パネル世界史 近代2巻  サンプル写真

                厚型パネル

パネル世界史 「近代編」上・下巻  全2巻
上巻 15枚組み 化粧ケース入り 本体価格24,700

1.スペインの「新世界」支配とラス・カサスの批判

2.天正遣欧少年使節--------イエズス会の日本布教

3.サヴォナローラの火刑--------ルネサンス

4.「アンギアーリの戦い」-------レオナルド・ダ・ヴィンチ

5.エラスムスと印刷・出版

6.子どもの遊び-------ブリューゲル

7.贖宥状の販売-------ドイツ宗教改革の発端

8.ヘンリ8世とイギリス国教会

9.イェルマークのシベリア遠征-------ロシアの東方進出とカザーク

10.ピョートル大帝-------サンクト・ペテルブルクの建設
11
.ポーランドを分割する君主たち

12.大黒屋光太夫-------「鎖国」日本とロシア
13
.砂糖と黒人奴隷-------西インド諸島のプランテーション

14.ロンドンのコーヒーハウス

15.ジョフラン夫人のサロン-------啓蒙思想の時代

全パネル一覧表、解説書

下巻 15枚組み 化粧ケース入り 本体価格24,700円

16.コンスタンティノープルの攻略--------オスマン帝国の発展 

17.オスマン軍のウィーン包囲-------1689年
18.チトール城攻防戦-------ムガル帝国の全盛 

19.ティプの虎-------南インド・マイソール王国のたたかい
20.バタヴィア−−オランダのアジア経営拠点

21.鄭和の大航海
22.鄭成功の台湾攻略

23.中国陶磁の製陶工程図-------明清時代の陶磁産業

24.柿右衛門とヨーロッパの焼き物------「鎖国」日本とヨーロッパの交流

25.蘇州の繁栄-------徐揚「盛世滋生図」

26.紅楼夢の世界

27.李氏朝鮮の社会と生活-------両班と農民

28.キルワの繁栄-------東アフリカとインド洋交易

29.クックの最期-------ヨーロッパ人の太平洋探検

30.ボストン茶会事件-------アメリカ独立革命

全パネル一覧表、解説書

                     


パネル見本

L 砂糖と黒人奴隷-----------西インドのプランテーション

パネル裏面解説

《この絵の物語》

 砂糖が私たちの身近な食品になったのは、そんなに昔のことではありません。ヨーロッパでも、砂糖は長いあいだ貴重品でした。17,18世紀のコーヒー・紅茶などの普及とともに、砂糖の需要も飛躍的にふえました。ヨーロッパ人はこの需要をまかなうため、その原料となるサトウキビを、植民地化したアメリカ大陸およびその付近の島々で栽培しはじめました。

 紅茶ブームのおこったイギリスは、カリブ海にある自国の植民地の島々で砂糖生産をはじめます。パネルはその一つ、アンティグア島でのサトウキビ栽培をえがいたものです。水はけのよい斜面を利用して畑がつくられています。いまキビ苗を植え付けるための畝床をつくる作業の真っ最中です。黒人奴隷たちが、男も女も一列になって鍬をふりあげています。作業を一列でおこなうのは、ギャング制という集団労働のやり方です。ひとりでも手をゆるめる者がでないようにするためのしくみでした。畑に立ててある枝は、正方形の畝床をつくれるようにするための目印で、子どもたちの仕事でした。手前でムチをもって指図しているのが、黒人の奴隷監督です。遠くのほうで放牧されている牛たちは、製糖工場でローラーを回転させる動力に使われました。

 サトウキビは熱帯ないし亜熱帯性の作物で、その成長に12カ月以上を要します。刈り取るときには高さ120〜250センチ、茎の太さが5〜7センチになります。刈り入れの季節は春で、急速に発酵し乾燥するため、24時間以内に茎に含まれる糖分の汁を搾り取らなければなりませんでした。農園内にそれを行ない、煮詰めて砂糖を結晶化させる製糖部門の工場がつくられていました。

 砂糖プランテーションでは、植え付けや刈り取りなどのときに大量の労働力を必要としました。そのためにアフリカから連れてこられたのが黒人奴隷だったのです。砂糖生産の発展とともに大量の黒人奴隷が海を渡ってアフリカから連れてこられました。アフリカから「黒い積み荷=黒人奴隷」を運んだ船が、帰りは「白い積み荷=砂糖」をのせて本国へ向かったのです。

 これらのプランテーションの所有者(プランター)の多くは不在地主であり、本国イギリスで優雅な生活をおくっていました。かれらは議会でも西インド派を形成し、自分たちの利益を守るためにおおいに勢力をふるいました。18世紀中頃のイギリス帝国において、西インド諸島は砂糖の生産のゆえにもっとも価値のある植民地だったのです。

おもな内容と解説》
1.砂糖の登場

 サトウキビはニューギニア原産であり、イスラム教徒の手により地中海地域にもたらされ、十字軍以来ヨーロッパにも知られるようになった。それからつくる砂糖は、長いあいだ庶民の手の届かない高価な貴重品であった。最初、砂糖は医薬品・香料・装飾用素材(砂糖デコレーション)として使われ、それを所有することは国王や貴族の地位の象徴であった。エリザベス女王は砂糖が好きで歯が真っ黒な虫歯だったといわれるし、チャールズ2世に嫁いだポルトガル王女キャサリンは持参金の代わりに砂糖をもってきた。

 イギリスでは、17,18世紀に紅茶ブームが到来し、ティーにミルクと甘味料として砂糖を入れる習慣ができて、砂糖の消費量は飛躍的に増大した。1600年頃、砂糖の人口一人当たりの年平均消費量が400〜500グラムにも達しなかったが、17世紀には約2キロとなり、18世紀には7キロまで消費が伸びた。砂糖は茶やコーヒーの甘味料として使われただけでなく、料理にも使われてイギリス人の食生活をより豊かにした。

2.砂糖プランテーション

 サトウキビは、1493年のコロンブスの第2回の航海によって新大陸に持ち込まれた。1516年頃スペイン領のエスパニョーラ島サント・ドミンゴ(地図参照)で黒人奴隷をつかって砂糖生産がはじまった。16世紀後半から17世紀はじめにかけては、ポルトガル領のブラジルが砂糖生産の中心となった。自国で砂糖生産の確保をはかったイギリスは、スペインから奪ったカリブ海の諸島で砂糖生産をはじめた。1650年代にはバルバドス島がその中心であったが、1680年代になると土壌が痩せ細って生産が落ちてきた。これに代わって英領の西インド諸島の中で一番面積の広いジャマイカ島が中心となった。18世紀はジャマイカ島の砂糖生産の黄金時代であった。

 17世紀末の典型的な砂糖プランテーションは面積100エーカー(約40万平方メートル)であり、黒人奴隷50人が使用され、投下された総資本は5625ポンドと評価された。年間の砂糖生産量はエーカー当たり1トン弱、年間利潤540ポンド、年利益率にして10パーセント程度であったという。

 18世紀の砂糖プランテーションになると一段と規模が大きくなり、必要な創設資金も平均1万4029ポンドと巨額になった。1774年のジャマイカの国勢調査によると、680の砂糖プランテーションがあり、そこには10万5000人の黒人奴隷と6万5000頭の家畜がいた。平均面積は441エーカーで、黒人奴隷151人と家畜95頭がいたことになる。

 砂糖プランテーションは綿花・コーヒーなどその他のプランテーションと比べて、面積で2倍半、労働力で6倍、家畜で2倍の規模であった。砂糖生産にはとくに多数の労働力を必要としたということがわかる。これらのことは、すぐれた歴史家でありトリニダード=トバゴ国の首相をつとめたウィリアムズの著書で詳しく分析されている。

3.砂糖の生産

 砂糖プランテーションは、農業と工業が結合した企業体であり、両部門は一括して管理する必要があった。1月から5月末ごろまでサトウキビの伐採、搾汁、煮詰め、詰め込みなどの作業が同時並行でおこなわれた。

 成育したサトウキビは新年になると刈り取りはじめられる。作業集団は一列にならばされ、鎌や鉈で刈り取って前進していく。刈り取られたサトウキビは葉をとり、1メートル位に切り揃えられ、束にして荷車で急いで搾汁場へ運ばれた。

 製糖所のおもな機械は、垂直3本ローラーからなる搾汁機であった(図参照)。ひとりの奴隷が正面でサトウキビを回転するローラーの間に挿入すると、もうひとりはローラーの背後で一度圧搾されたサトウキビをもう一度今一つのローラーに通す。動力は、風力・水力・畜力のいずれかを使った。搾汁率は19〜20世紀で、平均50%位であった。 製糖工程は、搾汁の浄化・濾過と煮沸・結晶化との2つの作業からなっている。ずらりと並べられた銅製釜でこれらの作業が連続的に行なわれ、煮詰められていった。こうしてできた砂糖は褐色をした柔らかな固形物であり、さらに乾燥が必要であった。約1カ月乾燥させて結晶化しない糖蜜を取り除いたものが粗糖である。粗糖は三層に分かれており、全体の四分の三にあたる白色を帯びた良質の層が大樽に詰められて市場に向けて積み出された。また製糖工場には、ラム酒蒸留場が必ず設置されていた。原料の糖蜜を発酵後に蒸留してラム酒がつくられた。

4.黒人奴隷の生活

 カリブ海の砂糖生産ブームの到来とともに、連れてこられる黒人奴隷の数は急増した。これが史上有名な三角貿易の一辺(中間航路)の奴隷貿易である。19世紀半ばまでにアフリカから新大陸へ「輸出」された黒人奴隷の多くは、砂糖を生産するためにカリブ海(42%)や南米(約49%)へ運ばれた人たちである。それに比すれば北米へ運ばれた黒人奴隷の数は少ない(7%)。

 あるプランターによるとジャマイカでの18世紀末の畑作労働の日課はつぎのようであったという。 奴隷たちは、夜明け前の午前4時ごろに「奴隷監督頭」の鳴らす鐘またはホラ貝の合図で起こされた。急いで身支度をととのえると、農具を持って夜が明けるまでにキビ畑へ向かった。キビ畑で、ギャング(作業班)ごとに奴隷監督の点呼をうけた。畑作業は午前6時近くから始められ、、午前9〜10時ごろに約30分の朝食時間が与えられる。朝食には、ヤム芋、サト芋、バナナなどの主食と、オクラなどの野菜を塩またはとうがらしで味つけしたものが出された。正午から約2時間、昼食をかねた休憩があった。熱帯性気候のジャマイカでは、この休息は決して長いものではなかった。奴隷たちは、仮眠をとったり、自分たちの「菜園」の仕事をしたりした。午後2時ごろから日没後(午後6時半〜7時ごろ)まで働いた。収穫期には、作業は深夜にまで及んだ。(西出敬一氏論文より要約)

 奴隷たちは消耗品扱いであった。プランターたちは「育てるより買う」方が手っとり早く奴隷数を増やせると考え、輸入補充主義をとった。カリブ海の黒人奴隷人口の急増は、想像を絶する輸入黒人の消耗のうえに、成立したものだったのである。黒人たちは慣れない環境・きつい労働の中で死亡率を高めた。黒人人口が自然増をはじめるのは、バルバドス島の場合でやっと18世紀末になってからである。

5.砂糖プランターの栄華

 砂糖プランターたちは、できるかぎり早く一財産をつくり、管理を代理人に任せ、本国へ帰国することを望んだ。まず子どもたちを本国に送り、本国で教育をうけさせた。彼らにとって西インドの砂糖プランテーションとは根をはって生活する場ではなく、利益をあげる投資対象にすぎなくなっていく。こうして不在地主化がすすんでいった。 プランターの生活がいかに豪華であったかを示す次のエピソードは有名である。ジョージ3世が大ピットとともにウェイマスに行幸したとき、国王の行列よりも立派な供まわりをつけた豪奢な西インド・プランターの行列を見て、機嫌を損ねた国王はこう叫んだという。「砂糖、なに砂糖だと!万事、砂糖の世の中だなあ、関税はいかほどじゃ。ピットよ。関税はいかほどじゃ」と。

 彼らはその利益を守るために「ジャマイカ・コーヒー・ハウス」などを活動拠点にして積極的な議会工作を展開した。1660〜1770年の間に砂糖関税は約6倍にも上昇した。彼らはできるだけその上昇を抑えようとし、さらに英植民地産砂糖には特恵関税を認めさせ、外国産砂糖を排除した。また北米植民地の商人が安価な外国(仏領植民地サント・ドマングなど)産砂糖・糖蜜の取引をすることを禁止するために、1733年糖蜜法の制定に成功した。しかし、この法律は北米植民地の人びとの反発を生んだ。

 さらに西インド・プランターの意向がはっきりとあらわれたのが、七年戦争を終結させたパリ条約においてであった。イギリスは戦争中に占領した西インドの島々の処分において、砂糖生産の盛んなマルティニーク・キューバなどの島々はフランスとスペインへ返還し、ドミニカ・グレナダ・トバゴ等の砂糖生産に適しない島々は併合した。これには自国内に砂糖生産地をこれ以上ふやしたくない西インド勢力の意向が相当反映していたといわれる。

 産業革命の進展とともにイギリスは自由貿易体制がとられるようになり、砂糖プランターによる利益独占も崩されていく。議会でも1807年奴隷貿易が廃止され、1833年には奴隷制度も廃止されてプランターたちの息の根を止めた。こうして砂糖生産の中心はスペイン領のキューバに移り、ヨーロッパでは甜菜糖の生産がさかんになっていった。

《指導上の留意点》 

1.ヨーロッパの生活革命の結果、砂糖が欠かせない嗜好品となってきたことを理解させる
(パネル世界史近代編No.14・近現代編No.16参照)。

2.砂糖プランテーションの実態を把握させて、砂糖がどのようにして生産されたかを理解させる。

3.奴隷貿易・黒人奴隷制の発達が、砂糖生産の急増と深くかかわっていることを理解させる。

4.不在地主化した砂糖プランターが、本国イギリスの政治・経済・文化にあたえた影響を理解させる。

5.カリブ海世界で生まれたレゲエ・サルサなどの黒人音楽の源流がこの時代にあることを理解させる

《参考文献》

池本幸三『近代奴隷制社会の史的展開』(1987・ミネルヴァ書房)

ウィリアムズ、川北稔訳『コロンブスからカストロまで』T(1978・岩波現代選書)

川北稔『工業化の歴史的前提』(1983・岩波書店)

西出敬一「From Invisible Men to Visible Men−ジャマイカにおけるプランテーション奴隷の労働と生活−」(1987〜90・札幌学院大学人文学会紀要)

増田義郎『略奪の海 カリブ』(1989・岩波新書)

ミンツ、川北稔他訳『甘さと権力』(1989・平凡社)

メイエール、猿谷要監修『奴隷と奴隷商人』(1992・創元社)

担当  河野 明



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