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  青嵐(あおあらし)



 面を彫る為の道具と材料しか置いていない雑多な小屋の中。
 何時も通りに面を彫り続けていると。
 ふわ、と。
 てぬぐいを被った下から僅かに零れる髪の毛が踊った。
 微か。
 緑の芳香が鼻をつくのが、珍しく気になって。
 掘り進めていた小面を、壁に止め掛けて木戸を薄く開ける。
 途端。
 かなかなかなかなかな。
 突風が吹き込んできて、所狭しと置いてある面がぶつかりあい、木が擦れる
独特の音曲を奏でた。
 瞬間。
 聞き惚れているうちに。
 びょう、と。
 一枚の面が僅かに開いた木戸の隙間から、踊るようにくるくると飛び出ていく。
 存分に彫り上げて、後は収める手筈を整えれば良かった般若の面は、まるで
生きているように空を舞った。
 陰影を深く落とす般若の面は、多様な角度から僅かに表情を変えて、
手の届かない所へ行こうとしている。
 彫り直す、時間はない。
 重い腰を上げて、木戸を開けて。
 太陽の光がさんさんと降り注ぐ外へと足を踏み出す。
 薄暗い小屋の中で、面ばかりを打っていた目には、眩し過ぎる日差しと、
一層激しくぶつかってくる風に、目を細めた。
 小屋の中に篭っていたので気が付かなかったが、外はすっかり夏らしい装い
をしている。
 何よりこの薫風が、語っていた。
 掌を日差しにして光を遮り、ようよう開いた目に映ったのは。
 『霜葉、殿?』
 普段はほとんど双羅山に潜んで鍛錬を行って、村へ降りてこない妖刀使い
の姿。
 「凄い、風だな」
 俺と同じ様に掌を額の上に翳し、利き腕には簡単には放す事無い村正を、
反対の腕には、行方知れずになりかけた般若の面を手にしている。
 「本当に、ここまで激しいと困るな。おかげで木戸を開いた途端面が、飛んで
  いってしまった所だ」
 「それは良かった。水に落ちる寸前だった」
 「……重ね重ねすまない」
 霜葉殿の足元を見れば、袴が濡れていた。
 面が泉に落ちかけていたので、慌てて水の中に入り、面を拾ってくれたのだ
ろう。
 「いや。せっかく弥勒殿が仕上げた面が濡れなくて良かった」
 そっと手渡された面を受け取れば、微かな湿気が感じられたが、この風だ。
 すぐに乾いてしまう。
 乾いて後、多少の撓みが出るかもしれないが、さして難しくない手直しですむ
だろう。
 「……弥勒殿?」
 面を見つめて考え込んでしまったようだ。
 霜葉殿の伺う声音が届く。
 「いや、緑の香りが強い。夏に吹く風を何といったかな、と」
 素直に『湿気が気になった』と言ってしまえば、霜葉殿の事だ。
 『己がもっと早く駆けつけていれば』といたく後悔される。
 ここは、申し訳ないが、本当を言わない方がいい。
 「ああ『青嵐』というらしい」
 案の定返事は即答だった。
 「青い、嵐。か」
 「また、面の題材にでもされるのか?」
 「そうだな。それもいいかもしれない」
 激しい風の癖に、青々とした緑を湛える風情をそのまま、面で表現する。
 なかなかに、面白そうだ。
 「弥勒殿は、凄い」
 またしても考え込みそうになってしまった俺に、霜葉殿が静かに囁く。
 「?」
 「俺には、全く面の良し悪しはわからないが。弥勒殿の造る面は生き生きして
  いる。この般若の面なども、呪われてしまいそうな迫力が感じられるな」
 俺に言わせれば、顔色一つ変えずに修羅場を潜り抜け、己の腕と変わらぬ
気安さで妖刀を操る霜葉殿の方が、余程。
 出来ぬことをやっているな、と思うのだが。
 「呪いは、しないぞ?」
 珍しいだろう俺の軽口に。
 「ははは。無論」
 これも珍しいだろう、霜葉殿の笑顔が返ってきた。

 血に塗れても尚。
 薫風が似合う男とは。

 彼のような人物を差すのだろう。




*弥勒&霜葉
 さらっと吹く、風のような話を書きたかったのですが。
 これじゃあ、剣風帖と変わらないよう、とジレンマ。

 せめて、これが平安時代なら雰囲気も出せるのにと泣き言を言ってみたり。
 何はともあれ、無口なはずの二人がよくしゃべってますよ。とほ。



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