[ラブラドール・レトリバーPRAの遺伝子診断] 吉川信幸
進行性網膜萎縮(progressive retinal atrophy、PRA)は、眼の網膜が変性して萎縮し、視力の低下、やがては失明にいたる眼の重要な遺伝性疾患の1つです。この遺伝病はラブラドール・レトリバー(L犬)を含めて多数の犬種で発病することが知られていますが、有効な治療法はありません。犬種(PRAの種類)にもよりますが、L犬ではかなり成長してから(通常3〜4才を過ぎてから)病気の徴候が現れるため、その個体を繁殖に用いた後にPRAであることが確認されることもあります。また、劣性遺伝をするために、発病しなくともキャリアーとして潜在的に遺伝子を持っている場合があり、これらの個体が繁殖に使われると、その子供が発病したり、あるいはキャリアーを増やすことになります。例えば、多数のチャンピオン犬を輩出した有名なレシーバー・オブ・クランスパイアー(Sh.
Ch. Reciever of Cranspire)やワリンガー・フェアー・アンド・スクエアー(Ch.
Warringah Fair and Square)は、PRAのキャリアーであったことが後に判明しています。ブリーダーにとっては、注意すべき恐ろしい遺伝病です。
これまで早期にL犬のPRAを診断することや、その個体がキャリアーであるかどうかを判定することは不可能でした。1999年の9月に米国のオプティゲン(Otigen)社がL犬を含む数犬種のPRAのDNAテスト(遺伝子診断)を開始しました。これはPRAを早期に診断するための画期的な技術的進歩であり、真摯なブリーダーにとっては待ちに待った技術です。米国ヘニングスミル(Hennings
mills)犬舎のドロシー・ガルビン(Dorothy F.
Galvin)女史は「ラブラドールレトリバー界における1999年の最も重要な出来事は、PRAの遺伝子診断がオプティゲンによって可能となったことである」と述べています。この遺伝子診断の話題については、L犬の専門雑誌(英国のInternatinal
Labrador Newsletter、米国のInternational
Labrador Digestなど)やオプティゲン社のウェブサイトの中にも数多く取り上げられています。
PRAの遺伝
L犬のPRAを引き起こす遺伝子はprcdと呼ばれ、もともとは眼の網膜細胞が正常に働くために必要な遺伝子が突然変異して機能できなくなった遺伝子です。現在の犬種ができあがるはるか昔に、突然変異遺伝子を持った一頭の子犬が生まれ、その子犬から現在では約30種類もの犬種にこのprcd遺伝子が引き継がれてきたわけです。L犬のPRAの遺伝は、毛色(黄色)の遺伝様式と同様に単一劣性遺伝をすることが明らかになってます。この点は、発病に複数の遺伝子が関与し、かつ生育環境も影響するとされる股関節形成不全(HD)の遺伝と比べるとはるかに単純です。
図1に示してあるように、PRAが発病するか、しないかは3つの遺伝子型、すなわち、正常な遺伝子(N)をホモに持つ型(N/N)、N遺伝子とprcd遺伝子を持つ型(N/prcd)、prcd遺伝子をホモに持つ型(prcd/prcd)で決定されます。N/N型は健全な個体で、決して発病しません。一方prcd/prcd型の犬は発病します。N/prcdは正常とprcdの両方の遺伝子を持ちますが、prcd遺伝子はN遺伝子に対して劣性のため、この遺伝子型の個体は決して発病しません。ただし、潜在的にprcd遺伝子を持つキャリアーとなります。各遺伝子型の親を交配すると(図1)、両親とも健全(N/N)であればすべて健全な子供が生まれ、逆に両親がprcd/prcd型であれば子供はすべて発病します。N/N型とprcd/prcd型の組み合わせではすべてキャリアー(N/prcd)となります。N/N型の親とキャリアーの交配では、健全な子犬(N/N)とキャリアー(N/prcd)がそれぞれ50%の割合で生まれ、発病する子犬は全くでません。これに対して、prcd/prcd型とキャリアーの交配ではprcd/prcd型とキャリアーがそれぞれ50%の割合で生まれ、半分の子犬が発病することになります。両親ともキャリアーであれば、25%が健全、50%がキャリアーで、残り25%は発病します。
PRAの遺伝子診断
遺伝子診断とは、病気を起こす突然変異遺伝子を持っているかどうかを遺伝子の本体(DNA)を検出して調べる方法です。アイリッシュセッターのPRAに関与するrcd1遺伝子の場合のように、その遺伝子自体が発見され、どんな変異が起こっているかが判明している場合は、rcd1遺伝子を直接ターゲットとして検出でき、結果は100%信頼できます。しかしながら、犬には推定上20万個を超える遺伝子があり、多数の遺伝病(全犬種で350以上)の中で、原因となる遺伝子が発見されているのは数えるほどしかありません。L犬のprcd遺伝子もその本体はまだつかまえられておらず、どんな構造(DNA配列)をしているのかは明らかにされていません。ではどのようにして診断するのか。オプティゲン社で実施している方法はマーカーテスト(リンケージテスト)と呼ばれるもので、prcd遺伝子のすぐ近くに存在しているDNAマーカーを検出する方法です。遺伝子の研究では、遺伝子自体を発見するよりもマーカーを見つけることがはるかに容易なためにこれはよく利用される方法です。このDNAマーカーはprcd遺伝子と常に連鎖して(一緒に)遺伝するため、prcd遺伝子を持っている個体には必ずそのマーカーも存在しますが、prcd遺伝子を持たない正常(健全)な個体からは通常検出されません。
オプティゲン社の遺伝子診断(prcd-PRA test)を受けると、その結果は次の3つのパターンのどれかに判定されます。
パターンA¨正常(prcd遺伝子を持っていない)。決して発病しない。判定結果は100%信頼できる。
パターンB¨おそらくキャリアーである。発病は決してしない。
パターンC¨おそらく発病する。
先に述べたように、L犬のprcd遺伝子の本体はまだ発見されていません。マーカーテストは次善の策というわけですが、これにはやや不確実性が存在します。パターンAの判定は100%信頼できます。これに対し、パターンBとC
の判定には、「おそらく(probably)」という表現がつき、例えばB判定では、キャリアーの可能性が高いが、実際には健全であることもあり得ます。同様にCの判定では、発病する可能性が非常に高いが、キャリアーあるいは極端な場合は健全である可能性も含まれます。BとCに関して100%の信頼度が得られない原因は、prcd遺伝子と連鎖しているDNAマーカーと同じ構造のマーカーが正常な遺伝子にも付随している場合(false
prcd allele、偽対立遺伝子の存在)があるためです。
まとめますと、パターンAの判定がでればprcd遺伝子を持たないことが証明されます。繁殖においては、少なくとも親のどちらかがA判定であれば、BあるいはC判定の犬と交配しても、その子犬は決して発病しません。繁殖に使う前にprcd遺伝子の有無を知ることができるので、犬種全体からPRAの発生を徐々に減らしていくことも可能になります。オプティゲンに問い合わせたとこと、日本からの診断依頼も受け付けるそうです。ただ、診断に用いる試料は血液(3?)で、凝固しない状態で送る必要があり、獣医師と相談して試料の調製と発送をしなければなりません。詳しくはオプティゲンのウェブサイトを見てください。
L犬におけるprcd遺伝子の検出頻度について
オプティゲンの報告によると、L犬PRAの診断結果(1999年12月31日の報告)では、総数534頭のうち、パターンA
が145頭(27%)、Bが255頭(48%)、Cが134頭(25%)です。これは驚くべき数字で、検査したL犬の75%がキャリアーあるいはPRA(将来発病するものも含めて)である可能性が高いことを示しています。米国のナショナルラブラドールレトリバークラブ(NLRC)の会長であるマリー・ワイスト(Mary Weist)女史(ビーチクラフト(Beechcraft)犬舎)はこの数字に対して疑問を投げかけています。彼女はケイナイン・アイ・レジストリー・ファウンデーション(Canine
Eye Registry Foundation、CERF)(米国のパデュー大学獣医学部にある眼の疾患についての登録機関)のデータとこれらの数字を比較して、オプティゲンの診断結果が、PRAと登録された個体の割合(CERFの値)よりも25倍も高いことを指摘しています。この中で、CERFのデータでは1999年にPRAと診断された頭数は年齢が2〜9才の3767頭中13頭(0.3%)、疑わしい犬は11頭(0.2%)であることを引用しています。オプティゲンとCERFは、このPRA頻度の不一致について共同でコメントを出していますが、それによると、実際のPRAの発生頻度と比べて、CERFの値は少なすぎること、一方、偽対立遺伝子の存在や、検査対象が無作為に選ばれたものでなく、その数も少ないことなどを考慮すると、オプティゲンの数字は実際よりも明らかに高い値であることが述べられています。現在米国の大学を中心にドッグゲノムプロジェクトが進んでおり、近い将来prcd遺伝子が発見されれば、100%信頼できる遺伝子診断法が開発されることになるでしょう。
KCとAKCの遺伝性疾患に対する取り組み
各種の遺伝性疾患についての研究、特に原因となる遺伝子の探索と診断技術の開発に対しては、英国ケネルクラブ(KC)、米国ケネルクラブ(AKC)ともに積極的な取り組みを行っています。KCのウェブサイトの中のケンネル・クラブ・ヘルス・ページには、現在英国で利用できる遺伝子診断の種類やその診断の結果が公表されています。遺伝子診断の開発につながる研究を支援するために設立されたケンネル・クラブ・ヘルス・ファウンデーション・ファンド(KCHFF)についてのページもあります。「愛犬の友」(2000年2月号)でも紹介されていますが、KCHFFは、遺伝性疾患の研究を支援するために年間150,000ポンドの基金を集める目標をたてています。L犬に関連したところでは、昨年逝去したサンディーランズ犬舎のグウェン・ブロードレイ(Gwen Broadley)夫人にちなんだ「グウェン・ブロードレイ・メモリアル・ファンド」が設立され、遺伝病研究に対する支援が行われています。AKCにおいてもケイナイン・ヘルス・ファウンデーション(AKC・CHF)が犬遺伝子地図プロジェクトやその他の研究に資金援助をしてますが、AKCのホームページや前述の「愛犬の友」に詳しく紹介されています。また、米国NLRCの入会金30ドルのうち5ドルについては遺伝子研究の基金に使われます。今後、犬の遺伝性疾患の原因となる遺伝子の染色体上での位置と連鎖するマーカーの発見、さらには遺伝子本体が解明され、各種遺伝病の正確な診断が可能となることを期待したいものです。
[参考資料]
1.オプティゲンウェブサイト(www.optigen.com.)
2. Dorothy F. Galvin: GPRA in Labs. The Labrador
Retriever Annual-1999, pp.78-82.
3.Marry M. Woodsen: Test gives breeders of
Labrador Retrievers Breakthrough in sight:
PRA a new genetic advantage. The International
Labrador Digest July/August 1999, pp.32-35.
4.Mary Weist: DNA testing for PRA. International
Labrador Newsletter 12, p. 55, 1999.
5.KCウェブサイト(www.the-kennel-club.org.uk)
6.AKCウエブサイト(www.akc.org)
7.ダーウィン・W・ハルヴォーソン¨海外ケンネルクラブの遺伝性疾患への取り組み.愛犬の友
2000年、2月号、34?35ページ.