17年5月10日 田村神社

  

存在感のある大きな鳥居ですが、こちらは北参道だったようです。神殿でお参りして、帰って方向に表参道がありました。こちらも一宮寺と隣接しています。
これで全国にある100以上の一ノ宮を徒歩旅で全て巡拝したことになります。思えば熊野古道を歩いていて、伊太祁曽神社で何やら霊感を感じ、大きな御朱印帳を購入したのが、平成22年12月11日。それ以来、全国を旅しながら巡拝を続け6年半を要したが、ようやく満願である。

17年4月21日 土佐神社

  

30番善楽寺と隣接しており、表参道がわかりにくかったです。

17年4月14日 大麻比古神社

  

こちらを参拝してから、四国遍路をスタートしました。霊山寺のすぐ傍と思っていましたが、少し離れており、うっかり霊山寺に戻る道を間違えました。

16年10月20日 水無神社

  

水無神社は島崎藤村の父、島崎正樹氏が宮司を務めておりました。表裏日本を分かつ分水嶺に座すことでも有名です。位山の一位の笏は多くの有力者に献上されています。

16年9月14日 気多大社

  
北陸地方には“気多”の付く大きな神社がたくさんあります。どうしても“きた”と呼んでしまいます。中央の写真、神門の右端で巫女さんが待っていて、説明をしてくれます。珍しいサービスだと思いました。

16年8月26日 伊佐須美神社

  

会津美里町にある岩代国一ノ宮である伊佐須美神社である。御朱印代が千円にびっくり!

16年7月29日 秩父神社

  

秩父の夜祭で有名な秩父神社は元来は一ノ宮ではないが、他の数社とともに新一ノ宮として一ノ宮巡拝リストでは取り扱われている。
門前の石柱には『秩父神社』、拝殿の扁額には『知知夫神社』と別な表記になっています。

16年7月9日 大山祇神社

  
伊予一ノ宮は四国本土ではなく、大三島の宮浦地区にあります。しまなみ海道を旅する人には、多々羅大橋で入島して、比較的アクセスが容易である。
とびしま海道から来たので、南端の宗方港に入港して、島を半周する形で宮浦の旅館街に到着した。
本来は山の神であるが、場所柄海軍関係の信仰も篤い。社名は『大山祇』で祭神名は『大山積』と表記が異なるのが興味深い。

16年4月20日 伊弉諾神宮

  

日没の神を祀る伊弉諾神宮と日ノ出の神を祀る伊勢神宮が同じ緯度にあることは驚きであるが、それ以外に南北や夏至と冬至の太陽の日の出、日没方向に著名な神社いずれも一ノ宮が鎮座することには驚愕以外何物でもない。古代人の力は恐るべしである。

16年3月20日 吉備津神社

  

吉備津神社は備中にもあり、紛らわしいですが、こちらは備中より勧請されたそうです。出雲では10月を神有月というのは有名ですが、備後でも神有月というそうです。それは吉備津彦神が全国の神々が出雲に集合するときに、欠席したことに由来するそうです。

16年3月20日 素戔嗚神社 

  

蘇民将来伝説ゆかりの素戔嗚神社を参拝しました。蘇民将来に似つかわしく一ノ宮としてはとても質素な趣です。

16年1月21日 枚聞神社

  

九州の開聞岳の麓、最南端駅の西大山駅近くの枚聞神社を参拝しました。知覧から最南端終着駅である枕崎駅経由で歩いたので、ロング歩行となりました。茶畑越しに見える開聞岳がいろいろな山容を見せながら、少しづつ大きくなるのが楽しみでした。

15年11月17日 度津神社

  

佐渡島にある度津神社を参拝しました。島内は主にR350を歩いたが、昨日の国分寺にしろ、今日の一ノ宮にしろ、国道からかなり外れている。
特に一ノ宮は羽茂本郷から羽茂飯岡間を往復することになる。国道と別れると島であることを忘れさせるような山間部を経て一宮に至る。
羽茂川に架かる神橋と先に見える鳥居が印象的であった。

15年9月23日 北海道神宮

  

 北海道神宮の大きな石柱を通り過ぎて円山公園方面へ向かう。大鳥居前の狭い広場で小学生達の剣道試合が行われて混雑していいる。神社境内は門前の喧騒とは打って変わり、木立に囲まれ厳かな雰囲気に浸れる。神前結婚式の場に出くわす。全くの他人であっても、なぜかおめでたい気分になります。
道内の神社でも鳥居の反っているのもあるが、ほとんどはこちらのように真っすぐな円柱と角柱の組み合わせが多く、殺風景な感じがします。

15年4月18日 天手長男神社

  

扁額に天手長男神社と記されています。人名のような社名です。かなり歩いたあとなので、階段を見上げてため息です。
手摺がほしい所です。境内には祭礼の準備で氏子さんが数名いましたが、社務所らしきものはありません。神殿の賽銭箱のところに貼付用の御朱印があり、料金は賽銭箱へ入れるように案内されていました。御朱印は大、小の二種類が置かれています。
神勢が衰えたり、宮司が常駐できないような神社が、参拝者のために採る一般的な方法です。先の海神神社もこの方法を採用してほしいと思いました。

15年4月16日 海神神社

  

全国一の宮でもアクセスの不便さでは、一二位を競う神社です。ようやく参拝を終えて、社務所に行きますが、誰もいません。お守りなどは代金を入れる箱に入れる無人販売所方式です。御朱印の欲しい方は電話してくださいの旨が表示されていました。いずれも携帯番号でしたが2つの番号が記されています。しかしいくら電話してもどちらも繋がりません。いつまでも電話がつながるまで待つわけにいきません。手帳の紙に郵送しくれるように住所を記して500円硬貨を包んで置いてきました。駐車場では神殿の近くで言葉を交わした若者が車内で電話をしていました。私と同じようにおそらく宮司さんにしているのでしょう。
帰宅後、自宅に郵便物が届いていました。文面なしで、小さな御朱印と神社の栞だけが入っていました。正直言って、あまり良い感じはしませんでした。私は御朱印の大を欲しかったが、その旨を記さなかった自分の非を悔やみました。宮司さんに対しては、儀礼的でも謝罪の一言が欲しいと思いました。

15年3月22日 宇佐神宮

流石は全国の八幡社の総元締めだけあって風格のある社である。神殿は工事中であったが、呉橋は紅色が風化して白味を帯びているのが一層美しく感じました。

  

15年3月21日 柞原八幡宮

とにかく一の鳥居と思われるところから本社までが非常に長く感じられた神社です。途中に参道を思わせるものはなく、住宅地や山の中の道路をひたすら歩きました。「ゆずはら」はいろいろな表記がされますが、神門の扁額では「由原」となっていました。

  

15年3月20日 西寒多神社

  

15年3月18日 阿蘇神社

浅間と阿蘇は同じ語源と何処かで読んだ記憶があり、火に関わる意味だったように思う。阿蘇神社は阿蘇山、浅間神社は富士山と深いつながりがあるようだ。阿蘇神社の総本宮だけに素晴らしい楼門を構えていた。雨滴でうまく撮影できなかったのが残念である。

  

15年2月17日 都農神社

日向一宮の都農神社を参拝する。全国の街道を歩きながら、一宮巡拝をしている私にとって、街道に面している一宮は大変ありがたい。境内に神象と表記された像がありました。(右端の写真)私には、どう見ても象に見えませんでした。一見した処、魚かと思いました。

  

15年2月13日 鹿児島神宮

大隅一宮の鹿児島神宮を参拝する。ここは坂本龍馬とお龍が霧島に向かった時に通ったことで、日本最初の新婚旅行龍馬ハネムーンロードに位置する。それ以前にも新婚旅行はあったと思うが、商魂豊かな売り出しです。

  

15年1月21日 新田神社

赤い鳥居と石の降来橋が迎えてくれるのは嬉しいが、その後に長く厳しいを階段が待っています。上りは一途に頑張りますが、下りは足がすくみます。ご正中を避けるとはいきません。手摺が中央にあるので真ん中を下ります。
  

14年12月19日 筥崎宮

楼門の扁額には「敵国降伏」と書かれ、穏やかでない印象を受けた。しかし、この意味は、武力で相手を降伏させる覇道ではなく、徳の力を持って導き、相手が自ら靡き降伏する王道のあり方を説いているようです

  

14年12月19日 住吉神社

全国に2000社以上ある住吉神社のなかで、最初の神社と言われている。
底筒男命、中筒男命、表筒男命の御祭神はぼんやりと本で読んだ記憶が残っていました。

  

14年12月14日 與止日女神社

神功皇后征韓の折、妹君の與止日女様が子宝に恵まれぬため、境内にあった自然石の男根に触れたら、子宝を授かった話が伝えられています。

  

14年12月13日 高良神社

佐賀県から再度、福岡県に入り、久留米の高良神社を参拝する。長崎街道からはかなりの遠回りであるが、今回参拝することにした。いつか薩摩街道ですぐ近くを通過することになるかもしれないが、善は急げです。

  

14年12月13日 千栗八幡宮

九州で初めての一宮である。どうしても「ちくり」と読んでしまうが、「ちりく」が正しい。肥前一宮は2社あり、その一つである。
参道の階段はかなりの急勾配である。手摺を伝いながら下りました。

  

14年10月24日 駒形神社

奥州街道を仙台から盛岡まで歩く旅の4日目に参拝しました。陸中一宮となっていましたが、全国一宮巡拝会では新一宮として扱われています。

  

14年10月20日 鹽竈神社

仙台から塩釜街道を歩いて参拝しました。その後瑞巌寺まで歩き松島湾遊覧船で塩釜に戻りました。
同じ境内に塩竃神社と志波彦神社があり、わかりにくいです。一宮巡拝会の御朱印をお願いしたら二社分を1ページに収め金500円也でした。志波彦神社は式内社で国幣中社に列格されているが、塩竃神社は式内社でもないようです。

  

14年9月20日 岩木山神社

岩木山神社の近くに来るまで、山頂の前面は雲に覆われていたが、神社に着く頃は背面に残るものの山容がはっきり見て取れました。元々の一宮ではないが、新一宮として認定されている岩木山神社は津軽全域から眺められる岩木山に北門鎮護の社として崇められています。坂上田村麻呂も祀られています。

  

14年7月26日 小國神社

東海道からも東海自然歩道からもかなり離れているため、参拝の機会が遅れた。たまたま今月は体調不良で長旅はできないから、良い機会と捉え、塩の道経由で参拝してきました。
境内の池の水面がとても美しくかつ神秘さを漂わせていました。朱の神橋の手前にも太鼓橋があります。こちらは地元の森山焼の陶器片を埋め込んでおり、一風変わった魅力があります。
  

14年6月21日 大物忌神社

この神社の本社は鳥海山山頂にあり、登山ルートも各地区から登りやすいように何本もあるようだ。この神社では数カ所の山小屋も管理しているのに驚いた。
門前のお米屋さんの奥さんと話をしていて、「山は登らないのですか。鳥海山は素晴らしいですよ。吹浦の祭りは5月だけど良いですよ。」と熱心に勧められまいた。故郷を勧められることは大変、幸せなことと思い羨ましいです。

  

14年5月16日 弥彦神社

デジカメの電池が切れたため、携帯電話で撮影しました。
地名などは”ヤヒコ”と読む関係で、一般的には”ヤヒコ”神社と呼ばれているが、正式には”イヤヒコ”神社である。

 

14年5月13日 居多神社

昨日、旅館の女将さんと話をしていて、初めて”コタ”神社と読むことを知った。古くは”ケタ”とも読んでいて、石川県や富山県の気多神社と同じ系統のようだ。
こちらの社家である花ヶ前氏はこれまでに出会ったことのない非常に珍しい姓氏である。

  

14年4月23日 石都々古和気神社

社務所は麓にありますが、神社は巨岩が多数ある山の上です。かなりの急登でした。宮司さんの奥様?からは美味しいお菓子とお茶を頂きました。あまりに美味しかったので、販売所を尋ねると、地元のお菓子屋さんで他所では売っていないとのこと。旅の初めで荷物は増やしたくなかったが、おみやげとして購入して、宿から宅急便で自宅に送りました。お菓子のさかいで作られている桜の谷クッキーです。

  

14年4月23日 都々古別神社(馬場)

ここの宮司さんは一風変わっている。神社のそこかしこに多数の貼りものがあり、賑々しいことこの上ない。神様もうんざりではないかと察せられる。自宅の敷地も清廉潔癖と言うよりは雑然とした感じで驚きました。私が歩き旅と知ると、事細かに色々と質問をしてくる好奇心と言うか話し好きでもありました。

  

14年4月23日 都々古別神社(八槻)

陸奥一宮だが、扁額には奥州一宮と表示されている。難しい神社名だが地元では八槻神社で通っている。
近津三社の中ノ宮である。

  

14年3月29日 石上布都魂神社

道路脇の道標でホッとしたのも束の間で、すぐに急登である。一気に80m位登らなければいけない。杖が何本も準備されているが、自力で上りました。素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治した剣に縁の神社である。この辺り地名も苗字も「部」がつくのが目立つ。
神部、建部、寺部、軽部、伊部、治部など、そういえば宮司さんも物部さんです。

14年3月28日 中山神社

中山鳥居と言われる鳥居の種類はこの神社の鳥居から発生しています。反り増しがあって、貫が柱から突き出ていません。
美作市には一宮の他に美作総社宮という大きな神社があります。中山神社は尼子氏が庇護したのに対抗して、総社は毛利氏が庇護したようです。

14年3月26日 伊和神社

不謹慎だが「伊和」の名に妙な関心を持った。神社名、地名、人名には珍しいと思います。「伊」も「和」もありふれた漢字だが、日本語では数少ない無発音になることがあります。伊達、紀伊(現在はきいと読むことが多い)、和泉、大和などでは伊や和は読まれていません。

13年12月29日 枚岡神社

数年前に大阪から奈良へ暗峠を越えてゆく時に、すぐ傍を通過したが、御朱印を頂いていないので改めて東高野街道を八幡市の木津御幸橋から歩いて参拝しました。
   

13年11月18日 敢国神社

敢国の意味が不明だと思いながら加太越奈良道を歩いていたら『敢郡都美宮』があった。どうやら地名ようだと感じつつ敢国神社に到着した。由緒によると元々は阿拝国のようである。安部、安倍、阿部姓などの総氏神でもある。
  

13年10月8日 気多神社

御朱印の受付時間が気になりながら伏木に向かう。16:17国道415から離れて坂道を登る。10分も歩かないうちに社務所の看板があり、立ち寄る。自宅兼用のようだが、呼び鈴を押しても応答がない。すぐ横に無人の御朱印自動販売所があり、野菜か果物を買うように御朱印を頂く。もちろん御朱印帳には貼付するしかない。神社の由緒を記載した案内書もないので、ちょっと不機嫌になったが、そこは神様の前である。グッとこらえて相応の事情があろうと善人を演じる。

13年10月8日 射水神社

城内にある一宮は初めてのような気がする。一宮に限らず、神社がお城にあるのは珍しい。元々は二上山にあったが、明治になって高岡城が廃城になって、本丸跡に社殿が建てられた。

13年10月8日 高瀬神社

高瀬神社の周辺は快適なウオーキングコースになっているようで、早朝ウオークの人々と多く出会った。
親切に的確な道案内をしていただいた。
早朝の参拝だったが、神職の方から快く御朱印を戴けた。ちょっとくたびれた感じの土俵だが、神社には土俵がよく似合う。

13年10月6日 白山比盗_社

街道から離れて、手取川沿いに白山比盗_社を目指して約13Kmの道中は島が付く地名が多いのに驚いた。帰宅後に調べたら手取川がよく氾濫して人が住めるような高いところは反乱した水に囲まれて島のようになることが多かった。それらは”島集落”と呼ばれ、地名にもなったようである。当然島集落の結束は強かったことと思われる。
来年辺りに、白山比盗_社を起点に白山を越えて飛騨の方へ歩きたい。いつか富山駅から立山を越えて大町まで歩いたことがあるが、当時より体力が衰えているので、ちょっと不安がある。

13年9月20日 気比神宮

武生から敦賀街道を歩いてゴール近くの旧敦賀港と敦賀駅との中間くらいにある。ここの参拝を終えたら、JRで武生に戻るのだが、そんなことを忘れ、旧敦賀港駅舎近くの公園で地元の人と話をしながら、ゆっくり弁当を食べた。
敦賀発14:46の電車を乗り落としたら16:05までないのである。13:50敦賀港駅舎を出て、気比神宮へ急ぐ。
御朱印を戴き、神宮を出たのは、14:16である。敦賀駅には14:34に到着して、予定の列車に間に合うことができた。
それにしても、弁当を食べながら話をした老人は70代と思われるが、少し面白かった。
気比神宮への道のりを説明してくれる時に、「まっすぐに行くと、コンビニと言ってな、近頃、パンや飲み物や色々と売っていて便利な店があるので、そこらで、もう一度尋ねるといいよ。」と教えてくれた。
わざわざ、コンビニの説明をしてくれる時の得意気な表情が忘れられない。この地域の70代の人達にとっては、コンビニの出現は一大事だったのだろう。

  

13年8月27日 若狭姫神社・若狭彦神社

若狭姫神社に到着したのは7:30頃である。御朱印は8:00までは貰えないだろうと思っていたが、宮司さんが早朝から境内を清掃されていて、すぐに御朱印が戴けた。この宮司さんは大変な話好きで、神社を後にしたのは8:15ぐらいであった。
  
若狭彦神社に到着し、参拝を済ませたが社務所が見当たらない。やむなく一宮のパンフレットを見て、電話を掛けると、聞き覚えのある声で若狭姫神社で御朱印をしていると言われる。「最初に教えてくれれば、荷物を預けて参拝できたのに」と愚痴りながら再び話好きな宮司さんの元へ行く。途中で豪雨に見舞われる。、折りたたみ傘は骨が折れたのと、もう雨はしばらく降らない予報だったので、舞鶴のホテルで捨ててきた。上下レインコートを着て姫神社に辿り着く。話好きの宮司さんにビニール傘を頂いて上中に向かう。
 

13年8月24日 籠神社

傘松公園からのリフトの降り口からすぐのところに籠神社はある。天橋立の観光客が多数参詣するのだろうが、他所とは違う賑をみせている境内である。たまたまなのか海部家のご当主(第32世)がおられたので、それとなく遠くから撮影させてもらった。
海部氏の系図は国宝に指定されているほどの貴重な文献である。

  

13年8月23日 出石神社

出石町は皿そばで有名である。一人前が5皿程度で出てくるというので、一度食べてみたいと思うが、あいにく開店前で機会がなかった。

  

13年7月16日 出雲大神宮

出雲大神宮は街道からは4Km離れており、しかも桂川を渡るので、行き帰りで違う道を歩きたかったが、月読橋を往復することにした。境内の手水場近くにある『真名井のいずみ』は名水なのだろう。ペットボトルを多数準備した人が水を採取していた。

  

13年7月14日 粟鹿神社

宮司夫人だろうか、大変上品な感じの方が御朱印を記帳してくれた。少し会話して、「もう雨は降らないようですよ」と元気つけられる情報を得て、神社を出発したが、またしても予報は外れ、雨に見舞われる。

  

13年6月24日 宇倍神社

丁度8時頃に神社に到着した。神社によっては御朱印の貰えない時刻であるが、朝の掃除中であった神官が声をかけてくれた。
御朱印を戴きたい旨を告げると快く作業を止めて、応じてくれた。先の長い歩き旅には嬉しい一コマである。
武内宿祢命が御祭神である。明治、大正、昭和と数回にわたって、御社殿が紙幣の図柄になっており、商売繁盛の神様としても参詣者が絶えないようである。
  

13年6月23日 倭文神社

山陰道の歩き旅の途中で、倭文神社を参拝するのは非常に不便である。橋津川を渡り橋津宿には向かわず東郷池の東岸を回るようにして倭文神社に行き、参拝後は東郷池畔まで戻ってJR山陰線沿いに歩き泊宿で山陰道に合流する。
せっかく到着した神社には宮司さんが居ない。一宮巡礼の栞では、宮司さんが常駐していない神社は明記してあり、宮司宅の電話番号が記載されている。しかし、ここは宮司さんが常駐の表記になっていて、居ないので厄介である。奈良にある事務局に電話をして宮司宅の電話を聞き、連絡を取る。御朱印をもらうには自宅まで来てくださいとのことで、参拝後とぼとぼと重い足取りで歩き始める。電話で「徒歩巡拝で、この後泊駅方面に行く」旨を伝えていたので、電話を切った後、憐れみを感じたのだろう。自家用車が坂を登ってきた。案の定、宮司さんであり、首尾よく御朱印を戴けた。
参道脇に安産岩があったが、古くから安産の神様として崇敬されている。
  

13年6月2日 水若酢神社

隠岐に限らず、佐渡、壱岐、対馬と日本海の島は神話の昔から国防の島として位置づけられ、格式の高い神社が崇められている。若酢とは少し珍しい神様の名前で、隠岐の島の南部には玉若酢神社がある。宮司さんの話では「隠岐の島はほぼ円形で、玉のようになっている。海上を守る水若酢命と陸上を守る玉若酢命で分担したのではないか。」と言われた。

  

13年6月2日 由良比女神社

とって隠岐スリーデーウオークに合わせて、隠岐諸島の西ノ島の由良比女神社を参拝した。
資料では宮司は神社には居なく、浦郷近くの自宅で御朱印をいただくことになっている。電話で確認すると浦郷郵便局の隣だという。電話の応対では、あまり良い感じのしない女性だったが、実際に会ってみると私の誤解であった。高齢のため、耳も少し遠く、足腰も弱っており自宅内の移動にも手間取る状態であった。「体が不自由で立ったままご無礼します」と言って御朱印帳を受け取り、奥に消えた。待機している間に、同じウオーキングに参加している2名が訪問してきた。
  

13年4月26日 坐摩神社

九十九王子跡を訪ねて熊野古道を歩き始めたころは全国一宮を参拝する計画がなく、街道に近い坐摩神社の存在も知らなかった。
いかすり神社と読むことも驚いたが、生井神、福井神、綱長井神、波比岐神、阿須波神の五柱を総称して坐摩神と申すそうである。

  

13年4月26日 住吉大社

海上安全の守護神として有名な住吉大社である。底筒男命、中筒男命、表筒男命を総称して住吉大神と申す。第四本宮には息長足姫命(神功皇后)が祀られている。

  

13年3月20日 物部神社

山陰道を中心に歩いているが、石見一ノ宮を参拝した。
大田駅近くから街道を離れること往復15Km位だが、全国一宮を外すわけにいかない。
石見一宮(いっくう)祖霊社の前を通過して、物部神社の境内に入った。土地勘がないと表参道からではなく、脇や裏から境内に入ることが多い。
立派な手水石は「富金石」でできており、「富金石」には砂金が含まれているとの説明があった。波子駅近くの集落で「富金原」という珍しい姓が何軒かあり気になっていた。「富金原」の姓もそのあたりに関係がありそうと思われる。このようにちょっとした発見や疑問の解消などが歩き旅の醍醐味でもある。

13年2月4日 波上宮

本来、一宮は沖縄や北海道など、昔風表現で言う外地には存在しないが、神社関係者の商魂が全国をカバーするために“新一ノ宮”を制定したと思われる。
社殿の前にあるのは狛犬と言えばいいのかシーサを言えばいいのかわからない。
元を辿ればどちらもスフィンクスの獅子である。中国から伝来したのがシーサーで朝鮮から伝来したのが狛犬である。沖縄の神社だからシーサーで良いだろう。
神社らしからぬ立地に驚いた。サンゴ礁の崖の上にあることではない。繁華街というか歓楽街というか夜の街というか、それらがさほど遠くない所に建っているのです。

13年1月9日 事任神社

東海道を歩いた時に事任神社の存在は知っていたが、当時は全国一宮巡拝を意図していなかったので、すぐ近くを通り過ぎた。今回改めて、掛川駅から事任神社、そして菊川駅のコースで遍路旅をした。
「事任神社」とはあまり聞きなれない名称である。私は「ことまかせ」と読むと思っていたが、「ことのまま」と読むことを初めて知りました。「こと」は「事」でもあり「言」でもあるそうです。言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる神様である「己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)」が主祭神です。

13年1月8日 砥鹿神社

姫街道の歩行中、豊川稲荷駅近くからR151で豊川IC方面に4Km強離れた三河一宮の砥鹿神社を参拝した。
新年の神事に関わりがあるのだろう『鬼』の一画目がない漢字を黒丸の上下に相対して配した布を黒白の幕の中央に、少し離れたところに鯛を二尾吊るしてあった。
後でわかったことだが、この日は「弓始祭」の祭事が行われる当日であった。真榊で作られた黒木の弓で、鬼に見立てた的を射て、年中邪気退散を願うそうだ。
参拝を終えて神社のすぐ近くで『草鹿砥』という珍しい姓に出会う。「砥鹿」の2文字を入れ替えて、頭に「草」を付しているので、砥鹿神社の神職であることは想像できる。
これも,後で分かったが神官が本姓の「日下部」から「草」を、神社名から「鹿」と「砥」の漢字を使用して創姓したそうだ。

12年12月16日 住吉神社

6:40 下関駅から赤間関街道(北浦筋)を歩き始め、8:07 幡生駅近くから街道を離れ長門一宮の住吉神社に参詣する。
9:46 街道に復帰して北へ向かう。
  

12年11月17日 玉祖神社

6:30から朝食が食べられるホテルはありがたい。6:47 ホテルを出発。
7:56 周防一宮の玉祖神社に到着。参拝後に丁度社務所が開き、御朱印をいただく。
  

12年11月14日 厳島神社

西国街道の四郎峠を越えてから街道を外れ宮島口に向かう。
14:00 JRのフェリーで宮島に渡る。往きは大鳥居の近く250m位まで接近してくれる。フェリーから眺めたときは海中にあった大鳥居だが、上陸後、神社に到着したときは干潟を歩いて大鳥居に近づけた。

  

12年10月15日 大神神社

西国観音霊場の岡寺から南円堂に向かう途中にある大神神社を参拝する。
御神体の三輪山は登ることができないと記憶していたが、届けを出せば登拝できるとあった。
  

12年10月13日 丹生都比売神社

町石道を九度山から登る途中に、一旦天野の里に下山して丹生都比売神社を参拝した。

  

12年8月27日 伊射波神社

11:49 内宮参拝を終え、26日は鳥羽駅周辺の宿まで移動し、27日に志摩の一宮二社を参拝する。
五十鈴川を越え広い神宮神田を通過するが、もう収穫が始まっていた。
朝熊川と近鉄鳥羽線にほぼ平行に通じている朝熊山中の道路をひたすら鳥羽に向かって歩く。
集落は勿論、自販機もない。
14:10 真珠館があり、普段ならば縁のないような店であるが、暑さに痛めつけられていたので思わず飛び込み、喫茶コーナーで一息をつく。従業員と話しをしながら、しばらくくつろぎ、生気を取り戻した。
15:19 中之郷駅近くの旅館に到着。
27日6:55 宿を出て、安楽島の伊射波神社を目指す。伊射波神社は安楽島の集落から1.3Km位山道を登った地点にある無人の神社である。しかし、ここからの景色は素晴らしい。山登りの苦痛も、無人でご朱印がもらえないストレスも和らげてくれた。
御朱印は集落にある宮司宅を訪ねなければならない。この日は宮司も不在で予めご朱印された半紙をいただくしかない。もちろん日付は未記入である。卒寿に近いと思われるご婦人が恐縮して詫びており、ちょっとがっかりだが嫌な顔はできない。

  

12年8月27日 伊雑宮

11:25 伊雑宮を参拝。神社には似つかわしくない衛士の派出所があり、神官に尋ねると、ここは神宮の別宮で、彼らは神宮
の職員と言うことである。
11:43 磯部の御神田を通過し、13:46 賢島駅に到着。
時間があったの英虞湾遊覧船に乗る。遊覧船のコースはこちらをクリック。
  

12年8月24日 都波岐神社・奈加等神社

鈴鹿川の近く伊勢街道から東へ400m位の一ノ宮町にある。
8:36 到着するが社務所は開いていない。参拝を済ませてたら、普段着なので不明だが宮司か神官らしき人が「御朱印ですか」と声をかけてくれた。開店準備中だったのである。
なんといっても驚いたのは初穂料である。都波岐神社・奈加等神社と両社を一頁に明記して千円である。
都波岐神社だけだと五百円である。

12年7月19日 椿大神社

東海自然歩道の湯の山〜鈴鹿峠のコース途中にある。
8:29 以前にも参拝しているが、進入ルートが違うため、少し戸惑う。
まだ時間が早いため、門前で朝食を摂る当てが外れる。依然訪れた当時は、松下幸之助氏が椿会の会長をしていた記憶があるが、今は誰だろうと思いつつ、なかなか戻ってこない御朱印帳を待つ。

12年7月5日 貫前神社

8:49 旧中山道で歩いたJR高崎線の倉賀野駅から歩き始める。
12:43 旧富岡製糸場を見学してから一宮に向かう。
14:12 階段の先に大きな鳥居が見える。この鳥居から下った地点に神殿がある珍しい神社である。
参拝後はもみじ平総合公園を経て、安中駅まで歩く。16:51到着。

12年6月8日 真清田大神神社

6:06 名鉄岐阜駅を出発。すぐに見覚えのある中山道の加納宿を通過する。
7:12 笠松刑務所を通過。気のせいか通過した刑務所は記憶に残りやすい。堺、栃木、八王子、岐阜刑務所などである。
8:56 今伊勢の酒見神社を通過。倭姫命が伊勢の地を求めて旅された途中に、村民がこの地に建設した神社である。
9:17 真清田神社に到着。尾張開拓の祖である天火明命がご祭神である。
尾張一宮としてでなく、境内にある羽織神社が地場産業の繊維工業と結びついて七夕祭りが有名である。
 

12年6月8日 大神神社

一宮駅を通過して間もなくと思っていた大神神社が見つからない。通行人に尋ねても知らない人が多い。自信がないけれど、心当たりがある。住所は花池ですか? と聞き返された人がいた。教わった所で正しかったが、駅から意外に離れていた。
10:14 大神神社に到着。神社には神官が常駐しておらず、ご朱印希望者向けに横柄な張り紙が貼ってあった。
当日の朱印はいたしておりませんと明記されていたが、電話でお願いをして、3Kmほど離れた自宅に向かう。

道を間違える不幸が重なり余分に5Km以上も歩いた。11:34 宮司宅に到着。こみ上げる腹立たしさを何とかこらえてご朱印をお願いする。神社に貼ってあった案内文は横柄であったが、なかなか陽気な宮司さんであった。
新潟の沖にある隠岐一宮に行ってきたという。「新潟?」と聞いても「うん」という。
「島根県じゃないの」と言っても「うん 新潟」とかえってくる。完全に誤解してしまっているので、深追いをしないで話を合わせる。

 
13:33 美濃路の起宿を通過。なぜか子供のころの記憶が鮮明で、プロ野球の往年の名選手山内一弘選手の母校が起工業であったことが思い起こされた。
14:42 薩摩義士公園を通過。かって治水神社に行ったことがあるが、いずれ、ゆっくりと薩摩義士の活躍の場を歩いてみたい。
当初の計画では美濃赤坂駅まで歩く予定だったが、大神神社の宮司宅により、しかも道を間違えたので、難しい。
16:17 大垣駅に到着。明日からの東海自然歩道歩きに備えて、養老線とバスを乗り継いで東津汲の宿に向かう。

12年4月18日 鹿島神宮

12:08 香取神宮を後に、鹿島神宮を目指す。小見川大橋を越えるのだが、利根川沿いのR356は歩いたことがあるので、小見川工業団地がある内陸部を歩く。集落も少なくハイキング気分である。
小見川大橋に続き、常陸利根川に架かる息栖大橋を渡って14:07に茨城県に入る。
単調な幹線道路をひたすら速度を上げて歩く。
15:36 R124から分岐して鹿島市街地に向かう。
16:15 鹿島神宮に到着。朱色の神門に迎えられる。鹿島神宮も香取神宮とともに午年に式年祭が行われる。
両社とも武門の崇敬が高いので有名である。今は神宮と称する神社は多数あるが、かっては神宮と言えばお伊勢さんと香取、鹿島の三社しかなかった。

12年4月18日 香取神宮

10:57 佐原駅より香取神宮に向かう。
以前に歩いた伊能忠敬旧宅を経て11:32 大鳥居を通過する。
11:50 香取神宮に到着。12年ごとに行われる式年祭を案内する大看板が迎えてくれる。
駐車場は平日で観光バスこそいないが、一般客の車は結構混んでいた。

玉前神社 12年4月18日

前日に(以前、坂東札所の清水寺や関東不動霊場巡りで歩いた)三門駅前に駐車して上総一宮駅まで歩いたので、今日は上総一ノ宮駅から玉前神社を参拝して茂原駅までの歩きである。
5:09 夜明け早々の清々しい境内で参拝を済ませる。朱塗りの明神式鳥居が眩い。

安房神社 12年4月17日

10:17洲崎神社を出発する。ここからは太平洋に臨む平砂浦沿いに道を歩く。12:10 安房神社に到着する。
官幣大社安房神社の大きな石碑と鳥居が迎えてくれる。
拝殿や社務所に飾られている注連縄にぶら下がっている紙垂のような藁製のものが四つなのが気になった。
通常は奇数の3個とか5個だと思っていた。若い神職の方に尋ねたが、「昔から4つです。どうしてでしょう?」と返された。
 

洲崎神社 12年4月17日

洲崎神社 12年4月17日
7:13 館山駅前の駐車場に車を置いて、館山湾に沿うように洲崎灯台を目指して歩く。
途中、源頼朝公上陸地の石碑を通過する。洲崎灯台には観光客は誰もいなく淋しいものであった。
洲崎灯台から15分程度で9:57 洲崎神社に到着する。館山駅から12.9Kmである。
立派な鳥居の先に何段も続く石段が見える。ここは常駐の神職がおらず、持参のご朱印帳にご朱印をいただくことはできない。代金入れがあって、半紙に書かれたご朱印を受け取るようになっていた。宮司さんの自宅に伺えばご朱印帳に記帳してもらえるとのことであるが、自宅は富浦駅の近くである。
 

吉備津神社 12年3月21日

真金の一里塚を過ぎて間もなく吉備津神社の参詣道と交差する。広くて長く開放感のある道路である。
神社の境内には備中神楽面などが展示されていたが、小生は門前の茶店“桃太郎”が気になり、参拝を済ませた後、ぜんざいとキビ団子を賞味した。ぜんざいにもキビ団子が入っており、キビ団子が昼食になるほどのボリュームであった。
 

吉備津彦神社 12年3月21日

朱は全く見当たらず石材の白と木材の質素な色が際立つ。
大灯籠の迫力は凄い。高さ11m、笠石は八畳敷きの広さだと言う。
さざれ石の後方に写っているのは『龍の巖戸』である。
 

賀茂御祖神社 12年3月16日

“かもみおや”とは何度聞いてもなかなか覚えられない読み方である。
鮮やかな朱に光琳の梅が映える。
 

賀茂別雷神社 12年3月16日

西国街道の旅に先立ち、賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の二社を参拝した。
8時過ぎでまだ観光客もいない静かな境内は気持ちが良い。神殿前の立砂がいっそう厳かに見える。
 

氷川女体神社 12年1月5日

中山道を旅しているときに、氷川元府神社をなぜか、女体神社と勘違いしてしまい、改めて女体神社を参拝した。奇妙なことに両神社の宮司は同じ人であった。
社は改修中で木の香もかぐわしい仮神殿を参拝する。
参拝後は気ままに志木、朝霞、和光など西武沿線を横断して花小金井駅まで歩いた。
 

建部大社 11年12月15日

東海道を歩いた折は全国一宮を参拝する計画がなく、ご朱印帳も持参していなかったので、中山道を草津まで完歩した後、改めて訪問した。

 

南宮大社 11年12月13日

中山道を鵜沼から垂井まで歩き、宿に入る前に少し離れたところにある美濃一宮を参拝する。
ご朱印を記帳してくれた神官は奇しくも鵜沼のある各務原から通勤していた。歩いてきたことに驚いていたが、
50Kmの道程である。

  

諏訪大社本宮   11年08月04日

9:20 前宮を参拝して本宮に向かう。
9:40 本宮に到着。境内に入るや、なるほどこれが本宮だと肌で感じる。これまで諏訪大社と言えば、観光地化した春宮や秋宮の方がメインと思っていたが、ここへ来ると何の説明もいらずこちらがメインと感じる。多くの建物や展示物が躍動している感じである。
御柱関係に展示物だけでなく、雷電にゆかりがあって大相撲関係者の寄進や参拝も多いようである。
参拝を終えた後、せっかくなので諏訪湖をぐるっと回って下諏訪駅までに歩いた。一周は16Kmだそうで、快適な遊歩道が整備されている。
このウオークで、諏訪湖と天竜川の水位が違い、そこを行き来する漁船のためにパナマ運河方式の施設が釜口水門にあることを初めて知った。
また、『琵琶湖周航の歌』の作詞家がこの地の出身である小口太郎で諏訪湖をイメージして作詞をしたそうだ。
  

諏訪大社前宮   11年08月04日

8:38茅野駅を出るとすぐに諏訪大社の参詣道を示す大きな鳥居をくぐる。しかし、その後は参詣道の案内はない、あるいは見落としやすいのか不明となる。GPSを頼りに適当に進む。ときどき、車用の標識はあるが、歩行者がそれに従うとひどい目になるので、参考にしながらわが道を歩く。
9:08 前宮に到着。前宮はかってはこちらが本宮であったという意味らしい。
神殿は社務所より一旦、一般道を100mくらい歩いた目立たない森にありました。
  

雄山神社峰本社 11年07月23日

21日は立山駅前に、22日は室堂に宿泊して、23日の夜明けから立山山頂の雄山神社本宮を目指し、6:20に到着する。
社務所より一段高い岩山にある本宮でお祓いを受けた後、リュックを社務所に預け、富山県最高峰の大汝山山頂まで往復する。
帰路は東一の越経由で黒部湖まで下る。黒部湖から扇沢迄は歩行ルートがないためやむなく交通機関のトロリーバスを利用した。
扇沢から信濃大町駅までは歩いたが、途中23日は日向山のホテルで一泊する。4日間の雄山神社遍路旅は雪渓で滑落しながらも無事に終了した。来夏は残る三霊山のひとつである白山を目指したい。
  

雄山神社前立社壇・中宮 11年07月21日

富山駅から歩き始め約3時間半で岩峅集落の雄山神社前立社壇本殿に到着する。
  
さらに2時間半で芦峅集落の雄山神社中宮に到着する。先月は朱が鮮やかに映える日光二荒山神社をお参りしたが、今回は質素に佇む古社を感じた。集落全体が神社であるかの雰囲気がある。
  

二荒山神社 11年06月18日

日光街道歩きのゴール地点二荒山神橋に到着して輪王寺、東照宮、二荒山神社の共通参道しみじみと登る。
  

宇都宮二荒山神社 11年06月17日

1月18日に奥州街道歩きの3日目を終了して宇都宮駅に向かう途中に神社前を通過したが、その時は帰路を急いでいたため参拝できなかった。その後震災が発生し、街道歩きを一時中断していたが、奥州街道4日目を歩き始めて、すぐに参拝した。
  

諏訪大社春宮 11年05月23日

中仙道6日目、木落とし坂を下っていくと、街道と接して下側に境内がある。一般的に生活道路より低い位置に神社があるのは珍しいのではないかと違和感を感じる。標識に従って歩いてきたものの、これは参道ではなく、人間が作ったけもの道だと思う。封鎖するのが望ましい。右側の写真で手前から上へ登ったところに車の往来する生活道路が通っている。
若い神官が大きなリュックを担いできた私に『どこから来られたのですか』と尋ねる。おそらく彼も登山かハイキングが趣味なのであろう。
  

氷川神社 11年04月15日

氷川女体神社でご朱印がもらえなかったが、近いから再度来ればよいと言い聞かせながら中山道を歩く。氷川神社参道の分かれ道で中山道と別れ、氷川神社を目指す。気持ちよいほどまっすぐに伸び、両側はケヤキの並木道になっている参道である。途中、参道わきに地震で倒れた燈篭を行儀よく並べてあった。一の鳥居から三の鳥居までおよそ20分ぐらい歩いて氷川神社に到着である。荒川流域に広く分布する氷川神社の元締めである。氷川の由来は、この地域は出雲から来た人たちが開拓したらしく、出雲の簸川(ひかわ)とする説がある。
  

 

氷川元府神社 11年04月15日

中山道の初日に立ち寄る。鳥居の扁額に元府趾を記されているが、初めて出会う言葉である。『府』というのだから国府など役所を連想させるが、それを扁額に掲げるものだろうかと思いつつ、参拝を済ませる。
ご朱印の受付所は無人で宮司宅の呼鈴を押しても反応なし。指示された電話番号に電話しても空しい呼び出し音の後に『ただいま電話に出ることができません』の録音が流れる。しばらくおいて再度電話をするが同じである。気づけば部屋の中にある電話機が見えて、これまた空しくLEDが点滅している。ご朱印は得られず、疑問の元府の意味も聞くことができず、神社を後にする。

紀伊國懸(くにかかす)神宮・日前(ひのくま)神宮 11年03月19日

9:18 熊野詣でで歩いた布施屋駅から歩き始める。
9:53 松下幸之助の生誕地に立ち寄る。現在は墓所になっているが隣接して生誕地を記した湯川秀樹氏が書いた大きな石碑がある。
今回の旅では湯川家発祥の地も通過予定であり、何か因縁を感じる。
10:58 國懸神宮・日前神宮に到着。二つの大社が一ヶ所にある珍しい神社である。因みに御朱印は二神宮が一つの印に収まっています。
この後、紀三井寺に参拝して海南駅まで歩き、JRで明日の出発地である田辺に向かう。

甲斐一ノ宮(浅間神社) 11年03月09日

7:45 勝沼ぶどう郷駅から歩き始める。
9:05 塩山駅前の旧高野家住宅に到着。少し前から『甘草屋敷』の道案内が出ていて、興味のある名称なので立ち寄ってみたら、それが旧高野家住宅であった。当時としてはとんでもない豪邸であったのであろう。ほれぼれとする景観である。時節柄、邸内の各所で吊るし雛や段飾りのお雛さんが多数、展示されていた。一度は訪ねる価値がある古民家である。
 

11:36 浅間神社に到着
12:04 両ノ木神社を通過。鶴岡八幡宮を思わせる鳥居の扁額である。八の字が鳩で象られている。
    
12:06 甲斐国分尼寺、国分寺跡に到着。かなり広範に遺跡があり、現在は公園として整備するようで各所で工事をしていた。
13:11 町名は不明だが、九品寺近くで美しい旧家に出会う。