掲載 2003.6.08

批評について思う事

 

批評とは何か?批評家とは何をするのか?評論とは何か?評論家とは何物か?若い頃から疑問が一杯ありましたが、若い内は自分がチャーンと勉強する事、正しいと信じた先生で良く学ぶ事で自分を磨けば良いと、余計な事は考えませんでしたが、この年になったので思っていること、疑問などを書いて、皆さんがどのように考えているのか、議論をしたいと思い書き始めました。「発声について考える」も6回目まで書きましたが、これからも僕の考えを書きたいと思います。

ある新聞の「教育について考える」と言う連載に外国人が「日本では和を重んじるが日本で言う所の『和』の精神は、『恐怖の和』である」と主張していました。大変に共感できる発言であり、所謂『村八分』など典型的な事例であり、当時勤務していた大学なども、全くその通りで構成されていました。学長、理事長が世襲の大学では仕方ないのかもしれません。また問題があっても知らぬ顔、ある時には規則破りを助長しているのが文部省と感じていました。教育の荒廃を招いたのは勿論文部省の罪が一番大きいのですから存在そのものも問題だと思います。我々税金を払っている者は、税金から給料を貰っている官僚をもっと批判する力を強くしなければいけないでしょうが、政治家が無能では官僚の言う通りにしか動けないのですから、悲しき限りです。政治家も我々が食べさせてやっているのです。音楽家も音楽批評を批評する勇気を持つべきです。残念ながら正しいものが正しいと通用しないのが日本と諦めてはいけないのではないでしょうか。

 

本題に戻りますが、先ず考えて欲しいのは、逆説的に言って野球評論家や相撲評論家で、その道で相当な地位まで登れなかった人が、評論家を名乗る事が出来るでしょうか?野球の名選手であったとか、相撲で三役とか前頭の相当上まで登った人でなければ、誰も評論家としての発言を信用して聞きませんし、社会全般が受け入れないでしょう。序の口にしか上がれなかった関取に評論家の口がかかってくるでしょうか?また親方として部屋を持とうとしても弟子が来ないでしょう。

 かって恩師 Prof. Erik Werba が Wiener Philharmoniker の機関誌に『かつての音楽批評家は全員大音楽家であった。』と寄稿した事があり、それを読んだヴィーンの批評家の殆どが「けしからん!」と、その後ヴェルバ教授が弾くたびに難癖をつけてけなしました。それを読んだ音楽愛好家達は批評家の馬鹿さ加減をせせら笑い、楽しんで新聞批評を読み、大いに笑っていました。「何にもわからずまたこんな馬鹿なことを書いている」と。

 しかし日本の現状は如何でしょうか?何も知らない人が本来は信用できない批評家の批評を読んで、聴いてもいないのに、さも聴いて来たかのような錯覚を起こし、分ったつもり納得しているのではないでしょうか。西洋音楽は輸入されたものですから、分り難いといった点はあり、批評を信用したいと思う素人の心情がわからないわけではありませんが、もっと自分の耳を信頼して欲しいと思いますし、音楽は白紙で聴かなければ本当の良さも分らないと思います。勿論音を楽しむのが音楽ですから、聴いている人が何らかの形で楽しめなければなりません。全くズブの素人の感想が我々専門家にぐさりと来る批評をし、我々の勉強に非常に参考になることを言ってくれる事が多々あります。それは全くの白紙で聴き、耳が毒されていないから正しい評価が出きるのです。素人でも言えるのだからと批評家が正当化されては困るのです。

 評論家のY氏がバリトンのB氏(ドイツ人)をフィッシャー=ディースカウの再来と批評し株がうんと上がったそうですが、僕が始めてB氏を聴いたのはしばらくして車の運転中の事で、Schumannの『詩人の恋』でした。てっきり日本人が歌っていると思って、誰がこの程度の歌を歌うのか名前を聞こうと思って終わりまで聴いてしまいました。それがB氏を聴いた最初です。次に友人のジョフリー・パーソンズ氏が伴奏を弾いた時に聴きに行きましたが、残念ながらがっかりしてしまいました。

 批評家と言う仕事は何なのでしょう。日本人演奏家のチラシやプログラム、外来演奏会のチラシやプログラムに提灯記事(誉め称えて紹介する記事のこと)を書く事が批評家の仕事ではないでしょう。批評する立場であれば決して提灯記事で金品を得る事をしてはならず、許される事では無いのではないでしょう。音楽家も批評家も一匹狼でなければならないというのが僕の持論です。徒党を組んで何かをするものではないと思います。しかし日本の現状は如何でしょうか?馴れ合いが横行し、従って偽者が幅を利かせて横行しているのではないでしょうか?

 現状は演奏会のチラシや宣伝記事に批評家、評論家の名入りの記事が横行しています。勿論無料で提灯記事を書く事はしないであろうと思うからです。下心があるから依頼するのです。

無色で良い批評を書くためには身を律しなければならないと思うのは私の理想主義でしょうか?

勿論立場の弱い演奏家が批評家にコネをつけ鼻薬の効いた批評を書いてもらえるという打算でお金をつぎ込むのでしょうから、持ちつ持たれつだからと割り切るべきなのでしょうか?贈収賄で成り立った批評を読んで、そうだと思う音楽愛好家がいる現実を考えると、恐ろしいことだと思います。しかしその人達にはそれが狙いなのでしょう。

 角度を変えて見ると、かつての新聞紙上に於けるクラシック音楽批評欄は何処に行ってしまったのでしょう。新聞社の利潤追及至上主義は文化に担い手としての新聞の使命を放棄しているとも思いますが、真面目な人が読む気にならないクラシック音楽批評が紙面を減少させた原因ではないでしょうか?心の教育より、儲け主義のマスコミ関係者では文化は廃るばかりでしょうが。馴れ合いを感じさせる批評、的を得てない見当違いの批評では読者も読む気にはならないのです。原点に戻って批評のあり方を考えるべきではないでしょうか。かつては日本を一歩出ると「音楽ジャーナリスト」と肩書きを変えた批評家が居りましたが、日本国内では大批評家でした。

僕は声楽、しかもドイツリートしか良く分りませんが、批評家の批評を批評したいと思っております。40年も前のことになりますが、二期会で始めてヴァーグナーのオペラを原語で上演し、評論家は、「ドイツ語で上演すると音楽が違う、素晴らしかった!」と誉め称えたようでしたが、直ぐ後で恩師のヘッサート先生にお会いしたら「ひどいです!一晩で理解できた言葉は2、3の単語でだけです!」との事、友人(日本人)曰く「何せ仮名を振ったドイツ語で歌うのだからundを "ウントー" って歌うんだからね」と笑っていました。

現在でも規則に則ってドイツ語を発音している声楽家がどれだけいるでしょうか?ほんの僅かしかいないと言った方が正しいでしょう。レコードを聴いて何もわからずただ真似をする声帯模写的歌手、間違いであれ、方言であれ、誰々さんがこの様に発音して歌っていた。で済ませる事が出来るのですから有りがたい国です。

 ケルンの音楽大学のリートクラスの先生が、あまりの批評のひどさに腹を立て、「授業見学をして欲しい。我々がどの様に学生に勉強させているか見て欲しい」と招待したそうです。その結果は非常に良い方向に向かったので、Stuttgartの音大でも招待しようと思うとKonrad Richter先生が話しておられました。実現したかどうかは知りませんが、ドイツ語圏のドイツでも問題はあるのです。まして日本では如何でしょうか?

 かつて音大の大学院の終了試験で言葉の出来ないイタリア語やフランス語の採点を僕は適切には出来ないので、せめて大学院では専門別に学生を分けて聴く事が出来ないだろうかと提案しました。ドイツ語なら僕は学生が歌っている言葉をどのような情感を込めて、それぞれの意味有る単語にどのようなイメージを描いて歌っているのか、ある程度感じ取る事が出来ますが、他の外国語では其処まで適切には理解できません。にもかかわらず点をつける事は苦痛だし、正しく評価できなければ歌っている学生に申し訳ないと思ったからです。その提案に専門を持たない国籍不明のH教授やM教授が「俺達はどうするのだ!」といきり立ちましたので「貴方方はインタナショナルだから良いじゃーないですか!」と内心せせら笑って皮肉を言いましたら、満足そうに納得していました。同じ事が日本の音楽コンクールでも行われているのではないでしょうか?それとも審査員の皆さんは数か国の外国語がぺらぺら喋れて、語学に特に堪能なのでしょうか?出ている声だけ聴いても問題な歌手に賞が出ているのですから全く不思議です。おまけに海外コンクール派遣費用まで貰えるのです。

 問題点は他にもあります。作曲家がピアノやピアニッシモ(p, pp)に指定している個所をフォルテ、フォルティッシモ(f, ff)に歌って平気な歌手、質より量しか聴き取れない審査員、その中には評論家、批評家が何人含まれているのでしょう、声楽部門を僕は「吼えコンクール」と称しますが、どうしてここまで狂ってしまったのでしょう。

 言葉が正しく聞き取れない声楽家はそれだけで問題は大有りです。失格と言っても過言ではないでしょう。しかし有りがたい武器があります。オペラの場合には字幕スーパーです。大根役者(大根歌手)にとって大変ありがたい武器です。字を読む事に神経が集中し耳がお留守になってくれます。外国語の場合の使用は仕方ないでしょうが、聞く所によると日本語の上演でも字幕スーパーが入っているとの事。しかも作曲家が望んだとか?

 下手な歌、下手な演技をカヴァーするために使用しているとしたら邪道も良いところでしょう。その事を「何を考えているのか?」と批判した批評家はどれほどいるのでしょうか?声が通らないからオペラ上演にマイクを使う風潮が最近ひどくなっていますが、声が通らないのは発声が悪いだけの理由で弁護の余地は有りません。アメリカではミュージカルもマイク無しだと言う話を聞いた事があります。

 ベートーヴェンの第9シンフォニーの ,,Freude schöner Götterfunken -----" を暗譜するために「風呂出で 詩へ寝る 月照る 糞犬・・・・」と教えている。素晴らしい教え方だと新聞紙上に書いた評論家と称した人が居りました。読んで唖然としました。

 日本の第九演奏を僕はお神輿担ぎと同じと言います。できるだけ五月蝿く怒鳴れば賑やかなお祭りで良いのでしょうが、さぞやベートーヴェンやシラーは嘆いている事でしょう。文化国家日本の水準はその程度だよと言われればそうなのかもしれませんが、それではいささか淋しいと思います。オーケストラは餅代稼ぎにはもってこいでしょうが、良い演奏をしても稼げるのではないでしょうか?

 良い聴衆が育ってくれる事を祈りたいのですが、文部省の『心の教育』冷遇方針では益々文化の無い国になってしまうでしょう。アメリカの占領政策で一番実多かったのが教育政策で、一億総白痴化がどんどん進んでいますし、文部省だけではなくマスコミもその政策の多くを担った事を反省して欲しいものです。

 クラシック音楽をもっと楽しめるものに、良い演奏者が育つように、正しいものを正しく伝える事のための役目を批評家が担っていって欲しいものです。

 かつてギュンター・ヴァイセンボルン先生が「学生時代のチェロの先生が『若者よ、勉強しろ!勉強しろ!そうしないと批評家にしかなれないよ!』と口癖のように言っていて、その時代の学生の一人が批評家になって、とんでもない批評を書いたよ。なにせ楽譜さえ見ていないのだから。」と笑って批評の内容を話してくれました。

 大学の文学部で音楽美学の本を読むのも大切でしょうが、批評するからには、批評する専門分野の勉強をし、技術的な事も含めて感想文ではない本当の批評を書いて欲しいものです。そしてクラシックファンを増やすと同時に音楽家の向上に寄与して欲しいものです。