2002.8.4掲載

発声について考える(2)

 

 或る本からの引用ですが、『自分の耳の中で良く鳴っている声というものは、決して“良い声”ではない。声帯や咽喉に重圧をかけ、力んで歌っている時は、声は自分に耳の中でのみ響いているのである。その声は、歌い手から離れて聴く者のほうへ飛んで来ない。自分では頼りない、これで声が鳴っているのかなと不安に陥る時のほうが、かえって声は飛んでいるのである。練習室などでガンガンひびいていても。大きなホールで全く響かぬ声というものを、合唱などでも体験することは多いはずだ。・・・・・・・

 力まないで歌うということは、特に日本人の場合は本当にむずかしい。先ず脱力から始めることが先決で、自分の咽喉を力で鳴らさなくては気のすすまぬ声楽家の多い現状を、何とか改善せねばなるまい。・・・・・』とありますが、一番の問題は声楽教師の方にあるのではないでしょうか?生徒が自分の声を客観的に聴けなくなるように最初に教育されてしまうと、自分自身の声を主観的にしか聞く事が出来なくなるのです。俗に言うところの「傍鳴り(そばなり)」の声です。傍では大きく聞こえるがホールには通りの良くない声で、日本人指揮者好みの声でもあるようです。そもそも『喉が鳴っている』と言う表現が良くないのです。自分で喉が鳴っていると感じたときには無駄な力、固さが入っているときなのです。『歌は響きで歌う』と言う事を念頭に置かなければ声楽の基本に反すると思わなければなりません。

 『力まないで歌うということは、特に日本人の場合は本当にむずかしい。先ず脱力から始めることが先決で、』と書かれていますが、必要な弾力がなければ歌は歌えません。筋肉を固くする力みと、必要な弾力をごっちゃにしてはなりません。脱力したのでは立っていることも出来ないでしょう。電車で吊革につかまっていて、うっかり寝たときに膝ががくんとした経験はありませんか?寝たために瞬間脱力した状態になったのだと思います。

 我々はどんなときでも、どの筋肉も固くしてはいけないのです。筋肉を柔らかくしていると言う感覚が大切ですし、柔らかさを保たなければなりません。不自然な事をせずに、楽な状態で声を出さなければなりません。初心者に「喉仏を下げろ」と教えている先生が日本には多いようですが、とんでもない事!そんな有害な努力をさせられて喉と喉の周りの筋肉がすっかり固くなってしまった生徒は非常に多いと思います。ヨーロッパでKnödel(団子声)と言われて、もっとも嫌がられている素人好みの声を、得意になって出している日本人声楽家は結構多いのです。日本人は大きなライスKnödel(おにぎり)を食べるから、Knödel(団子声)が多いのだろうと嘲笑されているのをご存知でしょうか?不思議がられているのが現状なのです。

 私は2000年4月に行われた Bundesverband Deutacher Gesangspädagogen (略称BDG、ドイツ連邦声楽教師連盟)の年次総会で、講演とワークショップを依頼されて話をして来ました。いろいろ考えた末古典芸能の声を聴いてもらい、Knödel(団子声)についても話しました処、「何故日本人にKnödel が多いか理由がやっと納得できた」と多くの教師から話しかけられました。Knödelは決して良い声なのではなく、発声の欠陥から出る声であることを力説します。間違わないで下さい。素人がする事です。

 舌根を固くして押さえ、Kehlkopf(喉仏)を下げる事はしてはいけない事なのです。Kehlkopfを下げて歌って、寿命の長い歌手が居られたら、お目に掛かりたいです。勿論必要以上にKehlkopfを上げる事も禁物ですが、我々日本人は少し上がっているくらいに考えなければ、下げ過ぎになるのです。

私はありがたい事にどの先生からも喉仏を下げるようにとは言われませんでした。留学以前の先生は庄司先生とRia von Hessert先生だけでしたが、両先生揃って喉の事は何もおっしゃらずに舌を楽にする事、固くしないように、息を出来るだけ少なく使うように指導してくださいました。「息を貰って歌うように、馬力で押し出さない!」と言われました。Wienで 「Ziehen, nicht stossen!」 と言われたのと同じ事です。特に庄司先生には「貴方はまだ声変わりが完全ではないので、一年間絶対に無理に声を出してはいけません!」と大学一年生で釘を指される始末でした。余程成長が遅かったのでしょうか、大学一年でそんな事を言われた学生はいないでしょう。でもそのお陰で楽に出る声しか出しませんでした。今で言う高3の12月ころ初めて歌でも勉強しようかなと思い、独学で始めたのですから、プライヴェートレッスンなる勉強方法が存在する事を2年になるまで知らなかった程なのです。我々の時代は「赤盤のレコード(78回転)」の時代ですが、シュルスヌス、ビヨルリンク、ドゥハン(たまたまヴィーンで師事する事が出来ワーグナーのオペラを1年間習いました)などを良く聴いたものでした。

良い演奏やレコードを聴くこと、洋楽の良い音のイメージを正しく耳に残す事は我々にとって、特に初心者には非常に大切です。高1で勉強を始めたいと言う生徒に、「週1回で3年間レッスンに来るより、高3になってから週3回で1年間レッスンに来る方が勉強になるよ」というのが私の主義です。「それまではレッスンに来たつもりで貯金しておきなさい!利子が儲かるよ!」と言っていましたが、現在では利子は付きませんね。レッスンの代わりにオーケストラでも弦楽器でも外人の良い演奏家の生の演奏を多く聴くように奨めます。洋楽で求めている美しい音を頭の中に良く入れてください!と言うのが、私のレッスンをするときの出発点です。

良い音のイメージが自分の中になければ良い音を追求できないのです。良いイメージを作ってから勉強を始めなければ、どの目標に向かって行けるのでしょう。

 

前回書いた「登山口が違っても、頂上は一つ」と関連する事です。

 

正しく息を吸う事が出来て、初めて正しく息を出すことが出来るのです。人間の呼吸の原点は腹式呼吸です。赤ちゃんの呼吸を見れば誰でも直ぐ分かります。我々が寝ているときも腹式呼吸です。胸式呼吸になるのは身体の具合がかなり悪い時か、激しい運動をした直後です。我々が歌うときは健康な普通の状態なのですから、自然に深く呼吸すれば良いのです。

恩師庄司先生が最初に「横隔膜は息をどっしりとあぐらをかかせるための座布団です。座布団に息をどっかりとあぐらをかかせて!」とおっしゃいましたが、素晴らしい教え方であったと思います。従って歌う時にお腹を引っ込める事をしては、横隔膜や腰を浮かしたようなもので、深みのある綺麗な声は決して出ません。邦楽での声の使い方については門外漢ですが、名人といわれる方々の中には、横隔膜の使い方は同じなのではないかと、声の落ち着き方から想像できるときがあります。

さて所謂『支え』とは何でしょう。それは声帯を綺麗に振動させるようにと、最小限の息を送るための横隔膜の働きであると思います。言いかえれば『横隔膜で息のコントロール』をすることなのです。しかし横隔膜を使おうと意識すれば固くして、同時にお腹や喉まで固くしてしまう人が結構ありますが、我々は一体どんな時に横隔膜を自然に使っているでしょう。歌う時には、普段総て無意識では出来ている事を、意識した状態で同じように使う事が出来るようにするのが、勉強だと思っています。

ヴァィオリーンの弓を考えてください。出来るだけ少なく動かすと綺麗に弦は振動します。共鳴箱(ヴァィオリーン本体)内の空気にその振動が伝わり、綺麗な響きになります。

乱暴な弓使いをしないという事は、息の無駄使いをしないということなのです。ヴァィオリーンの弦が出しているその物の音を聴いた事がありますか?練習用のStummgeige(唖=音の出ない=のヴァィオリーン)と言い、ホテルでも何処でも他人に迷惑をかけずに何時でも運指を練習できる「練習用ヴァィオリーン」の事です。最近はチェロも作られています。それは決して大きな音ではありませんし、振動数が分かる程度なのですが、その弦の振動を共鳴箱に伝える事、共鳴箱があることで良く透る音になります。我々の声帯もそんなに大きな音を出しているのではありません。喉を良く開けて響かせる事が大切なだけです。響きで歌うのが洋楽の声であり、Belcantoも全く同じです。

響く空間をどのように作るかで、響きは変わってきます。ストラディヴァリウスとかアマティーその他のヴィオリーンで音色が変わるのは空間の違いでしょう。一寸した共鳴腔の違いが、大きな響きの違いになるのですから、声が楽器の我々は身体をいかに良い楽器にするかに細心の注意をはらって考えなければなりません。残念な事に我々の楽器は買い換える事が出来ないのです。一度壊したらそれでお終いなのです。

多くの外国からの先生達が「折角の若い才能を台無しにするので、25歳まではPucciniやVerdiを歌わせないように!」と忠告してくれますが、何年たっても若い生徒や学生に大きな曲を与える声楽教師が跡を絶ちません。生徒達もそのように大きな曲をくれる先生に満足しているようですが、狂気の沙汰と言っても過言で無いでしょう。f(フォルテ)を馬力でいかにも大きな声のように出して、p(ピアノ)になるとかさかさして綺麗なpの声が出ないのは、すでに発声の欠陥が現れている証拠です。要するに発声が悪いと言う事なのです。これは耳鼻咽喉科のお医者さんに診てもらっても治らない病気なのです。喉の病気にはお医者さんでなければ治らないものと、正しい発声の先生の元で習うことでしか治らないものがあるのです。

先生の良し悪しは、その先生が40代、50代でどのような歌を歌っていたかを調べる事です。『最高の歌手が最高の先生とは限らない』と言いますが、最悪の歌手が最高の先生には絶対になり得ません。良く考えて先生選びをする事がとても重要な事だと私は考えます。

 

いずれにせよ出発点が一番大事です。最初のレッスンで、音楽や声の捉え方がほぼ決まってしまうのです。良い音楽をたくさん聴いてから、音楽の勉強をしようと志して欲しいものです。とくに声楽の勉強には大切です。

 川村 英司