善人も殺人者になり得る (’94年の大虐殺)
A good man can be a murderer (Genocide in 1994)
( with Pictures )


   鉄製の扉を開いてもらうと、いくつもの白く細長い物体が眼に飛び込んできた。わずか数メートル四方の狭い部屋の中へ静かに入ってみる。目の前のその物体は白灰色に変色した何十体ものミイラだった。1994年の大虐殺で殺害されたツチ族の人たちの変わり果てた姿だ。甘酸っぱさにも似た強烈な異臭が鼻をつき、吐き気すら覚える。

 ブルンジ国境も遠くないギコンゴロという街の虐殺記念館に来ている。とても小さな街、その中心部で乗合いタクシーを降り、50分ほど農道を歩いていくと、のどかな山村の風景の中にそれがある。大規模な虐殺の現場の一つとなり、その後廃墟と化した学校をそのまま利用している。教室だった棟をそのまま"展示室"としている。管理人は自動小銃で武装した2人の警官と少女1人だ。

 案内してくれる2人の警官が、並んでいる部屋の扉を次々と開けてくれる。どの部屋にも、数十体のミイラが寝かされている。小さく縮んだその姿から、かつて"それ"が笑ったり喜んだりしていた人間だったとは、にわかに信じることが出来ない。 頭蓋骨に割られた様な陥没があるものも多い。ナタのような物で殴り殺されたのだろうか。小さな、幼児のミイラも沢山ある。ある人は空を掴むように手を伸ばし、ある人は痛みからなのか身体を丸めるようにして息絶え、そのままミイラと化していた。その恐怖の時の様子を、恐ろしくて想像することも出来ない。

 4棟を展示に利用しているが、最初に案内されたの方の棟ではきちんと並べて寝かされていたのに、最後の棟では相当な数の遺体を乱雑に山積みしてあるだけになる。そして、「もう十分でしょう?」という感じで、いくつかの部屋を残して案内は終わった。結局この間、私が咽から搾り出すことが出来た言葉は、「写真を撮ってもいいですか」という一言だけだった。

 1994年4月、当時の大統領を乗せた飛行機が墜落し、死亡するという事故が起きた。それをきっかけに全土で多数派のフツ族による少数派のツチ族への大虐殺が始まった。犠牲者は100万人と言われる。この虐殺のさらなる悲惨なところは、軍隊の手によってだけではなく、一般民衆までもが殺人に手を下していることにある。民間ラジオ放送によって煽動された普通の人たちが、ナタや鎌といった農作業器具で、それこそ、自分のご近所さんのツチ族の人を殺したのだという。その後の隣国への難民流出、他国の関与、続く戦乱といった事態は、はるか遠い日本でも、記憶の片隅程度には残っている人が多いだろう。

 出会うルワンダの人たちの多くは、とてもいい笑顔を向けてくれる。親切も何度も受けているし、道ですれ違っても気さくに「こんにちは」と声をかけてくる人が本当に沢山いる。先の虐殺では、一般民衆が殺人者となっている。つまり、ある特殊な人たちではなく、こうした笑顔の人たちが、ほんの少し間違うだけで狂気の殺人者となり得るということになる。このようにして加害者となった人たち、一般民衆が、あまりに多く、この国の刑務所は収容定員を大幅に上回ってしまっているという。ギコンゴロの街中でも、薄ピンク色の囚人服をきた受刑者たちが屋外労働をさせられていた。彼らの多くが虐殺に参加した人たちだという。あの虐殺さえなければ、彼らもとびきりの笑顔を私にくれていたのではないか。
 
 

 記念館は、かなり辺鄙な場所にある。つい最近までこの国の治安は悪かったという。訪れた人は、見学者名簿に名前や感想などを記載するのだが、97年から始まるその名簿に名前を残している人数は、正確に数えたわけではないが、わずか千数百人程度だろう。日本人の名は、十人も見つけることが出来なかった。ミイラが安置されている部屋部屋は、ほとんどの窓ガラスが破れ無くなっている。青いビニールシートでふさいでいない窓からは雨風も吹き込む。こんな乱暴な保管方法で、一体あと何年間腐らずに形を留めていられるのだろう。結局、その存在すら知られることもなく、世界に悲惨さを伝えることも出来ないまま、彼らは朽ち果てていってしまうのだろうか。これが欧米諸国で起きていた事態ならば、どんな反応が沸き起こるのだろうか。こうした意味でルワンダは、世界からあまりにも遠すぎる。
 

写真をクリックすると、大きな画像で見ることが出来ます。
 Click on pictures to get the full size.

虐殺記念館
ADEPR EGLISE DE PENTECOTE MURAMBI ( genocide museum ) at Murambi, Gikongoro

1994年、フツ族の人たちの手によるツチ族の人たちに対する大虐殺が国内各地で起きた。ブルンジ国境も遠くないギコンゴロという街の近く、ムランビという場所にある学校でも、2千数百人が惨殺されたという。かつて学校だったこの廃墟は、現在、虐殺記念館として公開されている。

(Full Size 40 KB)
94年の虐殺で殺されたツチ族の人たちの遺体。ミイラ化している。

(Full Size 43 KB)
ナタのような物で切りつけられたのだろうか、頭蓋骨が大きく割れてしまっている。頭にこうした痕を残した遺体が大変多い。この遺体は腕も途中から切り落とされている。

(Full Size 35 KB)
子供と母親なのだろうか。やはり母親の頭蓋骨は大きく割れている。

(Full Size40 KB)
遺体が置かれているどの部屋も、ほとんど全ての窓ガラスは割れてしまっている。雨も風も吹き込む。

(Full Size 30 KB)
直射日光にもさらされている。

(Full Size 41 KB)
沢山の頭蓋骨などの人骨。

(Full Size 32 KB)
犠牲者たちが身に付けていた服も展示されている。

(Full Size 18 KB)
遺体が展示されている棟々。以前は教室として使われていた。

(Full Size 48 KB)
遺体が沢山あり過ぎるからなのか、途中からは、ただ乱雑に積み上げただけとなる。

(Full Size 60 KB)
殺された後、この穴に投げ捨てられた、というような身振りつきの説明だったが、残念ながらフランス語もルワンダ語も解らないため、詳しい内容までは解らなかった。

(Full Size 44 KB)
敷地内には墓も作られている

(Full Size 25 KB)
ちょうど風の通り道なのだろうか、記念館敷地内にだけ、とても強い風が吹いていた。
 
 

Rwanda INDEX
Travel 2 INDEX Page


All rights reserved by Yasuto Oishi.  禁無断転載