新パネル世界史 近・現代編 サンプル写真 |
新パネル世界史 近・現代編 上・中・下巻 全3巻 |
上巻 20枚組み 樹脂ケース入り 本体価格21,000円 |
2.ナポレオン-------ロシアからの退却
3.メキシコの独立
4.デカブリストの乱
5.ポーランドの独立運動-------1830年・11月蜂起
6.産業革命-------働く子どもたち
7.アイルランド問題
8.ベルリン三月革命
9.イタリア革命とガリバルディ
10.1867年パリ万国博覧会
11.パリ・コミューン
12.ジャポニスム-------ゴッホを魅了した浮世絵
13.ナロードニキ-------人民のなかへ
14.アメリカインディアン-------涙のふみわけ道
15.南北戦争後の黒人の地位
16.お茶と世界史
17.インド大反乱-------ラクシュミー・バーイー
18.アヘン戦争-------林則徐のアヘン処分
19.太平天国-------「剿滅粤匪図」
20.もうひとつの黒船-------プチャーチンと戸田村民
全パネル一覧表、解説書、掲示用マグネット、
中巻 20枚組み 樹脂ケース入り 本体価格21,000円 |
21.義和団
22.ホセ・リサールとフィリピン独立運動
23.帝国主義者セシル・ローズ
24.黄禍の図-------ドイツ皇帝のアジア観
25.日露戦争-------日本海海戦
26.ロシア第一革命-------戦艦ポチョムキン
27.朝鮮の義兵運動
28.魯迅と仙台医学専門学校
29.孫文と日本
30.ラス・ビハリ・ボースと中村屋
31.メキシコ革命-------パンチョ・ビリャのたたかい
32.第一次世界大戦-------イープルの戦い
33.第一次世界大戦-------女性と戦争
34.ロシア革命-------冬宮攻撃
35.アラブの反乱
36.トルコ革命とケマル・アタテュルク
37.インド独立運動-------糸を紡ぐガンディー
38.アメリカの繁栄と世界恐慌
39.ムッソリーニとローマ進軍
40.ヒトラーと民衆生活
全パネル一覧表、解説書、掲示用マグネット
下巻 20枚組み 樹脂ケース入り 本体価格21,000円 |
41.ベルリン・オリンピック-------偽装された民族の祭典
42.スペイン戦争-------国際旅団義勇兵ジャック・白井
43.「満州国」-------五族協和の幻想
44.日中戦争-------地道戦
45.日本支配下の朝鮮民衆-------皇民化政策と抵抗
46.日本の東南アジア侵略-------血債の塔
47.ユダヤ人強制収容所
48.レジスタンス-------パリ解放
49.朝鮮の解放と分断
50.中華人民共和国の成立-------中国の土地改革
51.水爆実験と太平洋の人びと
52.スターリン批判とハンガリー事件----スターリンの肖像を焼くブタペスト市民
53.バンドン会議-------第一回アジア・アフリカ会議
54.ブラック・アフリカの独立
55.アメリカ公民権運動
56.ヴェトナム戦争−−「爆弾の降った日」
57.パレスチナ問題
58.アパルトヘイト
59.イラン革命
60.「ベルリンの壁」の崩壊-------1989年東欧革命
全パネル一覧表、解説書、掲示用マグネット
パネル見本 |
32.第1次世界大戦----イープルの戦い |
パネル裏面解説文 |
ドイツ軍が鉄条網を突破して突撃を敢行してきました。イギリス・フランス連合軍の一翼を担うカナダ軍の陣地も防戦に必死です。左手の兵士は塹壕から身をのりだして手榴弾を投げ、中央の機関銃が威力を発揮し、鉄条網のところでドイツ軍兵士を次々に薙ぎ倒していきます。全体に旧式な兵器によるカナダ軍は戦を強いられています。塹壕内には傷ついた兵士が折りかさなって倒れています。
この絵の舞台となったイープルは、ベルギー領に属し、西部戦線の激戦地の一つです。ドイツ軍は膠着した西部戦線を突破しようと、2度にわたってイープルで攻勢に出ました。この絵の1915年の第2次イープルの戦いでは、ドイツ軍が敵の塹壕を突破するために毒ガスを史上最初に使ったことでも有名です。
第1次世界大戦は、大方の予想に反して長期戦となりました。西部戦線では、1914年9月のマルヌの会戦あと、両軍が敵の背後に回ろうと「拡翼競争」を続けます。その結果、スイス国境からベルギーの海岸部まで全長700qにわたって塹壕がほられました。敵と味方の2本の塹壕線が相対して延々と伸び、その間には幅1〜2qの無人地帯が横たわりました。
兵士たちは、いつ起こるかわからない敵の攻撃に備え、昼夜見張りをしなければなりませんでした。攻勢万能を信じた指揮官たちは、わずかの敵の陣地を奪うためにも突撃を命じ、何十万人もの若者の命が失われました。
戦場に駆り出されていった若者は、この塹壕で終戦までの日々を過ごしたのです。レマルク作『西部戦線異状なし』の主人公パウル・ボイメルは、映画では蝶に手を差しのべようと、塹壕より身をのりだして戦死しました。その日の司令部報告は、「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」。
ドイツの作戦計画は、20世紀初めのドイツ軍参謀総長シュリーフェンによって立てられた。ロシアは国土が広く鉄道網が発達していないので動員は遅れると考えて、まず開戦当初は主力を西部戦線に向け、フランス軍を撃破することを計画した。 ドイツ軍主力はその右翼を強化し、ベルギーの中立を侵し、巨大な回転ドアのごとく左旋回し、6週間以内にフランス軍を撃破する。そののち発達した鉄道網を利用して東部戦線に移動して、ロシア軍を撃破するはずであった。短期決戦を信じていたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、1914年8月第1週に出征する兵士たちにこう告げたーー「落ち葉の季節となる前に、諸君は家に帰れるであろう」。
西部戦線のドイツ軍150万は8月3日行動を開始した。ところが、中立国ベルギーの頑強な抗戦により進撃が予想以上に遅れた。またベルギーの中立侵犯は、イギリスの参戦を引き起こした。さらにロシア軍の動員が予想以上に早く、東部戦線にも兵力を回さなければならないという事態となった。ドイツ軍の一部はエッフェル塔を望む地点まで進出したが、9月6日から11日までのマルヌの会戦で英仏軍がくいとめて反撃にでた。ここにシュリーフェンが考えた短期決戦の夢は挫折し、戦線は両軍が塹壕をほって対峙する長期戦となった。
ベルギーのイープルは、中世から毛織物工業の発達した都市として有名である。西部戦線の北端の激戦地(第1次戦・1914年10〜11月、第2次戦・1915年4〜5月、第3次戦・1917年7〜12月)となり、町は廃墟と化した(写真参照)。連合軍側はイギリス軍が担当し、イギリス自治領のカナダ・オーストラリア・ニュージーランドからの派遣軍が協力した。
第1次の戦い。1914年10月イギリス軍は、ドイツ軍の裏をかこうとしてイープルに到着し、ドイツ軍も敵の裏をかくつもりでイープルへ移動した。両軍の攻撃計画は偶然に鉢合わせをした。両軍とも大量の死傷者を出したが、成果はなかった。
第2次の戦い。1915年4月22日早朝、黄緑色の霧がフランス軍陣地を包みこんだ。続いてドイツ軍の奇襲、前線の幅4マイルにわたって死者と窒息状態の兵士が倒れていた。これが国際法上、非難される毒ガスの最初の使用例である。このときドイツ軍は150トンの塩素ガスを6千本のシリンダー(円筒)より放出した。カナダ軍へもガス攻撃がなされた。当時は防毒マスクはまだなかったので、ハンカチ・タオル・綿製弾薬帯を塹壕内の手近にある液体で湿らせ、口に当てるしかなかった。イギリス軍(カナダ兵を含む)は退却せず被害を大きくした。
4月25日の夕刻、カナダ軍師団の大半は予備部隊に引き下げられた。公刊戦史によれば彼らは「南アフリカ戦争時代の旧式な兵器」である大砲によってわずかに援護されながら、小銃をもって敵のガス弾と重砲に抗して勇敢に戦ったあげく、約5000名を失った。パネルの絵はこのときの戦いをえがいたものである。
第3次の戦い。1917年7〜12月、イギリス軍が攻勢に出たが、戦果よりも損害の方が大きかった。このときもカナダ軍が活躍した。
戦争終結までに、6万人を越えるカナダ人が戦死した。これはアメリカ合衆国の第1次世界大戦での戦死者を約1万2千人も上回った数である。
膠着した戦線では、深く掘られた塹壕・重層の有刺鉄線をはりめぐらせた鉄条網・機関銃の3つの組み合わせによる防御方式がたいへん効果があった。パネルの絵にあるような歩兵による銃剣突撃は、機関銃の掃射によって約9割の損害を出して撃退されるのが常であった。
機関銃は1884年米人ハイラム=マキシムにより本格的自動火器として実用化された(マキシム式重機関銃)。当初は故障も多く重要視されなかったが、第1次世界大戦では有力な防御兵器として各国はきそって装備した。ドイツでは、兵員の定数は25%縮減されたかわりに重機関銃の保有数は7倍に増やされた。イギリスは戦争開始当初2000丁を保有していたに過ぎなかったが、戦争末期には5万丁を保有するようになった。
また、第1次世界大戦は砲兵の全盛時代だった。火砲、とくに野戦砲が戦場の女王として君臨した。フランス軍の死傷者中、砲弾によるものが1914年冬には75%に達した(日露戦争時は14%)。攻勢に出るときには、敵の陣地設備・砲兵を完全に破壊するために重砲・大火力急襲方式がとられた。このため、砲弾による死傷割合は78%に達し、「砲兵は略奪し歩兵は占領する」の語が生まれた。
例えば、フランス軍は1915年の秋季攻勢(シャンパーニュ地方)では、砲兵は重砲千百余門・野砲三千門等により170万発を使用し、3日間しらみつぶしの準備射撃を行った。その結果、フランス軍は敵の第一線陣地を無人の野を行くごとく前進できた。
しかし、そのため砲弾の消費量は莫大なものとなった。フランスは開戦後30日間の戦闘で備蓄砲弾の50%を消費し、ドイツも開戦後60日で全貯蔵量の50%の砲弾を消費した。
敵の堅固な塹壕を突破するために様々な兵器が開発された。毒ガスは、1915年4月22日ドイツ軍がイープルの戦いではじめて塩素ガスを放射した。この放射ガスは前面のフランス軍2個師団を音もなく全滅させてしまった。これは試験的使用に終わり、1916年のベルダン戦から本格的に使用された。兵士たちは常に防毒マスクを付けるように指示された。毒ガスはのちに1925年のジュネーヴ議定書でその使用が禁止された。
「鉄条網を突破し、塹壕をのりこえる機械はないか」というイギリスのチャーチル海相の発想を、具体化した新兵器が戦車である。最初に戦車(18台)が登場したのは、西部戦線のソンムの戦いである(1916年9月15日)。故障が続出し、戦果はドイツ軍陣地をわずか数キロ突破しただけであった。のち次第に改良され、陣地戦を機動戦にかえる重要な役割をはたす兵器となっていく。
兵士たちは、戦闘のときは塹壕内で、戦闘のないときは前線のすぐ後方の廃墟と化した村で眠った。敵以外に寒さやぬかるみ、しらみやねずみとも戦わなければならなかった。軍服の消耗が激しく、ズボンは3カ月、外套は6カ月、上着は10カ月以上はもたなかった。
イギリス軍は塹壕(トレンチ)戦に耐えるために、悪天候用の防水レインコートをつくった。これがトレンチ・コートの始まりである。パネル右より二人目の後ろ向きの兵士が着ているのがそれである。軍服としての機能性から生まれたものであるが、デザインが優れているため世界的に普及した。
塹壕生活では、簡便なものが兵士たちに好まれた。安全カミソリ・粉ではなく練り歯磨きがそうである。また以前は優雅な人だけが吸っていたシガレットも、塹壕内で兵士がそれを吸う習慣を身につけた。これらは第一次世界大戦後、一般に普及した。
1.第1次世界大戦の主要な戦い方となった塹壕戦について、しっかりと生徒に把握させたい。
2.塹壕を突破するために発明・開発された新兵器(戦車・毒ガスなど)の登場により、その後の戦争(第2次世界大戦〜現代戦)の様相が大きく変化したことを理解させたい。
3.戦争に参加した若者の気持ちを、『西部戦線異状なし』などの文学作品などを通して理解させたい。
《参考文献》
1.リデル・ハート『第1次世界大戦』(1976・フジ出版社)
2.テイラー『第1次世界大戦』(1980・新評論)3.金子常規『兵器と戦術の世界史』(1979・原書房)
4.神谷不二編『世界の戦争 9 20世紀の戦争』(1985・講談社)
5.『20世紀の歴史』3(19 年・日本メール・オーダー)
6.アシェット版『世界の生活史18 第1次世界大戦』(1986・東京書籍)
7.レマルク『西部戦線異状なし』(1955・新潮文庫)
担当 河野 明
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