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  残像



 その時。
 本田は既に崩壊を知っていたのだ。

 特別な意味での私の手を、拒み続けてきた彼が、不意に花綻ぶように渡って私を受け入れて
くれた。
 『香……』
 秘めやかに囁かれた己の名は、蕩けるように甘く耳を擽る。
 大きく広げられた腕を、私は何の疑問も持たず。
 ただ、溢れんばかりの喜悦を湛えながら、引き寄せて抱き締めた。

 国同士の思惑はさて置き。
 傍目から見れば日本の属国となったはずの私に、本田はどこまでも優しかった。
 どうして、そんなに良くしてくださるんですか?と問えば。
 贖罪のようなものかもしれません、と寂しそうな笑顔と共に返事があった。
 後に、嘗ては兄と呼んだ人物との確執を知った、その時。
 私はただ。
 彼に棄てられても、彼を信じていようと、それだけを思った。

 『菊さん……』
 唇に触れるのは初めてではなかった。
 眠っている彼の唇を何度も啄ばんでいたから。
 背徳の甘美は蕩けるようであったが、彼が自ら進んで私を求めてくれるその愉悦には遠く
及ばず。
 私は翻弄されっぱなしだった。
 全身が蜂蜜のように甘くて、アヘンのように常習性があるだろう、溺れるしかない体に、私は
喜んで溺れた。
 彼も、少なくともその時は、溺れてくれていたのだと……信じたい。

 翌朝。
 肌寒さに目を覚ませば、本田の姿はなく。
 慌てて衣類を整えて、部屋を飛び出せば、そこには。
 見知らぬ男が一人。
 「貴様が香か?」
 本田にしか許さぬ呼び名を、至極当たり前に呼んだ男に憎悪しか覚えなかったが、彼の醸し
出す覇者の雰囲気に、己の感情を押し殺して、深く頭を下げる。
 「今日から俺が、お前の主だ」
 「私の主は菊だけですっつ!」
 反射的に叫んだ私に、一瞬面食らったような顔をした男は。
 にぃっと口の端を吊り上げて、実に楽しそうに笑った。
 「アレは、俺に負けた。だから、その代償に……お前を寄越したんだ」
 「嘘です!」
 「嘘じゃない……ああ、その忌まわしい言の葉も変えさせなければなぁ。お前。明日から英語
  を覚えろよ」
 そう言われて目の前の男が、綺麗な日本語を話していたのに気付かされる。
 最近、頻繁に聞いていた。
 目に眩い金髪と透き通る緑の目をした、誇り高い男の存在を。
 優しい口調で話す本田の、その口から零れた目の前に居る男は。
 嘗ての日本の同盟国。
 英国。
 確か名前を。
 アーサー・カークランドと言っていた。
 少なくとも本田は、この男の名前に慈しみを込めて呼んでいたというのに。
 この男は本田を憎憎しげに罵る。
 「日本語など……聞きたくもないっつ!」
 耳を塞ぎたくなるような憎悪に満ち溢れた言葉なのに、その鮮やかな緑の目は、どこか
寂しそうだった。
 「いいな!明日から英語を覚えろ。俺が教えて……っつ!」
 彼はそこで、大きく目を見開いた。
 何かを思い出して、それを懐かしむ風な、痛みを堪えるような、見ているこちらが切なくなる
眼差しは、しかし僅かに一瞬。
 「……教師を寄越すからな!いいな!日本語など……菊の、話す言葉など、使うなよ!」
 私の返事など聞こうともせずに、カークランドは背中を向けて去ってしまった。
 ぺたんと膝を折って、彼の言葉を頭の中で幾度も繰り返す。
 しかし、頭が理解するのを拒絶しているせいか。
 くだらない思考ばかりが頭を占めた。
 彼は、本田を。
 菊、と呼んだ。
 私が呼んだからではないだろう。
 躊躇いがちに紡がれた呼び名は、それでも本田が彼を呼ぶのと同じ慈しみに溢れ、呼び
慣れていた。
 本当は、彼は。
 菊を好いていたのではないだろうか。
 そして、菊もまた。
 カークランドを……。
 信じたくもない考えに、私は大きく被りを振ってのろのろと部屋へ戻った。
 そして、不意に。
 先刻は気付かなかった香りに気付かされる。
 窓辺に。
 菊の花が一輪置かれていた。

 「菊……」
 私が今も愛するあの人と同じ名前の花。
 日本国の国花の一つ。
 あの人らしい、別れの挨拶だと思った。
 見栄えのする豪奢な花弁に比べて、ささやかな芳香を貪りながら私は。
 彼の人の姿を思い浮かべながら、菊の花に口付けを一つ贈った。

 


                                                     END




 *公式で彼の名前が出てきていないので、捏造で恐縮です。
  この後の三つ巴というか、香→日←英のサンドイッチも見てみたいなぁと
  思ったりもしています。
                                                 2009/02/15
 



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