憲法記念日に思う
平成11年5月3日、今日は憲法記念日である。催しの案内が載っているかと朝日新聞を見てみたが、全く掲載されていない。それどころか、「憲法をめぐる新しい状況にふさわしい国民的議論は起こっていない。」という他人事のような記述さえあった。弱小新聞ならばいざ知らず、朝日新聞は日本の最大手であり、国民に対して最も影響力の大きな世論形成媒体であるといっても過言ではない。本来ならば、朝日新聞が率先して、憲法論議を国民に巻き起こすべく報道活動を展開する責務を担っているとも言える。その朝日新聞がこのように記述するということは、自らの役割を放棄しているのだろうか。あるいは、自らに課せられた重要な役割に対して、無自覚のまま漫然と報道記事を書いてるのだろうか。メディアとしての自覚を深く促したい。
ガイドライン法案の衆院通過に見る悲惨な憲法的状況
朝日新聞に指摘されるまでもなく、最近の我が国の憲法的状況は悲惨である。
第一に、ガイドライン法案はさしたる憲法的議論もないままに、党利党略の材料として用いられ、小渕首相の訪米直前に「米国に対するおみやげ」として衆院を通過してしまった。参院を通過するのも時間の問題だという。この現象は、やや誇張していえば、日本の主権国家としての体裁が崩壊したことを意味している。
理由はいくつかある。
まず、手続面に着目すると、ガイドライン法案は、どう控えめに見ても、憲法9条との関係でグレイゾーンにある法律である(これについては後述)。このような法律を憲法9条との関係を全くと言っていいほど論じることなく可決する議会…これは、まさに憲法秩序を無視する議会であり、およそ国家というものが憲法を基盤に成立している以上、主権国家としての秩序を無視した行為としかいいようがない。
実体面に着目すると、ガイドライン法案は上述したとおり、憲法9条との関係で極めて微妙な法律である。ここで、憲法9条をもう一度おさらいしよう。
(憲法9条)
一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
仮に、憲法9条について、集団的自衛権を認めた上で、自衛戦争については許容される趣旨であると解釈したとしても(これは、旧来の政府見解にほぼ相当する)、
@、Aをまとめると、日本はガイドライン法案に基づいて、「自衛の枠を越えて」(つまり、「国際紛争を解決」するために)、「後方支援」(つまり、国際法上の戦闘行為)を行うのだから、常識的に考えれば憲法9条違反、同条をよほど拡張解釈したとしても、憲法9条との関係で相当の緊張を孕み、国民的な議論なくしては通過し得ない法案だったはずである。このような法案を通過させた国会の行為は、憲法を全く無視しているか、あるいは、憲法について本来の趣旨を逸脱した解釈を行った上で無理やりにガイドライン法案を合憲とするものであり(なお、国会は違憲の法律を成立させることはできない(国会の憲法遵守義務=憲法99条))、後述する憲法改正の手続を経ることなく、国会の権限で憲法を実質的に改正するものであり、いずれにしても違憲の疑いを免れない。
我が国の憲法は、ガイドライン法案が衆院で可決された日に、致命的な傷を受けたのである。そして、このようなことをきちんと報じないメディアの責任は極めて大きい。
憲法改正を視野に入れた国民的議論を
それでは、どのようなプロセスを経るべきであったのか。日米安保の維持のため、あるいは、新たなアジアの秩序形成のためにガイドライン法案のような法律が必要だというのならば、憲法改正をも視野に入れて国民的な議論をすべきである。日本の主権国家としての体制は憲法に凝縮されているのであり、防衛という主権に関わる問題を論じるときに、現憲法の文言と相容れないのであれば、憲法文言の変更を主権者たる国民に伺うことが立憲国家の立憲国家たるゆえんである。
外交上の制約等でそれが待てないのであれば(議論を尽くした上で、憲法9条を改正しようとすればどんなに早くても5年はかかるであろう)、せめて、暫定的な措置として衆院の解散を行い、民意を問うべきではなかったのか(この場合でも、超憲法的措置となり違憲であることは疑いがないが、主権者の同意を得ているという点で違法性が暫定的に阻却されると考えられる。ただし、あくまでも暫定的なものなので、後に憲法改正を試み、改正が容認されなかった場合は、当該法律を違憲無効とすべきである)。
現在の国会は、小手先ばかりの議論に終始し、上記のいずれについても話題にも上らなかった。極めて遺憾に思う。
(なお、付言すれば、冷戦構造が崩壊した現在において、旧来の安保条約がそもそも必要かという議論も日本の防衛のあり方を検討する上で必須である。個人的には現在の安保は不要であり、何らかの修正が必要であると考えている(もしそうだとすれば、そもそもガイドライン法案を立法する必要性自体が存在しないことになる)。しかし、これについては、筆者の専門を外れるのでここでは詳しく論じない。)
憲法議論を拒否する政党は正しいのか?
第二に、いまだに憲法改正どころか、憲法の議論すら拒否する政党が存在することである。憲法改正というものは、国家的状況の変容に応じ、現状に合わせるために柔軟に行うという発想が世界標準であるのに、これらの政党は憲法改正をイデオロギーと結びつけてしまうようである。
例えば、憲法改正は再軍備につながるというのがこれらの政党の典型的な言い分らしいが、詭弁である。ここで、憲法改正の手続をみてみよう。
(憲法96条)
一 この憲法の改正は、各議員の総議員の3分の2以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
二 (略)
以上のように、憲法改正には国民投票が必須なのである。国民が再軍備に反対ならば憲法改正が成立するはずはない。また、国民が再軍備に賛成するのならば、主権に従いつつ、国民の意思を代弁する政党の本質として、それを容認した上で、次の政策を立案すべき責任があることは明らかである。憲法論議に反対する政党は、憲法改正という最も重要かつ本質的な国民の主権の行使機会を徒に喪失せしめるという意味で、悪弊以外の何物でもない。また、憲法論議を拒否する政党の存在が、憲法をなし崩しにして違憲な法案を数の論理で通そうとする政党の温床となっていることも否めない。
護憲と改憲は両立する?
「護憲」「改憲」という分類分けは有害無益である。現行憲法の文言を変更しないこと、すなわち「護憲」では決してない。本質的なことは、憲法を理解し、議論し、その上で、日本国憲法に込められた至高の理念を守っていくという決意をすることである。そのプロセスで憲法の文言を変更する必要があるのならば「改憲」すべきである(私見では、今はそうすべき必要性に満ちている)。その結果、現憲法の理念を今までより時代に即した形で守り、維持することができるのならばそれこそが立派な「護憲」である。つまり、「護憲」という言葉を「憲法の理念を守ること」と解釈すれば、憲法的状況が制定時から変容した現代において、「憲法の文言を追加、削除、改変すること」(つまり、「改憲」)は必須であり、「改憲」と「護憲」との関係は、前者が手段、後者が目的であるという点で、矛盾するものではない。
果たして、これらの政党はここまで理解した上で「護憲」を主張しているのだろうか。
私にはそう思えない。
憲法をめぐる時代のトレンド
憲法論議をすべき時代である。憲法論議を通じて、国民の真の意思を国政に反映させるべき時代である。そうでないと、日本の立憲国家としての秩序は遅かれ早かれ崩壊する。メディアや政党はその点にこそ訴えを向けるべきである。「国民的議論は起こっていない」などという、第三者的な立場に立ってはならない。彼らが憲法論議を起こす媒体なのである。
最後に付言すると、その過程でメディアには公正であって欲しい。特定の意見に世論を集約させるためにメディアが機能してはならない。憲法論議には、正確な情報と黒白交えたすべての意見が必要なのである。それが、日本の憲法的状況を打破することに他ならない。それは、ひいては、21世紀に向けて、日本が真の立憲国家として成長する過程そのものである。
平成11年・憲法記念日、日本の憲法的状況に憂慮しつつ、
弁護士・鮫
島 正 洋