AOS会報の紹介

   AOS(アメリカ蘭友会)に入会し、The Magazine of American Orchid Society(アメリカ蘭友会誌)を定期購読している。といっても、気に入った記事しか読まないのだが…   1999年9月号に次の非常に興味ある特集が載っていた。 趣味家は原種志向が強いのでここにその翻訳と写真を紹介し、多くの方々の入会をお勧めしたい。会費は月々の会誌の送料込みで5〜6,000円だ。魅惑的なカラー写真が多く、思い掛けない情報との遭遇も頻繁で、広告も多く、洋蘭界のグローバルな流れを知るよすがともなり得る 。


カトレヤ ラビアータ 物 語

“幻 の 蘭”

原文、写真  A. A. Chadwick

翻訳         花咲村   熊虞蘭土 

   イギリス、 バーネットの園芸の奨励家 William Cattley(ウイリアム・カトレイ)は、 181811月、大輪のラベンダー色の蘭を咲かせたとき、 園芸史上最も熱心な収集冒険のひとつをスタートさせた。 それはその後150年間洋蘭界および蘭に対する大衆の認識を支配してしまうほど豪華な大輪のラベンダー色の蘭のグループすべての導入へと発展していく冒険だった。

 さらに、1819年の秋、 スコットランドのグラスゴー植物園で Cattley の蘭に似た植物がいくつか咲き、イギリスの植物学者 John Lindley(ジョン・リンドレイ)1821年に出版した彼の著書Collectanea Botanica (コレクタニア ボタニカ;植物集録)の中でこの蘭に関する解説を書いた。Lindley は、この魅惑的な新しい蘭に若干の説明を加え、それを Cattleya labiata (カトレヤ ラビアータ)と呼んで、 洋蘭界においてWilliam Cattley の名を永遠に不滅のものとした。

   しかしながら、こうしたすべての経緯の中で、歴史は、これに纏わるすべての出来事が起こり得ることを可能にした男 William Swainson(ウイリアム スウェインスン)のことを忘れてしまっているようにみえる。Swainson はグラスゴーのような植物園に送る為に人跡未踏のブラジル北部の熱帯ジャングルの中を悪戦苦闘して探索し、コケ、シダ、及びその他の原生植物を採集した植物学者だった。彼が採集したプラントの中には C. labiata も若干あり、カトレイもグラスゴー植物園もこれらのプラントを受け取った。

  Swainson は、C. labiata の発見ばかりでなくその将来にも特異な影響を与えた。それというのもその発見後71年間、園芸界が C. labiata を見つけることができなかったのは彼のせいだと言えなくもないからだ。

   非常に貴重な植物の所在が分からなくなり、 園芸界全体がどのようにしてそれを捜したかは、 蘭の歴史の中で最も奇妙な話のひとつだ。 C. labiata を捜す為に、 1830年から1880年代にかけて、 最も優秀で、 最も経験豊富な植物採集人をブラジルへ派遣したイギリス、 フランス、 ベルギーの主要な洋蘭業者の努力にも拘わらず、 Cattleya labiata は見つからなかった。

   勿論、 Swainson は、 どこで C. labiata を採取したかを誰かに教えることを忘れ、そのうえ、 彼を見つけ、 尋ねることが誰にもできないニュージーランドの荒野の中に姿を消していて何の役にも立たなかった。 また Swainson C. labiata をリオデジャネイロの近くで発見したのではないかというイギリス当局の推測も役には立たなかった。 更にまた別の動植物学者 Dr. George Gardner(ジョージ ガードナー博士)が居て、 彼は 1836年にブラジルへ渡り、 蝶、 小鳥、 そして何やかやの園芸植物を捜していた。 その博士が、 リオから北へ15マイルほどのトップセール山やオルガン山脈で見たことがあるので、 C. labiata はリオデジャネイロの近くに自生していると“断言した。" Gardner は、 自分の発見を証明する為にその植物の標本をイギリスへ送りさえした。

  Gardner は、ブラジルではコーヒーや他の農作物を植える為に C. labiata の自生地を凄まじい勢いで破壊しているので、 この品種はおそらく2, 3年でリオデジャネイロ州から消滅してしまうだろうというさらに深刻な報告をした。 このショッキングなニュースを聞いて、ヨーロッパの収集人たちは、 コーヒーが C. labiata を駆逐してしまわないうちに、 それを発見しようとさらに力を入れ、彼らはリオデジャネイロに群がったが、 誰一人としてたったの一株も見つけることができなかった。 ガードナーの予言はすでに起こってしまったのだ。 つまり C. labiata の自生地は破壊しつくされしてしまい、 この植物はもう永久に絶滅してしまったのだと結論を下す者が多かった。

   フランスの蘭の収集家 Louis Forget(ルイス・フォーゲット)が、 リオデジャネイロには C. labiata の影も形も全然無いのだから、 Gardner C. labiata をリオデジャネイロでは絶対に発見していないはずだと大胆に言い出すようになって初めて事態は解決の方向へ向かって動き出した。 落胆した The Orchid Review (オーキッド レビュー)の編集者 R. A. Rolfe(ロルフィ)はキュー王立植物園で Gardner の枯死した標本を“抜き取り、" それらを詳細に調べた後、 Forget 氏の言う通りだと結論を下した。

Gardner はリオデジャネイロ州の

オルガン山脈でも他のどこでも、

C.labiata を見つけはしなかった。

Gardnerが見つけたプラントは

Laelia lobata (レリア・ロバータ)

だ った。 そして L. lobata は、

自然保護など念頭に無かったコー

ヒー栽培者の開発にも拘らず、

今もなおそこに自生している。

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Laelia

lobata

                                                 

  Gardner C. labiata の識別を間違えるのが得意で、 何年もの間誰もかもをお目出度い蘭ハントへと駆り立てた。 ある旅で、 彼はパライバ川のほとりでCattleya warneri (カトレヤ・ワーネリー)を発見した。その川はリオデジャネイロ州とミナスジェライス州の境界になっている。もう一度、彼は C. labiata を見つけたと報告し、 まもなくヨーロッパの採集人たちはそれを求め心弾ませてパライバ川をくまなく踏査していた。 パライバ川周辺でお目当ての貴重な蘭を見つけることができなかったとき、 蘭栽培者たちの中には一体ブラジルに C. labiata は生息していたのだろうかと疑問を抱き始める者も出てきた。

  Gardner を公平な観点から評価すると、 1836年から1841年まで彼がブラジルへ行った当時は、蘭、特に人気のあるカトレヤやレリアの新種の名前には随分混乱があった。 同一の研究者であっても新しい同一の蘭に別々の名前を付けたりした。 また、例えば、ほかならぬ John Lindley ですら Laelia lobata Cattleya lobata と分類したりした。だから私たちは Gardner に努力賞Aを与え、カトレヤのジャングルを荒らし回っていたヨーロッパの山採り職人たちの手による絶滅から C. labiata を心ならずも結果的には保護することになったのだから彼の功績は認めてやらねばなるまい。 C. labiata の場合、 見つけられないものを荒廃させることはできないのだから。

   勿論、 Swainson C. labiata はリオデジャネイロ州ではなく、ペルナンブコ州で発見したのだと誰かに伝えていさえすれば、こうしたことは何も起こらなかっただろう。 ところが、彼は口では教えなかったけれども、どこで見つけたかを誰もかもに教えるべきだつた概要、つまり1819年の自分のブラジルの旅に関する記事を、本当は書いていたのだった。 the Edinburgh Philosophical Journal (エジンバラ・フィロソフィカル・ジャーナル)の中で、Swainson は『まず最初にリオデジャネイロへ行く同業者諸氏の慣わしには従わず、 私は、 1816年の暮れ、 ペルナンブコ州のヘシフィ(Recife)に上陸し・・・』と書いていたのだった。Swainson はその当時は無名の“寄生植物”(C. labiata)をどこで見つけたかは言わなかったが、 その含意は明確だった。 そして71年後の1889年、C. labiata はついに再発見された。 ブラジルのペルナンブコ州で C. labiata は何ものにも妨げられること無く、すくすくと生長し続けていたのだ。 再発見されたとき、 それは蘭など捜してもいなかったある人物によって見つけられた。 

   Cattleya labiata はパリの Moreau(モロー)氏という人が雇ったコレクター (collector;採集人)によって再発見された。 Moreau は自分の博物館に新しい昆虫の標本を増やしたいと考えてブラジル中部や北部にコレクターを派遣していた有名な昆虫学者だった。 彼はまた趣味で蘭も若干栽培していたので、 彼のコレクターはペルナンブコ州で見つけた大輪のラベンダー色の蘭を50株彼に送った。 信じがたい偶然の一致なのだが、 ちょうどそのプラントが咲き始めたとき、 イギリスのサンダーズ蘭商会の Frederick Sander Moreau の所に立ち寄り、 それらは長いこと幻となっていた C. labiata だと判明した。 その場所を秘密にしておこうなどという商魂は全くなかったので、 Moreau は自分の派遣したコレクターがどこで C. labiata を見つけたのか Frederick Sander に嬉しそうに説明し、 秘密は突然あらわ()になったのだった。

  C. labiata の再発見はThe Orchid Review(オーキッド・レビュー)によってその年の特に重要な出来事として報道され、 やがてC. labiata の何千という新しく輸入された株が洋蘭界に溢れた。 1889年と1907年の C. labiata の再導入の間に、 新しく且つ際立った色彩模様の C. labiata が展示され、 the Royal Horticultural Society(ロイヤル ホーティカルチュラル ソサイァティ;英国王立園芸協会) C.labiata FCC(First Class Certificates)15個とAM(Awards of Merit)22個を与えた。

  1800年代に最も人気があり、 需要があった洋蘭は大輪のカトレアだったので、 まもなく John Lindley のような体系的な植物学者とこれらの植物を栽培している園芸家の間に、 カトレヤの定義は何かに関して論争が起こった。 結果として、 例えば、 1894年まで、(C. labiata の変種として分類され、) あの Vietch(ビーチ)でさえ Manual of Orchidaceous Plants (マニュアル オブ オーキダセアス プランツ; 蘭科植物教本) の中で C. labiata trianaei とか C. labiata mossiae などと記していた蘭が Cattleya trianaei Cattleya mossiae となった。

   一度だけでも栽培家が植物学者に勝ったことを知ると気分がスカッとする。 そして今日私たちは大輪のカトレヤを C. labiata の変種としてではなく、 それら独自の名前で呼んでいる。 しかしながら、植物学者でさえこの点で見解が一致している訳ではない。

   しかし、 私たちはいまだに私たちを惑わす当時の遺風を引きずっている。Cattleya labiata vera" とか Cattleya labiata autumnalis" というような専門用語がまるで C. labiata の特別な個体ででもあるかのように、 今もなお出版物、 蘭の名札及び販売カタログに出てくる。 vera" autumnalis" という用語は、 C. trianaei C. mossiae C.labiata の変種として分類されていた頃、 C. labiata そのものを他と区別するために用いられていた。 (今日の分類では C. labiata には亜種が無く、 C. labiata には C. labiata しか無く、) C. labiata という名の付く蘭はすべて本物(vera") C. labiata ということになるし、 C. labiata はみんな秋(autumnalis")に咲くのだから、 vera"(本物の)autumnalis"(秋咲きの)には今はもう何の意味も無い。

   大輪のカトレヤの原種の中で、C. labiata はその魅惑的な歴史の為ばかりではなく、 大輪の Cattleya 原種の中堅に位置するという理由でも最も興味あるもののひとつだ。 この意味で、 C. labiata を大輪系カトレヤの“type species"(『基準種』)とするのは多分賢明な選択だろうし、 それらはカトレヤの Labiata Group などと言ってよく使われている。

Cattleya labiata は花型が最高のカトレヤの原種ではないけれども、 決して最悪ではない。 1花茎に沢山の花は付けないけれども、 花茎毎に4,5輪は確実に咲く。大輪系カトレヤの中では比較的背丈の高い部類で、C. mossiae C. trianaei よりは伸びるが、 C. warscewiczii(ワーセウイッツィ) Sanderiana(サンでリアナ)タイプほどではない。 堂々たる容姿で、逞しく生長し、花茎に付く花は互いに適度な間隔を保ち、 大きさも程良い。

 シングルシースのコロンビアやべネズエラのカトレヤとは違い、C. labiata は通常ダブルシースだ。 Cattleya labiata は秋に咲く唯
一の大輪系カトレヤで、春咲きのブラジルの近似種 Cattleya warneri (ワーネリー)とは開花時期によって簡単に区別できる。

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double

sheath

    また Cattleya labiata には光の調節が効く。 日照時間を短縮すると、 実際年中いつでも花を咲かせることができる。 秋、 日が短くなると自然に咲くのだから。

   他のどんな Cattleya にも増して、 C. labiata はその交配種に優れた素質を遺伝する。花茎は葉の上にすらりと立ち、 花は互いに混み合うことはない。 今日の多くのカトレヤ交配種に切実に求められている性質は容姿端麗だ。 展示で見栄えのしない株だと丸型の花でもあまり価値がない。

   Cattleya labiata には C. warscewiczii よりも沢山のいろいろな色彩の種類があるが、C. trianaei ほどはない。 最も一般的なリップの彩色は薄いラベンダーの縁取りが付く全面色斑の無い濃紫紅色だ。

    多年に渡り C. labiata の数多くの美しい白花が発見れている。 最も有名なうちの二つは E. Ashworth(アシュワース)の昔からある個体‘Harefield Hall'(ヘアーフィールド・ホール) John Lager(ラーガー) の‘Alba Plena'(プレナ)だ。 賞を受けた最も初期の白花は‘alba' FCC/RHS(1892)と‘alba Purity'(ピュアリティ; 清純)FCC/RHS(1907)だった。 そしてそれらには、 Alba Plena'のように、 喉に黄色がほんの少し入る。

  C. labiata の最も有名な simialba は‘Cooksoniae'(クックソニエ), FCC/RHS(1895)と‘Mrs. E. Ashworth', FCC/RHS(1896)だ。両方とも人目を引く花で、 この100年その高い評価は止まるところを知らず、今日もなお趣味家によって栽培されている。

Cattleya labiata 'Cooksoniae'

 

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Cattleya labiata 'Monarch'

  C. labiata の優れたラベンダーの個体は薄いラベンダーから‘Monarch'(モナーク;君主)のような印象的な濃紫紅色までさまざまである。 'Aruba', AM/AOS(1982) や‘Bahia'のような C. labiata の改良種を作り出すためにこれらの昔からある美しいラベンダーの個体間で交配が何度か行われてきた。

   C. labiata は初秋を告げる花だが、 沢山のもっと派手で、 もっと花を付ける秋咲き交配種がそれをアッという間に凌駕してしまったので、 1年のこの時期の君臨も比較的短命だった。 1940年代私が十代の頃までには、 C. labiata ではなく、 色彩が強烈に濃い Cattleya Fabia (labiata X dowiana) とか 派手な Cattleya Peetersii (labiata X hardyana) のような初代交配種が標準的な9月の切り花になっていた。 いろいろな複合交配種が10 11月の Cattleya の切り花の需要を満たし、 C. labiata は営利生産からほとんど姿を消していった。 秋咲き交配種が出回り C. labiata はこうして急激に衰退したので、 C. labiata の昔の賞を受けた美しいラベンダーの個体もほとんどが消滅していった。 そして悲しいかな、今日ではごくわずかが栽培されているだけだ。

  C. labiata はヨーロッパへ渡った最初の大輪系カトレヤだったので、 その発見に纏わる数え切れないほどの幻想的な物語の犠牲となってきた。 最も突飛な話のひとつは C. labiata William Swainson のシダやコケの『梱包材料』として使われたという逸話だ。勿論、この逸話で思い当たるのは、C. labiata William Cattley の温室で咲くまでそれにどんな値打ちがあるのか分かっていなかったことだ。

 C. labiata がシダの回りに巻かれていたのは事実だが、 これは両方の植物の相互保護で、 輸送手段として最も実用的な方法だったというだけのことだ。 Swainson C. labiata の美しさを知っていたはずだ。 花季直前にペルナンブコへ到着したのだから。 Swainson はまた、当時は寄生植物と見なされると思われたこれらの植物を受け取って William Cattley がどんなに喜ぶかを知っていた。 なぜならそのようなものはそれまでヨーロッパの園芸植物の中には全然無かったからだ。

     蘭の熱狂的愛好家の新しいうねりが押し寄せる度に大輪の Cattleya の原種が再発見されるにちがいない、と思われる。 流行が変わるにつれて、 それらはしばらく忘れられることもあるが、その優雅で華やかな美、 心地良い香り、 そして千万無量の変化に富むが故に、蘭愛好家はカトレヤの原種を常にこよなく慈しみ、育んできた。だからその中に永遠に絶滅してしまう種があろうはずがない。

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 C. labiata atro-purprea 'Escura'

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 C. labiata v. autumnalis 'Foleyana' CHM/AOS

 

 

 

Cattleya labiata の栽培方法

   Cattleya labiata は最も生育が良く、 疑いなく最も栽培しやすい Cattleya の原種のひとつだ。 合衆国では通常2月に生長し始め、6月までにその新芽が完成する。このリード・バルブが十分早く成熟すれば、しばしば2番芽を出し、それは7月下旬か8月上旬には完成し、その新しいバルブ両方に同時に花が来る。個体によって、C. labiata は9月から11月にかけて咲く。 花後は休ませてやるべきで、 水も控えめに与えるべきだ。 休眠期の給水過多は根を腐らせ、 春の生育を妨げる。

  他のほとんどの Cattleya の原種と同じで、 C. labiata は多量の日照と風から恩恵を受ける。 1花茎に5輪咲かせたければ、葉がやや黄ばむぐらいの日照がよい。 植え替えは、 春、 最先端の偽鱗茎(pseudobulb;シュードーバルブ)の新しい根が活発に動き始めるや否や行うのがよい。

── A. A. Chadwick

 

A. A. (Art) Chadwick is a director of Chadwick & Son Orchids, Inc., in Powhatan, Virginia.

520 Meadowlark Lane, Hockessin, Delaware 19707  USA