松尾鉱業残映

 中学校の修学旅行のことである。私たちは東北を巡っていた。バスで八幡平へ向かっていたときのこと、トイレ休憩で駐車場に停まると、他のバスに乗っていた松尾君が(松尾というのが今思うと因縁めいている・・・。)すっ飛んできて、「今の見た!!!」と叫んでいる。聞けば空き地に機関車だとか客車だとかがいっぱい放置されていて、ものすごい光景だったという。「しまった・・・。」私はその時、お菓子の食いすぎか、いい気分で眠りこけていたのである。(おおかた、アポロチョコかパラソルチョコ、チョコベービーあたりをほおばって寝ていたのだろう。)それからというもの、それが一体なんなのか、気になって仕方がない。帰宅してから調べてみると、どうやら松尾鉱業という私鉄がかつてあったことがわかってきた。「あぁ、どんな光景だったのだろう・・・。」悔しさはつのるばかりであった。

 あれから20年も過ぎたことになる。いまだに一部の車両がそのままになっているらしい感じは、写真集「棄景」などを見て感じていた。1998年10月、小坂鉄道の4重連を撮りに行った帰り、私はついに立ち寄る機会をえた。

 

 (ワフ7・ワフ5・ワ9)

 

 かつての車庫跡は工場の敷地となっている。松尾君はどの角度からどのように見えたのだろうか。そんなことを考えながら工場の裏手にまわると、しっかり車両は残っていた。貨車は木造で社紋も見ることが出来る。客車は並んで2両あり、塗り替えられてまったく関係のない色(青と白)になっていた。建物側のわずかな透き間をのぞくと、当時の塗装がのぞいていた。

 

 (手前がオハフ9・その奥に並んでスハフ7がいる。)

 

 機関車(ED251・東芝製27t)は近くの松尾村歴史民族資料館に移され屋根つきで保存されてある。秩父鉄道へ譲渡された電気機関車(ED50)は箱形であったが、これは凸型である。

 

 

 一通り見終えて長年の悔恨はこれでひとつの区切りをつけることが出来た。盛岡へ向かう高速を走りながら、あの時の修学旅行を思い出していた。僕らは地獄谷というところで、はめを外しすぎて高温の湿地帯におっこちてしまった。友人の高崎君は1週間現地で入院、自分は軽いやけどですんだが、残りの旅行は思いっ切りブルーであった。しかし、友情はこの時より強くなり、あれから卒業までの時間はとても強い結びつきとなった。3年後、弟がこの地を修学旅行で行って、現地のバスガイドに「昔この辺で、大火傷をおった学生がいる。十分気をつけるように。」とアナウンスされ、思わず顔を伏せたそうである。(結構有名だったのね・・・。)あの時お世話をかけた梅田先生、お元気でいらっしゃいますか。おかげさまで、元気でやっております。そして、その節は大変ご迷惑おかけしました。

 

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