2002.7.28掲載

発声について考える(1)

 人に感動してもらえる歌を歌うためには先ず心地よい、聞き苦しくない、心から聴衆に訴え掛けられる声を出す事が大切ですが、そのために我々はどうしなければならないのでしょうか? 

良く耳にする『ベルカント唱法』(Belcanto)[bel(美しく)canto(歌う)]とはどういう声をイメージしているのでしょうか?また「その対極にある」と中途半端な人達が思い込んで使う『ドイツ唱法』とは?どんな声の出し方をいうのでしょうか?

 「声をこもらせてボソボソ歌うのがドイツ唱法」で「開けっぴろげにパッパと歌うのがベルカント唱法」と思っている人が結構多いのではないかと思うのですがいかがですか?中途半端に声楽をかじっただけで得意げな人達がこの日本にはどれだけいるでしょうか。たまたま見たホームページで「馬鹿!」と言いたいBelcantoについての見解を読み、イタリアで勉強してきてもこんな程度のものなのかと、愕然としました。素人ばかりでなく、いわゆる玄人といわれる人にも間違った思いこみや偏見を持っている人が大勢居るように感じています。

Belcantという言葉の正しい解釈について、また我々声楽家が良い歌を歌うことのできる発声について、私の考えを述べたいと思います。

 ドイツ、オーストリアでも勿論“Belcanto”で歌うことが大切とされます。しかし多くの歌手でご自身Belcantoのつもりで自信満々ながら、実は正反対の馬力で歌っている人達に対して、ドイツ語の言葉遊びの冗談に皮肉を含めて『Bell-cantoに歌っているね!』と嘲笑して言います。ドイツ語のbellen(吼える)とイタリア語のcanto(歌う)を一緒にして笑うのです。Belcantoをドイツ語に訳すとschönen singen(美しく歌う)と言う意味でどこの国の人でも美しく歌いたいという願望は普遍的にあるでしょう。

  そもそもBelcantoとは美しく歌うという意味でイタリアで古くから使われた言葉ですが、ヴェルディ−(Verdi)のオペラ以降本来の意味のBelcantoは死んだと言うイタリア人もいるほどです。勿論Belcantoの伝統を受け継いでいる歌手、声楽教師はいますが、大きな声を出すために、ただ吼えていればBelcantoであると間違えている人達も結構いることも否めないでしょう。

  ドイツ人でもイタリア人でも人間であることには代わりありません。勿論日本人も同様です。しかし西洋人の感じる美しい声と東洋人の感じる美しい声には隔たりがあるように思います。西洋の声楽教師、声楽家で「東洋人は喉を押さえたり、つめたり、固くしたり、人工的に作った声を美しいと思う美意識がある」と発言している人を何人も知っていますし、私はその考えに共感できます。古典芸能で使う声を考えてみてください。

  自分では自然に歌っていると思っている歌手で、全く聞き苦しい声を出している人を何人も知っています。何故なのでしょう。我々は伝統的な古典芸能で求めている声に知らず知らずに影響されていると思います。それゆえに詰めて出しても、詰めているという自覚症状が無いのです。

  シュヴァルツコップ(Elisabeth Schwarzkopf)さんやホッタ−(Hans Hotter)さんが来日された折に「歌舞伎か能にお供しますよ。」とお誘いしたことがありますが、共通して返ってきた言葉は「動きにはとても興味があるが、あの声を聞いた後で歌う気になれますか?」と言う返事でした。「一度聞いたのでもう結構です。」との事。しかし我々はその声を聴いて「渋みがある。」とか「寂びがある」などと、耳や喉に違和感を覚えず、また喉の周りの筋肉に変化をもたらさずに鑑賞できるのです。これを読んでいる方々の中には日本人の声楽家の歌を聞いて肩が狭くなったような、喉が詰って来るような感じを持ったことのある方がおられるのではないでしょうか?残念なことに私は喉が詰まって来るような、肩幅が狭く詰って来るような苦痛を感じながら聞かなければならなかった経験をしたことが度々あります。

では自然な声、無理のない声とはどんな声なのでしょう。

 

 我々日本人は根本的に声について考えなければならない時期に来ていると思います。「声は若い内にしか出ないのだから、頑張って出す。」、「小さな所ではフォームを小さく、大きな所ではフォームを大きく」とか「ピアノ伴奏ではフォームを小さく、オーケストラ伴奏ではフォームを大きく」、「ベルカント唱法では声のために言葉を犠牲にする」、「少しくらい喉が痛くても我慢しろ!」、「1回や2回ぐらい喉から血を吐くくらいでないと声帯は強くならない」、「歌うときは腹式呼吸ですから深く息を吸って、はい、声を出しますからお腹を引いて!」、「大きなホールでは頑張って声を出さなければ聞こえない!」など、何を考えているのか?狂気の沙汰でないか?と言いたい声楽教師の言葉を耳にします。浪花節とか声明(しょうみょう)の鍛え方の話を大僧正から聞いた事がありますが、洋楽とは根本的に違う訓練方法だと私は捉えています。

  赤ちゃんの声は小さい身体に似合わず大きな声で泣き、その声はとても良く透ります。しかも長時間泣いた赤ちゃんが音声障害になったり、声がかすれてしまったと言う話は聞いたことがありません。赤ちゃんには腹筋も背筋も未だありません。自然に腹式呼吸をして横隔膜を良く使って泣いているのです。もっとも自然に声を出しているのです。我々は自然に自分の肉体、筋肉、色々な器官を使う事を産まれた時には覚えていたのです。先ず何も知らないで自然に声を出している赤ちゃんを見習うべきなのです。

  声楽家の我々が腹筋を鍛えると言って、ボクサーが腹筋を鍛えるのと同じ事をしては、声帯を痛めるだけなのです。喉を詰めて息を止めて上半身を起こす運動など、音声障害への道をひた走りしているだけです。お腹にバスケットのボールをぶつけるのも同様です。なぜこの様な事が鍛えると称して行われるようになったのでしょう。全く不可解なことです。世に言う所のヴォイストレーナーで間違った事をさせている人が多いのは何故なのでしょうか?

  自分である程度の良い歌を歌うことが出来ずに教えることが可能なのでしょうか?18世紀のイタリアの有名な声楽教師トーズィが『声楽教師はある程度以上の歌を自分自身が歌うことが出来なければ教える事は出来ない。』と言っていますが当たり前のことだと思います。勿論例外はあると思いますが、寿命の短かった声楽家は何らかの発声上の問題があったと考えるのが当たり前でしょう。自分が歌えないで何を教えられるのでしょう。環境の良いヨーロッパでは稀に、ご自身歌えなくとも優れた教師は例外的に居られますが。

  最初に述べた通りですが、美しい声を出す発声法は皆同じでしょう。ソリストと合唱は発声法が違うと言う人が居るようですが、私は全く同じであると主張します。肉体を一番良い状態で使い、綺麗な声を出すことに合唱もソロも違いはないはずです。従って発声法に色々流儀もないと考えます。

 よく耳にしますが「頂上は同じだ!登山口が違うだけ。」と言う先生がいますが、我々は先ずどの山に登るか良く見極めてから登らないと、富士山を登ったつもりでも登って見たら蝦夷富士だったり、岩手富士だったりするのです。笑えない事です。目標をしっかりと定めてから登らないととんだ間違いをしてしまいます。いわゆる無駄骨を折るだけなのです。しかもその間違いは将来、自分の声を客観的に聴けるか、主観的にしか聴けなくなるかの分岐点になってしまい、一生の問題になってしまいます。

ある欧米の先生は「途中で発声を変えるなんて不可能だ!」と言っていましたが、それほど大変なことだと言う意味です。主観的にしか聞けないのか、客観的に聴けるのかと言う事は重大な事なのです。ヴィーンで最初に学んだフォーゲル教授は「自分の声を客観的に聴けない奴は声楽の勉強は辞めろ!」と怒っていたのを目撃した事があります。

 しかし日本では、喉に負担を感じても、声を出したー!と満足する人達は素人の合唱団によく見受けられるようですが、年末のベートーヴェンの交響曲第九番を、作曲家のベートーヴェンと詩人のシラーはどのように悲しく聴いていることでしょう。お神輿を担いでいるかのようにうるさく、騒がしく、p(ピアノ)をf (フォルテ)で歌ってしまっては音楽ではないのです。ソリストから合唱までお祭り騒ぎでは悲しい限りです。言葉あっての声楽曲であり、言葉を正しく発音して、はじめて正しい表現をすることが出来るのです。「風呂出(Freude)、詩ヘ寝る(schöner)、月照る(Götter)糞犬(funken)・・・・」と暗譜してどのような表現ができると思えるのでしょう?

 

洋楽は異文化だからとは言えないと思います。脱線してしまいましたが、美しい声、喉に負担にならない声、聴く人に気持ちのよい声を出すにはどうしたら良いかというテーマに戻します。

 私は大学受験する2、3ヶ月前までは声楽家になる気は全然ありませんでしたから、邦人声楽家をかなり批判的に聞いていました。その批判精神が私には良い結果をもたらしたのだと思っています。

 大学に入って最初の師事した庄司りゑ先生が「クラシック歌手はマイクを使わないで、小さなレッスン室でも大きなホールでも同じ声の出し方で、どんなピアニッシモでも大きなホールの隅々まで良く透る声を出すのです。」、「声は息を貰って歌うもので、押し出すのではありません。」、「深みのある、しかも軽い声を出さなければ!」とおっしゃいました。私には大変貴重な指針、声楽の基本を初めに与えてくださった先生でした。

 テノールのベルゴンツイさんやクラウスさんの様に70過ぎても堂々と立派な声を出すことは無理としても、「我々声楽家は寿命が長いこと!」が目標でなければなりません。良い表現をするためには20代では天才を除いては不可能です。30代でも同じでしょう。40を過ぎて初めて表現に深みが増すのではないでしょうか。「生涯学習」と言う言葉を私は忌み嫌います!何故ならば生涯学習しなければ自分を磨く事は出来ず、生き方として当然、当たり前の事と思っているからです。生涯こつこつ学びつづける事が、自分を特に音楽家、芸術家として磨く事になるからです。インスタントは何でも標準以下なのです。

 インスタントの声楽家が多過ぎませんか?自分自身を大切にする事とは何でしょう。幼い頃「虎は死んで皮残す。人間死んで名を残す!」と勇ましく戦死するように軍国主義教育をされましたが、名前や名誉を重んじる心、向上心は何時の時代にでも同じではないでしょうか?

身体に良い癖をつけ、どのような場合でも心で感じた心情が声として表現できるようにするのが、発声の勉強で、身体の構造、筋肉の自然な使い方を再開発するのが勉強の基本でしょう。無意識しならば出来る筋肉の使い方を、意識してより良く使えるように習得するのが、発声法の基本です。生まれつき大きい声を持った人、反対に小さい声の人がいます。良く透る声の出し方を覚えれば良いのです。無理に大きな声を出そうとすれば喉を壊すだけなのです。

 

アライザの若い頃。彼の声に合っている役柄でモーツアルトやロッシーニのオペラを歌っていた頃は素晴らしかったですが、その後どうなったでしょうか?アライザは、彼の守備範囲を超えた役を歌うようになってから彼の歌は良くなくなってしまい、今は全く聴く気になれません。ベルゴンツィさんが「色々な指揮者がオテロを歌えと奨めてくれたが、一度も歌わなかったことで私の今日がある。若い歌手も自分に合わない役を歌わない勇気が必要だ!」と述べていました。勿論勉強の段階では先生と相談して色々な曲を試みる必要はありますが、無理は禁物です。良い癖をつけようと思いながら、悪い癖をつける事になるのです。

 

これから色々感じた事を書くつもりです。どうぞ遠慮の無いご意見をお聞かせ下さい。

 

川 村 英 司