2005.12.14掲載

 

発声について考える(10)

Nr.1

 ある有名な先生の本から一部を転載させていただきますが、皆さんはどのように受け止めますか。
『自分の耳の中でよく鳴っている声というものは、決して“良い声”ではない。声帯や咽喉に重圧をかけ、力んで歌っている時は、声は自分の耳の中でのみひびいているのである。その声は、歌い手から離れて聴く者のほうへ飛んで来ない。自分では頼りない、これで声が鳴っているのかなと不安に陥るときのほうが、かえって声は飛んでいるのである。
  練習室などでガンガンひびいていても、大きなホールで全くひびかぬ声を、合唱などでも体験することは多いはずだ。
 数年前、N響の定期でシューマンの大作≪ファウストよりの場面≫全曲をザヴァリッシュ指揮、フィッシャー=ディースカウ、ユリア・ヴァラディを迎えて日本初演したことがある。その時メフィスト役を受持ったのが○○○○だったが、この曲の練習の時から、フィッシャー=ディースカウはファルセットのような柔らかい声で、決して大きな声を出さなかったそうである。多分本番のNHKホールでは大きく歌うのだろうと思っていたのだが、本番でも全く同じように歌うのにおどろいたと、○○○○は語っていた。そして彼に、「決して力んではいけない」といくども忠告してくれたそうである。聴く側にとっては、フィッシャー=ディースカウの声が最もよくひびいてきたことはいうまでもない。
 力まないで歌うということは、特に日本人の場合は本当にむずかしい。まず脱力から始めることが先決で、自分の咽喉を力で鳴らさなくては気のすまぬ声楽家の多い現状を、何とか改善せねばなるまい。いいフォームというものは、脱力と支えの点の見事な一致にある。この原稿を書きながら、夏の高校野球のほうに時々目がいく。いい当たりの時のフォームの何という無駄のない美しさ。ピッチャーの手から投げられる球の無限の変化。すばらしい旋律を目で見ているような錯覚さえ感じさせる。・・・・・』

(アンダーラインは僕が気になる言葉に付け加えました。)
 と書かれているのであるが、「脱力」と言う言い方にも疑問がありますが、それ以外の事で、2,3反論したいと思います。

 「音が飛ぶ」と言う言い方には賛成しかねます。音、響きが透って(通って)いくとか、伸びてゆくと言った方がよいのではと思います。時々短波か超短波のような声を聞きますが、電波が飛ぶのとは違います。一直線に飛んで行っては困ります。波紋が大きくなるような広がりを持って響きが伸びてゆかねば成らないと思います。
2005年4月23日にベルリンで 36. Berliner Gesangswissenschaftliche Tagung と言う会があり出席してきました。その時の様子は「リー研友の会だより」や「川村門下会ニュース」に掲載しました(ホームページにも「今年の収穫」として掲載してありました。)が、スエーデンのズントベルイ教授の講演で "Sängerische Formant の話 [ Klang und Farbe bei Stimmregistern Johan Sundberg ( Stockholm )] で、実験として同じ人の声でフォルマントの付いている正常な歌声の場合とフォルマントを取り除いたときの歌声をスピーカーで流し、一定の雑音を流したのです。するとフォルマントのある歌は雑音に邪魔されずに響いてくるのですが、フォルマントを取り除いた歌は雑音に飲み込まれて何も響いてこないのです。我々の声は「声の響きと音色」、「個性」は勿論のこと、「伸びを持って透る声」でなければならないのです。ピアニッシモの声でもオーケストラを乗り越えて響く声と言うのはフォルマントがある声だからなのです。所謂頭の響きが多くなければ声には伸びがなくなるといえます。
 かつて「オーケストラで歌うときにはフォームを大きく、ピアノ伴奏の時にはフォームを小さくする。」と雑誌に書いた上野音楽学校(現芸大)卒の大声楽家がいましたが、今でも「大きなホールではフォームを大きく、小さなホールではフォームを小さく」と言っている声楽家や教師がいるやに聞きますが、どうすると「フォームを大きくしたり、小さくする」ことが出来るのでしょうか?肋骨を縮小させたり、拡大させたりができるのでしょうか?咽喉を大きくしたり、小さくしたり出来るのでしょうか?全くナンセンスな考え方です。声楽学習の根本が判っていないのだといいたい気がします。
 私が始めて師事した庄司りゑ先生は最初に「クラシックの歌い手はマイクを使わずに大ホールでも小ホールでも、教室でも同じに出して、同じように隅々まで透る声を出す勉強をするのです。マイクを使うのは流行歌手なのです!」と言われました。これは私の原点です。
 我々の身体は楽器なのですから、出来るだけ綺麗に良く響く共鳴体にしなければならないので、いつも弾力を持って、張った状態にしなければならないのです。身体を固くしては意味がないのです。
 響かせなければならない肉体に弱音器をつけては困りますし、コンサートグランドピアノだからこそ美しい芯のあるピアニッシモが出るのです。弾き方によっては腑抜けた、弱々しいピアニッシモも出せるのですが。それは外側の形の問題ではなく、楽器内部の共鳴箱の問題とテクニックのです。ヴァイオリンでもピアノでも形は同じでも楽しい表情や悲しい表情も表現できるのです。楽器の形態を変えることは出来ないのです。我々の肉体も一番自然で美しい表現を持った響きの出せる楽器にしなければならないのです。嬉しい、悲しいなどの感情は心で表現するのです。共鳴箱を変える必要はないのです。



Nr.2

 「傍鳴り(そばなり=近くにしか聞こえない声や音)」と言う言葉を聞いたことがありますが、こんな言葉が存在すること事態が、狂っている証拠なのです。しかも「傍鳴り」で満足している耳の指揮者や声楽教師が結構多い事も悲しい日本の現状です。「日本にはフォルティストばかりで、ピアニストがいない!」と嘆いたピアノ教授がヨーロッパにおりましたが、そうだよなー!と悲しい事ながら変に納得した事はありました。

 「力まないで歌うということは、特に日本人の場合は本当にむずかしい。」と書かれていますが、これは最初の先生の問題であって、日本人に限った事ではありません。最初の先生が力ませて歌わせ、それが「良い声だ!」と言う先入観を生徒に植え付けるから狂ってしまうのです。咽喉仏を押さえつけて、固くして歌わせる事も大問題であり、そのことを生徒が疑問に思わない事がもっと大問題なのかもしれないのです。前述のバリトンに力む事を教えた芸大時代の先生は誰なのでしょうか?芸大時代の4年間で力まない事を徹底的に教えなければならないのです。本来はその聴き分けを出来る人だけが先生になる資格があると思いますが、残念な事に間違った観念の先生が日本にはあまりに多くおり、Knödel (団子声、団子が咽喉に詰まったような声で、お前の声はKnödelだ、団子と言われればヨーロッパでは恥になります。) が日本人には横行するのです。それゆえに「入学時は最高!下手になって卒業!」といわれてしまう大学が幾つもあるのです。勿論全員ではありませんが、結構多いのではないでしょうか?Knödelになって本人は良い声が出ていると喜んでいるようですし、先生もそうさせる先生が結構日本には多いようですが、ヨーロッパでは笑いものです。
 私の経験ではヨーロッパから帰国して初めての卒業試験に立ち会った時の事です。先生や学生間で大変評判になっていたメッゾソプラノがいました。「すごい学生がいる。」との話は耳にしていましたが、採点していて噂のように素晴らしい学生が一人もいなかったので、同僚にすばらしい学生って誰かと尋ね名前を聞き、採点表を見たら僕は最低の点を付けていました。その学生はすごいKnödelでしたので、ヨーロッパから帰って2年ほどしか経っていない僕の耳には異様にしか聞こえなかったので、最低の点を付けていたのでした。しばらくしたら毎日音楽コンクールで1位になったとのこと。またまたびっくり !! イタリアに留学したとの話を聴き、あのKnödelがどうなるのだろうかと思っていたら、何年かして帰国した時にはスブレット(軽いソプラノ)になっていました。よく頭、耳の切り替えが出来たと感心し、本当に驚いたのでした。また、かつて僕も教えた生徒で、生まれつき良い声を持ちながらKnödelが良い声だと思い込み、何度注意しても治らずに卒業。しかもコンクールを受けて1位になり、イタリアで勉強して良い方向に変わったといわれていた男子生徒がいましたが、帰国後直ぐにもとの木阿弥でKnödelに逆戻りしてしまいました。良い声、悪い声の区別のつかない先生やコンクールの審査員が日本にいることは周知の事実ですが、これが日本の声楽界を狂わしている一大原因なのです。
 この一件でも音楽コンクールの審査員の耳がいかに狂っているかの証明になるでしょう。