(35)2000/06/25



『MOVIES』
 HOLGER CZUKAY
 英 SPOON◎CD 35 1979
 独アヴァンギャルド・ロックの大御所=CAN。
 そのメンバーだったホルガー・シューカイの名作ソロ。
 79年の発表ながら、そのコラージュ感覚はいまだに衝撃的。



■ビートルズ「I AM THE WALRUS」の影響力。

 最初に。わて自身は、CANについて彼らのすべてのアルバムを聴き潰すほどのファンでもなかったし、文字通り“たしなむ”程度だったため、CANの作品についてエラソには言えない。ここではCAN自体の話はしませんです。ベーシストだったホルガー・シューカイのソロのお話。

 確かCANのベスト盤が日本で出たとき(LP2枚組『CANNIBALISM』)、解説書の中に、CANの連中がバンドの音楽性に影響を受けた存在としてジミ・ヘンドリックス、フランク・ザッパ、そしてビートルズの「I AM THE WALRUS」を挙げていた話が載っていた。

 これらのミュージシャンの中でわてが気になっていたのは「I AM THE WALRUS」の影響力である。ジミやザッパについてはCANを聴くとその影響の度合いを感じる部分は大きかった。しかし「I AM THE WALRUS」(左写真「HELLO GOODBYE b/w I AM THE WALRUS 東芝OR-1838)について、さの影響力の程はよーわからんやった。

 ところが、このホルガー・シューカイのソロアルバムを聴いたときに、「I AM THE WALRUS」の影響がどのように作用しているか、よーわかったのである。「I AM THE WALRUS」の中盤に入るブレイクで、ラジオ放送の一部分がコラージュされているのであるが、ホルガーはこの部分に独特な美意識を感じたようだ。

 確かに、「I AM THE WALRUS」全体を覆うサイケで気だるいムードは、当時のロック界でも異質で、アルバム『REVOLVER』収録の「TOMMOROW NEVER KNOWS」以来鮮明になったジョン・レノンのアヴァンギャルド趣味のポップス的集大成とも言えそうな音である。

 ビートルズについては、わて自身はもろ現代音楽のマネっ子である「REVOLUTION NO.9」とかよりも、この「I AM THE WALRUS」のラジオ放送をコラージュした部分の方が大好きだ。元々は別の意味合いを持っていた素材を、違うコンテクストに置いて新たな美的価値を“発掘”するというかなぁ。

 もろ現代音楽のまま投げ出すんじゃなくて、ビートルズ自身の持ち分=ポップスという文脈の中でこなしているところがいいわけっす。現代音楽聴くなら、ジョン・ケージとかエドガー・ヴァレーズのオリジナルを聴いた方がやっぱりいいから。

 ちょっと話は飛ぶけど、ジェイムズ・ブラウンの名演の数々をツギハギのフランケンシュタイン風にサンプリングするのも、わては嫌いなのだ、それは安易だから。同じ文化の文脈の中で単に配列を変えただけだから、と思っておる。

 短波放送から流れるアナウンサーの声や異文化の音楽をモンタージュし、全く違う音楽的美に編集し直すのは、並大抵の感覚ではできない。それを最高なカタチで成し遂げたのがホルガー・シューカイとこのアルバム、と言えるかにゃ〜。

 


■「COOL IN THE POOL」「PERSIAN LOVE」はコラージュの見本。

 あえてサンプリングって言葉は使わず、コラージュって書いた。“音・モンタージュ”てのもいいかもしれない。

 どっちにしろ、このアルバムの全4曲の内、「COOL IN THE POOL」と「PERSIAN LOVE」は永遠の名作である。わてはこのアルバムのLP発売当時からこの2曲しか聴いていない。文字通り素晴らしい作品。

 ペルシャ音楽、オペラの歌声、オーケストラの管楽器、アナウンサーの声・・・ドイツで受信される短波ラジオの放送を録音し、その部分部分をホルガーと元CANの盟友らの演奏する曲の上にコラージュしている。その有機的な結合の度合いは、実際に聴いていただかないと言葉では無力でありまするが^^;。

 「COOL IN THE POOL」はミディアム・テンポのナンバー。ギターが刻むリズムにフレンチ・ホルン(?)みたいなブラスの短波放送素材がからむ前半の、のほほんとした気持ちよさ。中盤から終盤は、ブラスの音にペルシャ音楽のボーカルとオペラの素材がちりばめられて緊張感が高まるが、それが何とも快感。ポップでありながらアヴァンギャルドな独特の世界が構築されている傑作

 「PERSIAN LOVE」は本国でのシングル盤発売当時から話題になった、これまた傑作。クリアな音色のギターのオブリガードに、短波放送から採ったペルシャ音楽のボーカル素材が合間合間に挿入される曲である。異文化の音が、毛ほどの隙間も感じさせないまでに、元々そこにあったかのように完璧に“象嵌”されている

 日本でいうと、ちょっと以前になるが、フードゥー・フシミがアルバム『たまらん!!!』(1989)で発表した作品「もちつき」に同じものを感じた。日本の民謡とマイルス・デイビスという異質の要素がファンクビートの上に結合させられて、それぞれが新しい光を与えられていた。


■サンプリング時代の“オリジナリティ”とは?。

 映画『ブルース・ブラザーズ2000』で主役のダン・エイクロイドが、やる気をなくしたバンドのメンバーを説得するシーンがある。ルイ・ジョーダン(日本語字幕では省かれていたが)やマジック・サムなどなど、20世紀の黒人音楽を彩り世界の音楽シーンに影響を与えた偉人たちの名前を挙げながら、その伝統を絶やしてはならないと熱く語るのだ。

 それら偉人たちと対極に批判されるのが、サンプリングを駆使し偉人たちの音源を食い物にした現在のアメリカ大衆音楽シーンである。なぜエイクロイドが現在の音楽シーンを非難するのか。

 それは最初に書いたが、「同じ文化の文脈の中で単に配列を変えただけ」の安易さがエイクロイドを怒らせているのだと思う。JBのバックトラックをツギハギしてヴォーカル(ラップ)を乗せるのと、JBの「ソウル・パワー」を聴いたフェラ・クティがアフロ・ジャズを生み出したりしたこととは天と地ほどの開きがあるからだ。

 ここでこういう話を持ち出したのは、短波放送の音源を使ったホルガー・シューカイの手法がオリジナリティの面でどう評価すべきかを考えるため。

 評価の分かつのは素材をはめこむバックトラック、つまりリズムであると考える。音楽の基本はまずリズムであり、そこに民族性が立ち現れてくる。JBのバックトラックをまんま使えば、どうツギハギしようとそれはJBのファンク以外の何物でもないし、それ以上の発展はない。

つまり、自分の口で語れ、ならぬ“自分のリズムで語れ”、と言うか。

 ホルガー・シューカイの作品は演奏そのものは自作自演であり、短波放送の音源を効果的に活かすためのアレンジメントが施されている。たしかにツギハギではあるが、自らのリズムの上にそれぞれ別個に存在する音源を組み合わせる、別個の音に光りを当て直して再構築するオリジナリティは凄いものがある

 ま、既成の事物を別の文脈に置いて新しい価値を見いだす話となると、ダダやらマルセル・デュシャンなんかを引っ張った方が早いのかも知れないけど、わてにそれだけの余力はないので、このあたりでご勘弁のほどを。

 フツーの音に安らぎを得られない方は、このアルバム、お勧めです。


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