川村英司 レクチュアコンサート 2005-6 第2回

2006年2月4日(土)  15時 より

於:Studio Virtuosi

 

Johannes Brahms 作曲 “Lieder und Gesänge” ( )

ブラームスの 歌 曲 」  2 )

 

バリトン:川村  英司 

ピアノ:小林  秋恵 

 

今日はブラームスの「歌曲」(2)として「マゲローネ姫のロマンス」作品番号33以降の作品を取り上げます。「マゲローネ」の後に発表した作品34はピアノ5重奏曲で、作品35はパガニーニのテーマによるピアノ変奏曲で、作品36は弦楽6重奏曲、作品37は宗教的な女性合唱曲3曲、作品38はピアノとチェロのソナタ、作品39はハンスリックに捧げたピアノのためのワルツ、作品40はホルントリオ、作品41は男声合唱曲、作品42は女声6声のアカペラ合唱曲、作品43でやっと「4つの歌曲」になりました。

 

この第12曲は非常に有名なブラームスの歌曲です。

 

作品43 「4つの歌」 „Vier Gesänge“ の1は、かの有名な「永遠の愛」

„Von ewiger Liebe“ Jos. Wenzig  Nach dem Wendisch です。

 

この歌の詩人としては1898年版のBrahmsText(参考資料1)も、1923年版の再販でも詩人についてはWendischとしか記述はありませんが、全集などにはJos. Wenzig  nach dem Wendischと記載されています。

この詩の重要な部分は総て女性の言葉ですので、僕は一度も歌う気になった事はありません。全く歌う気になれないのです。意固地でしょうか?

この曲の思い出は、僕の若い頃、ヘッサート先生のレッスンの帰り道で先生が一日のレッスンを終えて一人で歌っておられたのを、赤坂にあった先生のお宅前の坂道を六本木に向かって登りながら聴いたことです。

 „Dunkel, wie dunkel im Feld und im Wald“ と口ずさんでおられた先生の素晴らしい歌い初めで、その静かで、雰囲気に包まれた表現は僕の心に強い印象を与えてくれました。僕のレッスンは毎週月曜の最後で、確か午後6時か6時半からでした。総てのレッスンを終えてから、何気なく歌われたのでしょうが、薄暗くなった時間とぴったりあった時間帯で音と声、雰囲気で、足を止めて聴きほれた事を昨日のように鮮明に覚えております。

ヘッサート先生の歌唱芸術で特に思い出深い曲は何曲もありますが、この曲もその一つです。この曲を僕が歌わない原因の一つが、この曲では先生を超えられないと潜在的に思っていることかもしれません。先生は本当に良い歌を我々に演奏会などでも実際に聴かせてくださいました。

 

 

 

作品43 2はこれもとても有名な

 

„Die Mainacht“ Ludwig Hölty)「五月の夜」です。 (18664

 

昨年からヴィーン市立図書館で楽譜だけでなく、詩集なども調べてコピーをもらっていますが、1790年版(参考資料2)1803年版のHölty詩集は現在と同じ文字ですが、1816年版(参考資料3)1841年版のHölty詩集は所謂亀の子文字で印刷されています。1772年版の „Tagebuch einer Musikalischen Reise“ (参考資料4)は亀の子文字で印刷されていますし、1921年版の „W. A. Mozart von Herman Abert Herausgegeben als fünfte, vollständig neu bearbeitete und erweiterte Ausgabe von Otto Jahns Mozart“(参考資料5)も亀の小文字です。当然のことJahnの原本W. A. Mozart  1889(参考資料6)も亀の小文字です。この様に1930年時代までは亀の子文字が当り前と思っていたので、1790年版のHölty詩集を目にしたときには不思議に思いました。何故なのでしょうか?ご存知の方がいらっしゃいましたらお教えください。

 

以前からこの曲を歌っていて、1節と2節に入るときにいつも不思議と言うか、しっくりしない感じがしていました。と言うのは 

 

 Wann der silberne Mond                    白金の月影が

  Durch die Gesträuche blinkt,              林の茂みを洩れて、

  Und sein schlummerndes Licht              まどろむような光は

  Über die Rasen streut,                    芝生一面にひろがり、

  Und die Nachtigall flötet,                小夜鳥の鳴くとき、

  Wandl´ ich traurig von Busch zu Busch.   私はもの悲しく藪から藪へさまよう。

の後に、直ぐ次の節に入る事に何かしっくり来ないものを感じていました。何か内容が急に飛んでいるような感じがしていたのです。

  Überhüllet vom Laub                       葉陰に身を隠して、

  Girret ein Taubenpaar                     つがいの鳩が恋に酔うて

  Sein Entzücken mir vor                    クークーと鳴きかわすが、

  Aber ich wende mich                       私は向きをかえて、

  Suche dunklere Schatten,                  なおも暗さの増す木陰を求め、

  Und die einsame Träne rinnt.              孤独の涙は流れる。

 

  Wann, o lächelndes Bild,                  朝焼けの光のように、

  Welches wie Morgenrot                     わが心に浮かんでくる

  Durch die Seele mir strahlt,              ほほえんでいる面影よ、

  Find ich auf Erden dich?                  私はこの世でいつあなたに会えようか。

  Und die einsame Träne                     すると孤独の熱い涙はふるえ、

  Bebt mir heißer die Wang herab.           頬をつたってはふりおちる。

 

と言うのが我々の知っているブラームスが作曲したHöltyの歌詞なのです。

しかし昨年5月にヴィーン市立図書館でHöltyの古い詩集(1790年版)を見ていましたら150151ページのDie Mainachtが目の中に飛びこんできました。それには次のように書かれていました。

 

Wann der silberne Mond durch die Gesträuche blinkt,

Und sein schlummerndes Licht über den Rasen streut,

Und die Nachtigall flötet,

Wandl´ ich traurig von Busch zu Busch.

 

Selig preis´ ich dich dann, flötende Nachtigall,     美しく鳴く小夜鳥よ、汝を心から称えよう、

Weil dein Weibchen mit dir wohnet in Einem Nest´,    なぜなら汝の妻は汝と一つの巣に住み、

Ihrem singenden Gatten                             そうして美しく歌う夫に

Tausend trauliche Küssen giebt.                       千もの心地よい口づけを贈る。

 

Überhüllet von Laub, girret ein Taubenpaar

Sein Entzücken mir vor; aber ich wende mich

Suche dunklere Schatten,

Und die einsame Träne rinnt.

 

Wann, o lächelndes Bild, welches wie Morgenrot

Durch die Seele mir strahlt, find´ ich auf Erden dich?

Und die einsame Tränen

Bebt mir heisser die Wang´ herab !

 

となっていましたので驚きました。1803年版、1816年版も1841年版も同様に4節の詩になっていました。ブラームスが意識的に第2節を抜いて作曲したのでした。その抜けた一節が何となくしっくりしなかった原因のようです。勿論第2節を抜いても問題はないとブラームスは考えたのでしょうし、第1節と第3節の間の間奏で省略分を補ったのでしょう。短い間奏ですが、その間に第2節を心に浮かべることが第3節にすんなり入れると思えるようになりました。もしブラームスが省略しなかったとしたら、どんな旋律を作曲したのでしょう?

 

シューベルトもあまり知られていませんが同詩に作曲していましたので、調べてみるとHöltyの詩の通りでした。(参考資料7)[D-194]恥ずかしながら、あまりシューベルトの曲は有名ではないので、興味を持っていなかったため全く気が付いていなかったのです。しかもシューベルトは22曲もの歌をHöltyの詩で作曲しているのです。いかに一部の詩や曲しか僕が知らないかと言う恥ずかしい証明ですが。

 

ブラームスはテンポがSehr Langsam und ausdrucksvollでシューベルトはZiemlich geschwind.です。ブラームスはApril 866年に作曲していますし、シューベルトは1815517日に作曲していますので、1833年生まれのブラームスは33歳、1797年生まれのシューベルトは19歳の時の作曲です。シューベルトは同じ日に良く歌われる「月に寄す」[Hölty][D-193]も作曲しています。[D-196]An die Nachtigallで同じ詩人です。

 

北ドイツ人とヴィーン人、出生地は違いますが、ブラームスはヴィーンに出てきて以降ずーっとその地に住み着いたのですが、二人の作風が、また詩から受ける印象がここまで違うのは何故なのでしょうか?特別だという事はできるでしょうが、あまりに違うと思いますので、念の為に歌ってみます。

 

根本的に歌、音楽についての考え方の違う、また敵対していたとも言われているブラームスとヴォルフの「エオリアンハープに寄せて」の共通性と較べても不思議な気がします。詩から受ける印象はかなりのところ共通点があると思うのですが。

 

この件があってから、他の歌曲でも省略がないのかと興味を持ち調べていますが、今回歌う歌曲について省略は見つかりませんでした。

 

ブラームスの作品の重要な資料ではブラームスが初版に手を加えて全作品を揃えて残した所謂Handexemplarと称する楽譜がヴィーン楽友協会のArchivに所蔵されています。僕がブラームスを歌う時には必ずHandexemplarを参考にして比較し、自分流の楽譜を作ります。勿論一番信頼できる楽譜としてはMandyczewski博士が編集したブラームス全集を使用していますが、ブラームスの手書きを見ることは僕にとっては大切なことであり、また格別な意味があります。ペーター版とは違いがありますので、と言うのはペーター版ではかなりの部分初版やSimrock版と同じで、Handexemplarを全く参考にしておりませんので、Peters Editionを信頼することはできません。

 

次の曲もHöltyの詩ですので、この機会にHöltyについて少し述べさせていただきます。

 

Ludwig Heinrich Christoph Hölty17481221日にハノーヴァ選帝候国領内のMarienseeで牧師Philipp Ernst Höltyの子として生まれました。非常に活発な、好奇心に富んだ子供で、字が書けるようになると、早速物語や会話の中で気になった事等を書き留めるようになったそうです。めまい病でお母さんが亡くなったその週に彼は悪性の天然痘にかかり、長い間危機的状態で、顔面を失い、生来の活発さも無くなってしまいました。少年時代の多くの苦痛から彼の器官は勿論の事、彼の心はひどい状態で病後2年経って再び目が見えるようになったようです。彼の勉強に対する熱心さ、勤勉さは倍増しました。彼の父はゲッティンゲンのドイツ協会の会員で語学や学問に長じていました。

彼の父フィリップは息子にドイツ語のほかにラテン語、フランス語、ギリシャ語やヘブライ語の他に地理学、歴史など学校では習わない学問を学ばせました。彼は非常に勤勉で一度として落ち着いて食事をする事がなく夜は3時まで学んだとさえ書かれています。しかし彼は家庭を大変大事にしていて、勤勉さが原因で不機嫌になったり、物事に自慢げであったり、所謂読書狂になったりする事はありませんでした。

1775年5月初めにルードヴィッヒはゲッチンゲンからハノーヴァを経由してマリーエンゼーに、父の死後間もなく戻ってきました。彼は5月8日に友人フォス(Voss)に「私の病は死と生を行き来するようなもので、死を恐れています。君たち友人と生きる事を喜びたい。・・・」と書いています。同年秋にはハノーヴァに行き、結核で1776年9月1日に死ぬまでそこに留まりました。

 

 

作品46 「4つの歌」 „Vier Gesänge“ Op.46

 

„An die Nachtigall“  (Hölty) 「夜鶯によせて」  (No. 3)  (18687月)

 

この歌もブラームス歌曲で非常に良く知られた曲の一つです。おおよそ40年ほど前でしょうか、Hermann Reutter先生が公開講座をされた時の事です。僕は通訳をしていましたが、この曲を歌い始めた受講者に直ぐストップがかかり、先生が歌い始めました。

 

     Geuß nicht so laut der Liebentflammten Lieder

             Tonreichen Schall

     Vom Blüthenast des Apfelbaums hernieder,

             O Nachtigall !

 

歌詞の始まりからTonreichen Schallまでを一息に歌ってしまわれたことでビックリしました。確かにTonreichen Schall der Liebentflammten Liederですので、der Liebentflammten Liederの後で息を吸ってTonreichen Schallとは歌えないのです。勿論Vom Blüthenast des Apfelbaumsの間でも息は吸えません。ドイツ語の歌で息継ぎに結構気を使わなければ、文章が変なことになり聴衆に訳の分からないドイツ語になってしまいます。

余談になってしまいますが、ヴェルバ先生がシューベルト作曲「ガニメート」の最後のフレーズ „Allliebender Vater !“ を一息で歌えないものはこの曲を歌ってはならないとさえレッスンで発言したことがありましたが、日本製の楽譜では解説に „Vater !“ の前で良く息を吸うようにと書いてあるものさえあるのです。 

また戦後春秋社で出版された楽譜の声楽編では、当時の大御所が息継ぎを楽譜に親切に記入して下さったのですが、ドイツ語の文法を考えずに、ただメロディーの流れを考えて記入したのか、とんでもない所にも書き加えておりましたが、僕が帰国した1962年には息継ぎは全部消してありました。ただしアリア集ではいまだに作曲家の指定していない部分にと言うより作曲家がp と指定している所に、その前からクレッシェンド記号を追加した上で f にしているところがあり驚きました。何故こんなとんでもないことをする楽譜を出版し、販売しているのでしょうか?不思議です。音楽家も愛好家ももっと良い楽譜に神経を使いたいものです。信用できる編集者や出版社を厳選するべきと思います。そうすることでより良い音楽を表現できるのです。大は小を兼ねる事は音楽ではありませんが、「大きいことは良いことだ!」式の風潮が音楽界にはあるようです。ある外国人ピアノ教師が「日本にはピアニストはいない!皆フォルティストだ!」と発言していますが、その傾向はいまだにあるようです。

 

 

作品47 「5つの歌曲」 „Fünf Lieder“ No.1 最初の歌が

 

„Botschaft“  (Daumer) 「ことづて」  (18687月)

 

です。この曲も非常に良く歌われるブラームスの歌曲で有名です。原詩はペルシャ人のハーフィスでダウマーが独訳した詩です。ダウマーはかなりの彼の詩を独訳して詩集を出版しています。この他にも前回歌った作品32の歌曲集のなかにも彼の詩が3つあり、ブラームスはハーフィス=ダウマーの詩に全部で7曲作曲しています。現在のイランと言うと非常に宗教の束縛が強いように感じる国ですが、Hafisの詩から得る雰囲気、内容は自由で、大らかな夢の国のような気さえします。

ブラームスの作風についてある人は北ドイツの風土から歓喜を知らない作曲家だとか、どんよりした重苦しい北ドイツの天候から得た影響が強い、とか悪意とも取られえない言い方をする人もいますが、この曲に限らず、歌曲では明るい、伸び伸びした曲は結構多く、この曲も僕の大好きな歌の一つです。折に触れて数多く歌った曲の一つです。

クレッシェンド、デクレッシェンドの松葉印について、ある先生はAgogikのためのものでBeethovenから有効だといい、ある先生はローマン派以降ではAgogikは非常に大切だ、但しクレッシェンド=アッチェレランドではないし、デクレッシェンド=リタルダンドではない!とも言います。勿論大袈裟にしてはいけませんが、この前奏や間奏に示された記号はAgogikとして特に留意しなければ全くつまらない音楽になってしまいます。歌い始めにWehe, Lüftchen, lind und lieblich に入るまでの前奏を in Tempo と記号の通りと、Agogikとしてテンポを動かして弾いて貰います。いずれにしてもメトロノームの音楽は現代音楽でもないのではないかと僕は考えています。

 

 

„Sonntag“ (Aus Uhlands Volksliedern) 「日曜日」

 

No.3 がとても親しまれているブラームスの日曜日です。この詩はウーラントが収集した民謡詩集の中からのもので、ブラームスは非常に多くの民謡詩に作曲しています。その他にもドイツ民謡集(全49曲)のように民謡の収集もしています。素朴な詩に単純なメロディーをつけて親しまれている曲です。彼は有節歌曲として作曲しています、また16小節の伴奏のクレッシェンド記号はHandexemplarにはありません。特にする必要はないと言うことです。

 

 

„O liebliche Wange“  (Paul Flemming) 「おお 可愛い頬」

 

No.4がこの生き生きした曲ですが、この曲も次のNo.5 „Die Liebende schreibt“ (Goethe) もとても良い曲です。No.5の曲は恋する女性が手紙を書いている詩ですので、男性が歌うことはありません。「ブラームスが歓喜する事を知らなかった。」と評する人もいるようですが、そのような事はないと、この曲でも言えると思います。

今日取り上げた曲は、どれも暗い曲ではありませんが、僕の趣味がこのような曲を選ばせたのでしょうか?

作品48 「7つの歌曲」 „Sieben Lieder“

 

„Der Gang zum Liebchen“ (Bömisch) 「恋人への小道」 (No. 1)

 

この歌曲集の最初がボヘミア地方の民謡詩で可愛い若者の恋心を歌っています。大学の2年の時にヘッサート先生から頂いた曲で、この3拍子がとても新鮮に感じた当時を思い出します。この曲でも、記号をAgogikとしてとらえると、より生き生きします。

 

 

作品495つの歌曲」 „Fünf Lieder“

 

„Am Sonntag Morgen“ (Heyse) 「日曜日の朝に」  (No.1 

 

ハイゼが翻訳した「イタリア歌の本」の中から選ばれた詩に作曲されました。おなじ詩集からHugo Wolf46曲を選び作曲し「イタリア歌の本」と言うタイトルの歌曲集を作曲しています。男の心理状態が良くあらわれていると思います。日本で女性が歌ったのを聴いてビックリしたことがありますが、皆さんはどうお感じですか。

 

 

„An ein Veilchen“  (Hölty) 「スミレによす」  (No. 2)

 

この詩を歌っている心優しいと言うか繊細な若者の心情を僕の声で表現できるかどうか?心配です。どちらかと言えばズボン役が歌うことをブラームスは想定したのかもしれません。スミレの可憐さをブラームスは伴奏で表現しようとしたのでしょうか?とても線の細い音楽を想像してしまいますが、詩を考えると、もっと熱い若者の想いを歌っているのです。僕なりに歌ってみます。

 

 

„Wiegenlied“  「子守唄」  (No. 4)  18687月)

 

今日の最後はシューベルトと並び、あまりにも有名な子守唄で終わります。男性が歌うのはと思いますが、男女機会均等法が制定された現在では当然男性も歌わなければならないと思います。母性愛だけが子守唄を歌う権利ではないでしょう。父性愛の子守唄をお聴きください。

 

僕は孫のためには色々な作曲家の子守唄をテープに録音して孫が乳児の時に聴いてもらいました。爺馬鹿と言うやつです。子供の時にはそこまで気が回りませんでしたが、その時代にはウォークマンやカセットテープなどは存在しなかったのですから仕方なかったのでしょう。昨年末に78回転のSPレコードが聴ける音聴箱(おとぎ箱)Denon製を購入してSPの赤盤を久し振りに聴き、楽しんでいます。また4045年前にオープンリールで録音してカセットにダビングした当時のバイロイトの中継録音などを聴いていますが、中々味があり、昨今では非常に少なくなった稀に聴けるような良い演奏を聴いているようで、嬉しくなってきました。皆さんも古い演奏を少し聴いてみませんか?SPを聴くのも中々楽しいですよ。恐らくマネージャの心構えが違う事で、演奏家の育ち方が違ってしまったのでしょう。古き良き時代の音楽を心で感じるのは年寄りだけなのでしょうか?CDなどデジタルの音にはどうしても馴染めないのは僕だけなのでしょうか?

 

 今日のレクチュアコンサートで疑問、質問がありましたらどうぞ!もしなければこれで終りに致します。

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