ホメロスの叙事詩に描かれた「トロイの木馬伝説」をご存知でしょう。 イスタンブールの南西、トロイには高さ約13メートルの木馬があるのですが、これとほぼ同じ大きさの木馬が日本海を一望する丘の上にもあります。 新潟県柏崎市、トルコ文化を紹介する世界で初めてのテーマパークとされる「柏崎トルコ文化村」です。2004年春、この地で日本で初めてのイベントが行わ れました。
トルコ国技ヤール・ギュレシ(オイルレスリング)
 トルコからはるばる日本にやってきたのは、4人の屈強なレスラーとナレーター、審判、鼓笛隊、そしてヤール・ギュレシ 振興会長の総勢9名。 つまり、トルコ国技であるヤール・ギュレシをひとユニット丸ごと輸入して公演を行おうというのです。 レスラーの内訳は、99年と2000年にヨーロッパ連続制覇のYasar Kale(ヤシャール・カレ)、2000年の世界大会で準優勝のムラットと3位のムケレム、そして極めつけは昨年度世界王者のKenan Simsek(ケナン・シムシェク)。 妥協の無いメンバー構成です。
 4月29日の朝11時、公演初日です。 ナレーターによるヤール・ギュレシの歴史解説(通訳はドンドルマ売りのお兄さん)、トルコ本国での大会スケジュール発表に続き、鼓笛隊が演奏する行進曲に 乗って全身オイルまみれのレスラーたちが登場。 場内は割れんばかりの大拍手、とはなかなかいかないもので、ゴールデンウィーク初日の初公演にお客さんの入りは芳しくありません。
 実は、実際に試合を見るまで、このイベントにはさほど期待をしていませんでした。 ヤール・ギュレシというトルコの国技を日本に紹介するのが目的ですから、その歴史背景や競技の解説がメインで、レスラーたちは適度に力を抜いて戦うだろう と思ったのです。 ところが、いざ試合が始まると会場はその迫力に圧倒されます。レスラーたちはいきなり全力で組み合い、100キロを超える巨体を持ち上げて頭の高さから逆 さ落とし。初日からこんなに飛ばしていては1週間の公演期間もたないのでは、と心配になります。
 これには理由がありました。 彼らにとって今回の来日は、間近に迫ったヨーロッパ大会と6月の世界大会へ向けた強化合宿という意味も兼ねていたのです。 朝晩の食事と昼食がわりのフレッシュジュースやバナナを文化村内のトルコ料理レストランで摂りながら、営業が終わった夜の施設周辺を走りこむ。 1日2回の公演でそれぞれ2試合を7日間、ほとんどの試合で勝っていたチャンピオンのケナンは、およそ25試合を本番さながらに戦ってコンディションを調 整、2年連続の金ベルトを狙います。
危険なスポーツ
 ヤール・ギュレシという競技、実はけっこう危険なスポーツです。 オイルまみれの対戦相手を捕まえるために満身の力で組み合うのですが、オイルで滑った肩やヒジが勢い余ってヒットすると大きなダメージを与えます。 写真をよく見るとわかりますが、レスラーたちの耳はかなり肉厚の餃子状態で、穴もほとんど塞がっています。 手をすべらせて指が目に入ることもあるし、皮ズボンに腕を深く入れた状態で相手の動きを見誤ると、手首や肩の関節を脱臼します。 また試合が長引けば、オイルが目に入って視界を奪われます。 オイルが目に入ると紙でふき取る時間を与えられますが、対戦相手のスタミナ回復を嫌うレスラーは目を閉じたまま戦い続けることもめずらしくありません。
 勝敗を決める方法は3つ。1.相手の体を頭上へ持ち上げる。2.相手の背中を地面に押し付ける。3.対戦相手が参りま したと敗北を宣言する。 相手が戦意を喪失するまで戦い続け、なおかつ100キロの巨体を頭上に持ち上げるスタミナを持つレスラー(99年度王者のアフメット・タシジのような)は そう多くありません。たいていは  2.のケースで勝敗が決まります。
目のやり場に困る
 トルコ文化村のセンタードームを訪れた観客は、生まれて初めて見る異国の競技に圧倒されたことでしょう。 口をぽかんと開けて眺める人、ニヤニヤ笑いながら内緒話をするカップル、なんとなく目のやり場に困って視線をはずしている女性など、反応はいろいろです。 その理由は明らかで、レスラーが対戦相手の黒い皮ズボン(クスベット)の股間に腕を差し込んでかき混ぜる行為の意味を計りかね、困惑しているのです。
 レスラーになぜそんなことをするのかと問えば、「オイルが滑って他につかむ場所が無いから」と答えるのですが、あらぬ誤解を招きそうなので具体的に説明 することにします。
 オイルをあびて組み合うこの競技では、相手の体をつかむときに摩擦に頼ることができません。 体温で温められたオイルの摩擦係数は限りなくゼロに近く、胴や手足を外側からつかむのはまず不可能。そこで、クスベットの内側です。つかむ場所は主に次の 2箇所あります。
1.腰を曲げた状態で太腿の付け根にできるクスベットのシワ
2.ヒザを曲げた状態でヒザの裏側にできるクスベットのシワ
 レスラーたちは対戦相手の動きを読み、すかさずクスベットの内側にできるシワをつかんで持ち上げ、投げ飛ばしていたのです。 クスベットの内側は肌を痛めないよう滑らかに仕上げてあり、シワができていなければつかむことはできません。 もっとも、シワがなくても深く差し込んだ腕にゲンコツを作り、これをストッパーにして力まかせに持ち上げるという技もあります。 クスベットの内側は、いわば柔道着の襟にあたるものなのです。
レスリング女子日本代表チーム
  公演2日目、アテネ五輪で全4階級制覇を目指すレスリング女子日本代表チームがトルコ文化村を訪れ、ヤール・ギュレシを見学しました。 五輪が開催される8月のアテネは日中40度近い猛暑となりますが、空調に不安があるレスリング会場で試合に臨む選手たちは、全身汗まみれで戦わなければな りません。 汗ですべって技がかけにくくなることへの対策として、体にオイルをあびて戦うトルコ式レスリングを参考にしようというアイデアです。 650年にわたって磨かれたヤール・ギュレシの奥義を手にした彼女たちは、アテネでメダルを獲得することができるでしょうか。
 今回の日本公演では、空調の効いたドーム内の特設会場で競技が行われました。 本来ヤール・ギュレシは夏に屋外の芝生の上で行われる競技です。 体中から滴り落ちるほど浴びているオイルは、真夏の炎天下で肌を保護する、いわばサンオイルとしての意味もあります。 純度が高いことで有名なトルコ産のオリーブオイルが使われますが、これはデパートで買えば250ccの小瓶が500円はする、エクストラバージンと呼ばれ る高級品です。
 トルコ・エディルネで開催されるヤール・ギュレシの世界大会では、1日およそ100リットルのオイルが消費されます。 スタジアムの地面に青々と繁る芝生は、レスラーたちの汗とオリーブオイルを養分にして、真冬でも青いままだということです。


日本公演の写真
2004年5月   kirkpinar.jp