〜蝶の夢7〜
 
 
 
 
 


いつもは静かなロスロリアンの森が、一時騒然となり錆びた様な血の匂いに震えた。


前代未聞のオークの浸入、襲撃に、太古より樹齢を重ねた木々が傷つき、水の流れに穢れが滲む。


風が運ぶエルフ達の歌は途絶え、皆その表情に不安が色濃く表れていた。


しかし幸いにも警備隊が早くに異変に気付き、この地に滞在中の旅の仲間達の活躍もあって、死者を出すことなくオーク討伐に成功。


怪我人も、軽傷者数名という嬉しい報告のみだった。

ただ一人を除いては・・・・・・。


「・・・目覚めない、とはどういう事だ?・・・・」

ケレボルンは玉座に座しながら、手で額を押え苦々しげに尋ねた。

フェリシエラ に医術を施したエルフは、その長い間培ってきた頭を力なく下げるようにして躊躇いながらもその問いに返す。


「おそらく、フェリシエラ 様が受けられた毒は姉君のケレブリアン様と同じものかと思われます。
矢が刺さったときの傷も浅く命に別状はございませんが、目覚めさせられるのはエルロンド様の薬だけかと・・・」


エルフの王は動揺を隠し切れずに、隣に目を向けた。
いつもは慈愛の眼差しで見つめる妻の姿はそこになく、目覚めない娘の傍らに着いて離れようとしない。

「では、直ちにイムラドリスへと使者を。一刻も早くエルロンド卿から薬を所望してくるのだ」

厳しい声音で命じると、エルフは一礼してその場を足早に退出した。


「・・・しばらく、一人になりたい。出ていてくれ・・・」

傍の家臣たちや護衛隊のエルフに告げる。

伏せられた睫毛が微かに揺れていた。


遠ざかるエルフ達の足音がいつもより煩く耳に響いてくる。


「すまない、フェリシエラ ・・・ガラドリエル」


掛替えのない娘。
大切な、この世で自分に無条件で温かい感情を与えてくれる。

愛しい妻。
長い時を経て尚、その想いは薄れるどころか絶えず心に満ちては溢れる。


(守れなかった・・・あの時も、今も)


ケレブリアンが毒を受けて倒れたとき、あの気丈で美しい光の女王が、当惑したように自分に身体を預けてきたときの姿。


産まれたばかりのフェリシエラ が、あの哀しく残酷な忌み事を受けたとき、ただ一度だけ見た、涙・・・・・・。


いつも、自分は何をしていたのだろう?


ただ玉座から、先ほどのように報告だけを受け、妻の肩を抱いてやる以外。

・・・非力で弱い、己の存在が、とても歯痒かった。


「・・・ケレボルン様、この度の失態、全て私の責任です・・・」

静かに、玉座に歩み寄るハルディア。

頭を下げる彼の背に、自責と後悔・・・そして深い哀しみが取り巻いている。

「そなたの責任ではない。あのオーク達の行動は、誰にも予期できなかった。まさか、一番警備が手薄でカラスガラゾンに近い路を知っていたとは」

頭を上げなさい、と。

彼の金髪が揺れ、ふと目が合えば、そこには酷く暗い影を帯びた瞳。

「フェリシエラ 様があのような怪我を負ったのは私の警備の甘さのせいです。どうか、私に処罰を」

ケレボルンはなんだか目の前のエルフに、自分を鏡に映したような錯覚を覚えて、苦笑した。

「そのように言われても、罪を犯していない者に罰を与えることはできぬ。フェリシエラ とて、そなたへのそのような処分を望んではいないだろう」

お互いに非力で、その為に迫る夕闇のような不安を持て余している。


「フェリシエラ 様は、私の光なのです」


言い表すことなど、到底出来ない美しさ。


「・・・そうだな・・・」

吐息と共に紡がれた言葉が、ハルディアの耳に深く響く。


「娘を、救ってくれ・・・そなたにしか出来ない」

最後の言葉の、祈りにも似た切実な願い。

それにハルディアは驚き、一瞬どう答えていいものか当惑する。

「フェリシエラ が受けたのは、姉のケレブリアンが西の地に去る原因となった毒と同じものだ。
目覚めるまで暗い闇に捕われ、絶望がその身を蝕む」

もう二度と、西の地へと去って行った娘の二の舞のような光景は見たくなかった。


暫らくとはいえ、悲しい別れ際でさえ、ケレブリアンは闇から抜け出しきれず、その痩せた姿は痛々しかったのだから。


助けたい・・・助けて欲しい・・・。


「そなたは知っているだろう?あれが、どれ程闇に対して敏感で過剰に反応するかを・・。ケレブリアンより危ないのだ。」

澄んだ瞳は鮮やかで、広く世界を包む空よりも青い。

「私は無力で、いつも姫の存在に救われているのは私のほうです・・・しかし、少しでも何か出来るのであればこの身を捧げることも厭いません」

彼女のぬくもりが近くに感じられない今、その存在の大きさが身に沁みて分かる。

その言葉に僅かに微笑みながら、ケレボルンは宙を仰いだ。


「フェリシエラ は、最悪の場合エルロンドの薬でも目覚めぬかもしれぬ。それほど、抱えているものは大きいのだから」

しかしその全てを受け入れ、フェリシエラ を愛することの出来る彼になら。

「そなたになら、目覚めさせることが出来るのかもしれないが・・・」

言葉の端が震えていた。


光が強く輝くのは、そこに闇が存在するから。

後ろにある黒濁の世界を、周りに晒したくないため。


フェリシエラ の輝きは、常に明ける事のない夜と隣り合わせにあった。


それは彼女の身体に刻まれた、辛い過去の記憶の欠片・・・・・・。


「・・・フェリシエラ ・・・・・・」

長い睫毛の落とす影に僅かに眉を寄せながら、ガラドリエルは自分と同じ金糸の髪を撫でた。

「わたくしには、どうしてあげる事も出来ません」

いつもは桜色の頬が、今は死人のように白く。

それでも月明かりに照らされた少女の横顔は、皮肉のように美しかった。

まるで、月の妖精が眠っているよう。


「フェリシエラ には、月よりも太陽の方が似合いますね」


掛けられた声に振り向かず、彼女は娘を見つめたまま。

「この様な夜に、どうしました?緑葉の王子・・・」

薄く笑うが、その瞳は深みを帯びて揺らめく。

「フェリシエラ の様子を見舞いにまいりました。仲間達も大変心配しておりましたので・・・」

振り向く女王の白い顔を月明かりが照らして、眠っている少女に重なる。


とても冷たく澄んでいて、綺麗。


「魅かれているのですね、フェリシエラ に・・・」

まるで幼子にでも問い掛けるような優しい口調だが、何の根拠もなく見透かし言い当てるガラドリエルが、怖い。

「・・・旅の仲間達は、彼女に好意と敬意を抱いています・・・」

伏せ目がちに言いながら、レゴラスは精巧に整った顔を逸らさずにはいられなかった。

容赦なく人を射抜く眼差しに、居心地の悪さを感じる。


「わたくしは、貴方のことを言っているのですよ?」


冷たい夜風に彼女の髪が戯れに舞う。


「貴方の心が段々娘に捕われていくのが見えます」

淡々と紡がれる言葉に、また少女の姿が重なる。


遠すぎも、近すぎもしないのに、その間にあるものは深く。

何故、そのような明確な距離があるのか分からないけれど・・・。

はっきりと引かれた境界線。


「いけない事なのでしょうか?」

胸の奥が痛みを感じ、許しを請うような頼りない声で問い掛けると。

「いいえ」

甘い囁きが返ってきた。

「人は時や場所、共有した時間とは関係なく、出会うべくして出会い惹かれて行くのです」

ガラドリエルは立ち上がって彼を見据える。

「それは誰にも止められず、裁くこともできない・・・」

慈しむようなその瞳。

「では、私がフェリシエラ に想いを伝えても、誰も咎める事は出来ないと?」

知らず、レゴラスは両手を握り締めた。

「勿論です。貴方はハルディアに何も罪悪感など感じなくてよろしいのです」

優しく、けれどその声はどこか冷たい。

「但し、貴方の想いを告げたからといってフェリシエラ がそれに答えるかは分かりませんが・・・」


吐息の混じる言葉に、答えなど初めから分かっていると。

レゴラスは自嘲の笑みを浮かべる。


「それでも、私は彼女への想いを止められない」

独り言のように零れる、小さな呟き。

小さな迷子に似た寂しげな視線。


「痛みを与えて、フェリシエラ から遠ざけてあげる程、わたくしは優しくないのですよ」


赤い唇を歪めて、音もなく歩み寄る彼女に、緊張した。


しなやかな細い指先が、彼の頬をゆっくり辿る。


「貴方は、まだ自分の中の闇に気付かない。・・・そして、愛しいという者の闇にも・・・」


一瞬、鋭い視線で当惑する彼を捕らえると、ガラドリエルは静かに離れた。


扉に向かう背に、苦々しげなレゴラスの声が追う。


「私の闇とは何なのですか?彼女の抱える闇とは・・・・?」


掠れた声に振り向かず、答えることなくガラドリエルは光と共に去って行った。


「光は綺麗なほど、その影は濃いもの。貴方が自分の闇に気付かなければ、本当の意味でフェリシエラ を愛することはできないでしょう」

哀しげに響く言葉は、誰の耳にも届かず、夜の闇に溶けていく。

その場に取り残されたレゴラスは、小さく息を吐き、静かにベッドの傍へと寄る。

胸から込み上げ、けれど吐き出そうとすると喉の奥に痞えて止まる曖昧な思いに眉を寄せる。

この愛しいと思いながら、一方で恐ろしいとも感じる気持ちの理由が知りたかった。

ガラドリエルの言葉が耳の奥で静かに響き、蓋をしていた心の奥底で自分が覚醒してくるような気がする。


『出会いべくして出会い、魅かれていく』

『誰にも止められず、裁くことも出来ない』

『罪悪感など感じなくていい』


フェリシエラ に対して暗く冷たい独占欲や嫉妬が襲ってくるようで、レゴラスは頭を振った。


「そんな事、望んではいけない・・・」

けれど何処まで保てるだろう?
こんなに魅力的な少女を目の前にして。

頭で囁く声がする。


「フェリシエラ 、どうか目を覚まして」


触れた指先が、一瞬ぴくりと動いた気がした。


「フェリシエラ 、君を愛しているよ」


眠っているからこそ告げられる、哀しい告白。

それは懺悔にも似て弱々しい。


「・・・・ハ、ル・・ディア・・・・・・・」


微かに動く唇から、はっきりとその名が漏れるように呼ばれる。


レゴラスは彼女の白い手を強く握り締めた。

ここにはいない彼だけが強く彼女に求められる切なさと苦しさ。

自分は何もできない。

彼女に必要とされてはいない・・・・・・。

「それでも、フェリシエラ 。君の傍にいるのは私なんだよ」

祈るような気持ちで彼女を見つめる。

「どうかその瞳を開けて、私を見て・・・・・!」


ハルディアではなく自分を。

君がいるなら他には何も望まないから・・・・。


「愛してるんだ・・・フェリシエラ 」


痛々しい熱に浮かされ、誘惑に勝てずに。


彼は眠るフェリシエラ に口付けた。


柔らかく、初めて知る彼女の甘い唇に・・・眩暈がする。


触れた所から温かく伝わるぬくもりとは逆に、彼は言い知れぬ孤独を感じた。


寒気がする・・・・・・。


レゴラスの心に、暗く冷たい欲望が静かに満ちようとしていた。


「・・・フェリシエラ ・・・?」

名前を呼ばれたような気がして、ハルディアはふと呟くが。

そんなはずはないと、軽く頭を振り手で額を押えた。


彼はまだ、昼間の後始末に追われ、今だ休息を取れずに警備の指揮に当たっている。

早く愛しい恋人の元へ行き、その手を握ってやりたかったが、自分の仕事を他に押し付ける訳にはいかない。

事実、ケレボルンを始めとするロスロリアンのエルフ達は、彼に仕事は休みフェリシエラ に着いているように言った。

けれど、それでは警備隊長としての責任と他への示しがつかないと、断ったのはハルディア自身。


「例えこの身は離れていても、心はいつも君の傍に」

切なさを含んだ声が、祈りにも似て美しい。


見上げれば、冴えた光を放つ満月が空に浮かんでいる。

その美しさの影に見え隠れする、孤独と哀しさ。

表現することは到底出来ない微妙な儚さ。


「君には満月の夜が一番似合うな、フェリシエラ 」

彼女の姿を思い浮かべ、ハルディアは静かにため息を吐いた。

太陽が似合うのか。

月が似合うのか。


美しいけれど掴み所のない。


理解できずに、けれど気付けば魅かれていく。

綺麗としか言い様のない瞳は暗く。


ガラスのような心は絶えず優しさに満ち溢れる。


似ているようで全く異なった二人の想いが交錯する中。


少女はいつ目覚めるのか・・・・・・・。

誰にも分からない。


>>>to be continued