国境線を越える 1(チベット → ネパール)
 Border Crossing 1 ( Tibet - Nepal )
 

  歩いて、自分の足で国境線を越える。一度は体験したいことだった。
  その最初の経験が、チベット・ネパールの国境だった。現在、チベットは中国領であるため、正確には中華人民共和国とネパールの国境となる。そこには、国境を越えると、こんなにも変わってしまうのか、と驚くほどの変化があった。

  国境そのものは川であり、そこにかかる橋、友誼橋上に国境線がある。中国側の街・ダムにあるイミグレーションから緩衝地帯を数Km、一時間ほど歩き、橋にたどり着く。この橋の中央には、赤いペンキで線が引かれている。この線が、国と国との境をである。しかし、この線は、それだけではない人、自然、文化の大きな隔たりの最終確定線でもある。

                〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜

  自然の変化は、国境から数十Km、ヒマラヤが一望できる峠からである。この峠でチベット高原は終り、道はここから下りになる。ヒマラヤ山脈の深い渓谷、崖を這うにしながら、標高5,100mの峠から海抜1,740mの国境まで、3千mもの急激な降下がスタートする。
  下り始めていくらもしないうちに変化が始まる。今まであまり見ることのなかった畑が次々と現れ、背の高い木も見かけるようになる。それまでは草原と潅木ばかり、荒涼とした風景であった。
  そして何よりの大変化は空気である。冷たく乾燥した希薄な空気が、みるみる濃く、かつ湿り気をおび始め、気温がどんどん上昇する。いよいよ渓谷部分の半ばにさしかかると、そこはもう、絶壁に木々が張り付く森林地帯。濃厚な酸素と湿度、森の臭いが放つ生命エネルギーがあふれかえっている。車内はそのエネルギーに触発されたかのような興奮に包まれる。緑が美しい。急な崖からは、豊富な水が滝となって流れ落ちる。緑の平地へと進むのだ。もう冬物の軍用コートはいらない。

  やがてダムの街からは、人・習慣・文化の違いも現れる。国境交易で欧米の物資があふれるこの街から、ネパール人を見かけるようになる。中国人やチベット人とは明らかに違う骨格・肌の色。小さな子供が笑顔、「ハロー」と英語で声をかけてくる。彼らの荷物を運ぶ姿を見ながら、また違いを発見する。背負っていない。ヒモを額にかけ、首の力で荷物を支えているのだ。中国・チベットでは、日本同様、肩に縄をかけ背負っていた。
  また、これは後日気が付いたことだが、ネパール人の男は、野外でも立ち小便をしない。女性の様にしゃがんでするのだ。印象的な習慣の違いだ。言語はチベット語・中国語からネパール語へ。文化は仏教色が弱まり、ヒンドゥ教文化圏へと移行してくる。食堂だって中華料理はもうおしまいだ。

  中尼国境。ここには、わずか数十キロの間に極端な変化がある。人間が引いた線も大きな違いを作り上げてる。しかし、これらの違いをこんなにも劇的なものにしているのは、やはりヒマラヤの高い峰々だろう。

                〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜  ・  〜

  人民解放軍が駐留し、国境の橋のたもとにまで番兵が立つ徹底した管理。常に公安(警察)の監視が厳しかった中華人民共和国が、この橋をもって終る。その先は、のんびりとしたネパール王国。監視する兵もいない。緩衝地帯もなにもない。暑さから汗で肌に張り付くTシャツを気にしつつ、橋のすぐ側の小屋に入ると、入国管理官が、ゆっくりとした笑顔を向けてくれる。
 
 

写真をクリックすると、大きな画像で見ることが出来ます。
 Click on pictures to get the full size.
 


 高原最後の峠(5,100m) ヒマラヤの美しさに声も出ない
 道はここから急な下りとなる
 


中国・ネパールの国境線(1,740m)
親衛隊長(左)と特攻隊長(右)は、ラサの街で知り合い、共にカイラス山を周った仲間だ
 


ネパールでの荷物の運び方
額にヒモをかけている
 
 

INDEXページに戻る






  All rights reserved by Yasuto Oishi.  禁無断転載