本文章は2002年にまとめたものである。
「ラブラドール・レトリバーのスタンダードを考える
―イギリスタイプ? アメリカタイプ?―」 吉川信幸
「このラブはイギリスタイプ、これはアメリカタイプ」という表現を時々耳にすることがあります。ラブラドールの原産国である英国では、ラブラドールが犬種として承認されたのは1904年です。その後ラブラドール・レトリバー・クラブが設立され(1909年)、最初の犬種標準(スタンダード)は1916年に著わされています。一方、米国では遅れること約二十数年の1920年代終わりに犬種として認められ、1930年に米国ラブラドール・レトリバー・クラブ(LRCA)が設立されています。両国ともラブラドールの歴史は古く、現在でも常に人気犬種のトップにいます。ヨーロッパ諸国や国際畜犬連盟(FCI)の加盟団体は、英国ケンネルクラブ(KC)のスタンダードを採用しています。本協会もサイズを除いてはKCスタンダードに準拠しています。これに対して、米国ケンネルクラブ(AKC)は独自のスタンダードを設け、最近では1994年に改訂されて現在に至っています。スタンダードとは、それぞれの犬種に求められる理想的な姿、すなわち各犬種を特徴づけている身体的特徴(形態、構成、被毛、サイズなど)や歩様、気質などを文章で記述したもので、ブリーディングの指針となり、審査会の基準となるものです。スタンダードの正しい理解がなければ犬種の発展が望めないのは言うまでもありません。
イギリスとアメリカのラブラドールは違うのか。もし違いがあるならばどの点が異なっているのか。本稿では、KCとAKCのスタンダードを比較しました。
イギリスとアメリカのスタンダード比較
KCとAKCのスタンダードを本稿の後半に掲載しました(原文も同時に載せましたので、翻訳文で理解しづらい点がありましたら、原文を参照してください)。両スタンダードを一読すればわかるように、先ず文章の長さがかなり違います。単純に原文の単語数を比べると、KCスタンダードは364語、AKCスタンダードは単語数2071語です。これまでに多くの人が指摘していますが、AKCスタンダードは説明が多く、しかも同じ内容の反復がたびたびでてきます。一方、KCスタンダードは犬種の特徴が短い一言一言に簡潔に述べられています。イギリスのある有名なブリーダーは、「KCスタンダードは有益なスナップショットである。一方、AKCスタンダードは細かく描かれた油絵のようである」と表現しています。AKCの詳しい長文とKCの短文による簡潔な表現にはそれぞれ一長一短があるでしょう。それでは、内容について、特に、両スタンダード間で異なっている点を中心に、比較します。
▼[概観]
両スタンダードとも最初に、ラブラドールの概観(一般外貌)について書かれていますが、どちらも、ラブラドールは頑健でカプルドの短い犬であることを述べています。AKCスタンダードではこの[概観]の中で、ラブラドールの“タイプ”を次のように明確に記載しています。「ラブラドール・レトリバーを他犬種と明確に区別する特徴は、耐候性の短い密な被毛、“カワウソ”の尾、幅広の頭蓋と適度のストップがある端正な顔、強靭な顎、そして知性と気性の良さを表している親しみのある優しい目である」。
▼[頭部]
KCでは「頭蓋は幅広く、明確なストップを持っている。・・・」と、またAKCでも「頭蓋は幅広く、良く発達しているが、大きすぎるものではない。頭蓋とマズルは平行で、長さはほぼ等しい。適度のストップを持つ。・・」とあります。やや表現が異なるとすればストップに関する記述で、KCでは“明確なストップ(defined stop)” であるのに対して、AKCでは“適度なストップ(moderate stop)”としています。
▼[目]
KCとAKCのスタンダード間では眼色に関する記載に違いがあります。KCでは「色は茶(brown)あるいは薄茶色(hazel)である」とありますが、AKCでは「眼色は、ブラックとイエローのラブラドールでは茶色であり、チョコレートでは茶色か薄茶色である。黒や黄色の眼色は顔の表情をきつくするため、望ましくない。」と述べられています。文章をそのまま解釈すると、AKCではブラックやイエローの犬では薄茶色の眼色は好ましくないことになります。
両スタンダードともに目について「知性と優しい性格を表現している。」(KC)、「優しい性格、知性、そして気配りを表わす親しみのある優しい目は、本犬種の重要な特徴の一つである。」(AKC)と述べているとおり、目の表現はラブラドールにとって非常に重要な本質的特徴となります。
▼[サイズ]
サイズ(体高)については、KCとAKCスタンダードの間で明確な違いがあります。KCスタンダードでは「理想的な体高は、牡が56〜57cm、牝が55〜56cm」とあります。一方、AKCでは「体高は牡で57〜62cm、牝で55〜60cmである。・・・(中略)・・・。生後12ヶ月以内の犬に上で述べた体高の基準を当てはめる必要はない。」、さらに「これらの体高から上下1/2インチ(1.3cm)以上外れると失格となる。」という条項までついています。
KCのスタンダードは理想的なサイズを示しているだけで、サイズの範囲や上限、下限については述べていません。例えば、牡の体高が60cmであっても、逆に53cmと小さめでも“良い犬は良い犬(A good dog is a good dog)”として評価されます。イギリスの審査員(ブリーダー)に質問したところ、イギリスでは体高を実際に測定することはないそうです。審査員も出陳者も中型犬としてのラブラドールのサイズについて、見方や考え方にコンセンサスが得られているのでしょう。
KCと違って、AKCは体高の範囲を定めており、これを外れると失格としています。体高の範囲のちょうど中間のサイズは、牡が59.5cm、牝が57.5cmとなりますから、KCの理想的サイズと比較すると、牡、牝ともに2〜3cm大きいことになります。
KCスタンダードには体重に関する記述はありませんが、AKCでは「作業犬としての体重は、牡でおおよそ30〜36kg、牝で25〜32kgである。」とあります。過肥で重すぎる犬は作業犬として適していませんが、この体重は、体高の範囲と合わせて考えると、少ないように思えます
▼ [均整]
AKCスタンダードには均整(バランス)について「カプルドは短く、体長と体高は等しいか、体長がやや長い。肘の位置は体高の半分である。胸深は肘まであるが、それ以上深くなることは望ましくない。」とあります。KCスタンダードでは、ショート・カプルドという記述はありますが、体長・体高比や胸深について具体的な記載はありません。ただし「胸から肋骨にかけて幅と深さがある。」と表現されるように、胸深は肘より下がるくらい充分に発達している方が良いとされます。図1には、胸深が肘まで(AKCタイプ?)と肘より深い概観(KCタイプ?)をした犬を描いてみました。この図は胸深以外は同じです。
▼[前躯]
KCスタンダードが「肩は長く、充分に傾斜している。前肢の骨は太く、前あるいは横から見たときに、肘から地面にまっすぐおりている。」と非常に簡潔に記載しているのに対して、AKCスタンダードではかなり長い説明があります。その中で「肩は長く、充分に傾斜しており、上腕とおおよそ90度の角度でつながっている」とありますが、肩甲骨と上腕骨の角度(図2のA、B、C)が90度の犬は、実際にはトイ・グループの小型犬など一部でしか見られません(C.M.Brown, Dog locomotion and gait analysis.
Hoflin Publishing Ltd., 1986)。現実的には105〜110度が一般的な角度とされています。
▼[胴]
KCスタンダードでは胴(body)について「胸はほどよい幅と深さがあり、よく張った樽状の肋骨部を持つ。」とあるのに対し、AKCでは「ラブラドールはカプルドが短く、よく張った肋骨をもつ。・・・(中略)・・・。効率的な動きを阻害したり、スタミナ不足の原因となるような、広すぎたり狭すぎたりする胸は正しくない。平板の胸もよくないし、同様に丸い樽状の胸も望ましくない。」としています(図3参照)。ラブラドールは、陸上と水中での長時間の作業ができるように心臓や肺を包むスペースが充分にあり、同時に水中作業に適した浮力を持つためによく張った樽状の胸(肋骨部)がイギリスではラブラドールの特徴とされています。一方、AKCスタンダードでは「丸い樽状の胸は望ましくない」となっています。
▼ [歯]について
KCでは「強い顎と歯を持つ。噛み合せは完全な鋏状、すなわち、上の歯が下の歯にぴったりと被さっており、歯は顎に対して直角についている。」とあります。AKCも前半部分は同じで、「歯は頑強で、整った歯並びをしたシザース・バイトである。下門歯が、上門歯の内側に触れるようにわずかに後ろ側に位置している。」とありますが、その後に「レベル・バイト(切端)は許されるが、望ましくない。アンダーショット、オーバーショット、不規則な歯列は重大な欠点である。完全歯が望ましく、臼歯や前臼歯が欠けていることは重大な欠点である。」とあります。まず一つは、AKCではレベル・バイトが許容されている点、二つ目は、臼歯や前臼歯の欠歯が重大な欠点とされている点が両スタンダード間で大きく異なっています。完全歯が望ましいことは言うまでもありませんが、原産国イギリスでは噛み合せについては重視しますが、欠歯に関しては寛大で、ほとんど評価の対象にはしていません。
▼ [失格条項]
KCスタンダードには失格条項(Disqualifications)の記述はありません。強いてあげれば、注
(Note)として「牡は2つの正常な睾丸が陰嚢の中に完全に降りていなければならない。」と最後に述べられているくらいです。これに対してAKCスタンダードは次の5つの失格条項を明示しています。
1.スタンダードで指定されている体高からはずれた場合。
2.ピンク色の鼻や色素の無い鼻。
3.アイラインの色素が欠失している場合。
4.断尾や、尾の長さや保持を人為的に変えた場合。
5.標準で指定された黒、黄、チョコレート以外の毛色あるいはこれらの色が混じっている場合。
2と3は色素欠乏、4は人為的な改変、5は毛色についてですから特に問題とはならない条項と思います。しかしながら、1のサイズについてはいくつかの重大な問題を含んでいます。一つはサイズが大きい、あるいは小さいことで失格となること、二つ目は、原産国イギリスにおいて理想的なサイズ(例えば牝の体高55〜56cm)がAKCではサイズ範囲の下限に近い値になっていることです(図4)。
AKCスタンダードに関する最近の事情
現在のAKCスタンダードは1994年に改訂されていますが、それまでは1957年に制定されたスタンダードが使われていました。スタンダードの改訂は、先ず親クラブであるラブラドール・レトリバー・クラブ(LRC)内の委員会が草案作りを行い、続いてLRC会員による投票で過半数の賛成が必要です。最終的にはAKC理事会(AKC board of directors)で過半数の得票を得てはじめて有効となります。実は、一回目の改定案(LRC会員の投票で72%の賛成を得ている)は1987年にAKCに提出されましたが、改訂に反対する多数の手紙がAKCに届き、この案はLRCに差し戻されています。2回目の改定案がAKC理事会に提出されたのは1993年ですが、この案はLRC会員の68%の賛成を得ているとされています。この2次改定案は最終的にはAKC理事会で承認されましたが(賛成10、反対1)、この案に対してもかなり多くの反対意見(特にサイズに関すること)があったようです。現スタンダードが施行後、サイズに関する失格条項の取り消しと改正を求めて、ラブラドールのオーナーとブリーダー6名がAKCとLRCを相手に訴訟を起こしました。サイズの失格条項により、ドッグショーに犬を出陳できなくなったためです。詳しい訴訟内容と裁判の経緯についてはAKCのホームページ(ラブラドール・レトリバーのページ)に載っております。
最後に、米国のナンシー・マーチンさん(Mrs. Nancy Martin)が著書「The Versatile
Labrador Retriever」(DORAL Publishing, Inc.,320p,
1994)の中でAKCスタンダードについて述べた文章を引用します。
「私はこのスタンダードのある部分は非常に良くできていると思いますが、親クラブの会員としてこのスタンダードに反対の投票をしました。・・・(中略)・・・。イギリスとアメリカのスタンダードを比較すると、前者は短くて要を得ており、あらゆる点を簡潔かつ正確に網羅しています。また世界中のラブラドールクラブやブリーダーからラブラドールのスタンダードとして認められています。なぜわれわれアメリカのスタンダードだけが他の国々と違わなければいけないのか私には理解できません。アメリカでサイズ(体高)を大きくしている理由として狩猟環境の違いが挙げられています。では、オーストラリアや南アフリカ、スウェーデン、フィンランドはどうでしょうか。これらの国々の狩猟環境もイギリスと違っていますが、原産国イギリスのスタンダードを採用しています。体高が24.5インチ(62cm)の犬が22インチ(56cm)の犬よりも獲物の回収が上手だなどと誰がまじめに考えますか。・・・(中略)・・・。私はラブラドール・レトリバーは世界共通であるべきで、スタンダードは統一されたほうがよいと信じています。」