが一望でき、美しい。蕪坂塔下王子の後は一気に下り、集落に入って山口王子を過ぎたら有田川を目指す。有田川の手前で紀伊宮原駅が数百mの地点を通過するので、近県の人はここで帰宅する人も多いと想像される。有田川を越えて中将姫ゆかりの得生寺、糸我王子を過ぎたら宿のある湯浅まで最後の糸我峠を越えなければならない。標高差は百数十m程度だが、藤白峠、拝の峠を越え30Km以上を歩いた体には踏みしめるように進むしかない。逆川王子を過ぎ山田川?を越えると湯浅駅はすぐである。今日の一日はかなり厳しい歩行であったが、標識や表示が整備されていて気持ちよく安心して歩けた。何れの王子跡も石碑と青い説明看板なので写真を省きます。

藤白神社                   立派な丁石地蔵       拝の峠から有田市街

本日の高低差

7日目 2010年12月12日 湯浅〜切目

夜明け前の5:30に宿を出発する。懐中電灯を片手に進むが、久米崎王子跡を見つけられないまま広川ICにある津兼王子跡を目指す。IC内にあると事前に分かっていても料金所の職員に尋ねないと見つからなかった。鹿ヶ瀬峠を控えて河瀬王子跡や馬留王子跡の多くの旅籠があったらしく、その表示が何か所もある。馬留の意味は、ここまでは駕籠で来れるが、ここからは馬の背に乗らなければ行けない意味と馬もこの先は進めない意味の二つがあるが、ここは前者のようである。富士山のように馬返しの表現のほうが誤解がない。ミカン畑を縫いながら鹿ヶ瀬峠に達すると下りは急坂だが比較的歩きやすい石畳を進み、金魚茶屋跡、沓掛王子跡、馬留王子跡、一里塚を過ぎると刈り取られた黒竹が民家の近くに立てかけてある光景を目にする。作業中のおじさんに尋ねたら、一年目は青いが生えているときから黒いそうで、京都や四国でも生息していいるそうである。内の畑王子、高家王子、善童子王子はすぐに見つかるが、愛徳山王子は表示はしっかりしているが不安になるような竹林を潜るように進んだ奥にあった。道成寺に立ち寄ったら散歩中の夫婦に会い、少し話をしたら厚木に行ったことがあるというので、聞いてみると機械のメンテナンスをしていたらしくネポンに行ったとのことであった。門前で出来立ての釣鐘まんじゅうを2個買って食べながら歩く。思いのほか美味であった。そんなことをしていたせいでもないが、九海士王子を前に地図を落としたことに気づく。探しに行く必要もないと先に進むが、表示を見落とすまいと歩く速度は極端に遅くなる。すると後ろから40代くらいの同好の人が追い付いてきて話をしながら、しばらく歩く。暗街道からお伊勢さんへ歩いたとかで、すっかり意気投合したが、明日は仕事なのと旅費の節約で各駅で帰るため早く切り上げねばならないと岩内王子を過ぎて琴野橋で別れた。御坊の地名の由来となった西本願寺日高別院はさほど遠くない(往復4Km?)が寄らずに先を急ぐ。塩屋(俗称美人王子)王子、清姫の草履塚、上野王子と過ぎれば、御坊とはお別れである。フェニックスの木と石柱が3本立っている。
海岸沿いのウオークを楽しんで津井王子を過ぎると印南町役場のの表示が出てきたので、観光地図をもらうために寄り道することにした。休日だが宿直の人が地図を探してきてくれた。斑鳩王子、切目王子を訪ねた後、切目駅からJRで宿泊地の印南まで一駅戻る。


8日目 2010年12月13日
 切目〜稲葉根

今日の天気予報は一日中雨である。地元の人によると午前中の予報は当たらないことが多いが、午後はかなりの確率で的中するそうである。早く出発したいが、印南駅から切目駅へは一駅とはいえ始発が7:26と遅いのが恨めしい。中山王子を訪ねた後は榎木峠、岩代王子、千里の浜、千里王子、南部峠と近畿自然歩道となっている。何といっても京都から歩いてきて岩代王子で初めて海辺に立つ感動は何とも言えない。しかし、すぐ小さな峠を越えて千里の浜に出る。ここから千里王子までのわずか数百mの砂浜が山道より歩きにくく感じたのは皮肉なものである。三鍋王子、芳養王子、出立王子と訪ねた後、田辺駅のコインロッカーに不要なものを預け身軽にして紀伊路を終え、12:40に中辺路を目指す。
秋津王子は見慣れた石碑や青い説明看板がなく、非常に見落としやすい。また通行人に聞いても知らない人が多い。雨も激しくなり地図はびしょ濡れで、ゆっくりと楽しめない。三栖廃寺塔跡は立ち寄らず、三栖王子の後は山道は荒れているので古道ではない新岡坂トンネルルートを観光案内所で勧められたが熊野古道の標識に沿って歩いていたら、いつの間にかトンネル出口に合流した。表示もしっかりしており、それほど荒れていないと感じた。八上王子、稲葉根王子と進む間に雨は一層激しくなり、カメラのレンズが曇って撮影もままならない。時間は早いが、ここで切り上げることとした。せめて鮎川王子までと思ったが潔く断念した。15:45

9日目 2011年03月20日 稲葉根〜継桜

天候の崩れが予想されたので田辺駅前からタクシーで前回の終点稲葉根王子へ。5:35から歩き始める。
5:52 一ノ瀬王子  6:28 鮎川王子 8;26 滝尻王子
滝尻の資料館は9時からなので、ここで30分以上ロスすると雨に見舞われるので、先を進む。
  

8:48 不寝王子 10:45 大門王子 11:17 十丈王子
途中で遍路姿の男性とすれ違い、少し話をする。愛媛の川之江市に住んでいて、西国霊場を那智から歩き始めたと言う。
西国霊場は33か所だが四国霊場よりも距離は長いかもしれない。四国霊場は歩きで3回、車で6回とか満願していると言う。
  

12:42 大坂本王子 13:17 牛馬童子 13:41 近露王子
滝尻から近露まで圧倒されるような神秘の森である。熊野古道と言っても生活道路になっている部分はドラバイーや住民によるごみが散見されるが、この区間はまさしくチリひとつない古道であった。「見つけた!」と思っても、それは道路に埋め込まれた標識のタグである。
驚いたのは牛馬童子の大きさである。私は勝手に1m程度はあるものと思っていたが、あまりの小ささに驚いた。先入観というものは実に恐ろしい。横に15センチ程度の懐中電灯を置いて撮影した。近露に着いたころより雨が本格的になってきた。
  

14:26 比曽原王子 14:46 継桜王子 15:02 野中の清水 15:30 雨に降られながら古道から少し離れた宿に着く。
  

神秘の森と言い、高低差と言い、楽しいコースであった。出来れば昼過ぎの雨にはあいたくなかった。

10日目 2011年03月21日 継桜〜湯峰

朝食時は少し雨が降っていたが、出発直後に雨が止んだ。去年の暮れに湯浅で泊まった時の親父さんが、この辺りの天気予報は午前中は外れるが、午後は当たると教えてくれたことを思い出す。昨日は一日中雨の予報だったが、午前中は外れて雨は降らなかった。
今日の予報は午前中は雨で、午後は晴れる予報である。親父さんの説ならば一日晴れることも考えられる。実際、この日は一日晴れました。
6:46 野中の清水まで宿の女将さんが送ってくれた。 6:58 中河王子 7:20 小広王子 7:31 熊瀬川王子 
森の中は夜来の雨が木々の葉に溜まっていて、ポツリポツリと滴り落ちるが、木々の晴れ間に出ると雨は降っていない。
衣服やリュックの擦れる音、水滴の音、葉の揺れる音、いろいろな音が神秘的に混じり合う。時にはそれらの音が、後ろから誰か追いかけてくるように聞こえるから気味悪い。昔話でキツネやタヌキ、亡霊が出たというのはこんな音に惑わされていたんだろう。
  

8:32 岩神王子 9:20 湯川王子 9:48 三越峠到着
途中に王子製紙社有林と大書した標識と祠があった。王子製紙の『王子』は熊野路の『王子』に由来するのだろうか。
熊野路では多くの人が行き倒れでなくなった証しとして、小判地蔵やおぎん地蔵などがある。湯川王子の少し手前に『湯川一族の墓』があったが沢が増水していたので寄らなかった。三越峠から熊野本宮までは音無川の谷を下るだけである。力が湧いてくる。
  

10:40 猪鼻王子 11:01 発心門王子 11:24 水呑王子 11:56 伏拝王子 12:46 祓殿王子
小さな起伏はあるものの400mくらいを下る間、音無川の景観を楽しみながら本宮を目指す。王子跡の看板が見慣れた青板でなくなるのは違和感を感じた。
    

12:50 熊野本宮に到着。 熊野三山の中でも、私は熊野本宮が最も感慨深いのは八咫烏の由来を知ってからである。
木霊やお土産などを買って、日本の大鳥居を目指す。13:33 大斎原到着。
  

今夜の宿は熊野川温泉で瀞峡街道を直進すれば労力は少ないが、もうひと山、湯峰越えで湯峰王子社を訪ねる。
13:46 湯峰越え登山口 14:31 湯峰王子社 15:20 大日山トンネルを出て、瀞峡街道に合流する。
以前、西国観音霊場を巡ったときに立ち寄った湯峰温泉は懐かしかった。
宿の食事は7時までである。残り15Kmを早足で歩き、18:04 宿に到着。大浴場でさっぱりして食事をしたが、味、量ともに大満足。
 

11日目 2011年03月22日 湯峰〜那智大滝

5:50 今日は晴れる予定だったが、雨の中の出発となった。やはり、午前中の天気予報は当たらないと思っていたら、8時ごろには上がった。熊野川沿いの瀞峡街道を速玉大社まで進むのだが、昨日通り過ぎた三和大橋の下流には本当に橋がない。『橋のない川』は大和盆地の熊野川流域が舞台の小説だが、つい、差別問題を思い出してしまう。すると、道路脇に『まもろう人権 なくそう差別』と2m以上ある看板を見つけた。、差別が現存することを知らしめるようで、いやな感じの看板である。結局新宮市街の熊野大橋まで20Km、橋がなかった。
対岸には三重県の集落が点在している。
9:36 熊野速玉大社に到着。歴代の御幸の回数が石碑になっていたが、後白河上皇の三十三回が最多であった。本当ならば年に数回の年もあったことだろう。近くに川原家(かわらや)横丁があり、洪水に備え、解体、組立が容易なように釘を一本も使っていない川原家が復元されて土産物屋になっていた。
 

境内で雨具を着替え、身軽になって、いよいよ九十九王子巡りの完歩を目指し、那智大滝に向かう。
10:20 阿須賀王子、10:40 浜王子 12:19 佐野王子 13:43 浜ノ宮王子
熊野川温泉からほとんど、平坦な道で、せいぜい50m足らずの起伏しかなかったが、浜ノ宮王子から那智大滝へ向けては300m以上の高度差がある。
   

14:32 市野々王子 14:50 大門坂の大きな石碑 14:56 多富気王子
最後の王子社である多富気王子を過ぎてからが本当にゴール目前の試練である。熊野那智大社の鳥居を前に階段を登る足は一層、疲れを感じる。手すりを伝ってゆっくり噛みしめて進む。
15:36 熊野那智大社に到着