さよなら新幹線 0系 

 

 

 2008年12月14日、山陽新幹線にて最後の活躍をしていた0系が引退した。13〜14日のさよなら興業に出かけたかったが、13日は娘の催事の送迎を頼まれアウト。14日の朝から出るとなると、ホームからの撮影ぐらいしか時間的に無理であった。それでも最後にもう一度という思いがあり、やっと重い腰を上げた。

 思えば東海道新幹線の開業が昭和39年。私とおなじ世代。共に歩んできた時代。彼の引退は私の引退でもあるようで、とても感慨深いものがある。ポンコツなのか? イベントから帰った翌日、会社の忘年会があり、コップ数杯のビールを飲んだ。ペースは速かったがどうという量でもなかった。しかし帰り道急に世界が回りだし、動けなくなった。ホーム端ではいて、うずくまっていると、駅員が来た。動けないでいると車椅子が来て、寒い簡易ベッドのある部屋で休ませてもらった。何もかもが初体験のことだった。体が思いの他くたびれてきているのか。情けなかった。その後、終電間近になりやっとの思いで歩き電車を乗り継いだ、おまけは一駅乗り過ごし、タクシーで家路についた。40代も後半戦、体のあちこちにガタが見え隠れする。0系もやはり満身創痍だったのだろうか。

 話が逸れた、元に戻そう。当日朝一番で自宅を出た。今日の天気は曇りのち雨。博多を出た「さよなら0系」は新大阪まで来て折り返す。西明石か岡山での撮影を考えていた。悩んだあげく大阪付近で晴れだしたので、西明石で降りてみる。すでにホームにはファンが並んでいる。ここのホームは弓形にカーブしいるおかげで、かろうじてホームに並んで撮影が可能だ。直線の駅ならこうはいかない。通過時刻が迫るとそれでも撮影が困難なくらいホームにはファンの列。見たことのない様な賑わいよう。本日ばかりは駅員もあきらめた様子で協力態勢で大目に見てくれている様子。岡山定時通過中のアナウンスまでしてくれていた。岡山のNさんからメールが来る、「さよなら装飾何もなし!」そして通過が迫る。少し晴れ間も出ていたが、また曇ってしまった。ダメそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 多くのファンが構える中を0系は駆け抜けてゆく。早い。余韻なんてものはないくらい、あっと言う間に赤いテールが遠ざかってゆく。マークは聞いてたとおり何もなかった。実は前面連結器カバーに装飾したものを、一度も撮ったことがなかったので、この日くらいは撮りたいと思っていた。とても残念であった。折り返しは15:00。最後の最後にさよならマークが出てくるのではという不安もあったが、ここん所続くお天気の悪さにうんざり、3時間待つ気になれず西明石を離れた。

 結局夜のニュースでマークが付かなかったことを知った。個人的には残念であったが、0系の勇退としてはこれでよかったのかもしれない。ただ全盛期を知る者として、6連はあまりに寂しく、6+6の12連を見てみたかったなと思う。あのカバーを外してくっついた姿も見てみたかったが、確か非常用の連結器なので東北新幹線などのようにはいかないのだろうが、実現できれば当時の16連を彷彿とさせたのではないか。デビュー当時光っていたという、カバーの再現も見たかったところだ。そうそう、親に許された初めての一人旅は大阪で、この0系であった。あの頃の0系はパンタグラフからのスパークが凄くて、夜などは非常にきれいなものであったが、後のパンタグラフ改良でほとんどスパークは出なくなってしまった。あの光景は私の瞼の裏に焼き付いているのみで、あんな光景を写真にて表現してみたかったと思う。

 定年まであと15年はある。「俺はポンコツか?」自身に問いかけるように仕事をして、時間ができれば旅をする。長いようで、過ぎ去ってしまえば瞬きするがごとく人生は儚い。0系のように今はただ目的とする場所目指して、まっすぐ突き進んでいたい。

 

 

 

 

 

 

 

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