04年10月2日(土)
東京芸術劇場
第1部
『ばらの精』
音楽: M.ウェーバー 振付: M.フォーキン
ファルフ・ルジマトフ, アナスタシア・ロマチェンコワ
ルジマトフがすごかったです〜。
私はこの日,枯れた味わいのばらの精を期待して会場に赴きました。
ルジマトフが今この作品を選んで踊るからには,年齢相応の成熟した大人のばらの精を見せてくれるのであろうなあ,と。それが具体的にどういうものかはわからないけれど,包容力とか,大人の余裕とか,そんな感じのなにかを見せてもらうつもりだったのでした。
ところが,予想と違って全然枯れていないものを見せられて・・・びっくり仰天しましたし,悩殺もされました。
「枯れていない」どころではない。むしろ,若い頃よりもっと凶々しくなっていて,妖しさ全開,フェロモン出まくり,むせかえりそうな薔薇の香り。
いかがわしいと言いたいくらいの大人の色気が舞台から押し寄せてきて,うう,息が詰まって死ぬかと思いましたよ。
いや,いくらなんでもそれはおおげさですが・・・果実が熟れて落ちる寸前が一番濃厚な香りを出すっていうじゃないですか。ああいう感じの薔薇の香り。(あ,そうか。つまり枯れないで熟れたのだな)
跳ばないばらの精でしたが(いや,もちろん跳躍はしますし,きれいです。ただ,通常この役に期待される跳躍力は,今の彼にはない。いや,必要ない),ポール・ド・ブラがそれはもう美しくて,「ルジマトフならでは」と言いたいような美しさで・・・いや,ちょっと違う・・・そう,「この人にしかできない」と言いたい濃厚な美しさ。奇跡のような美しさ。
そして,その美しさは,「舞踏会デビューの夜に訪れてくる薔薇の精」などというロマンチックなものではない,と私は思いました。
そうですねー,あれは「魔」だったような気がします。妖しい美しさに魅入られて,随いていったら死に至りそうな・・・そういう危険な誘惑者だったのではないかなー?
すばらしかったですし,見られてほんとうによかったです。
異端の薔薇の精だと思いますし,作品のテーマに沿った表現だったのかは疑問ですが,私にとっては,今まで見た『ばらの精』の中で最高のものでありました。
なお,ロマチェンコワは,愛らしくてよかったです。
『海』
音楽: メルテンス 振付: G.コフトン
オクサーナ・クチュルク, ロマン・ミハリョフ
ええと・・・『ばらの精』の直後だったので,非常に印象が薄いです。すみません。
この二人のために振り付けられた作品というだけあって,安定していてよかったと思います。音楽はポップスだったかな?
『ライモンダ』よりグラン・パ・ド・ドゥ
音楽: A.グラズノフ 振付: Y.グリゴローヴィチ
ユリア・マハリナ, ウラジーイル・シショフ
マハリナはポアントがますます弱くなっちゃったなー,と思いましたが,故障明けという話も聞いたので,そのせいだったのかな?
雰囲気的には「大人のプリマ〜」という感じでさすがの華もありますし,エキゾチックな音楽の見せ方もすてきでした。
シショフは,初めて見たダンサーですが,すばらしいプロポーションに感嘆♪
頭が小さい。背が高い。首も腕も脚も長い。上半身がしっかりしている。あれでヒップから腿にかけてがもっと引き締まっていれば(太くてもいいのよ,筋肉なら),完璧ダンスールノーブル体型だと思いますー。お顔もよいし。
踊りも,「おおっ」と思うほどではなかったですが普通には上手でしたし(跳躍が低いのが難点だな。やはり腿の筋肉の鍛え方が足りないのであろう),騎士らしく勇壮な感じで存在感もあるし,マナーはちゃんと柔らかくてノーブルだし,今後が楽しみだわ〜,と思いました。
『アダージェット』
音楽: G.マーラー 振付: O.アライス
シャルル・ジュド, ステファニー・ルブロ
これも「海」っぽかったですね。クチュルク組が海岸でこちらが深海という感じかしらん?
「よい上演だなー」と思いましたが,振付はどうなんでしょう? 音楽が盛り上がるとリフトになる,という感じで,なんか安易な気がしました。
『海賊』よりグラン・パ・ド・ドゥ
音楽: R.ドリゴ 振付: M.プティパ/V.チャブキアーニ
エレーナ・エフセーエワ, ファルフ・ルジマトフ
エフセーエワは「おお,こういうふうに優雅に踊れるんだー」という感じ。
お顔も,そういう年齢になったのかほっそりとしてきて,垢抜けてきたなー,と思いました。もともと色白だと思いますが,肩や腕にも塗っていたのかしらん,抜けるように白い,と言いたいような白さで,ルジマトフの肌色との対比がまさに「姫君と海賊」風なのもよかったです。
ただ・・・彼女のプロポーションの悪さ(腕の長さの不足)は,メドーラを踊るには致命的な欠点みたいですね。このパ・ド・ドゥの振付がこんなにバレリーナを選ぶとは思っていなかったので,びっくりしました。
私は「踊りは容姿を超える」論者ですが,今回のエフセーエワに関しては,「決してあなたのせいではない。それはわかる。わかるが,私は見たくない」という心境になりました。
彼女が問題点が目に入らないくらいの踊りを見せてくれなかったのかもしれませんが,ルジマトフのパートナーについては,無意識のうちに小姑状態になるのかもしれませんねえ。
ルジマトフはすてきでした。
この人がこのパ・ド・ドゥを踊ること自体に意味があると思います。
このパ・ド・ドゥがこんなに似合うダンサーはほかにいないし,こんなに美しく踊れるダンサーもいない。何回見てもいいものはいい。そう思います。
でも,私はもう見なくてもいいみたい。
全幕上演はともかくパ・ド・ドゥに関しては,もう踊ってくれなくてもいい。見ればもちろん嬉しいけれど,以前のようには熱狂できないから。私が一目惚れした「ルジマトフのアリ」が舞台の上に現れることはもうないと思うから。
テクニックが衰えたとか,そういうことを言いたいのではないです。
もちろん跳躍の高さなんかは若い頃と違うけれど,逆に,若い頃の余計なものがなくなって洗練されているし,動きはいっそう美しくなっていると思うもの。客観的には,今のほうがよい踊りなのではないかと思います。
(念のために書きますが)私がほかのダンサーにもっと夢中になってしまった,ということとも関係ない。
そうではなくて,私が好きなのは,若い頃の彼が見せていた『海賊』だ,という話です。
舞台上にエネルギーの渦巻きを起こすような,自分でコントロールしきれないほどの勢いがあったアリ。それは,91年の「世界バレエフェスティバル」のときに新聞紙上で薄井憲二さんが「魂の燃焼」と呼んだもので・・・今の彼の踊る,洗練された『海賊』には,そういうものはないと思います。
彼の見せているものの本質が変わったとは思わないけれど・・・でも,違う。今の彼のアリには,深い精神性はあっても,自分も周りも焼き尽くすような炎はない。
もちろん,そういう踊りを,今のルジマトフに求める気はないです。あれは,悪く言えば「若気の至り」の踊り方ですから,もし今でもああいう踊り方をするとしたら,逆に「困ったもんだ」と言わざるを得ない。
だから,「ルジマトフの『海賊』パ・ド・ドゥ」は,私にとっては過去の思い出。
今後また見る機会があるかどうかわかりませんが(あるような気はする),見るたびに「美しいな〜,でも,違うな〜」と思うことでありましょう。
第2部
『LUZ DE LUNA』
音楽: D.ヤグエ 振付: C.ロメロ
ロサリオ・カストロ・ロメロ
今回一番困ったのはこの作品です。
だって,プログラムによると,ルジマトフが「本当に素晴らしいダンサーです」と語っているからさー,「おお,さすがファルフさんが気に入るだけある。すばらしいわ〜」と思いたいじゃないのよ。好きになりたいじゃないのよ。
でも,私にはつまらなかったの。
そもそもフラメンコのサバテアードの音が大の苦手だということもありますが・・・。
えーと,白い衣裳が珍しいフラメンコでした。
フラメンコ特有の雰囲気(適切な表現ではないかもしれませんが「土俗的な香り」というか)を消して現代的な舞台作品にした感じ。でも,その現代的にした結果が,私には,洗練された舞台芸術ではなくショーダンスに見えました。
いや,ショーダンス自体が悪いわけではないのですが,でも,私はバレエが好きでバレエを見たくて池袋まで行ったわけですから,その方向で洗練されたフラメンコであってほしかった。スペイン国立バレエが見せてくれるようなものであってほしかった。
そう思いました。
『ダッタン人の踊り』
音楽: A.ボロディン 振付: M.フォーキン/G.コフトン
エレーナ・エフセーエワ, レニングラード国立バレエ
それなりに面白かったのですが,期待ほどではなかったです。
そもそもの作品を舞台で見たことがないのでなんとも言えないのですが,フォーキンの現振付をコフトンがコンサート用の作品にしたということですから,その改訂のできが悪いのではないかなー?
なんか妙な振付なんですよねえ。
いや,真ん中の2人はいいのよ。女性は,複数の男性とのかなりアクロバティックなリフトなどがあって,見応えがありましたし,相手役の男性の動きも「いかにも異民族」なキャラクターダンスで悪くなかったと思います。
でも,周りの男性たちがなんかヘン。主役が踊る後ろで3人ずつ2組でポーズをとるところなど,かっこいいなー,もあるのですが,なんか妙なの。腕の動きのひらひら〜,ばたばた〜,が悪いんじゃないのかなぁ。
まあ,面白かったからいいですけどー。
衣裳も妙でした。これも,ニキヤ@花篭の踊り風と辮髪+太鼓の踊り風の主役二人は悪くないと思うのですが,周りがヘン。ダッタン人(ポロヴィッツ人)の習俗についての知識は皆無ですが,絶対アレは違うと思う。なんと形容したらいいかわからないので,あれぐろ・こん・ぶりおさんの表現を借りますが,「甲賀忍者」のようでありました。
まあ、面白かったからいいですけどー。
なお,エフセーエワはよかったです。
若いからキャラクテールっぽい色気はないですが,身体のキレがよくて大きく動けるから,小柄なのを十分補っていたと思います。
『レクイエム』
音楽: W.A.モーツァルト/C.ストーン 振付:笠井叡
ファルフ・ルジマトフ
舞踏の笠井叡の振付作品だという話でしたから,「どんなものを見せられるのかなー?」と多少不安に思っていたのですが,割合普通の踊りに見えました。
全体に静かな踊りで,上に跳ばないのがバレエと違うのかな。あと,腕の動きに「なんとなく珍しいなー」があったかも。
ルジマトフは美しかったです。
静謐な動きの中に詩情が溢れている感じで,私はしみじみ感動しました。
彼が踊るこういうソロは,「苦悩の人」とか「求道者」の趣が強く出ると思っていたのですが,今回はそういう面よりも,「優しさ」とか「はかなさ」とか「透明感」とか・・・そういう形容詞を使いたいような感じを受けました。
ただ,音楽にはかなり違和感があって,特に最初のうちは「やだなー」と思いました。
うーん・・・モーツァルトの『レクイエム』を数倍遅らせて編曲した作品なのだそうですが・・・私は「気持ち悪い」と感じてしまった。
おまけにルジマトフの朗読が重なっているでしょう? 私,ダンサーに声を出させるのは嫌い。生でなく録音で音楽の一環だと認識してはいるのですが,でも,ダンサー本人にあえて語らせる以上,そこには意味が生まれてしまう。ダンサーは身体以外のもので語ってはいかん,と私は思います。
でも,まあ,踊りがあまりに美しいので,見ているうちに音楽なんかどこかに行ってしまって,ほとんど気にならなくなりました。
そして,終盤,突然音楽は普通の速さになり,耳慣れた感動的な旋律が現れました。その瞬間,私は,それまで縛り付けられていたのが解放されたような感覚を覚えました。(誤解を恐れずごく単純に言えば,それまでの気持ち悪い音楽が普通の音楽になってほっとした)
そして,舞台上のルジマトフも,なにかから解放されたように見えました。
それはたいそう感動的な瞬間で・・・うーーーーん・・・たぶん,笠井さんは音楽の使い方がうまい,と誉めるべきなのでしょうね。
踊りの最後に,あたかも『瀕死の白鳥』を踊るかのような動きが現れました。ルルベして両手を横に広げて,静かに波打たせる・・・。
ここで,私はまた「やだなー」と思いました。どういう意味なのかわかりませんが,最後になって,そういう「いかにもバレエ」という動きを持ち出すって,安易じゃありませんか?
あまり論理的ではないかもしれないけれど,なんというか・・・そこまでルジマトフが舞台の上で見せてきたものがひっくり返されたような気がしてしまったのですね。
そして,作品全体が「最後に彼に残ったのはバレエでした」とか「彼は天職が踊りであることを知りました」とか「踊ることにより彼は自分を見出したのです」とか・・・そういう,ある意味浅薄な「ダンサーの人生を語る」作品に見えてしまって・・・。
(そういう内容が「浅薄」かどうかには大いに異論が出そうですが・・・でも,私は,そういうのは好きではないのですわ)
とまあ,多少の「?」はあったわけですが,ただ「きれいでした」で終わるよりは,なにか言いたくなるような刺激のある作品のほうがよい,ということも言えますよね。
この作品については,また見る機会があるでしょうから,そのときどんなふうに感じるか,楽しみにしておきましょ。
第3部
『シルヴィア・パ・ド・ドゥ』
音楽: L.ドリーブ 振付: G.バランシン
イリーナ・ドヴォロヴェンコ, マクシム・ベロツェルコフスキー
とてもよかったです〜。
擬古典調と言えばいいのかしらん,完全にグラン・パ・ド・ドゥ形式に則っていて,でも,バランシン作品だから難しそうな技が詰め込んであるの。それを,全然「大変そう」に見せないで,さらっと見せていて,見事な上演だったと思います。
特にドヴォロベンコは,上手で音楽的でチャーミングで,さらにプリマの輝きもあって,すばらしかったわ〜♪
ベロツェルコフスキーも,踊りはきれいだし,容姿もよくてすてきでした。衣裳のせいなのか,立ち姿の美しさが今ひとつで残念。(極端に言うと,お腹を突き出して立っているように見えた。いや,もちろん,そこまで極端には見えなかったですが)
『ムーア人のパヴァーヌ』
音楽: H.パーセル 振付: J.リモン
ファルフ・ルジマトフ, シャルル・ジュド, ステファニー・ルブロ, ヴィヴィアナ・フランシオジ
よい上演だったと思います。
去年のヌレエフ・フェスティバルのときはジュドだけが突出している印象だったのですが,今回はルジマトフも本領を発揮していたと思いますし,ルブロの透き通るような清純さ,可憐さはすばらしかった。フランシオジの世話女房的「囚われの女」もよかった。
でも,それでもなお,私には「うーむ,この作品はどうもよくわからん」が残りました。
あのー,いったい「友人」という人は,なにをしたかったの? なんのためにあんなことをしたわけ??
いや,話の筋は知っています。副官に選ばれなかったのを逆恨みしての姦計なんですよね。あるいは,黒人であるオテロが美しいデズデモーナを得て得意の絶頂にいることへの嫉妬。
でも,この作品は,「ムーア人」とか「妻」とか「友人」の話になっていて,もっと普遍的な感情とか人間関係を描いているわけでしょう? そのために,カッシオなんかは割愛して,緊迫した1幕ものに仕立てているわけでしょう?
それなのに(あるいは,そのせいで?),「友人」の所為の理由とか最終的な意図・目的が不明だから,結局どういう話なのかが腑に落ちなくて,私としては,見る度に消化不良の気分が残ってしまうのよ。
・・・と,ムーア人を不幸にすることだけが人生の目的であるかのようなジュドの名演を見ながら,思いました。
まあ,こっちが情緒的に幼いから,「そういう人は理解の範疇を超える」になっちゃうだけかもしれませんけどー。
ルジマトフはたいへん美しかったです。
内省的な雰囲気を生かして,疑うことを知らなかった高貴な人柄とか,妻を心から愛しんでいることを表現していたと思います。彼は「どろどろした愛欲のもつれ」関係は苦手だから,妻に対して段々疑心暗鬼になっていく過程の表現は今ひとつですが,その代わり「なぜこんなに立派な(=美しい)人が,こんなことを」的衝撃があるから,見る度に胸が痛くなる思いをします。
公演全体としては,コンセプトが判然としない感じでしたが,それは「ルジマトフのすべて」はいつもそうだから・・・。というより,ダンサーの個人ガラというのは,たいがいそうですものね。
全体としては楽しみましたし,あの妖しい「ばらの精」はずっと忘れないと思います。
(05.06.26)
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