新パネル世界史  前近代編(T)   パネル写真

容量の問題で今週は、世界史は前近代編(T)の各写真をクリックしていただければ拡大写真を見ていただけます。

新パネル世界史  前近代編(T 上・下巻 全2巻
上巻15枚組 樹脂ケース入り 本体価格17,000円


1.馬王堆の帛画---------中国神話の世界
2.殷の王墓
3.孔子と音楽--------在斉聞韶図
4.漢代の社会生活
5.神になった豪傑・関羽-------道教の世界

6.永泰公主墓壁画
7.宋代解州塩池の製塩-------塩の専売

8.科挙の合格発表
9.張択端「清明上河図」-------宋代の庶民生活

10.元雑劇の舞台と俳優たち

11.「蒙古襲来絵詞」-------モンゴルと高麗・日本

12.新羅騎馬人物土器-------6世紀の新羅

13.薩水の戦い-------隋の高句麗遠征

14.「蔡文姫帰漢図」-------匈奴と漢

15.ソンツェン・ガムポと吐蕃王国

   全パネル一覧表、解説書、 掲示用マグネット

下巻15枚組 樹脂ケース入り 本体価格17,000円

16.馬乳酒の祭り-------モンゴルの生活
17.シルクロード-------絹の西伝
18.モンゴル帝国と東西交流
19.モエンジョダーロ-------インド文化の源流

20.ブッダの出家
21.アジャンターの石窟第一窟僧院窟
22.ラーマーヤナ

23.聖火の儀式
24.チュン姉妹の反乱--------古代のヴェトナム
25.スコータイの涅槃仏
26.ワヤン-------ジャワの影絵芝居
27.アウトリガー・カヌー-------太平洋への居住圏の拡大
28.ヤシュチランの鳥ジャガー-------マヤ文明
29.テノチティトランの市場-------アステカ王国
30.太陽の祭り−−インカ帝国

   全パネル一覧表、解説書 掲示用マグネット


 

パネル見本と裏面解説
4.漢代の社会生活

パネル裏面解説文

[この絵の物語]

 この2枚の拓本は、画像磚といわれる浮き彫りのある煉瓦からとられたものです。いずれも、かつて蜀といわれた四川省の豪族の墓から出土しました。漢代、四川は水田開発がすすみ、「人びとは米と魚を食し、凶作の年の憂いがない」、物産の豊かな土地とうたわれました。

 @の狩猟・収穫図では、上段にため池での魚の養殖と蓮の栽培がえがかれています。そして池のほとりでは、二人の人物が弓で雁を射落とそうとしています。この弓は弋(いぐるみ)といわれるもので、矢のうしろにひもがついていて鳥をからめとります。人びとは、魚や鳥といった大切な動物性のたんぱく質をこのようにして確保しました。 下段は水稲の収穫風景です。中央の3人は左手で稲穂をつかみ、右手で刈りとる「穂摘み」のやり方で収穫しています。そのうしろには、刈りとられた稲穂をたばねて、天秤棒で担いでいく人がえがかれています。右側の二人は、大鎌を使って刈りとったあとの稲株をなぎはらっています。よく見ると、どの人も足先が見えません。水田に浸かっているから見えないのだと思われます。

 さらに下の水田には、上のため池から水が引かれたものと考えられ、両者は密接に結びついているものなのです。四川ではこのようなため池の水を利用する灌漑農耕が発達しました。

 Aは、豪族の邸宅をえがいたものです。邸宅の周りは塀で囲まれており、一番下に門が見えます。奥では主人が客をもてなし、酒をくみかわしています。庭では、鶴が放し飼いされ、鶏同士が闘っています。右側には、周囲を見張るための高い望楼がそびえ、屋敷を守る役目をしています。当時、豪族の屋敷には、このような望楼が必ずついており、上から弓を持った者が、睨みをきかせていました。その横には、猛犬がつながれており、召使いがほうきで掃除をしています。右下には、井戸が見え、料理の材料が竿にぶらさがっており、その一角は台所のようです。

 後漢の時代、このような豪族が地方に勢力をもち、後漢王朝自身も豪族にささえられた政権でした。豪族たちは、つぎつぎに土地を併せていき、大土地所有をすすめました。かれらの豊かな生活ぶりをこの絵からうかがうことができます。

 このほか、画像磚には、社会生活のさまざまな場面をえがいたものが多くあり、漢代の人びとの暮らしを知る貴重な資料になっています。

《おもな内容と解説》
1.画像石の世界

 漢代から六朝にかけて、画像墓がさかんにつくられた。そこにえがかれた画像は、当時の社会風俗を知る貴重な資料となっている。中国の墳墓の形式は、殷代の竪穴式から秦・漢代になると横穴式にかわっていく。横穴式では、いくつもの部屋をもつ墓室が可能となり、その部屋の壁面を飾ったものが、画像石とか画像磚といわれるものであった。そのテーマとしては、まず被葬者の一生のさまざまな場面、とくに被葬者がもっとも輝いていた華やかな場面(謁見・宴会・馬車のパレード)があげられる。そのほか日常生活の場面(狩猟・農耕・市場風景)や、神話的世界・儒教の教訓的な故事の一場面などがあった。

 また後漢の時代には、画像石のほかに明器とよばれる陶製ないし木製のミニチュアの模型が一緒に出土する。四川省からは、水田・養魚池・井戸・食器などの模型がたくさん出土している。これらは画像石と同一の主題のものであり、両者を総合して見ることによって、立体的な理解を深めることができる。

 このように、被葬者は地下の墓室のなかで、召使いや日常生活品にこと欠かず、生前とかわらない生活を続けることができるように配慮されていた。墓の中こそ永遠につづく「天上の国」であったのである。

 漢代の画像墓には、邸宅をそのまま地下に再現したような豪華なものまであらわれた。この「厚葬」の風潮は、後漢時代に大流行したが、魏晋時代になるとその規模は縮小していった。これには曹操が「薄葬令」を出して、厚葬を禁止したことが関係している。画像の内容も、魏晋になると仏教の影響を強くうけ、貴族趣味が濃厚になり、社会生活を生き生きと表現したものではなくなっていった。

2.中国稲作のはじまり

 これまで黄河文明中心に考えられてきた中国古代文明に対して、長江(揚子江)文明の重要性が注目されるようになってきた。その代表的な遺跡が、1973年長江下流域の浙江省余姚県から発掘された河女母渡遺跡である。木造高床式の住居・土器とともに、大量の稲籾が出土した。また骨製の耜など各種の農具も発見され、ここで大規模な稲作が行われていたことが確認された。

 この遺跡のもっとも古い部分は前5000年前後とされ、稲作の遺跡としては今のところ世界でもっとも古いものである。黄河文明でいうと、仰韶文化早期のころあるいはそれ以前に相当する。この河女母渡につづくものとして長江流域には馬家浜・良渚・屈家嶺の諸文化がある。これらの長江文明に共通する性格が、水稲栽培であり、華中に稲作社会が形成されていった。

 栽培種の稲の起源については、河女母渡など長江下流域を起源とする説と、インドのアッサムから中国の雲南にかけての高地を起源とする説がある。中国考古学は、長江下流域での稲の野生種からの栽培化の過程(中国起源説)をしだいに明らかにしつつある。

 稲の実(籾)のタイプは、やや円形で日本人が常食するジャポニカと、細長い形で東南アジアで作られているインディカの両品種に大別される。中国では、同一の遺跡(河女母渡など)から両者が一緒に出土している。早い時期の遺跡ほどインディカの割合が高く、年代がさがってくるとジャポニカの割合がふえてくる。すでに漢代の字書『説文解字』は、両者のちがいをはっきりととらえ、粘性の有無によって、稲を粳(粘性の強いジャポニカ)と米山(粘性の弱いインディカ)とに2大別している。漢代では、粳が優勢であった。馬王堆1号漢墓からは粳・米山・糯の3種の稲籾が出土しているが、粳の割合が約60パーセントをしめている。

3.漢代華中の稲作

 前漢時代より、華中の農業は「火耕水耨(収穫後、田の雑草を焼いて耕し、水を灌いで除草する)」とよばれる農法がおこなわれたと『史記』などの史料にのっている。この農法については、一年休閑の直播であったか、連作の直播であったかについて論争があり、一般に農業技術が、華北にくらべて低い段階にあるとされてきた。

 しかし、近年、中国での考古資料にもとづく研究により、かなり進んだその実態が明らかになってきている。とくに四川では、春の雨不足に対処するために、山間部から盆地への出口に堤防を築き、陂とよばれるため池をつくり、水門によって調節しながら水田の灌漑がおこなわれた。そのことを象徴的にしめすものが「陂塘稲田模型」であり、成都盆地から集中的に出土している。

 模型のため池には、サカナ・カメ・カエル・カニ・タニシ・カモなどさまざまな動物がおかれていた。そのほか、模型の田面の整然とならんだ孔は、後漢の時代になって田植え技術がはじまったことをうかがわせるものである(図参照)。

 華北の大規模な用水路である渠が、主として国家の手で築造されたものであるのに対して、四川のため池=陂の築造は、豪族が中心となってすすめられた。このように、後漢の時代、四川地方は豪族による水稲栽培技術の最先進地帯であったのであり、かれらはその技術を誇りに思って、そのことを墓室内に画像磚としてえがかせ、模型を副葬品としたものと考えられている。

 また、パネルのように穂摘み方式の稲刈りがおこなわれた理由は、品種が粳と米山がまじっていて一定せず、成熟時が異なったこと、また品種が原始性を残しており、成熟時に脱粒性がつよかったので適時に収穫する必要があったこと、当時のばらまきの稲田に適した収穫法であったことなどがあげられる。のこった稲株を刈りとる大鎌は、金發とよばれる両刃の鉄製のものであり、実物が出土している。稲藁はもってかえって利用するか、放置して「火耕」の材料にされた。

4.豪族の生活

 前漢初めの標準的な農民は、5人家族で、働き手が2人、100畝(182アール)の土地をもち、100石(1.94キロリットル)の収穫をあげるものと考えられた。ところが、この規模では、田租などを払えば生活は苦しく、つねに没落の危機にさらされていた。武帝の時代、董仲舒は、富者の広大な所有地がどこまでもつづき、貧者は「立錐の地もない(錐を立てるほどの土地もない)」状態であると述べている。このような大土地所有者が、史料に「郷曲に武断する」と書かれている人びとであり、豪族とよばれた。この豪族勢力の台頭にいかに対処するかが、前漢政府の課題となり、限田法が出されたが、成功しなかった。

 後漢を建国した劉秀(光武帝)は、みずからが豪族出身であり、かれは豪族の援助をえて、政権を獲得した。かれの母の実家であった樊氏は、代々南陽(河南省)で力をたくわえ、一族が三世代にわたって同居同財する大豪族であった。多数の奴隷と広大な土地をもち、樊氏池を掘って田畑に灌漑し、養魚や牧畜もおこなった。その家は、みな二階建て、三階建ての高楼建築であったという。 後漢末の崔寔が著した『四民月令』は、豪族社会の年中行事を詳細に記録している。当時は、宗族とよばれる同族の人びとが郷里に軒をならべて住んでおり、正月元旦には会って祝辞を述べるものとされた。また、同族中の貧民の救済は重要な義務とされ、3月と9月の端境期には同族の人びとを救済するように指示されている。

 また、『四民月令』は詳細な農事暦になっており、豪族が直接農業経営にたずさわっていたことをうかがわせる。さまざまな作物の植えつけ、樹木の手入れ、畑の手入れなどの時期について細かい指示がある。家内奴隷をつかっての養蚕・機織り・酒造り・調味料づくりなどもおこなわれた。農産物とこれらの手工業品は、折り折りの時期に売買せよとの記事があり、豪族が小農民を対象に商業活動をおこない、そこから利益をえていたことがわかる。12月の条に耕牛を世話する記事があり、豪族たちは、耕牛と鉄製の農具を使った最新の犂耕方式を採用することにより、小農経営に対して優位にたつことができた。

 豪族たちは、自衛体制にも注意をはらっていた。『四民月令』には収穫期や飢饉のときに襲ってくる盗賊をふせぐために、武器の手入れや実戦演習をするようにとの記述がある。後漢末の混乱期になると、かれらは宗族を中心に流民・奴隷・賓客をあつめて自衛のために塢とよばれる砦をつくり集住した。パネルの絵のように豪族の屋敷が、土壁で囲まれその一角に高楼をもつのは、まさに豪族の軍事的側面を物語っている。

《指導上の留意点》
1.画像石(磚)を丹念に読み解くことによって、文献史料からは知ることにできない人びとの暮らしを理解させる。
2.稲作をてがかりに長江文明から漢代の華中農業までの特徴を理解させ、日本の稲作の源流であったことに気づかせる。
3.豪族の存在に注目させ、かれらの日常生活から中央・地方の政治・経済や文化にはたした役割を理解させる。

 

《参考文献》

・宇都宮清吉『中国古代中世史研究』(1977・創文社)

・崔寔、渡部武訳注『四民月令』(1987・平凡社東洋文庫)

・陳文華、渡部武編『中国の稲作起源』(1989・六興出版)

・林巳奈夫『中国古代の生活史』(1992・吉川弘文館)

・林巳奈夫『石に刻まれた世界』(1992・東方書店)

・渡部武『画像が語る中国の古代』(1991・平凡社)
《所在》

@弋射収穫画像磚

 縦39.6センチメートル 横46.6センチメートル 1972年四川省大邑安仁郷出土 四川省博物館蔵

A庭院画像磚

 縦40センチメートル 横45センチメートル

 四川省成都羊子山出土 中国歴史博物館蔵

担当 河野 明


            

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