05: The Last Naight And The Beginning Morning

 

 

二人寄り添った想い出は


忘れても構わないから……。


フェリシエラ は聞く者もない静寂の中、歌を歌っていた。

バルコニーからは森の奥まで幻想的なマルローンの光。

早めに寝ようと思ったときに限ってなかなか寝付けず、ため息と共に寝台を出て、既に月も空の中心を過ぎた辺り。


コンコン……。


突然扉を鳴らす音が部屋に響いた。

こんな時間に部屋に訪れる者など限られているが、思いついた者達の相手をするのも煩わしいと眉を潜めながら、フェリシエラ は扉に手をかける。

軽く受け流してさっさと追い返そうと考えながら。


不機嫌そうに合わさった視線が、逸らす事の出来ないまま固まった。


そこには予想を大きく違えた、笑顔。


「ご機嫌麗しく、姫君」


振ってきた言葉に彼女は驚いて大声を出しそうになった。

とっさに口を押さえて、速まる鼓動を何とか落ち着けようと試みる。


「エルロンド様、こんな時間に何の用ですか?ここは許された者以外立ち入り禁止なんです。見つかったらいくら貴方でも…」


出来る限り声を絞って咎めると、彼は笑みを崩さずフェリシエラ に近づいた。


「あなたにどうしても会いたくて」


おどけたような口調だが、その瞳は真剣で、切なさを秘めている。

そっと手を握られる温かさに、眩暈が起きそうになった。

それに強く堪えながら首を横に振る。

「駄目です。貴方はお姉さまのっ!」

言いかけた言葉を、優しい口付けで遮られた。

重なる唇に震えながらも、このまま誰かに見つかってしまえばこの人は姉と結婚できなくなるだろうと。

冷たい、残酷な考えを隠すように、深くなっていく熱に身を委ねた。

抱き締める腕が、どちらも縋り付くようにきつい。

「誰かに見つかって騒ぎにならぬよう、部屋の中に入れてほしいのだが」

離れた唇から、二人を繋ぐ銀の糸が珠を含んで落ちていく。


「……私がそれを、断れないと知っているでしょう?」


「断れないのか?」


「卑怯です、誰かに見つかって困るのは私も同じだもの」


「…それだけか?」


「当たり前です」


目を細めて冷たく言い放つと、フェリシエラ はエルロンドを半分鋤かしていた扉を開けて部屋に通した。

口付けの余韻が抜けない濡れた唇をそっと指で押さえて、彼に気づかれない程小さく吐息をつく。

薄暗い部屋の証明はそのままに、二人はテーブルを挟み向かい合って腰掛けた。


「先ほどの歌を、もう一度聞かせてくれないか?」


微笑むと、明かりに照らし出されて銀河の闇のような黒髪が流れる。

部屋に常備していたティーセットの紅茶から、甘い香りが部屋中に広がった。


フェリシエラ はただ俯いて、故意に視線を合わせない。

ショールは羽織っているはずだ。

でも寒いのは、この静寂の中二人だけだからか。


「聞かせるような歌ではありません。それよりも、紅茶を召し上がって体が温まったら、早く帰ってください」


本当は、帰らないで欲しい。

フェリシエラ は伝えることの出来ない胸の痛みに耐えながら、言葉を口に乗せた。

こうして何度、人知れず彼と会っていたか知れないのに。

全ては思い出にしなければ、これからきっと一人の寂しさに壊れてしまう。


『エルロンド卿はケレブリアンの伴侶と決めました。…彼の事は忘れなさい』


美しい声に、反論することも問い返す事も出来なかった。

姉が望めば母は何でも叶えるのだと、知っていたから。

姉の潤んだ視線の先に彼を見つけたとき、いつかこの日が来ることのだろうと確信していた。

「つれないな。私が姉君の結婚相手にと望まれた事が、気に入らないと?」


肩に掛かる艶やかな黒髪を後ろ手に払い、エルロンドはため息混じりに呟いた。


「いいえ、貴方の事はもう想い出にしたいんです。だから、私に会いに来ないで」


揺れる表情を見られたくなくて、フェリシエラ は立ち上がって彼に背を向ける。


「それは、ガラドリエル様が仰ったのか?あの方に何を言われようと、私はあなた以外に伴侶として考える女性などいない」


「いいえ」

つられて立ち上がる彼を拒絶するように、強く首を振る。

込み上げる激情が、止まらない。


「お母様の言葉に逆らえるエルフなど、この中つ国にはいません。貴方は望まれた時点で既に、お姉さまと結婚しなければならないの」


手で覆った白い頬から涙が伝い、小さく光って敷き詰められた柔らかな絨毯に滲み込んだ。

細い肩が儚くて、立っている姿すら痛々しい。


「フェリシエラ 、私が愛しているのはあなただけだ。それを偽って生きていけるほど、私は器用でない」


「貴方の幸せを願っています」


「それならば、私と共に来てくれ。あなたとの未来にしか、私の幸せは存在しない」


「そして、姉の幸せを祈っています」


フェリシエラ はそっと目を閉じて、自分に言い聞かせ噛み締めるように、言葉を紡ぐ。


「私を愛していると言うのなら、その証として私の大切なお姉さまを幸せにしてください。」


振り返って微笑む少女は美しく、哀しげで、愛しさが増していかぬはずはないのに。


「フェリシエラ っ」


捕まえようと伸ばした手は、彼女のショールを掠めて宙を彷徨う。

仄かに残る甘い花の香り。

蛹から孵った蝶のように、逃げていく細い体。

光を散らす金の髪は遠く。


「さようなら」

月明かりを受けてバルコニーに佇むフェリシエラ は、遠くを見つめたまま微笑んだ。

「フェリシエラ 、私の話を」


「もう、帰って。…でなければ、私がここから飛び降りるわ」


「…フェリシエラ …」


耳鳴りがうるさい。


どうしてそんな哀しい瞳で見つめるの?


「二度と会わないでしょう。さようなら、愛しい貴方」


淡々とした声は逆に不自然だろうけれど。


でもだからこそ、分って欲しい。


貴方を想う、この心を。

エルロンドは何かを言おうと口を開いたが言葉にならず、そのまま唇を噛んだ。

見つめる瞳の切なささえ今は遠くて。


それ以上は、追いつけないと諦めた。

「さようなら。それでも愛しているよ、フェリシエラ 」

それだけ残して、彼は静かに身を翻した。


遠ざかる丈高い背。

引き留めたくて震える指先を、胸に強く抱きしめて。

フェリシエラ はその場に崩れ落ちる。

「……ごめんなさい…エルロンド様…」

透明な涙が溢れては、堅く冷たい石作りの地に落ちていった。

変わる事のない、朝焼けに燃える空の色を。

フェリシエラ はバルコニーで眺めていた。

冷たい風が髪を戯れに攫う。


「随分と、感傷的ね」


情事の余韻に浸りながら、自嘲的に唇を歪める。

肌蹴られた緩やかな夜着からは、幾重にも散る赤い鬱血の花。

それを付けた相手は少し前、自分に充てられた客室へと戻って行った。


「レゴラスが、いなくなったせいかしら」


若々しい熱に浮かされて、全て忘れられる激しさに身を投じていれば。

何も考えなくて済むから。

そう言った意味でも彼は手放せない。


などと思った時点で、自分もエルフの中では充分若い方だったはずなのに、と。

苦笑しながらも、その瞳は暗く水底のように静かだった。


「貴方の私を見つめる想いに気づかないわけではないけれど。だからと言って私にはどうする事もできないのよ」


朝焼けの中、彼女は微かに笑みを浮かべる。


「利用する事でしか、満たされない私の心を許してとは言わないわ」


言葉の端が震えた。


「だけど、少しだけ、いいかしら」


ぽたり、何度目だろう、この想いに涙するのは。

頬を濡らす涙を、両手は拭いもせずにきつく握り締められていた。


自分から切り離した恋。


理不尽に呆気なく、届かない場所に追いやって。


信じたくなかったけれど。


認めたくなかったけれど。


別れを告げたあの夜は、幻ではない。

もうすっかり朝と呼べる位、辺りは光に満ちていた。

フェリシエラ は熱を持った目元をそっと拭った。

白い朝日が彼女を包み込む。

その清浄な温もりが、二度と触れること叶わぬ想い人に似ていて、再び涙が頬を伝う。


「お姉さま、大好きよ」


昔は、何度も口にした言葉。

言うたびに優しい微笑をくれた姉。

「エルロンド様………愛しています」


口に出して彼に伝えたのは数少ないけれど。

今聞けば、彼は何と答えるだろうか。

それを、伝えることすら出来ないけれど。

白く眩しい光の中で、フェリシエラ は精一杯強がって朝日に微笑を送った。


>>>to be continued