白鳥の湖(レニングラード国立バレエ)

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01年01月17日(水)

東京文化会館

 

作曲: P.チャイコフスキー

台本: V.ベギチェフ, V.ゲルツェル
振付: M.プティパ/L.イワノフ  改訂演出: N.ボヤルチコフ

美術: V.オクネフ  衣装: I.プレス

オデット/オディール:スヴェトラーナ・ザハロワ  ジークフリート:ファルフ・ルジマトフ

ロットバルト:イーゴリ・ソロビヨフ  王妃:ユリア・ザイツェワ  家庭教師:アンドレイ・ブレグバーゼ

パ・ド・トロワ:オクサーナ・クチュルク, エレーナ・シェシナ, ロマン・ミハリョフ

大きい白鳥:イリーナ・コシュレワ, オリガ・プリギナ, オリガ・ポリョフコ, ユリア・カミロワ
小さい白鳥:ユリア・アヴェロチキナ, ヴィクトリア・シシコワ, タチアナ・クレンコワ, イネッサ・ソブカ

スペイン:ユリア・カミロワ, アンナ・ノヴォショーロワ, ヴィタリー・リャブコフ, アレクセイ・シヴァコフ(?)
ハンガリー:エカテリーナ・エフィーモワ, アンドレイ・クリギン
マズルカ:ヴィクトリア・エフィーモワ, エレーナ・フィルソワ, ユリア・カミロワ, オリガ・プリギナ, アンドレイ・マスロバエフ, ヤン・スミルノフ, ヴィクトル・イワノフ, ワシリー・グリュチク

2羽の白鳥:イリーナ・コシュレワ, スヴェトラーナ・ギレワ
4羽の白鳥:オリガ・プリギナ, エレーナ・フィルソワ, ユリア・カミロワ, オリガ・ポリョフコ

   

ルジマトフが,美しかったです。
今まで見た彼のジークフリートの中で一番美しかったし,今まで何十回と見た他の多くのダンサーによる『白鳥の湖』の中で,一番美しいジークフリートでした。もしかしたら,これからも数多く見るであろう多くのダンサーによる上演の中で,一番美しいものになるかもしれない,と思います。

 

1幕で登場したときから,あまりの美しさに唖然としました。登場したときから,すべての動きが,ポーズが美しすぎる。歩くだけで,杯を掲げるだけで,あいさつするだけで,そして,立っているだけで美しい。ファルフったら,今日は気合入りまくりだわ,最初からこんなに飛ばして大丈夫なの? と思うほどに。

この日のジークフリートは,若々しい王子ではありませんでした。舞台に歩み入るときから,王たるべき人の風格があり,人々のあいさつを受けて鷹揚に微笑む姿には,その地位ゆえの孤独が感じられました。(この舞台で,ジークフリートが笑ったのは,このときだけだったのではないかしら。)

ボヤルチコフ版では,1幕の王子は,ほとんど何もしません。ただ,宮廷の人々と領地の人々の中にいて,乾杯を繰り返しているばかり。踊りにはほとんど参加しないし,家庭教師も見守っているだけで勉学を迫りはしない。(おまけに,道化も登場しない。)
この演出自体は感心したものではないと思いますし,彼も私も若かった頃は(笑),もっと踊らせろよぉ,と怒ったものですが,今回のルジマトフを見ていると,この演出にもいいところがあるのかな,と思えてきました。

例えば,人々の踊る中,舞台の奥を,家庭教師やパ・ド・トロワの友人たちと,ただ横切るシーンがあります。
前回までは無意味に思えたこのシーンが,今回は,領地の繁栄を寿ぎながら,ゆるゆると通過するご領主様の視察行に見え,統治者としての義務と責任に縛られた,ジークフリートの立場が明瞭に見えてきました。

それから,母親である王妃の描き方。
王妃は,王子の不行跡をたしなめるわけでもないし,誕生日のプレゼントである弩も渡しません。花嫁選びについては告げたようですが,王子もそのことは先刻承知で,別にそのことでショックを受けたりはしない。要は,何のために王妃が登場するのか判然としない演出なわけですが,わかったのは,ジークフリートと母親の親子関係は王侯貴族のそれで,他人同様だということ。きっと,ジークフリートは乳母や養育係や家庭教師に育てられたのであって,王妃は(現代の私たちがイメージする)母親としての役割は何も果たしてこなかったに違いありません。この場でも,二人は非常によそよそしく,ルジマトフのマナーが完璧に美しいだけに,「母上,ごきげんよう」,「久しぶりね,王子」というあいさつが聞こえてくるようでした。

こうした場面が進む中で,王子がいかに重い責任を負って,束縛された生活を送っているか,そしていかに孤独であるかが,段々と伝わってきます。
だからこそ,王子は,あんなにも鬱々とした,翳のある表情をしていたに違いありません。
そして,だからこそ,この生活から一時逃れたくて森を訪れ,そこで出会った「白鳥の姿に変えられた娘」という荒唐無稽な存在との恋(あるいは,許されない相手との恋)に踏み込んでいったのではないか,そう思わされました。

 

湖畔の場面は,非常に様式的に踊られました。

ルジマトフは,パ・ド・ドゥの名手でもありますが,その真価は,パートナーを支えながら踊る場面ではなく,離れて踊るときの動きの調和や距離感の的確さやパートナーに向けて発する感情表現にこそ発揮されると思っていました。
しかし,この日のグラン・アダージオは・・・うーん,失礼ながら,我が目を疑いました。

かつての彼の王子役には,抑えようとしても溢れ出てきてしまう「何か過剰なもの」がありました。それは,たぶん「情熱」とか「魂」とか,そういう言葉がふさわしいもので,だからこそ『海賊』で一世を風靡したわけですが,でも,彼が完璧なダンスールノーブルになることを妨げるものだったろうと思います。
ですから,今まで見た「白鳥の湖」では,出会い,見つめあい,逃げる白鳥を追う・・・という初めのほうの踊りや去っていくオデットを引きとめようとする演技はすばらしくても,肝心のグラン・アダージオはあまり印象に残っていません。
ところが,この日は,その「過剰なもの」が,年齢と経験によるものでしょうか,それともザハロワという,これぞキーロフというバレリーナをパートナーに迎えたからでしょうか,見事に抑制されていて(あるいは昇華されていて),最初と最後のドラマチックさは抑え目で,グラン・アダージオは・・・詩情が溢れていました。いや〜,ルジマトフを誉めるのに「詩情」という言葉を使う日が来ようとは・・・(笑)。

客観的に言えば,「詩情」という賛辞は,ザハロワのほうに捧げられるべきでしょう。
小さな頭,細い首,長くて,よくしなる腕と脚という身体は,白いバレエを踊るために生まれてきたかのようです。顔立ちはきつすぎないし,上半身の表現はこれぞワガノワという柔らかさ。脚は現代的によく上がりますが,これもプロポーションのよさを表して効果的。
なにより,若さの力でしょうか,清らかな乙女らしい気品があるのがすばらしい。

そして,二人のパートナーシップが見事。ルジマトフは彼女には少々身長が足りないのですが,そんなことは忘れてしまうくらい,二人で作り出す動きやポーズは美しく,うっとりとする以上の・・・なんと言えばいいのかしら・・・信じられないものを見ているような思いで,ただ見ていました。

たぶん,私が今まで見た中で,最も美しいグラン・アダージオだったと思います。

それにしても,プティパ=イワノフの,この振付はすばらしい。その振付が求める動きを最も美しく踊れば,そこから情感が湧き出てくるのだなあ,余計な芝居なんか要らないんだなあ,と改めて感嘆しました。

そうだ,言い忘れてはいけない。白鳥たちも見事でした。そもそもここのバレエ団は,日本公演に臨む姿勢の真剣さが,キーロフの10倍くらいあるように思いますが,この日はルジマトフの気合が伝わったのか,いつもに増して緊張感のある,整った白鳥だったと思います。

 

2幕のジークフリートは,また現実に戻り,憂いの中に自分を閉じ込めて,儀礼的に母の手をとって,舞台に現れました。

花嫁候補との場面も,王妃に抵抗したりしないで,段取りは承知している様子で,淡々と儀式をすませます。しかし,やはり,この中から妻を選ぶことはできない・・・母親の怒りを正面から受け止めて,彼は,ゆっくりと首を横に振ります。(この首の振り方がすてきだったの〜。)

そのときオディールが現れ,彼は段々と彼女に引き寄せられ,ついに袖に去った彼女を追って舞台から去ります。しかし,決して,オディールに一目ぼれしたようにも見えないし,オデットが来てくれた,と喜んでいるようにも見えませんでした。では,なぜ,追っていったのか?・・・謎ですね(笑)。

民族舞踊を経ての黒鳥のパ・ド・ドゥでは,ザハロワは,美しくて可憐でした。
少々お姫様すぎて,妖艶さが足りないように思いましたし,脚の上げすぎが気になりましたが。いや,私は脚を180度上げること自体に反対ではないです,それが,黒鳥の表現になっているならば。ただ,この場面での彼女に関しては,全体がお姫様の雰囲気なので,合わなかったように思います。
でも,全体としては,悪魔の使いに見えたかどうかは別にして,非常に魅力的でした。

ルジマトフは,技術的には苦しかったようで,ヴァリアシオンの動きも簡単なものに変えていたように思いますが,とにかく,美しかったです。
特に見事だったのは,アダージオの始まり。オディールが横に大きく跳躍するところで,突如として,ジークフリートも同じ跳躍を見せたので,びっくり。(こんな振り,ありましたかね?)いや,跳んだことに驚いただけでなく,高さもタイミングも寸分違わないのよ。うーん,こんなことができるのは,世界でただ一人,彼だけに違いない。

そして,それ以上に,ジークフリートの険しい表情が印象的でした。
うん,この人は,オディールとオデットが別人だと知っていたと思いますよ,私は。だって,踊り方にも顔や身体の表情にも,恋の歓びなんか微塵もなかったもの。

ジークフリートは,笑顔を見せないまま,母にオディールを選ぶことを告げます。そして,ロットバルトに求められて,愛の誓いをするのですが,ここの表現がすごかったです。
もちろん,普通の王子のように,一瞬ためらい,そして愛の誓いをするのだけれど,その,誓う瞬間の表情が,歯を食いしばって痛みに耐えるかのような表情,あるいは,何かを振り切るような,捨て去るような表情で,あんなジークフリートは初めて・・・。

そう,このジークフリートは,オディールを選んだのだ。オデットと間違えたわけではない。オデットを捨てたのだ。

もしかすると,湖畔でのできごとは夢だったと思ったのかもしれない。それとも,目の前にいる,魅力的な,よい王妃になれそうな人を選ばなければ,それが,王になる者の努めだ,そう思ったのかもしれない。いずれにせよ,彼は,オディールを選んだ・・・そう確信しました。あの表情を見た瞬間に・・・。

そして,真相の暴露。
去っていくオディールを追うジークフリート。
再び舞台中央に戻った彼は,愛の誓いの仕種をもう一度します。そして,もう一方の手でその揚げた手を掴んで,その手を引き下げる。その,愛の誓いを捧げたほうの手が,苦痛に満ちた顔の前に・・・ああ,何ということをしてしまったのか・・・取り返しのつかないことをしてしまった・・・自分を許すことはできない・・・。
何というドラマチックな表現!!!
今まで見た彼のジークフリートの中で,最も激しい表現でした。
彼は,オディールに欺かれたのではなく,自分の意志で彼女を選んだのですから,その罪の重さ,深さは決定的です。彼には,自分を許すことはできません。
彼は,決然と王妃のもとに向かい,その足下に膝をついて,(母に抱きついたりしないで,一人の大人の男として)告げます。「母上,お別れを申し上げます」と。それは,自分の運命を選んだ男の姿。愛する人とともに滅びることを選んだ男の姿・・・。

 

幕は,悲劇的な美しさでした。

ボヤルチコフ版は,全体に淡々と進行します。もちろん嵐が起きたり,王子がそのさなかに舞台に飛び込んできたりはしますが,王子は(あるいは二人は)ロットバルトに立ち向かったりはしない。悔恨と許しの後で,二人が舞台の左右に引き裂かれるシーンも,何となく段取りっぽいし,最後に,二人が手を取り合って湖に沈んでいくのも,ロットバルトが愛の力で滅んでいくのも,見ていてよく伝わってこないままに,舞台が終わってしまいます。
たぶん,オデットとジークフリートは,ただ,湖の底に沈んで,死んでいったのだと思います。来世で結ばれたわけではなく。

カタルシスのない結末で,私は好きではありませんが,でも,この日ルジマトフが表現したジークフリートの,あの憂いと翳り,そして決定的なオデットへの裏切りを見てしまえば,それこそがこの演出に最もふさわしいものであると思いますし,この悲劇的な演出こそが『白鳥の湖』の本質なのかもしれないなあ,とも思います。

 

とても,感動的な舞台でした。
もしかしたら,この舞台が,私にとっては最後の,ルジマトフの『白鳥の湖』になるのかもしれません。だとしたら,最後に,ほんとうにすばらしい舞台を見せてもらいました。見ることができてよかったと,心から思います。
ありがとう,ファルフ・・・。

(02.1.14)

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