矢次 智浩(やつぎともひろ)

● 『食の責任』 撮影地:タイ・チェンライ
私は豚肉が嫌いだった。10年ほど前、豚を屠殺する現場にいた。ピーピーと、か細い声をあげながら力尽きてゆく姿を目にした。食べられる為に命を落としていく。それを見たときに「食べる」という行為の責任を感じ、好き嫌い無く食べるよう心がけるにした。しだいになんでも食べられるようになっていた。

ほんの数十年前までは、食の為の生と死は身近に存在していたのではないのか。ニワトリなど代表的なもので、卵をとり必要なときにさばいた。卵も鶏肉もほとんど買うこと無く食することが出来たのではないかと思う。スーパーで売ってある卵と違い有性卵で、動物性蛋白質としては健全ではないのか。卵アレルギーなども無かったのではないかと考えたりもする。

小学校の授業でも、ニワトリをしめて料理するような事をしたほうが良いのではないか。またカット場の見学もいいかもしれない。残酷だと言われるかもしれないが、現在の食肉の流通は基本的なプロセスを覆い隠している。スーパーやデパートの食肉売り場で流れ出す血が見られるだろうか。肉というものは命を奪った動物の肉体である。家畜は私たちに食べられるために飼育されている。その農場などの見学はあるが、その最終過程の食肉を生産する場が抜けている。中途半端ではないか。

残さず食べる。必要以上に求めない。これは食のエコロジーだと思う。だれもが普段の生活で実践でき、健康をも左右する重要なことではないだろうか。飽食の現代を少し考えてみたい。

● 『子ヘビ』撮影地:タイ・パヤオ

このヘビを殺したことを今でも後悔している。
理由は私の作業場に住みついたからである。コブラに匹敵する猛毒を有する種類で、きわめて危険なヘビだ。小さくても毒にはかわりなく、何時噛まれるかわからないので殺してしまった。無抵抗に、しかもあっけなく死んでいった。この写真を撮ってるとき、嫌な気分で胸がいっぱいになった。無駄な殺生をしてしまった。

ヘビが作業場に出てきたということは、このエリアは人間と彼らが共に利用していた場なのに、私はこのヘビを殺すことによって、人間のエリアを拡大してしまったのではないだろうか。
考えた。何もそこまでして身の危険を守る必要があったのだろうか。同じエリアでの共存も可能ではないか。その後コブラと出会っても殺していない。ふいに相手を脅かす行為をしなければ危険は無いと思った。こちらが用心していればよかった。あまいのかもしれない。彼らは弱者だ。だからこそ毒を身につけたのではないか。もし万が一噛まれたのなら、こちらに危険を察知できなかった落ち度がある。淘汰される。これは自然な行為だと思う。

子供の頃は、命を奪う事がどういう事かも解からずに、たくさんの生き物を殺した。とんぼの羽をむしったり、蛙を爆竹で粉々にして遊んだ。その時はただ面白かった。その後、ペットとして犬や小鳥を飼って、命に対する責任にはじめて気づいた。餌をあげなければ、抵抗すら出来ず簡単に死んでしまう。人間が優位にある事を認識した。

私はこれまでの沢山の小さな死によって教えられた。理屈ではなく、体験によるものは大きいと思う。これから育ってゆく子供たちも実体験で学んでいってほしい。自然という教育の場をこれ以上失わせてはならない。

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