エディルネは快晴。巣立ったばかりのツバメがフィールドの牧草の上をしなやかに舞う初夏の風のなかで、 2005年トルコ伝統オイルレスリング大会は開会されました。 | ![]() |
レスリング大会として世界最古、競技大会としてもオリンピックに次いで長い歴史を持つこの大会は、今回の開催が第644回。
これまで12段階だったレスラーの階級が最年少部門で1階級増えて13階級に、また勝敗とは関係がないベストペシュレフ賞、テクニカルレスラー賞、ジェントルレスラー賞の3つを合わせ、全16カテゴリー、総計57個のメダルが用意されました。 大会参加レスラー史上最多の1,797名が、この一年に積んだ研鑽の総決算として力を競います。 |
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大胆なデノミ トルコでは2005年1月1日からトルコ・リラの呼称単位切下げ、いわゆるデノミが実施されました。 恒常的なインフレによって増え続けた紙幣のゼロの数は旅行者にとって悩みのタネでしたが、今回のデノミは、このゼロをいっきに6桁も減らすという大胆なものです。 新トルコ・リラ(YTL)は日本円でおよそ80円強。今後、賞金の額など記事中の金額はすべて新しい通貨単位を使います。 |
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カラは故障で参戦せず 2004年の大会に初出場で優勝したレジェップ・カラは、4月にブルガリアで行われた近代レスリングの試合で左ひざのじん帯を損傷し、手術とリハビリのため今大会への参加を断念しました。 開会式に先立って行われるパレードと開会式の国旗掲揚を通常通り務め、怪我を治して次回の大会には参加する意向です。 |
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アーは2年連続 ヒツジを落札して大会開催の名誉を一手に握る“アー”ですが、2年連続でKelkit出身の実業家 Adem Tuysuz氏が就くことになりました。 落札金額は前回の300,000YTLより少ない180,000YTL。 レスリング王者と同様に、アーも3年連続して務めれば名誉ある金ベルトを手にすることができます。Adem Tuysuz氏もこの名誉を狙ってくるものと思われますが、今度の大会ではいったいどれだけの大金を提示してくるのでしょうか。 |
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第644回トルコ伝統オイルレスリング大会 2004年の大会から採用された新競技ルールによって、ランキング順位によるシード制が敷かれました。 レスラーたちの勝敗をランキング順位に沿って見ながら、このシード制の意味を検証してみることにしましょう。 |
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ランキング順位によるカテゴリー 今年度、最上位バシペフリワンとして登録されたレスラーは46名。試合に先立ち、彼らは過去1年の戦績によるランキング順にカテゴリー分けされています。 ランキング1位から16位までの上位16名がカテゴリーA、17位から32位までの下位16名がカテゴリーB。33位以降の14名は圏外となります。 |
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回戦 一回戦では、圏外のレスラー14名に対し、メインカテゴリー内の32名からくじ引きで対戦相手が選ばれ、14試合が行われます。 つまり、圏外のレスラーは「自分より確実に強い相手」を破らなければ二回戦へ進めません。 一方、メインカテゴリー内の残りの18名はシードされ、一回戦を戦うことなく二回戦へ進みます。 一回戦で圏外から勝ち上がることができた選手はわずか1名でした。勝ったレスラーはメインカテゴリー内の破れたレスラーの名簿順位に差し替えられます。 二回戦 二回戦に出場できるレスラーは理論的に常に32名です。 ここでも対戦相手はくじ引きで決められますが、カテゴリーA同士、またはB同士で戦うことはありません。つまり、カテゴリーBのレスラーから見れば、自分より強い相手と戦わなければならないということです。 |
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2004年のシード制導入にあたり、レスリング協会の会長は「一番努 力した者が勝つルールを作った」と言っています。 地方の試合で勝ち星を重ね、ランキングを上げてカテゴリーAに入ることが入賞へのステップであることは確かですが、ランキングの決定や抽選方法については、より透明性の高いルールを整備する必要がありそうです。 |
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レスラーたちの超人的なスタミナ 真夏の炎天下で水分も摂らず、40分間を全力で闘う。あらためて述べるまでもなく、トルコの伝統レスリングは世界で最も過酷な競技のひとつです。 スタジアムの外にはいつも数台の救急車が待機して万一に備えますが、実際に救護されるレスラーはごくわずかです。 気温や湿度の厳しさはもちろんのこと、なにより全身を覆うオイルが汗の蒸発を妨げるはずですが、熱中症などで搬送されるレスラーが少ないことに驚かされます。 |
レスラーたちの身体を観察すればわかるように、彼らの体型は近代レスリングにみられるような、研ぎ澄まされた筋肉の塊ではありません。
適度な皮下脂肪に覆われていて、一見するとスキがあるようにも見えます。ところが、この皮下脂肪こそが彼らの超人的なスタミナの源なのです。
体内の水分や皮下脂肪まで使い切ってしまうせいでしょうか、大会終了後にはレスラーの体重が数キロも減少し、人相が違って見えるほどです。 世界最強の格闘技はどれか、という問いがあるとすれば、その選択肢にトルコの伝統レスリングが入ることは間違いないでしょう。 |
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2日間で1,850リットル 伝統レスリングではレスラーたちが全身に大量のオリーブオイルを浴びて戦います。 これがこの競技の最大の特徴にもなっていますが、2005年の大会では競技開始から2日目で早くも1,850リットルのオイルを消費しました。 前年の記録では3日間の全日程で1,600リットルですから、この記録を大きく塗り変えたことになります。 2005年の大会参加レスラーは史上最多の1,797名。レスラーの人数が増えたことも、もちろんオイルの消費が増大したことに影響しています。 |
しかし数年前まで3日間で500リットル程度しか消費していなかったことを考えると、本当の理由はレスラーたちのオイルの浴び方が派手になったためと想像できます。 テレビの中継ではレスラーたちが豪勢にオイルを浴びる姿が頻繁に放送され、画面には製油会社のオイル缶が大きく映し出されます。 これを見た視聴者が同じオイルを料理に使おうと思うかどうかは別にして、大きな宣伝になることは間違いなさそうです。 大会では製油会社が2トンのオイルを無償提供、スタジアムにも予備のオイルが備蓄されており、レスラーたちがどんなに贅沢にオイルを浴びても不足することはないということです。 |
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両者のベルトはデザインが異なっており、チャンピオン用はペシュレフ(土俵入り)のレスラーを描いたもの、
アー用は戦うレスラーを描いたものとなっています。 チャンピオンは3年連続して優勝したとき、また、アーも3年連続して務めたとき、ベルトは個人の所有となります。 |
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ダウルとズルナ 伝統レスリング競技における重要な要素のひとつに、ダウル(太鼓)とズルナ(縦笛)、つまり伝統鼓笛隊の演奏があります。 レスラーたちに勇気を与え、戦いを盛り上げる演出のひとつですが、クルクプナルの大会でしか演奏されない独自の旋律があり、彼らの多くはクルクプナル専門の演者です。 |
彼らは試合の進行を注視しながら、指揮者の指示に従って演奏に微妙なニュアンスをつけていきます。
しかしそれは、戦いが活発なら激しい演奏、緩やかなら静かな演奏といった単純な変化ではありません。
例えるなら、レスラーの心臓の鼓動、筋肉の躍動、技をかけにいくレスラーの緊迫した息遣いまでも旋律に乗せていく緻密な作業なのです。 余談になりますが、伝統レスリングの撮影に慣れたカメラマンは、鼓笛隊の演奏を聞いていれば試合が佳境に入ったことがわかるといいます。 40分という長い試合時間でもシャッターチャンスを逃さない秘密は、案外、伝統鼓笛隊の演奏にあるのかもしれません。 |
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王者アフメット・タシジ クルクプナルで9回優勝し2本の金ベルトを保持する王者アフメット・タシジ。4回戦でエディルネ出身の若手レスラー、アフメット・ヤウズとの一戦となりました。 今大会でタシジはじん帯を故障しており、痛みに耐えながらふんばりの効かない組み合いに苦戦、くじ運にも恵まれず初日から3試合をこなして体力的にも不利な状況でした。 |
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試合は終始若い力に押されぎみの展開となり、ポイント戦に突入して13分が経過。組み合いが積極的ではないとして2つめの警告が出された直後、タシジは自ら対戦相手の右手をつかんで差し上げギブアップを宣言、敗退しました。 タシジは2001年、ウェダット・エルギンとの決勝戦でもギブアップを宣言しています。勝敗はレスラー自らが決するものとされ、審判が存在しなかった古 き時代の伝統に思い入れがあるのかもしれません。 |
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対戦後、タシジは記者のインタビューに応えて次のように発言しています。 「いうまでもないことだが、この競技に必要なのは若さではなく力だ。私にはまだまだ力があるし、この力が尽きるまでレスリングを続ける」 アフメット・タシジ48歳。現役のまま銅像まで建てられたトルコの英雄が戦い続けます。 |
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試合開始前、ちょっとしたトラブルがありました。ファイナルの開始時刻は事前に17:30と決められていましたが、ジャズグルが何度呼び出しをかけてもシャーバンがフィールドに現れません。 シャーバンは一回戦でシードされなかったため、これまでに全5試合を戦っています。直前の試合では強敵ハサン・トゥナとの延長戦でリフトを決め一本勝ちしたものの、スタミナはほとんど残っていないように見えました。 |
呼び出しに応じないシャーバンに対し主審は警告1を与えましたが、優勝候補が失格となればクルクプナル始まって以来の一大事、関係者は動揺を隠せません。 エクレムはひとりフィールドに立ち、静かにシャーバンが現れるのを待ち続けます。 実はそのとき、フィールドではまだバシアルテの決勝戦が続いていました。 |
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だいぶ日が傾いた18時近く、バシアルテの勝敗が決して観客が大きな拍手を送っていたとき、別のタイミングでさらに大きな歓声が上がりました。シャーバンが悠然とフィールドに現れたのです。 |
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すべての観衆の目の前で、トルコで一番強い男が誰なのかを証明したい。クルクプナルのフィールドすべてが、王者の座を争って戦うふたりの戦士のためだけに明け渡されるのを、シャーバンは待っていたのです。 エクレムはライバルの登場を拍手で迎えました。 |
試合開始。序盤戦、両者は慎重でした。長時間組み合ったまま技を繰り出せず、試合が面白くないと観客からブーイングが起こる一幕もあり、主審がフィールドに降りて両者を注意、攻めが積極的ではないとして双方に警告1が与えられました。 両者とも初優勝が賭かっており、互いに間合いを測りながらの緊迫した試合展開が続きます。 |
規定の40分間を戦い、ポイント戦に突入した直後、エクレムがさらに警告1。この時点で両者の警告は2ポイントずつ。どちらかがあと1度警告を与えられれば、判定で勝敗が決まります。 |
ポイント戦の開始から7分が経過したとき、二つの山が動きました。体当たりで体勢を崩しに行ったエクレムの勢いをそのまま利用し、シャーバンがすばやくクスペットの右裾と腰を掴んで吊り上げます。一瞬浮き上がったエクレムの巨体を全力で倒しこみ、ギュース・チャプラース(胸交差落とし)が決まりました。 |
サムスン出身、アンカラ市所属。伝統レスリングの世界に入って16年目のシャーバン・イルマズの初優勝は、見事な一本勝ちとなりました。 |
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女たちはスタジアムで試合を観戦することができません。男が戦う姿を見て楽しむという行為は、イスラムの女たちに許されることではないのです。 激しい戦いで脱水状態になったチャンピオンは、試合後のドーピング検査に検体を提出することができず、予定より2時間あまり遅れて現れました。 豪華なオープンカーに乗るわけでもなく、ただ金ベルトを袈裟に掛け、スタジアムから戦っていたそのままの姿で歩いてやってきました。 |
すっかり日が暮れ、男たちの祝福でもみくちゃになるチャンピオンは、女たちのいる場所からはほとんど見えません。それでも女たちは静かに、暖かい声援と拍手を送り続けていました。 |
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2006年4月 kirkpinar.jp |