白鳥の湖(オーストラリア・バレエ団)

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2007年7月14日(土)ソワレ

東京文化会館

 

振付: グレアム・マーフィー

作曲: ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー

構成: グレアム・マーフィー, ジャネット・ヴァーノン, クリスティアン・フレドリクソン

装置・衣裳: クリスティアン・フレドリクソン, MCエッシャー作「波形表面」     照明: ダミアン・クーパー

指揮: ニコレット・フレイヨン     演奏: 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

協力: 東京バレエ学校

オデット: カースティ・マーティン      ジークフリート王子: ダミアン・ウェルチ     ロットバルト男爵夫人: オリヴィア・ベル

女王: シェーン・キャロル     女王の夫: ロバート・オルプ

第一王女: ゲイリーン・カンマーフィールド     第一王女の夫: 藤野暢央

公爵: アダム・スーロウ     公爵の若い婚約者: カミラ・ヴァーゴティス

伯爵: ティモシー・ハーバー     伯爵の侍従: マシュー・ドネリー

提督: コリン・ピアズレー     侯爵: マーク・ケイ     男爵夫人の夫: フランク・レオ     宮廷医: ベン・デイヴィス

 

私がこういう作品を見る場合,一般的な演出を頭に置きながら,この演出は「ほぉ,なるほどー」だ,この音楽の使い方は「お,そうきたか」だ,という楽しみ方になってしまうのですよね。それがいいことなのか悪いことなのかはわかりませんが。
そういう意味でいろいろ楽しかったですし,美術はとってもすてきでしたし,各幕それぞれを見ればドラマチックに盛り上がる演出だったと思うのですが,物語全体というか話の構成というか・・・がひっじょーに「なんだかなー」だったので,「面白い」だけで終わりましたし,事前の情報から楽しみにしていたほど感動的ではなかったなー,という感じでした。

プログラムのあらすじを読んでいたのでストーリーはわかりましたが,この版の演出と振付は,そのストーリーを説得力ある物語として伝える(=感動的なバレエとして見せる)ことに失敗していたと思います。

 

1幕は,(おそらく)教会から出てきた直後のガーデンパーティーを舞台に,夫の不貞に傷ついた新妻が惑乱するまでを一気に見せて,周知の「ダイアナの物語」はここで終わり。
ゴシップで「つかみはオッケー」に持っていってその後独自の物語を描いたよい演出だと誉めるべきか,いくらなんでも結婚初日でここまで話が進むのは唐突だと貶すべきか。

2幕は,精神病院に閉じ込められたオデットが白鳥の世界に逃避し,その中では夫は彼女を愛しているが,現実に戻ると・・・という話になっていました。
胸を打つ物語になっていると誉めるべきか,えらくありきたりな展開だったと貶すべきか。

3幕は恋敵? を病院に放り込んで栄華の絶頂のロットバルト男爵夫人が開いた夜会。ここに,どういうわけか自信を取り戻したらしいオデットが艶やかに登場し,ジークフリートは彼女に夢中になります。男爵夫人は医者の一行を呼び出し,オデットは闇の中に消えていきました。
夫の愛を取り戻せてめでたいと喜ぶべきか,捨てられた男爵夫人に同情すべきか,この節操のない男が2人の女に愛されるのは納得いかないと怒るべきか。

4幕は,追ってきたジークフリートがオデットを見出し,2人は愛を確かめあうが,オデットは永遠の愛を誓いながら一人湖の底に沈んでいく・・・という謎の結末。
ここまでの経緯で傷つきすぎて生を選べなかった繊細な心の持ち主だと解釈すべきか,今後どう豹変するかわからない浮気男の愛なんか信じられないから死ぬしかなかったと考えるべきか,話が破綻していると貶すべきか。

 

特に困ったのは,2幕→3幕の唐突さです。
2幕の最後では,精神病院の窓辺で神経症的に震えていた哀れな女性が,どういうわけか「私は皇太子妃なのよ」と堂々と登場して,1幕とはうってかわって余裕かましているのですわ。
プログラムによると,ジークフリートは「彼女の淑やかな美しさ,まじりけのない純粋さに動かされ」るということらしいのですが,ぜーんぜんそういう風に見えないんですよねえ。衣裳こそ純白なものの「おお,これぞオディール」という感じ。要するにジークフリートは,1幕の男爵夫人やこの幕のオデットみたいな「押し出しの強い美女」がタイプだから,ここで心変わりしたのでは? などと思ってしまいましたよ。

その結果? 3幕→4幕も唐突。
4幕でのオデットは,再度「弱々しい傷つきやすい女性」に戻っておりまして・・・あれですかね? クスリかなにかでハイな状態だったのが,医師と看護婦を見た瞬間自分を思い出したとか?

という冗談でも持ち出さないと理解できない豹変ぶりで,一般的な『白鳥の湖』で王子がオディールを選んだあとのオデットのよう。そして,一般的なオデットのように死を選ぶわけで,このラストも必然性が感じられないものでした。
まあ,あのしょーもないジークフリートと「めでたしめでたし」になられても「ほんとに大丈夫か?」で落ち着きが悪いし,心中してくれそうな男でもないので,ほかの結末はないかもしれませんが,釈然としないことです。

・・・ということで,この演出は「そのストーリーを説得力ある物語として伝えることに失敗していた」と思うわけです。
もしかしたら,オデット役の演技力の問題だったのかもしれませんが・・・たぶん違うでしょう。構成が破綻しているのだと思います。
ん? ちょっと違うかな? 構成というよりは,人物の描き方が破綻していると言ったほうが妥当かも。

そして,その点では,準主役の男爵夫人の描き方についても同じ欠点があったと思います。
1幕の落ち着き払った態度,最後には女王の座に腰を降ろす振舞いからは,(ロットバルトという名を戴くにふさわしい)権力欲で生きている人柄なのかと思わされました。3幕でオデットに気圧されながら王子に愛を訴え,(自分では無駄と知りつつも?)最後の手段で宮廷医たちを呼び寄せ,王子が去ったあとで1人諦観のうちに? 椅子に座り込み,それでも正面を見据える姿には感情移入させられました。多くの制約の中で大人の女性が選んだ恋で,幸福なときもあったけれどそれは砂上の楼閣だと予感もしていて,もちろん結果を引き受ける覚悟もあったんだよね,なんて。(この日の舞台で心が動いたのは,このときだけだったと思う) で,終幕にまで登場したのには興醒めしました。よりにもよってオデットのテーマで登場して悲嘆に暮れた踊りを見せて・・・いやはや,海外のバレエ団の公演で(しかも,これだけ洗練された美術の中で)これくらい「演歌入っちゃってる」のを見せられるとはねえ。

女性2人に比べると,ジークフリート王子の描き方は破綻していなかったかもしれません。要するに「節操のない男」だという点では。
(話がそれますが,このバレエを「ダイアナ妃の物語」だと喧伝されてロンドン公演までされては,チャールズ皇太子があまりに気の毒だと思いました。この方の不幸な結婚は,好きだった女性とは結ばれず,家の事情で選んだ女性とは年齢や趣味が違いすぎてどうしても合わなくて,つい昔の恋人に・・・という事情だったのだと私は理解しています。それをですねー,結婚前夜まで逢引していたとか,結婚式にも愛人が堂々と乗り込んでとか,サナトリウムの見舞いにも女連れでとか,そういう話にされちゃうって? あげくは,いきなり男爵夫人を捨てて,別の女(つーのも変な表現だが)に夢中になっちゃうようなトンデモ男にされているし。いや,ほんと,お気の毒だと思いますです)

 

音楽の順番が大幅に入れ替えてあって,プログラムの解説によると,当初の曲順に戻して,削られたものを復活させて,後世付け加えられたものを削除した・・・ということでした。
黒鳥のパ・ド・ドゥの曲が1幕にあって,3幕にはチャイコフスキー・パ・ド・ドゥの曲が入っているところなどブルメイステル版と似ていて,そういう点ではたしかに当初の曲順なのでしょうが,当初の音楽どおりではないのでは? チャルダッシュを1幕に移したのは完全にこの版のアイディアなのだと思いますし,王子が悩みつつ踊る? モノローグや前述のオデットのテーマ? の複数回登場などもありました。曲のつなぎなどは,この版のために編曲した部分もあるのではないかなぁ?
聞き慣れたものと違うことによる違和感はありましたが,これも,「お,そうきたか」の一部。大いに楽しみました。

具体的には・・・
王妃登場の音楽で「いかにもエリザベス女王」な女王登場,パ・ド・トロワが三角関係の踊りになっていたこと,黒鳥のパ・ド・ドゥの音楽でのオデット惑乱(フェッテを「暴れまくる」に見せた振付の妙とコーダの音楽との相乗効果!),さらに,断末魔とでも呼ぶべき狂乱ぶりは道化の回転の音楽。ロットバルト登場の音楽で,サナトリウムの窓の外にはロットバルト男爵夫人が登場し,オディール登場のファンファーレではオデットが登場する・・・といった辺り。

演出はたいへん手際のよいものでした。
ディティールを積み重ね,伏線を張り,その結果(最初に書いたとおり)各幕それぞれがドラマチックですし,脇の人物の描き方もうまい。宮廷医と看護婦たちの不気味さのような作品に不可欠な存在はもちろん,伯爵と侍従というゲイカップルのような小技も効いていて,「見逃したことが多そう。もう1回見てみたい」と思わせられました。

そうそう。一番印象的だった演出。
1幕の半ばだったでしょうか,オデットとジークフリ−トがいっしょにお立ち台? に立って,人々の踊りを見ているのですが,ジークフリートの右手は,その下(舞台で言えば観客寄り)に立つ男爵夫人の首筋に。彼女の前には子どもたちが立っていて・・・夫もいたかも。

振付は,1幕と3幕はオリジナル。音楽を生かしながらストーリーや登場人物の感情をきちんと伝える「優れた現代バレエの振付」という感じでした。
でも,2幕(湖畔)のオデットのヴァリアシオンや4羽の小さな白鳥などはイワノフ振付を中途半端に改変した感じだし,群舞もイワノフを1/3くらいは踏襲している感じでしたし,振付家の意図が理解できませんでした。というか,中途半端で居心地が悪かったなぁ。

 

カースティン・マーティンは,大きな瞳が印象的な美人。踊りは上手できれいで,特にポアントで立ったときの足がきれいでした。華のあるバレリーナで,タイプ的には「たおやか〜,儚げ〜」よりは,3幕の「華やかに輝く」ほうが似合っていたように思います。

ロットバルト男爵夫人のオリヴィア・ベルは長身。個性派という感じ? こういう役に向いているのだろうなー,なんて思いました。顎を突き出す感じの立ち方が気になりましたが,役の雰囲気に合っていたとも言えるので,意識的にやっていたのかも?

ジークフリートのダミアン・ウェルチは,がっしりしたお顔立ちのハンサムで金髪。踊りは王子らしくなかったですが,この版の場合は問題ではないですよね。大変そうなリフトが山ほどある振付を見事に踊りこなしておりました。

ダンサーたちは,総じてプロポーションがよかったです。一部「あれ?」という方もありましたが,そういう方は宮廷の人々ではなくチャルダッシュに配するなど,キャスティングでカバーできていたので問題なしです。
私の好みからいうと,もうちょっと「ほっそり」系でお願いしたいのですが,これはあくまでも好みですもんね。健康美人と美丈夫が揃っていて結構だったと思います。

踊りは,うーん,どうでしょうね? もし今回上演されたのが普通の『白鳥』だったら誉めかねたのでは? という気はしますが,この作品に関しては上手でした。
ただ,白鳥と黒鳥に関しては,「少しは揃えてくださいね〜」と声を大にして言いたかったです。

 

最後になりましたが,美術(=衣裳,装置,照明の総体としての美術)が,それはもうすばらしかったです。描写する能力がないのですが,ほんとうにすばらしかった。
品がよくて,美しくて,趣味がよくて・・・ロシアや日本のバレエ団にありがちな「チープ」とは無縁,一方で,フランスや英国のバレエ団にありがちの「本格的というよりキンキラ・ゴテゴテ」もなく,ほんとうに趣味がよかったと思います。
特に,1幕の白々と明るい装置と衣裳の,そこで進んでいく物語と裏腹な感じが,とってもすてきだったな〜。

というわけで,感情移入して心動かされる演出ではありませんでしたが,たいへんたいへん楽しみました〜♪

(2007.06.25)

 

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