〜蝶の夢12〜
フェリシエラ は音もなく静かに部屋に入った。
止まらない涙に煩わしさを感じながらも、慣れきった自室の空間と染み付いた花の香りにホッとする。
深くため息を吐いて、月明かりの中、そっと自分の身体を抱きしめた。
すると、それを包み込むような温もりを背中に感じて一瞬ビクリと肩を震わせる。
「・・・・・・ハルディア?」
回された腕が少しきつい位に自分の身体を抱き締めて、その暖かさが心地よかった。
「どうしたの?居るのなら居ると言って。驚いたわ」
フェリシエラ は彼に身を預けながら静かに問い掛ける。
無意識のうちに首筋に残る鬱血をそっと手で隠した。
「・・・フェリシエラ 、何があった?」
自分の方を向こうとしない彼女から、何処か震えるような危うい儚さを感じる。
抱きしめている体は夜の空気が滲んで冷たい。
「フェリシエラ ?」
言い知れぬ不安を感じてハルディアは半ば強引に彼女を振り向かせ、その白い肌に散ってい
る無数の痣を見つけて瞠目した。
月光に照らされた薄暗い空間に、彼女の涙だけがいやにはっきり見えるような気がする。
胸を押えて立ち竦むその白い手に誰かに掴まれた痕を見つけ、彼の表情は更に険しくなった。
「レゴラス王子が?」
「何もなかったわ。怖い顔しないで・・・」
フェリシエラ は口元に弱々しい笑みを刻んで彼を見つめた。
答える声は僅かに震えていたが、いつもの涼やかな音色を含んで彼の心を揺らす。
「怯えさせてしまったの。そんなつもりは、なかったのに」
「そんな事、貴方が気に病む必要はない」
ハルディアは湧き上がる怒りを抑えて強い口調になる。
彼女の胸の刻印を彼は何度も見ている。
二人で夜を共にするとき、フェリシエラ はいつもそれを隠して困ったように微笑んでいた。
汚れているから、見せられるようなものではない、と彼女は囁く。
貴方はとても綺麗だと。
その度、繰り返しそう伝えても首を横に振るばかりで。
だからこそ、自分以外の誰か、彼女を受け入れてくれる者を望んでいたのに。
フェリシエラ の傷を、ただ癒してやりたかっただけなのに。
所詮、彼も今まで彼女から去って行った者達と違いはしないのだと、諦めが心を過る。
「これはそういう物よ、ハルディア。彼が受け入れられないのは、ちっとも可笑しいことじゃない」
彼の心を見透かすように、フェリシエラ は小さく笑った。
伏せられた長い睫毛の端が震えている。
「・・・それでも、私が望むのは貴方の幸福だけだ」
彼は折れそうな細い身体を抱きしめて、耳元で低く囁いた。
濃く、強く、鮮やかに刻まれた呪い。
誰にも解くことは叶わず、消すことさえ出来ない、美しい蝶が見せる夢。
『お前は私のもの』
『闇に望まれた冥界の王妃』
それは、彼女にしか聞こえない暗い囁き。
ハルディアの胸の中で、彼女はそっと息を吐いた。
優しい腕が労わるように彼女を包み込んで、その暖かさがどれだけ救いになっているか。
「大丈夫だ」
何に対してなのかも、何を根拠にしての言葉なのかも分らないけれど。
彼のその言葉だけが、張詰めた糸を繋ぐ唯一の声。
さっきとは違った涙がフェリシエラ の頬を伝う。
「愛してるわ、ハルディア。貴方だけ居ればいい・・・」
「私も・・・愛してる。何度言葉にしても足りないくらい」
小さな頭が凭れかかって来るのを感じて、ハルディアはその身体を抱き上げてベッドに運んだ。
「もう、休みなさい。疲れただろう?」
ハルディアがフェリシエラ の髪を撫でると、その優しい感触に安心して彼女はゆっくりと目を閉じる。
意識が沈んで消えていきそうになる中、フェリシエラ は心の中で一つだけ、密かに思う。
貴方だけ居ればいい。
その言葉に偽りはないから、私はやっぱり貴方の側にはいられません・・・。
冥王が私を望む限り、私の一番近くにいる貴方が危ないから。
でも、貴方を諦めるつもりだけはないから。
私は運命に立ち向かう覚悟をしました・・・・・・。
そんな考えを知るよしもなく、ハルディアは夜明け近くまで彼女の傍に寄り添い、そっと額に口付けて部屋を後にした。
「レゴラス」
「・・・グロールフィンデル?」
月明かりの中、誰もいなくなったはずの庭園に、グロールフィンデルが立っていた。
「賑やかな所は苦手でね。よかったら一緒にどうだい?」
彼は言いながら、宴の席から持ってきたワインと二つのグラスを上げて見せた。
夜風に透き通る長い髪を靡かせながら、レゴラスの方に歩み寄る。
「君は、こんな所で何をしているのかな?」
宴は嫌いかい?とグロールフィンデルは柔らかく微笑む。
レゴラスは辛うじて動揺をかくしながら、「えぇ」と一言だけ肯定した。
「ふぅーん…それでは、久しぶりに会った友人同士、静かに月見酒と行きますか」
彼は深く追求することなく、グラスにコポコポと赤い液体を注いだ。
その鮮やかな赤に、レゴラスは先程見た少女の美しい蝶を重ね、僅かに眩暈を覚える。
身体の中は、冷気と熱が入り乱れ、普通に話すことさえ危うかった。
「君を見ていると、昔の自分を思い出すよ」
遠く懐かしんでいるのか、グロールフィンデルは静かに遠くを見つめる。
レゴラスは話の意図が分らず、眉を潜めるが、彼は気にせず続けた。
「長く続いてきた私の生の中で、たった一人、特殊な運命の元に生まれたエルフがいたんだ」
レゴラスは息を飲む。
脳裏に、浮かび上がる鮮明なビジョン。
「そのエルフは、神に祝福された私達種族の中でも二つの王家の流れを汲む美しいエルフだったが、
同時に美しすぎるために闇に捕われ生まれついたときから決められた生き方があった」
グロールフィンデルは、見えない何かを捕らえるように宙に目を向けた。
「グロールフィンデル?!それは・・・」
思わず声を出すレゴラスに、彼は哀しそうに微笑んだ。
「私は彼女を助けたかった。何に変えても守りたかった。…けれど、偉大だと言われても私には何の力もないのだと、その時初めて実感したよ」
知らず、レゴラスは両手を握り締めていた。
「そのエルフはね、言ったんだよ。『たとえ決められた運命が待っていても、それをどう進むかは自分で決める。
だから貴方が私の為に心を砕いてくれたこと、感謝しています』ってね」
遣り切れない彼の切なさが伝わってくるように、冷たい風が二人の間を通り過ぎていく。
「彼女は優しくて、綺麗で、そして何よりも汚れない」
愛しさを含む声音に、彼の彼女への想いが滲んでいた。
フェリシエラ は、運命を嘆きながらも、決して流されてはいない。
指輪の旅にすら言い知れぬ恐怖を感じていた自分とは違う。
「私には、分らないんです」
独り言のように、小さな呟きが零れる。
「彼女を愛しいと感じた気持ちは嘘ではありませんが、今、彼女を怖いと思う気持ちも確かに存在しています」
「・・・では、君は何故、彼女を拒絶したことをそんなにも悩み悔やんでいるの?」
透明な澄んだ声が泉のように心に波紋を広げる。
「心の底で、本当に求めているものはなんだい?・・・望むものは何?」
彼の微笑みに何も言えず、 レゴラスは受け取ったワインを一気に飲み干した。
苦味と甘みが口の中を満たして、身体がゆっくりと熱を帯びる。
酔いの周りはやけに早いのに、頭は不思議と冴えている。
彼女を想う気持ちが、少しずつだが見えてくるような気がした。
>>>to be continued
<あとがき>
・・・もう何も言いますまい。。