Dedicate to Chiaki san & Michael Des Barres


悲運に泣いた「シルバーヘッド」

『恐るべきシルバーヘッド』

東芝 EOP-80775(1973)



グラム終末期に登場したが故の悲運。
ロックンロールバンドとしての真価を知られぬまま解散。

 シルバーヘッドは悲運のグループである。

 本国イギリスでのデビューは72年。ディープパープルのレーベルPurpleからの発売で、日本では東芝音楽工業(株)から73年に1stがリリースされた。
 東芝の行った広告展開は、「残念ながら、レコード番号と発売日についてはお教えできません」というコピーがさりげなく打ち出された“ティーザー・キャンペーン”(客じらし作戦)の見本と言えるもの。筆者はこのコピーを見たとたんに、町の小さなレコード屋に予約に走ったのだった・・・。<「乗せられやすい性格」

 その広告展開と共に、ボーカル兼リーダーのマイケル・デ・バーレスの不思議なポーズの写真が注目された(上記ジャケ写参照)。他のメンバーのギンギラな衣装や濃いメークと相まって話題を集め、日本国内に少数のファンを作り上げることに成功したのである。
 また、ビジュアル系バンドとしても先駆的な存在であったと言ってもいいだろう。

 だが・・・そのギンギラさが災いしたのである。彼らのデビューは、あたかも71〜72年と全盛を誇ったグラムロックが急速に凋落し“ロンドン・ポップ”と言い換えられようとしていた、ポストグラム期のまさにその最中。ちょっとでもグラムの雰囲気が見えれば「ゴミ!」と言われた頃である。魔女狩りのごとく、グラムの主役達が表舞台からつぎつぎと追い立てられる時代となっていた。

 シルバーヘッドはそんな空気の中、「遅れてきたグラムバンド」「イモ」と誹謗中傷を浴びながらも精力的な活動を続けたが、短命な生涯を運命づけられてしまった。

 がしかし、私もその一人だった少数のファンは別であった。レコードから飛び出したストレートなロックンロールを心から楽しんだ。グラムの季節を通り過ぎて、「ヘビィメタル」という次なるステップがそこに垣間見えていた。シルバーヘッドはそういう意味では、装飾化・形骸化したグラム亜流サウンドを乗り越え、ロックンロールのダイナミズムに回帰しようとした過渡期的なグループであったと言えるかも知れない。

 とはいえ、音楽論壇ではシルバーヘッドは歯牙にもかけられぬ存在と言えた。ここでシルバーヘッド解散後に発表されたライブ盤『Live At The Rainbow London』の日本盤(東芝 EMS-80351/1975)のライナーノーツから引用してみよう。

「シルバーヘッドは、やっぱりホンモノのブリティッシュ・ハード・ロッカーだった。この突然の3枚目の実況録音アルバムを聴いて、ぼくはその真実に気がついた。ぼくは、なんてバカだったんだ。ぼくも、彼らを見殺しにしたわからず屋のひとりだったなんて!!」(大貫憲章)

「彼らはイギリスでも二流バンドと見られていたという。イギリス人の耳もたいしたことはない。彼らの魅力を理解していたのは、一部のティーン・エイジャーの女の子たちだけなのだろう。それにしても、彼らの音楽の素晴らしさに注目した人間が少なかったのは実に残念と言うほか言葉がない」(同)

 まさにその通りである。“イギリス人の耳がたいしたことはない”証拠は、「小便壷」と本国の音楽メディアにクソミソに罵られたあのQueenが、日本のファンに支えられたことを大きなステップに世界的な存在にまで成長した、という一例だけでも充分すぎるであろう。(私も1stシングル「Keep Yourself Alive」を買った当初のファン。「小便壷」云々には当時から腹が立っていたが、歴史はそんな日本のファンたちの怒りが正しかったことを証明した)

 Queenと違い、ただシルバーヘッドには運がなかった。いや、なさ過ぎた。あと1年でもデビューが遅かったら、私もこんなページを作ることはなかったかも知れない。

 タイミングというのは実に怖いものである・・・・(了)


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