掲載 2003.11.15
ヨーロッパの詩は吟ずるものか?朗ずるものか? 川村 英司
特許庁に勤務する知人が「芸大声楽の卒業生の声で詩を朗ずる歌を歌うのは困難でしょうね。あの声では吟ずる事しか出来ないのではないですか?」と尋ねられ、その素直な、繊細な耳、聴き方に驚きました。この様な表現を全くの素人がする事に先ず驚き、毒されていない耳の聴き方の正しさに驚いたのです。常々素人の耳は怖いよ!正直だよと学生に話しているのですが、またまた驚かされました.
古来日本には詩吟という吟じる方法がありますが、詩の朗読とは全く違った声の出し方をします。戦時中の中学で「べんせい粛々夜川を渡る・・・・・」と吟じさせられた記憶が戻って来ましたが、例え日本の詩の朗読でも詩をdeklamieren する声の出し方と、詩吟の声の出し方では余りにもかけ離れていると思います。どちらもそれぞれ正しい出し方で声を出さなければ、様にならないのです。謡などでも同様ですが、求めている美的目標が全く違っているのです。
日本音楽の上参郷芸大教授と洋楽と邦楽について話したことがありましたが、最後に意見が一致したのは、「本物を目指そうとすると、お互いに他の分野を聴いてはいけない!」と言う事でした。「邦楽の人は邦楽の良い演奏を聴く事!」、「洋学の人は洋楽の良い演奏を聴く事!」でその求めている最も良い音を追求する事が大切という訳です。先ず良い音のイメージを作る事が大切で、それが間違っていれば、間違った方向にいってしまうのです。
こんな例があります。芸大音楽学部長も勤めた日本ではとても有名な或る声楽教授の恩師(ドイツ人)御夫妻が私に笑いながら話してくれました。たまたま音楽会にそのドイツ人教師御夫妻をお連れした時の事です。勿論その時まで歌った某教授の恩師であった事は知りませんでした。終了後に食事をした時の事です。「彼には年中喉を押さえてはいけない!押さえてはいけない!とそればかり注意して教えたのです。」何十年振りかに日本で彼の演奏を聴き終了後に楽屋を訪ねたら、彼は押さえた詰めた声で「まだ押さえていますか?」とドイツ語で訊ねられたと笑いながら御夫妻で声色を使いながら話してくれました。食事をしながら大笑いをしたのですが、全く笑えない一事件だと思います。それほど自分の声が客観的に聴けなくなる可能性を秘めていると言う事なのです。
自分の声を客観的に聴く事の大切さは既に書きましたが、大教授でさえ自分の声は客観的に判断できていない良い例だと思います。ウオークマンが出現して以来、自分の声を客観的に聴く事はかなり容易になってきたと思うのですが、吟ずる世界で吟ずる声ばかり聞いていると正しい声を正しいと聴けなくなってしまうのは当然な事なのでしょう。私は芸大と縁がなかった事に幸せを感じるのです。
権威主義がまかり通る日本で権威にしがみついていると客観性もなくなってしまうのでしょう。東大にもピンからきりまであるのです。私は東大卒ですと言う若者に「何処のトウダイ?観音崎灯台もある事だから!」とからかう事もあります。芸大も同様でピンからきりまで、別に芸大に限らずベルリンやヴィーンの音楽大学でも同じです。留学して宣伝だけが上手くなった留学生はどれだけ多くいるでしょう。ドイツ語圏では卒業時に1番とか2番と言う成績のつき方はありませんが、主席で卒業とか飛び級で優秀な成績で卒業とか大法螺を吹いている留学生の略歴をチラシやプログラムで読むとその人を私は全く人間としても信用できなくなるのです。評論家にお金を払って提灯記事を書かせる演奏家も書く評論家の方も信用できないと思うのです。例え無料で書いても我々には分りませんから、ただただ恥ずかしいなーと思ってしまうのです。
結局我々が自分の耳で聴いて自分なりに評価すれば良いのであり、他人の評価に頼る必要はないのです。自分を信じる事が大切ですが、客観性を養わなければ自己満足になるか、間違った判断を正しいと信じる事になるのです。楽器が自分の身体の外にある演奏者でも客観性に欠ける演奏を耳にする事があります。左手と右手のバランスさえ悪いピアニストも存在しますが、自分の身体が楽器である声楽はとても難しい判断力を必要としますので、その事に絶えず気を配る事が大切です。
勿論自分の問題だけではなく先生の問題もあります。残念なことに極言すると邦楽的耳、イメージで洋楽を教えている先生が結構多いと思います。しゃべり声から押さえたり、固くしたり、詰めた声の先生から何を学べるのでしょうか?全く不思議な日本だけの現象です。権威主義に巻かれて自分が発揮できなくなる事が無いようにしたいものです