先週か先々週か、日曜の朝にテレビでA藤U子キャスターのニュース番組を見ていたら、某代表的都道府県の首長のネタが出てきた。そう、最近話題のあの人のことである。
その首長に対する評価を街頭インタビューで拾っていたのだが、どちらかというとその“思いっきりのいい発言”に対する好意的な評価・・・つまり賛成派の声を多く、否定派を少なく画面に露出させて、一応“社会の公器”としてのバランス感覚を漂わせた構成となっていた。
A藤U子キャスターも“やんちゃな首長が、突飛なことを言って、もぉ〜、カワイイ(ムフッ)”なんてノリで解説していたのだが・・・
その番組を見ていて思いだして本棚から取り出したのが、この書である。
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この本は、1933年1月30日のヒトラー政権掌握からドイツ敗戦後まで、真綿を絞めるが如く窒息させられるドイツのジャーナリズムとジャーナリスト達の姿を、総論および個人評伝で追跡した概説書。
ナチズムを盲信する筋金入りから、行間のささやかな抵抗を試みる者、日和見主義者、良心の葛藤から亡命する者・・・新聞、雑誌の編集に携わる様々な人間達の苦悩の姿を描いたものだ。
通読すると、ドイツのジャーナリズム(ジャーナリストたち)が犯した過ちとはこれだ、というのがわかる。
ナチスの言説があまりに荒唐無稽であり、反知性、反理性であったが故に、「そんな絵空事は大衆から見捨てられるであろう」という蔑視、驕りがあったということ。それは大衆そのものを逆に見下していたエリート意識のなせる技、と言っていいのかもしれない。
不況下での失業などによって生活不安におののくドイツの低・中間層は、閉塞的な現実から逃れるために、ナチスの“思いっきりのいい発言”に飛びついた。発言が無茶で乱暴であればあるほど、傷ついた心を惹き付けるものである。要するに「スカッ」としたいのだ。
よもや“知性、理性を具えた賢い大衆”がナチスの言説など信じないだろうと、甘く見ていたジャーナリストたちはその報いを受けたわけで、その顛末はとても60年以上も昔の話とは思えないほど「現代的」と言える。
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さて余談ではあるが。首長の問題発言のすぐ後に、某電力会社OL殺人事件の無罪判決が下ったのだが、これが単なる偶然だろうか?と私は懐疑的である。
一見関係のなさそうな事象の連続が生む“場の空気”、それが醸しだす心情を大きな流れにしようという意図がそこはかとなく感じられるのである。
介護保険制度が4月から施行されたご時世。21世紀に入って年を重ねるごとに日本人の労働人口が減少し、外国人労働者に多くをゆだねなければならない事態が来るのは公的機関の統計予測でも明らかとなっている。
その事態に具えての世論形成にマスコミも一役買っているのではないか、というのが私の実感なのだ。うがち過ぎか?(自爆)
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冒頭に述べたテレビ番組では、街頭インタビューで「首長を動物に例えたら?」という設問が用意されていた(もぉ〜、カワイイ(ムフッ))。
「ライオン」「トラ」「クマ」などの好意的な意見が連続した。つまり“威勢良く吠える”“どっしりとした存在感”などをイメージした結果である。課税問題で大衆にアピールしたところが高得点を招いたのだろう。
私はこの答えが出るだろうと待っていたのだが、出なかった・・・「タカ」(爆)。
「1930〜1940年代のドイツの問題は、決して他人事ではにゃい」と思った日曜の朝であった。