出 屋 敷 界 隈と周辺の見所ガイド

神電車本線、出屋敷駅外観
阪神電車は、阪神南部工業地域の梅田〜元町間を走る関西初の私鉄
出屋敷駅は、尼崎市南部中心部に位置し高度成長期には乗降客も多かったが、
公害もひどく、工業の衰退等により年々減少している。

平成3年に高架駅になった本線出屋敷駅ですが、駅から南西方向に支線がありました。
海岸線といい、本線出屋敷を起点に南下し、東浜に至る1.8Kmの支線でした。
1929(昭4)年4月に開業しました。その後、戦災による運休を経て営業を再開しましたが、
その区間は出屋敷−高洲間1.1Kmのみで、高洲−東浜間は1951年に営業休止、1960年に営業廃止され、
残った出屋敷−高洲間も第2阪神国道(国道43号)の建設に伴い、1962(昭37)年末に営業廃止となりました。

阪神電車の開通により、沿線への電力供給も早くから始り何度も電力施設の拡大を経て現在の関西電力へ事業が引き継がれた。





尼 崎 城

(左から:尼崎市立城内小学校内に復元された模型、復元された城郭、城址跡を示す石碑)

元和3年、戸田氏鉄(とだうじがね)が近江国膳所より5万石で入城し、本の丸に連立式四層天守を始めとする新城を築城した。
青山氏の4代に渡る統治を経て、遠江国掛川から松平(桜井)忠喬が4万石で入封し、以後7代続き明治に至った。

戸田氏以前を調べると、『如来院文書』に「永正一六年二月一七日細川高国柵干摂州尼崎築城」とある。永正16年は(1519年)である。
その頃、細川高国と細川澄元が細川管領家の跡継ぎをめぐって争っていた。『大物くづれ』である。
翌年、両勢が尼崎、大物で戦い、高国は近江へ敗走し、澄元が同年に没し高国は尼崎を修築して細川尹賢を配した。
引き続き、高国は澄元の子晴元と争っていたが享禄4年の天王寺の戦いで高国側は備前守護代浦上村宗が討ち死にするなど大敗した。
高国は大物で捕らえられ自害させられた。

その後、荒木氏、池田氏、三好氏、建部氏が在城した。
建部政長は大阪の役の際に、この尼崎を守備した功で播磨林田1万石の大名になった。

元和3年(1617年)、近江国膳所から戸田氏鉄が入封し幕府の命により尼崎に築城する。
本丸を中心に、西に二之丸、東に松之丸、さらにまわりの西に西三之丸、東に東三之丸を配していた。
本丸は東西南の三方に門があり、それらは桝形虎口になっていた。
本丸の四方に櫓があり、北東隅に4層の天守があったという。

戸田氏鉄(徳川譜代家臣)は、現在の尼崎市・伊丹市・神戸市にあたる一帯を領した。
一国一城令に基づき、富松城(下記)をはじめとする領内の他城を廃し尼崎藩の本拠として
1618年(元和4年)尼崎城の建築に着手。
完成した城郭は連立式の4層(3層説もあり)天守をはじめ多数の櫓や門で固めた厳重な輪郭式平城を築城。
隣接して流れる神崎川・庄下川を濠として取りこむと共に、城の周囲に寺社を配し出城の代わりに利用したとされる。
尼崎は大阪湾に面した港湾都市であり、川と海に囲まれた尼崎城は水城でもあった。
城内から濠と川を使って船の出入りができるようになっていたと言われる。
水に浮かぶ優美な姿から「琴浦城」の別名を持つ。
勇壮な建造物群と水利を用いた縄張りはいかにも堅城であり
大阪の西に接する譜代大名の城郭として重視されていたことがよくわかる。
城の南側には中国街道が走っており、これに沿う形で城下町が形成された。
氏鉄は1635年(寛永12年)美濃国大垣へ転封。代わって尼崎へ入ったのは 同じく譜代大名の青山幸成。遠江国掛川からの移転でござった。 青山氏は4代続いたが、6代将軍家宣の時代である1711年(正徳元年)青山秀幸が移封となり、
松平(桜井)忠喬が4万石で尼崎を領した。桜井松平氏は名の通り徳川氏一門に含まれ、本来は葵の紋を使用できる家格であったが、
幕府に遠慮し、敢えて桜の紋を用いていた。

この桜井松平氏藩主時代の1769年(明和6年)兵庫津(現在の神戸市)・西宮町といった海岸沿いの重商業地域は
幕府へ召し上げられ、代わりに播磨国の赤穂郡・多可郡・宍粟郡が尼崎藩の飛地として与えられた。
桜井松平氏は7代の統治に及び、明治維新後の1873年(明治6年)1月に廃城。
この際、濠に面した石垣は川の堤防としてそのまま利用されたとも言われる。
現在の尼崎城跡に現存する遺構は何もないが、城敷地内(西三之丸)にある桜井神社に
戸田氏の九曜紋が入った天守鬼瓦が2枚保管されている。


(左:桜井神社本殿、右:天守鬼瓦)

明治15年(1882年)に尼崎藩主松平氏の祖、桜井内膳正信定を祭神として、
旧藩士の有志が尼崎城内の西大手橋東詰にあった家老屋敷跡に建立し、その後、国道43号線敷設のため現在地に遷宮

最後の城主忠興公は、明治10年(1877年)明治政府軍と西郷隆盛軍との間で西南戦争が勃発した際に、
忠興公が私財を投じて、医師・看護婦を現地に派遣し、敵味方の区別無く負傷兵の治療に当たったといわれ、
救護団体「博愛社」が結成される。この功績が明治政府に認められ明治20年(1887)5月20日「日本赤十字社」と改称され、

その事務所が東京都千代田区の桜井邸に置かれている。
また、学問向上にも全力を傾注され、「万葉代匠記」を記した契沖(けいちゅう)を祭る学問の神社として親しまれている。
明治六年、尼崎最初の学校を建立されました。(現:開明小学校、平成16年4月城内小学校に統合される)
この精神は市民にも引き継がれ、明治二十三年、櫻井神社境内に尼崎最初の幼稚園が誕生しました。(現:博愛幼稚園)
この時、子供たちの無事成長を願って建てられたのが、神社境内に現存する博愛地蔵です。






町地区、 元和3年(1617年)に、尼崎藩主戸田氏鉄が幕府から尼崎に新城を築くよう命令を受け、
城下町を整備するに当たり散在していた寺院を1カ所に集め、寺町を作り現在でも当時とあまり変わらない様である。
現在、11カ寺が軒を連ね江戸時代の面影を今に伝えています。繁華街のすぐそばにあり都会の中の静寂を醸し出しています。
地域内には国指定の重要文化財をはじめ、県・市の指定文化財が23件あり文化財の宝庫でもあります。
平成元年に都市美形成地域に指定され、石畳風の舗装など修景整備が進められて、同年、寺町地域散策道が
「手づくり郷土(ふるさと)賞」を受賞。「阪神・淡路 百名所」に選定されています。


(左:本興寺、中・右:寺町地区石畳舗装)





阪 神 間 の 大 動 脈
<左:大阪方面、右:神戸方面>
道43号線、道幅50メートルは当時始めての国道だった。
昔は『浜街道(中国街道・西国街道とも呼ばれる)』と呼ばれた道で、海に沿った白い砂浜や緑濃い松原を眺めならが旅する人々に
親しまれていたと聞きます。

第2阪神国道とも呼び、地元では『よんさん』とか『にこく』など言ったりするが、後者の呼び方はご年配の方だろうか?
(ちなみに、第1阪神国道とは呼ばないが、国道2号線のことである。)
昭和2年(1927年)に国道2号線が開通したが、終戦後交通量が増え、更に国道が必要とされ昭和21年に建設計画が決定
10年後に工事が始り、昭和38年に最大の道幅50メートル片側5車線の国道43号線全線が開通
大阪万博開催の前年(昭和44年1974年)には、その上に片側2車線の阪神高速道路が完成した。

交通量の増加と共に騒音・公害も問題となり、長い年月を費やし沿線住民は戦ってきたが、国の取り組みは不充分だろう。
現在、43号線は阪神淡路大震災後、緊急車両の通行路確保と騒音公害問題から防護壁が完備と外側の1車線がグリーンベルトに
変更され片側3車線になった。
 





ディープ・出屋敷
屋敷駅南側には、住宅街の中に小さい宿泊施設がある。
春、夏になると高校野球の選手達の宿泊先となり、束の間の賑わいを見せる。




か〜し、優勝校は未だに出ていない。多分出ることは無いだろう!
この旅館経営者の奥方は町内の一大放送局、腕前は本業の方を勝るとも劣らぬ行動力の持ち主
真向かいの元駄菓子屋経営の奥方も同様に町内のうわさには目が無い。
どこの町内にもこの手の輩は居るだろうが、この二人は少し違う。
特に旅館の経営者の奥方は、消防車はもちろんの事だが、救急車のサイレンが聞こえるや否や飛び出てくる。
それが夜中の何時であろうと救急車の傍にいる。翌朝には誰が病院に運ばれたのか町内中に知れ渡っている始末である。
緊急を要する当事者やご家族の方々にとってはありがた迷惑な人物である。

私(HP管理者)の母の具合が悪く、ある日午後9時半過ぎに救急車を呼んだが、2人とも救急車の傍らで熱心に情報活動をしていた。
私の母が救急車を利用した数ヶ月前からご近所さんが数回利用していた事もあり、元駄菓子屋のオバハンは見に来るなり、
また誰々さんが呼んだのかと思うたわぁ〜と、事もあろうにその人に言っていたのを聞いた。違うと気付くと、もう噂に目が無いこの2人。
目を爛々と輝かせながら誰、誰、誰が呼んだの?と連呼していた。
また、旅館の奥方は疎遠になりつつあった遠縁(知らせる必要は無いのに)にまで救急車で病院へ運ばれたことを勝手に連絡するありさま。
何様のつもりなのか?
当然、朝も早よからその縁者から電話は掛かってくるし、こっちは病院からかと心配したが、全く持って傍迷惑な輩である。
数10年前にもなるが、父が入院した際も誰に聞いたが知らないが見舞いに来るや否や、父が鼻から新鮮な酸素を補充的に
吸入させているだけにも関らず、酸素マスクで吸入させているから危ないのではと、前での縁者に耳打ち。 慌ててその縁者はやって来たのは想像できるだろう。

人の痛みを知らない、この二人。自分の身に降りかかればどう感じるのだろうか・・・多分生涯気が付くことは無いのだろう。
一夜の寝床を提供する旅館を経営しているが、思い出なんて作れないだろうと思う。ま、思い出作りこんな所へは来ないだろうが・・・
もう一方の元駄菓子屋は何年も前に廃業し、今や二世帯が住むいわゆるマスオさん状態。
この駄菓子屋もおばあさんが居た頃は、買い求めるお菓子をあれこれ迷っていても何も言わずニコニコしていたが、代が変われば何とかで・・・

このコーナーでは、全く紹介するつもりは微塵も無かったが、この近辺に足を運ばれた際にトラブルに捲き混まれ無いようにして頂く為に
敢えて掲載する事としました。面白い事は、町内にいる者、全く知らない人の事まで平然と吹聴して回るので気付けて欲しい。






周辺の紹介
庫川駅、阪神電車本線
尼崎市と隣接する西宮市の境界にあたる武庫川の上に駅が建てられている。


昔、武庫川駅に下から電車に乗る人々の姿が見えていました。
現在はちゃんと整備されています。





津灯台
甲子園にほど近い小さなヨットハーバーとしてにぎわう今津港に、ひっそりと小さな木造の灯台が建っています。
瀬戸内海から大阪湾へは、古くは遣唐使、近世では北廻り・南廻りの菱垣廻船に現在も漁船や九州等へ向けて
フェリーなどが頻繁に運行しています。
その海の安全を守るため、1810年(文化7年)、大関酒造の長部家5代目長兵衛が、私費を投じて今津港頭に
建設したのが始まりです。

灯台の台石には「象頭山常夜燈」の文字が刻まれています。
これは四国琴平の象頭山中腹にある海上交通の守り神、金刀比羅宮に奉納された灯明台ということで、
地元の人々からは「灯篭」の愛称で親しまれました。
今津灯台は、創建以来、毎夕欠かすことなく丁稚さんが油2合をたずさえて点灯に行くのが習わしだったそうである。

今津灯台は、民営であるにもかかわらず、その建設と永年の維持管理によって公衆の利益に貢献し、
明治17年(1884年)2月21日には7代目長部文治郎に藍綬褒章と銀盃が贈られました。

日本の洋式灯台点灯100年の記念年にあたる1968年(昭和43年)には、航路標識として海上保安庁から正式に承認され、
海図や灯台表にも登載される民営灯台となり、『大関酒造今津灯台』が公認名称とされました。
また、昭和49年(1974年)3月、「木造袴腰付燈篭形行灯式灯台」の遺例として、西宮市指定重要有形文化財に指定されました。
今津港の繁栄を今日に伝える貴重な文化遺産として、西宮観光30選にも選ばれています。
昭和59年(1984年)には、創建当時の姿に再度復元され、平成2年(1990年)11月には樽廻船をモチーフにした記念碑も建立されました。
時代が変わり、油から電気の灯かりとなっても、その灯をたやすことなく航路標識として立派に機能を果たし、
大関のシンボル、西宮市のシンボルとして、今津港を静かに見守り続けている。



西宮砲台
アメリカのペリー浦賀来航、ロシア船ディアナ号大阪湾来航などにより、海防に不安を感じた江戸幕府は
本格的に摂海防備に着手する。
砲台の位置は勝海舟が計画し、今津、西宮、和田岬、舞子などに築かれた。
西宮砲台は、文久2年(1863年)着工。砲台は三層石郭円堡で、内部には木造2階構架が作られた。
一階を弾薬庫(床板敷)と井戸。2階は側面に砲眼を11基設け、大砲2門を設置
全方位に発射できるものであった。慶応2年(1866年)に完成。
試射したところ、砲煙が内部に立ち込めたため、実用に適さず、実戦に使われることはないままに明治維新を迎える。
           


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