Cattleya  mendelii

原文  A. A. Chadwick

翻訳    花咲村 熊虞蘭土

 

Manley Hall (マンリー・ホール ; マンリー大邸宅) の庭園を見に行けば、いつも素晴らしい体験をすることができた。温室が44棟も連なっていて、全植物王国の連続体になっていた。─― それは素晴らしいおとぎの国だった。曲がりくねった歩道、熱帯のシダ゙が生い茂る渓谷にあるような滝、そして水生植物が密生している人工の湖もあり、それらを繋げる歩道には踏み石が敷かれていた。いたるところにヤシ、ソテツ、そして葉の美しい植物が生い茂り、パンジーの花壇に囲まれたアザレアが満開の温室もあった。

 蘭はManley Hall自慢の植物で、当時の最高の原種や変種が収集、展示されていた。Cattleya の原種は特に人気があり、The Gardener's Chronicle (ガーデナーズ・クロニクル; 園芸家年鑑)の代表は、1871年の春、Manley Hallの取材をしたとき、大輪濃色の16輪咲き Cattleya mossiae 'Manley Hall' を絶賛した。翌年、The Floral Magazine (フローラル・マガジン; 花の専門誌) Manley Hallを取材したとき、彼らは、爾後数十年間は、園芸界を悉く席捲するであろう華麗なCattleya新種の報道を行った。

  Manley Hallはイングランド、マンチェスターの木綿王 Samuel Mendel (サミュエル・メンデル) 郷士の広大な私有地で、大邸宅だった。Mendelは自分の庭園や温室を大衆に無料で公開した園芸の真の友だった。彼はまたBackhouse & Sons of York (バックハウス・アンドゥ・サンズ・オブ・ヨーク) 蘭商会の上得意で、Backhouseが自社の南米の採集人からCattleya新種の荷を受け取ると、Mendelは収集のためにその新種を買い取っていた。新しい未知のCattleya原種を入手したときなど、その興奮はあまりにも大きく、Samuel Mendelには殆ど耐えられず、その様は気の毒なほどだった。彼は雇っている管理人のPetch (ペッチ) に、花が咲き始めたら、夜中の何時だろうと自分を起こすようにと指示した。そのエポックメイキングな一大事が起きたとき、午前4時だというのに、Petchは忠実にMendelを起こし、Mendelはガウンとスリッパを引っ掛け、大急ぎで温室へ飛び込み、その新発見に畏怖して長いことその場に釘付けになっていたという。

 PetchMendel i を一つ付けて、mendeliと名付けたのだが、The Floral Magazineも、1872年のManley Hallに関する特集で、そのCattleya新種をCattleya mendeliと呼んだ。しかしながら、Backhouseは、単に未詳のCattleya原種として、このプラントをMendelに売ったので、実際には誰がこの蘭に名前を付けたかは今もって謎だ。

 Cattleya mendeliiは、二つの蘭商会つまりHugh Low & Co. of Clapton (ヒュー・ロー・アンドゥ・カンパニー・オブ・クラプトン;クラプトンのヒュー・ロー社) James Backhouse & Sons of York社とによって1870年に初めてイングランドに輸入された。最初の開花は翌1871年で、それはLowによって輸入されたものを買ったTottenham (トットゥナム) John Day (ジョン・デイ) のコレクションの中の個体だった。しかしながら、あらゆる名声、認識、そして名称を獲得したのはMendelのコレクションの中のBackhouseから買ったプラントだった。

 C. mendeliiの植物学的記載を誰が一番先に行ったかを知るのも困難だ。というのはこの種は園芸家達にあれよあれよという間に受け入れられたため、その正式な分類記載を誰もしないうちに確固たる種になってしまったからだ。そもそもはThe Floral Magazine1872年にそれに関する記事を書き、その中に、1本のバルブと1枚の葉も入れて1輪の花の白黒写真を、花の色に関する説明を付記して載

せた。その写真はC. mendeliiの花の特徴を明晰に示していて、The Floral Magazineのこの特集がこの種に関する最初の出版物として扱われることがある。しかしながら、ニュース記事だったので、その特集には著者名が無く、名前が無かったので、たとえこの種の命名者ではなかったとしても、Backhouse の名前がよく使われる。

 他に一般的に言われているのは、C. mendelii 最初に植物学的に記載された年はWilliams' Orchid Grower's Manual (ウイリアムズ・オーキッド・グロワーズ・マニュアル ; ウイリアムズの蘭栽培家教本) 6版に載った1870年だという説だ。しかし、これはVietch (ヴィーチ) が自分のManual of Orchidaceous Plants (マニュアル・オブ・オーキダセアス・プランツ ; 蘭科植物教本) の中で主張し始めたことで、極め付きの大失態だった。Veitchには付きがなかったのだが、その第6版は1885まで出版されなかった。つまり15年後にC. mendelii そこに記載されていただろうと考えられただけだった。1871年に出版された第4版はC. mendelii に言及すらしていないし、1877年版の第5版はC. mendelii を取り上げてはいるが、The Floral Magazine 5年前に記載した程ではなかった。

  Lowは初めて咲いたC. mendelii の花を植物学者H. G. Reichenbach(ハー・ゲー・ライヒェンバッハ)に送ったが、 Reichenbachは一見してそれらを当時のC. trianaeiの優良種だと判断したので、それらを新種として記載しなかった。Reichenbachは結局1888年にSander Reichenbachia (ライケンバッキア) に自ら記名して、適切な記載を掲載したが、Jean Lindenは、すでに、その3年前の1885年に、The Floral magazine同様、名前を"Mendeli” と綴って、自分のLindenia (リンデニア)に優れた記載を載せていた。

 過去というものは、最も明白な時代ですら、多少は霞んでいるのが常なので、即発的熱狂と熱望があまりにも強く、専門的生態など気にかけている遑もないうちに、誰も彼もにC. mendeliiが浸透してしまったというのが、今言い得る最も妥当なところだろう。それは、単に客が「ただ売ってくれさえすれば良い。」というケースだったのだろう。

  Cattleya mendeliiは疑いなく当時の最高のカトゥレヤだった。どこの洋蘭趣味家もそれがそれまでで最も美しいCattleya原種だと思った。The Gardener's Chronicle  は、それを「人気のある属の中で最も華やかな蘭だ」と称した。Reichenbachは「輝くばかりに美しい花だ」と称し、Lindenは「その花を見るだけで胸が高鳴る」と書いた。Watson(ワトゥスン)は、1890年の自著 Orchids: Their Culture and Management ( ゼア・カルチャー・アンドゥ・マネッジメントゥ; : その栽培と管理) の中で、「そのさまざまなヴァラィァティのなかで貧相だなどと言えるものはひとつも無い」という注目すべき批評を述べた。

 私が1940年代初めに初めて蘭の育て方を学んだとき、私にそれらの栽培を教えてくれた年輩のイギリスの蘭園の栽培家はいつもC. mendeliiを誉めていた。彼らはその美しい対照的な色合い 濃い紫のリップに対する非常に淡いラベンダー色のセパルやペタルについて語っていた。彼らはC. mendeliiの非常に幅広いペタルや大きくて20 cmもある花、そしてその花が草体の上にどんなに煌びやかに咲くか称賛を惜しまなかった。これらのイギリスの栽培家は、私が彼らを知ったとき、60代半ばだった。だからカトゥレヤ原種が洋蘭界の宝石だった頃の1890年代には彼ら自身も蘭について学んでいる若者だったことになる。C. mendeliiはまさしく王冠を飾る宝石だった。

 こうした熱烈な勧めがあって、私は長いこと ─― 50年余も ―― 美しいラベンダー色のC. mendeliiを探し求めていたが、ひとつとして見つけられなかった。そんなある時Sanderの有名な古書Reichenbachia (ライケンバッキア) のページをパラパラとめくっていて、初めて、私の先生達が口癖にしていたものを見つけた。その第2集 第159頁に、大きくて、際だっていて、鮮やかで、美しいC. mendelii 'Measuresiana' (メジャレシアナ) が載っていた。そのことごとくが件のイギリスの栽培家が絶賛していた通りだった。それは家を抵当に入れても手に入れたいと思いこんでしまうほどのプラントだった。本当に壮麗だった。The Orchid Review (ジィ・オーキッドゥ・レヴュー; 洋蘭概説) の編集長 R.A. Rolfe(アー・エイ・ロルフィー) C. mendelii 'Measuresiana' にすっかり耽溺し、この蘭を称揚した。「この種の比類なき美しさのお陰で、Reichenbachiaは史上最高の名画のひとつによって引き立てられている。」と述べた。

 多年に渡り、私が見てきたC. mendeliiの多くは、春咲の植物を魅了してきた。それらは比較的型の良い12.7 cm15.2 cmの花を咲かせた。それらのセパルやペタルは非常に淡いラベンダーで、時には白いこともあり、リップは淡色から極めて濃色のラベンダーまで様々で、たいがいの個体にはリップの中央に独特のストゥライプが放射状に入った。これらのC. mendeliiは切り花産業が始まった当時は切り花用にも栽培されたが、草花に関わる人々の好みがより色の濃い花に移っていくにつれ、C. mossiaeのようなより色の濃いラベンダー種に駆逐されてしまった。しかしながら、こうしたC. mendelii の中には、1880年代及び1890年代のC. mendeliiのペタル幅が広い巨大なものは皆無だった。こんな見事なC. mendeliiが存在していたならば、どうなっていただろうか。

 1800年代末ヨーロッパに輸入された最初のC. mendeliiがこの種の非常に見事な個体だったことは現在はっきりしている。この為、それらが収集家の垂涎の的になり、交配家は交配の際真っ先にこれに目を付けた。こうしたC. mendeliiは、かつて作出された最も優れた交配種のいくつかを含め、初期のCattleya交配種の多くの親になった。

これらの初期のC. mendeliiの交配種はしばしば非常に大きな丸い花だった。Brassocattleya British Queen (Bc. Digbyano-Mendelii × C. Lord Rothschild) はペタル幅が広く、オーバーラップする巨大な花を咲かせる優れた交配種のひとつだった。親のひとつ、初代異種交配種Brassocattleya Digbyano-Mendelii自体は、その優秀な花に対して、FCCを4個とAM2個を英国王立園芸協会から受賞した。C. mendeliiの他の初代交配種もまた大きな、丸い花を咲かせるものが多く、とりわけCattleya Atlantic (mendelii × trianaei) Cattleya Armainvillierensis (mendelii × warscewiczii) は優れていた。

  史上最も注目に値するCattleya品種改良家のひとりEileen Low (アイリーン・ロー) C. mendeliiの長所を言い尽くしえなかった。彼女はこの原種が交配種に優れた形と風格を遺伝することに気づいた。それらは貴重な希覯形質で、今日のCattleya複合交配種の多くにも痛切に求められるものだ。彼女はC. mendeliiがもう一方の親の色彩にむやみに影響を及ぼすことなくCattleya交配種の花を大きくし、形を改良することを知った。Cattleya mendeliiCattleya intermedia 'Aquinii' (インターメディア 'アキニー') の花を大きくし、形を改良するために用いられた片親で、1930年にはペタルにスプラッシュが入ったCattleya Suavior 'Aquinii' (スアヴィオール)を生み出した。C. mendeliiは、また、最も美しい深紅の初代交配種Sophrocattleya Thwaitesii (C. mendelii × Soph. coccinea)の片親でもあり、その交配種はSophrocattleya Doris (C. dowiana × Soph. coccinea)よりも形が良く、大きくて、赤い色も冴えていた。

  C. mendeliiセパルやペタルのデリケートな色合いは、極めて色の濃い紫であろうと、パステル調のラベンダーであろうと、唇弁の美しい色を引き立てて花の美しさに大きな効果を与えている。ロンドンの英国王立園芸協会はC. mendelii FCC 16個と AM 30個余を授与していて、殆どの展示花はリップとセパル及びペタルとのコントラストが美しかった。受賞した相当数のプラントはセパル及びペタルが白で唇弁がラベンダーだった。そしてC. mendeliiには他のいずれのCattleya原種よりもセミアルバの個体が多い。


C. mendelii var. semi-alba Carlos Arango NS 170 × 175, PW 60, LW 50 mm

しかしながら、それにも関わらず、発見されている真のアルバは極めてわずかだ。有名なalbaが2つあり、共にLow 商会が輸入したもので、ひとつはC. mendelii 'Bluntii' ( 'ブランティ' ) FCC/RHS で、そのプラントを発見したLow商会の山採り人の名に因んで名付けられたもうひとつはC. mendelii 'Stuart Low' ('スチュアートゥ・ロー' ) FCC/RHSで、通常この原種の中で最も優れたalbaと見なされていて、ペタルの幅が広く、NS(natural spread;自然な状態での横の差し渡し)20.3 cm の巨大輪だった。驚いたことに、'Stuart Low' 1950年になってもまだ購入可能だった。

今でも趣味家のコレクションの中に見出されている他の昔からある有名な個体は、美しいセミアルバのC. mendelii 'Thule' ('スーリー') AM/RHSで、 リップは魅惑的な風情を醸し出す淡いピンク調だ。

C. mendeliiにはペタルの色が濃い個体は比較的少なく、これらは、セパル及びペタルの淡色とリップの濃色とのコントラストが際立つ個体とは違って、それほど美しくはない。

また、Cattleya mendeliiには比較的花弁が薄いものがあり、それらには更に繊婉な美が添えられる。

  Cattleya mendeliiはコロンビアの蘭で、the Eastern Cordillera (イースタン・コルディイェラ;イースタン山脈)の海抜800 1200 mの地帯に生息している。1800年代の終わりに輸入されたプラントはPamplona (パンプロナ) Bucaramanga (ブカラマンガ) の間の地帯で採集されたものだと伝えられていて、しばしば自然にさらされた断崖やむき出しの岩に着生していた。

  しかしながら、この種の謂われは克明だ。1880年代には、コロンビアのコレクター(山採り人)に請求すると、彼らはC. mendelii 200ケースも送ってくれたが、1890年になると12ケースしか届かなくなり、時には土地の人が自分自身の園芸植物として採集し、栽培しているプラントまで買わねばならないことすらあったと言って、Frederick Sander は溢した。この原種を有名にし、交配が始まった頃のCattleya交配種に多大な貢献をしたC. mendeliiの昔の壮麗な品種は、すっかり姿を消してしまった。自生地の蘭を根こそぎ、そこに住んでいる人々の家を飾っている僅かなものまでも、文字通りはぎ取ってしまったからだ。ペタルの色が濃いCattleya交配種に対する人気が浮上したことと、またそれらがもはやジャングルからは補填しきれなくなったこともあって、栽培されていたC. mendeliiの昔のラベンダーの個体も徐々に姿を消していった。昔の崇高な王者は完全に姿を消し、過去のカラーの羊皮紙写本だけが残っていて、私たちにその威厳を思い起こさせてくれる。再び姿を現すだろうか。たぶん。しかし、これが出現するのを既に100年以上も待っている。どこか、広大なコロンビアの熱帯雨林の人目に付かない所にC. mendeliiのあのとびっきり優れた品種の遺伝子が生き残っていて、やがて、昔のあの巨大輪種が再出現し、Cattleya原種の黄金の時代だった1800年代の終わり頃のように蘭の世界を美しく飾ってくれることをただ祈るのみだ。その時まで、今もなお栽培されている僅かなC. mendeliiを楽しむことはできる。というのはそれらは何処にもある巨大輪Cattleya原種のうっとりするほど美しいものの中に混じっているからだ。それらは収集家の宝であり、栽培家の至上の喜びだ。

 

How to grow Cattleya mendelii

 CATTLEYA mendeliiはおそらくあらゆるCattleya原種の中で最も栽培し易すい原種だろう。生長力旺盛で、毎春各花茎に3〜4輪は確実に開花する。他の殆どのCattleya原種よりも根腐れしにくく、根がよく張る。Cattleya mendeliiは合衆国では通常4〜5月に咲き、数週間は持つ。真夏に新たな生長を始め、晩秋完結する。栽培環境が良ければ、1シーズンに2芽出ることもある。新芽が完成すると、C. mendeliは2〜3月にシースの中に蕾を形成し始めるまで休眠する。根に損傷を与えないために冬季は給水を控えめにする。日当たりと風通しを良好にし、最善の生長と開花を計る。適温は普通のカトレヤと同じで、夜間1416℃、昼間2729℃だ。

 Cattleya mendeliiは最も病害虫の被害の少ない植物のひとつで、初心者向きの蘭として薦められる。今日入手できるC. mendelii は、昔のような巨大で丸い花ではないけれども、それらは今も尚見出すことができるうっとりするほど美しい大輪系カトレヤの仲間だ。

 

― 訳 者 か ら ―

外国語の発音について 種名、個体名、人名、誌名、カタログ名等は原語で表示し、発音はできる限り(   )内にカタカナで示すように努めたが、交配名や交配に使われた親などを示す(   )が後に続いたり、既に(   )がある場合などは煩雑を避けるため割愛した。また、全てを英語の発音とせず、H. G. Reichenbach (ハー・ゲー・ライヒェンバッハ)はドイツ語の、the Eastern Cordillera (イースタン・コルディイェラ)Pamplona (パンプロナ) Bucaramanga (ブカラマンガ)などはスペイン語の発音を示した。

 

C. mendelii の年暦

1870年 初めてイングランドに輸入される

1872年 The Floral Magazine PetchMendel i ”をひとつだけ付けて名付けたmendeli の名で、記事として記載

1885年 Jean Linden, Mendeli と綴ってLindeniaに記載

1888年 H. G. Reichenbach 記載

1880年代 ヨーロッパへの供給は無尽蔵

1890年  供給は枯渇状態となる