第638回、99年度のオイルレスリングコンテストは7月9日から11日までの3日間、気温40度・湿度95パーセントの炎天下にて開催されました。
  現在、競技は以前のような草原の上ではなく、立派なスタジアム(ただしフィールドは草原)で行われるので、観客が灼熱の太陽にさらされることはありません。
  かわいそうなのは選手や審判たちと報道カメラマンで、流した汗で体重が5パーセントほど減るのではないかと思われます。
  屈強なトルコ人レスラーもやはり暑いのはいやとみえて、取っ組み合いながら日陰へ、日陰へと入ろうとします。
  審判がたびたび「中央へ戻るように」と注意を与えるのですが、
  しばらくひなたで闘っていると、やっぱりなんとなく日陰へ行ってしまうのが愉快でした。
  「ブーイング」というのがありますが、トルコ人は気に入らないと、本当に「ブーー」と叫びます。
  審判が注意をするたびに「ブーー」なのですが、「暑いんだから日陰で闘わせてやれ」だと思ったら、「せっかく近くで見られるのに邪魔するな」なんだそうです。
  あたり前のことながら、トルコのスタジアムにジュースの自販機はありません。 プレス席には給水機(タンクの下部に蛇口がついただけのもの)があるのですが、バケツで水を補給しても補給しても追いつきません。
  トルコ人の警備員に「水を取ってくれ」と言われて蛇口をひねったら空だったので、「自分の飲みかけでもいいか?」と持っていたコップを差し出したら、それをとても嬉しそうに飲むのでした。
  トルコの競技委員会では、「暑くてかなわんから、来年の大会は7月ではなくて6月にするぞ」と明言していました。
  現在では、「6月最後の日曜日を最終日とする3日間」というルールで開催日が決められます。
  そもそもトルコのオイルレスリングは、650年前のオスマントルコ帝国の進攻において、戦中のトルコ兵士の余興として始まったようです。 
 エディルネは鬱蒼とした森林に通る川のほとりに位置し、エディルネの郊外約2キロ、その川が二つに分かれるところに、競技が開催されるKirkpinar(クルクプナル)があります。 いくつもの泉が湧き出る美しい土地で、進攻に疲れた兵士たちの休息の場となったことは想像に難くありません。 実際にKirkpinarとは、kirk(40の)pinar(泉)という意味です。 

 ちなみに、トルコで40という数字は、九十九里浜の九十九のようなもので、「とにかくたくさんの」というニュアンスがあります。 トルコのことわざに「1杯のコーヒーが40年の(kirk yil)思い出になる」というのがありますが、ここでの40年は「生涯」と訳されます。

  話が横道にそれましたが、この地で兵士たちは暇つぶしに取っ組み合いを始めました。 日の出とともに始め、日が暮れるまでやっていたそうです。 夜通し戦っても勝負がつかず、ついには力尽きて死んでしまった兵士がいるといわれ、彼らの埋葬地から湧き出た泉がKirkpinarの地名の由来であるという伝説があります。 
  のちに、大会として、総当たりで初代チャンピオンが出現したときから、毎年のレスリングコンテストは開かれています。
  1999年度の大会は第638回です。 19世紀の終わり頃、バルカン戦争ですでに敵軍がこの地に迫っていたため大会を開催できない期間があったわけで、だから650よりいくらか少ない数字になっています。 
 

Kirkpinar の伝説

  西暦1350年頃、軍事行動の指揮に就いていたオスマン帝国の第一王子スレイマン(Suleyman)は、40人の(トルコ式に訳せば「無数の」)兵士たちを従えてエディルネ周辺でキャンプを設営していました。
  当時、戦局は平穏で小康状態を保っており、退屈したスレイマンの兵士たちは暇つぶしに草原の上で取っ組み合いを始めたのです。
  敗れた者から抜けてゆき、夕刻には勝ち残ったふたりだけが闘い続けていました。
  兵士たちは車座になり、決勝戦を楽しんでいましたが、夜がふけるにつれ、ひとり、ふたりと去ってゆき、最後にはいまだ勝敗つかぬふたりの兵士をその場に残し、眠りにつきました。

  次の朝、前夜の勝負の結果を確かめようと、数人の兵士たちが日の出とともに起き出してきました。 彼らはそこで信じられないものを目にします。 夜遅くまで闘い続けていたふたりの兵士が、ガッチリと組み合い、立ったままの姿勢で力尽き、息絶えていたのです。 
  仲間の死を悲しんだ兵士たちは、ふたりの勇敢な戦士を無花果の木の根元に埋葬し、祈りをささげました。
  次の年、草原に眠るふたりの墓のあたりに、いくつもの美しい泉が湧いたといいます。その場所が、のちに「40の泉―Kirkpinar」と呼ばれることになるのです。
  この伝説は、ついに帝位に就くことがなかった王子スレイマンの歴史とともに語られています。 西暦1358年、スレイマンは落馬して首の骨を折って死に、翌年、第二王子のムラット(Murat)が皇帝となりました。
油しぶきをあげて闘う

  レスリングのコスチュームは上半身裸に、ものすごく厚手の皮製ズボンひとつ。 このズボンは水牛の皮を  58 メートルもの糸で手縫いして作り、重さは上級者用で 13Kg にもなります。 
  その上から、全身に滴るほどオリーブオイルを浴びます。 
  塗るのではなくて、浴びるのです。
 

  なぜオリーブオイルを用いるのか、詳しいことは現地の人に聞いてもよくわかりません。 はっきりしているのは、オイルがすべるから余計に腕力が必要になり、究極を追求できるということ。 そして体格やテクニックの差をある程度吸収して、精神的なスポーツとして昇華させる意図があるということです。
  古代ローマ帝国は蚊によるマラリアの蔓延で滅びたそうですが、オリーブオイルは蚊よけとして蚊帳や煙よりずっと有効だったそうです。 日常的に体に塗っていたものだから、レスリングの最中も例外ではなかったのでしょう。 
  今日ではレスリング競技のひとつの形態として、オイルを用いるルールが定着しています。
勇者の舞い

  競技が始まる前には、レスラーが抽選で決定した対戦相手とともにフィールドでダンスのようなものを披露します。 二人が背中合わせの姿勢から、大きく手を振り上げながらそれぞれ逆方向へ大またで歩き出し、しゃがみ、草に触れたかと思うとおもむろにきびすを返し、また近づいて行きます。 
  すれ違う瞬間にお互いの体に軽くタッチし、また離れます。すれ違う度にタッチする場所は肩、腹、尻、踵と変化し、実に挑戦的なポーズを取ります。  
  何度かこれを繰り返し、最後にはすれ違わずにガツンと組み合って、試合開始となります。 
  手足を大きく振り上げて闊歩する様はまさに勇敢な兵士のそれで、当時、道でばったり出会う度に取っ組み合いをしていた様子を彷彿とさせます。

  勝利へのルールはいたって単純で、相手を宙高く持ち上げるか、相手の背中を地面に押し付けるか。 
  一本勝ちできない大試合ともなれば炎天下で40分間の取っ組み合い。両者のポイントに差がなければ、さらに追加の15分。それでもだめならまた5分。
  草原に這いつくばるか、泣いて許しを請うまで、試合は延々と続くのです。
  勝者に与えられる黄金のベルトは1450グラムの14金で25,000ドル。賞金は各方面から100,000ドル。 でも実際はもっと多いのでは?、と現地の人は言っていました。
1999年8月  kirkpinar.jp