太田黒 剛(おおたぐろ つよし)

●  『私の信号無視論、そして環境アナーキズム論』 その1

 ぼくは無神論者ならぬ積極的信号無視論者である。歩きや自転車に乗っている時には、まず信号には従わない。道を横切るかどうかの唯一の判断材料は、いま渡って大丈夫か否かの自分自身の判断だけである。別に、交通信号を軽視しているわけでもない。いやそれよりむしろ、信号機と交差点には特別な思いを抱いている。
 交通信号と交差点はまことに分かり易い表出された社会秩序である。
 第三世界の交差点では、路上に溢れる者たちを蹴散らすよにクラクションを鳴り響かせて車が我がもの顔で走っていた。概ね第三世界では、歩行者優先の理念はなく、車の方が偉そうだ。混沌としている路上には車と人で溢れ、数少ない信号機も人々から無視されぱなしだ。国家は人民を統制しきれていないし、人々も国家を信用しきっていない様が交差点には表現されていた。
 つまり、ぼくはコンピューターによって制御された日本の路上(ひいては環境)を第三世界的歩き方で歩いているのだ。信号に従わないのは、秩序だった環境よりもアナーキズムの環境の方を好むぼくの大人げないささやか抵抗である。

● 私の信号無視論、そして環境アナーキズム論』 その2

 忘れもしないひとつの光景がある。インド最大の聖地ベナレス。季節は雨期。大雨が降った影響で、灌漑設備の整っていないこの地の路上は、膝くらいの高さまで浸水した。雨が止んだ後は研ぎ澄まされた太陽光が大地を叩く。この町で最も大きい交差点では、雨後の竹の子のように車、バイク、人力車、歩行者、そして牛で溢れかえり、一歩も動かない渋滞となってしまった。警官が中央部で指揮者のように警棒をタクトに代えてあれこれ指図しても全く埒があかない。みんないらいらしている。どちらかが交差点から後退して道を空けようにも、後ろがつかえていて道を譲れない。そうこうしているうちに、ひとりのじいさんが車の間をすり抜けながら、ピジャマ(日本のステテコのようなもの)を膝までたくし上げ、何事もなかのように悠然と交差点を渡ってくる。騒然とする中でこのじいさんだけには特別なオーラが放たれていた。<人間の歩行とは、かくも崇高にして優雅な行為であるのか>。まるで混乱するインドの大地をひとりの聖者が悠然と歩いている縮図のように思えたのだった。
      

● 私の信号無視論、そして環境アナーキズム論』 その3

 毎年、春と秋の交通週間の時期になると、小学校近くの交差点には世のお母さん方が出て、生徒の横断を指導している。信号待ちしている生徒を尻目に、ぼくはすたこらさっさと信号無視して渡り切る。お母さん方からは白い目で睨まれる。子供の見ている前でなんですか。そう思われるのも当然だろう。それに対し、ぼくは少し肩身の狭い思いにかられながらも、自分の行為を弁明するように、心の中でつぶやく。
 <小学生諸君。赤信号、ひとりでも渡る者も世の中には必要なんだよ。おじさんはね、それをいま見せてあげています。青信号、みんなで渡れば怖くないかもしれないが、それだけじゃ、世の中、窒息してしまいそうで面白くないじゃない>

 翻って環境問題。ぼくはここで極私的違反行為を論じたわけだが、環境問題もつまるところ突き詰めていけば極私的な側面が大きい。そして、ぼくは環境を正論だけでみんなをすべからくおさえるけるのではない、肉体でも感応するような環境アナーキズム論があってもいいと思う。

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