九州横断マラソン’92−93

 地平線会議恒例の九州横断マラソンが、12月31日に行われました。参加者は、女性3名を含む総勢11名。前日から大分入りしているメンバーは、大分城を7:000に出発。たすきをリレーしながら、一人10分から15分、距離にして2〜5kmを走ったり歩いたりしながら、マイペースで進みます。今回は自転車が伴走、車でサポートをしながらの道のりです。
 さて、1992年の最後の日、走りながらそれぞれの心に去来するものは何か。今年の反省、来年の夢、こんなに苦しい事をするんじゃなかったという後悔、腹へった、回りの木や草花への問いかけ、彼女の事、彼氏の事、戦争が途絶える事の無い世界の事、地球環境の事、仕事の事、政治の事、アジアの友達の事、アフリカの夕日、インドの大地、日本の自然、動植物の事、今走っている阿蘇の事、運ばたに捨ててあるアキカン、エトセトラ、etc。
 こんな事をやって何になるという人がいる。年末の慌ただしいときにやる事の意義とか、やった効果が何やらとか。ならば私は問いたい。12月31日はあなたにとって幸せでしたか。いつものように家や自動車を磨いたり、テレビの前で恒例の下世話な話を蜜柑などを食べながら見ていたり、車で各地のイベント場所へ旅したり。日本人が問われている事のひとつに、ゆとりの無い事が挙げられている。価値観がひとつしかない事の歪みも社会のあちらこちらで出てきている。私は、やった事の意義は、参加したそれぞれの心に刻めばいいと思う。
求められているものは、種の多様性、いろいろな価値観、個人の自立と平和。単独行を基本とする地平線会議において、走っているときの声援やいたわりのここち良さは何なのだろう。私にとって、変化の多かった年の最後にふさわしい、足の痛みと共に忘れられない出来事のひとつとなった。そして伝えたい。われわれの横を走り去って行った車の中の人へ「ドアを開けて、こちら側へ来ませんか」と。
 走行距離140km、ひとり約5回を走り、ゴールの上江津湖へは、21:00に到着しました。出迎えの人達と「123、ダー!!」と喜びを確かめ合いながら、今年のマラソンは終了しました。
                         レポート井上



特集 It's my comfortable time.(私の心地よい時間)

心地よいと感じる時
 地平線的にいえば、ヒマラヤを目前に酸素の薄い所をボーツとした感じでふわふわと歩いている時、だれもいない中、意識だけあって身体が風景にとけこんでいる時、なんてね。でもこういうのも、くそっくらえっていう感じです。
 生身の人間としていえば、好きな女と一緒にいる時かな。ここの所で素直になれないと、何回冒険やっても一緒ではないのかな。
 というわけで、ユニークな発想なんて全然浮かんではきませんが、これもくそっくらえという感じです。
 さて、等身大の自分としていえば、気持ちが前向きな時だな。それは追い立てられるような感じではなくて静かだけど、血が流れているなあという単純だけど、すべての行動のもとになるような、心の状態にある時…。
今の自分にとっての「地平線」は、それです。
                        坂田 道男

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

It's my comfortable time!
 私が“心地よい”と感じた、或いは感じる時を思いつくままに並べてみました。・・・ちょっぴりぬるめの温泉やお風呂につかっている時、仕事が休みの朝、目が覚めた後にまた2度寝する時、猫をなでる時、鳥や動物に触れて、その相手が気持ちよさそうにしている時、肩を抱かれている時、好きな人が隣にいる時、また瞬で寝ている時、正月に実家に帰ってお節料理を食べ、酒を飲んでコタツにゴロリと横になった時、その時母親が寝ている私に伴天をかけてくれた時、昔、陸上の練習中、走り込んで息がでないくらい苦しい時に(私は長距離でした)短距離メンバーが「ファイト!」と声をかけてくれた時、試合で、きつくてたまらなく400mトラックを
回るのがとても長かった時に、応援してくれている先輩・後輩・同級生の姿が目に入り、声を聞いた瞬間、92年の8月、俵山の峠からみた光景一熊本平野を蛇行して流れる白川、光る有明海、そして島原が見えた時、職場からの白川の眺めを見る時、気の合う人達と酒を飲む時、バロック音楽やチェンバロ演奏曲を聴く時、飼っているインコと遊ぶ時、地平線会議・熊本の人たちといる時・・・他にもいろいろあるけど、とりあえずここに挙げたそれぞれが“It's my comfortable time!”
                   93.3.9 小西 久美
「古き良き日本に触れるときがいちばん心地良かですたい!」
 平成4年10月15日。タウン誌の編集をしていた中嶋さんは、1年半しか勤めていなかった会社をやめた。いわゆる脱サラ。今は、畑仕事の出来る轟学園でがんばっている。今までのデスクワークから、文字どうりフィールドワークへ自分の場を移した。
 4月15日に退社し、熊本の水前寺のアパートから宇土へ引っ越したのが10月18日。「ちょうどその日は稲刈りの日でした。コンバインで刈り取った後、少し稲を残し、後は手で刈りました。なにせ初めての体験なもので、次の日は体中が筋肉痛でした。でも、稲刈りの後、夕暮れの中で吸ったタバコはうまかったな〜。」
 大学生の頃まで世界にばかり目を向けていた彼だが、会社勤めをしていたときに、現代社会のトレンディに疑問を持ち、日本にも昔から伝わる欧米のものに劣らない、知恵や道具、食べ物など良いものがいっぱいあるという事に気がついた。そこで心機一転、日本の伝統文化を学ぽうと決意した。「別に欧米のモノやブランドが全部悪いと言うわけではないんです。ただ、今の人たち
は、それだけであって、せっかくいままで培ってきた日本の文化をほとんど知らないんです。このままじゃ、日本が日本でなくなるんじゃないかって。でも、本当はそんな大きい話しより、ただ単に古いもんが好きなんですよ。」彼は笑うと目尻にしわができて、なんとお茶目なことか。24才の夢見るピーターパンって感じだ。
 今、彼に取っていちばん心地よいと感じる時は、寺尾さんの両親と一緒にいる時だとか。中嶋さんにとって、おじいさんぐらいの年齢にあたる二人は、高齢(じいさん75、ぱあさん68)にして現役のお百姓さん。畑仕事をするときは、いつも二人について仕事(本人日くただの土いじり)をしている。畑仕事の途中で必ず、じいちゃんが「中嶋君一服しょーか」といって、休憩時間が入る。「そこで話してくれる昔話し…こえたごかつぎ、戦時中兵隊として中国を歩き回ったこと、農閑期のしば刈の話しとか。ぽくは何も尋ねていないんだけれど、じいちゃんの方からいろいろと話してくれるんです。」彼は、ほうき等の小道具を自分で作ってしまうじいちゃんを尊敬している。「年末には、杵と石臼を使って餅つきをした。ぽくより力が無いはずなのに、軽々と杵を操るのです。要領をきちんと心得ているんでしょうね。ぽくは久しふりに手に豆を作っちゃいました。」また、もちろん彼は、自家製の醤油粕で漬物をつけるばあちゃんも尊敬している。
 親元を離れて二年。朝昼晩と焼酎を飲むじいちゃんと毎日自転車で畑へ通うばあちゃんと接することで、彼は、両親が恋しくなったのか、会社勤めの頃より実家に帰ることが多くなったそうだ。


「ゆくゆくは家に帰り、小さくてもい」いから暖かみのある豆腐屋でもしようかな」(・・・こいつ一体何がしたいのか・・・)
PS 現在、中嶋君は、じいちゃんのペースに巻き込まれ、夜は焼酎がないとやって行けないようになっているとの事。
取材 Pole Pole KAN fron TANZANIA

 ――――――――――――――――――――――

ありがとう、E L E N E.
 アベンツゥーロ次々号のテーマが至福のとき」という事で、いろいろ考えては思い当たる事もなく、締切も過ぎた2月の初めでした。私が91年の12月にインドに行ったときに知り会ったエレンさんが、熊本を訪ねてきました。(2/6)に、私のお気に入りの阿蘇の手作り、ツアーコースを案内し、その日の夜に小さなパーティが開かれました。
 エレンさんは、カナダ生まれ。独身で小柄な女性です。志しは高く優しく、先生のいない(少ない)地域を求めて英語を教える仕事をしています。今までのブータン奥地での3年半の仕事(ブータン政府要請)を終え、次は、インドのダーマサラ(チベット人自治区)で教えるとの事。「そんなへんぴな所でなく、日本などはどうですか?」と言う問に、「日本には沢山の先生がいるでしょう」「私は先生のいない所の子供を教えたい」と言います。
 私との出会いのきっかけは、カルカッタの銀行窓口。はじめてトラベラーズチェックを換金しようと銀行へ出かけ、方法をたずねた隣の人、それがエレンさんでした。エレンさんは私の換金が終わるまで見とどけてくれました。その後どちらからともなく誘い、街角のチャイ屋で2時間近くいろんな話をしました。彼女は「ブータン」の事、私は「アースディ」の事。共通の話題としては「インド」「カルカッタ」の事。(私は話をしたと思っているが、何しろ私の英語なので、詳細は神のみぞ知る)その後、彼女が泊まっている(ブータンがカルカッタに借りている)ゲストハウスに招待されて、そこに泊まっている子供達と話やゲームをしたのです。
 帰ってからの一年間に、私からは手紙に彼女と子供達の写真を添えて送り、彼女からは葉書が一枚来ていました。金曜日(2/5)におもいがけなく電話があり、再会の機会に恵まれました。実は2〜3日前から私の家に、謎の女性から英語での電話があり、私のおふくろが「さーとーるーしーごーとー」とスローな日本語で対応しており、意味不明な状態でした。その女性がエレンさんだつた訳です。
 さて、次の日(2/6)は、まず南小国の「92アースウィーク」での子供達の植林地へ、それから私の友人がやっている「骨董屋」を案内しました。彼女は甘党らしく、南小国の新作「ライスクリーム」をおいしいと言いながら食べていました。それから、阿蘇の火口を越えて南阿蘇のくぎの工房へ。地平線会議の森永氏と面会し、しばし、旅をした外国の話に花が咲きました。



 ホームパーティでは、エレンさんを交えて、在熊英語教師でニュージーランド人のファレル・クリアリ氏、地平線会議の矢次氏、中嶋氏、一足おくれて川本氏、私と聡美、母チエ子さんで、遅くまで笑談が続きました。
カナダの事やブータンの事、日本の事、自然やアフリカの事、農業や文化、文明の事、いろいろな事が話題となり、「It'sフライにしたパン」「フライパン!」一同「?」「?!」(爆笑)と言うような珍問答もでて、楽しいひとときでした。
 話は戻って、今号のテーマ「至福のとき」です。探してなかったように感じたのは、実は自分の感性が鈍っていただけだったのです。たったひとりの人とのふれあいの中で、とても楽しく暖かいひとときを見つけました。地平線会議は、何かを求めて出ていく人たちの集まりで、各地の人とのふれ合いや文化を知る事が行勤の源泉だと思いますが、今回それが「訪ね来る人を通じても可能」であることを再発見しました。話しているその時の中に、外国に居るときと同様な「幸せ」を発見する事が出来るのです。
 ふりかえって私も、日本の文化や風土を話せる人になりたいと思ったのでした。ありがとうエレン。そして、See you again in INDIA.
                     画狂中年 井上 智

 ――――――――――――――――――――――

−これこれ!! この安らぎ感−
1、単車編
 それは色々なものを、ありとあらゆる瞬間に感じます。単車での感覚、これが私にとって一番ではないでしょうか。
 単車を駆っている時、一瞬の懐かしさが甦ります。私の場合は大気を感じた時です。それは雨の匂いであったり、キンッと引き締まった冬の夜に出遭う脳髄にまでもしみわたる空気であったり、何かわからないけど感動するものが鼻から肺、そして口に抜けたりした時の瞬間。
 ほんのコンマ何秒という一瞬の感覚だけど、今まで自分が生きてきた歳月の思い出が甦ってきます。


3日間の走行で遭えないこともあれば、家を出てすぐ遭遇することもあるのです。その瞬間とても幸せですね。だからまた単車に乗ってしまう。私は以前、自転車に乗っていたのですが、この一瞬の感覚は体験できませんでした。
 同じ道を走るにしても自転車と単車では視野が違います。私が思うには単車の方が景色にしろ感覚にしろ、より鮮明にとらえることができると思います。自転車の場合、体力を使うので、その分まわりに気を使えない(気を捉えられない)のではないでしょうか?。移動と言う目的の為には気力・体力などが必要です。体力を維持することだけでも気を使います。単車は体力的に楽なぶん全体に余裕が出てくるので、感性の働きが広くなるのでははないでしょうか。スピードが出る分、物事をとらえにくいと思われるかも知れませんが、自転車と比べると単車の方がはるかに時間の流れが遅く、長距離を延々と走る時など、時が止まっているのではないかと感じることがあります。
 ヘルメットをかぶっているせいか、つねに孤独の世界です。自問するにはいいですね。ひどい時は、自分が気づかない内に何キロも走ってしまった事もあります。機械的に働く体と、精神が分離して機能している。そんな無に近い状態の時にすれちがう気の匂い、脳裏に焼き付く景色、どれも一瞬の出来事ですけど一瞬ゆえにインパクトがあります。それは、凝縮された過去の思い出と巡り会えた、そんな感動だからではないでしょうか。

2、音楽編
 私はきわめて片寄っています。MUSIC=ROCK=PANTAです。またCLASSICはMAHLERが好きです。仕事に行く前、疲れて帰ってきた時、ストレスがたまって爆発しそうな時、音楽に浸かるのが起爆剤であり精神安定剤でもありました。私にとってROCKは何よりの癒しだったと思います。ROCKが無ければ、何年問も仕事なんて出来なかったでしょう。
 しかし、最近は曲に浸かる事が少ないですね、これはどういうことでしょう・・・?。
仕事を辞めてストレスが無くなったせいか、燃えるものが失せたのか?????。
 いや!、そうではないですね。この原稿を書いているバックにもマーラーの「大地の歌」が流れていますよ、ただ音量が以前と違うだけですね。以前みたいに大音量にドップリと浸かるのではなく、ヒタヒタと浴びている。いま、この差に気付きました。たいして前と変わりありませんね、やはり心地よいものですね。

3、胃袋の快楽編
・アンチヨビのピザに冷えたど−ル。
・真夏の午後に飲むカンパリソーダ。その後の惰眠。
                       ヤツギ トモヒロ


「ごみ」
 テーマをごみとすることにした。地平線会議くまもと編集長より、アベントゥーロの原稿依頼の手紙が送られて来て、何にしようかと、実は非常に迷っていたのである。このことで、仕事中も各々種々雑多、考えていたのである。今年の仕事も、ほぼ終えた。最後の大掃除になりわずかばかりのごみを片付けていたのである。掃いても掃いてもごみがとれない。ごみはなかなかとれないものであった。そこで−目に見えない−ごみをテーマにしたのである。
 それが、12月22日、火曜日の午後の時間帯であったのである。このごみは、ひと握りだけで、何兆ものある粒子のようなものであると思ったのである。原稿のための急場しのぎのものだったのである。
 しかし、ひと握りのごみにしても簡単に考えてはならないと思ったのである。それは、小さな物質ではあっても、なくてはならないものの一つであったからである。この小さい一つの物が、地球上の役目としては、重大なものではないかと考えるに至ったこともその重要性が充分あると思われたときからである。
 たとえば、すべての生きものを育む雨、この雨が出来るには、上空に於いてごみに水蒸気が付着して行きながら、重さに耐え切れず地上に落下して来ることにあると言われているらしい。だから、雨水は真水ではなく、完全な水質ではない。少し色がつく。酸性雨は、ごみと汚染物質が同一となった、その一つの現象としてのあり方ではあるまいか・・・。
・・・如何だろうか・・・
 この、ちり、あくたとしてのごみは世界のいたる所に存在する物である。アフリカ砂漠では、ちり、あくた、ごみ、砂塵が飛び舞うのである。アジアでは、タイフーン、アメリカではハリケーン、インドではサイクロン、大変なごみを巻き上げて、病原菌力くごみについて飛ふのである。風邪菌もごみについて世界中を廻るのではと思う。
 この、ごみを人間が制覇することは不可能であるらしい。人間は、このごみとのつきあいなくして過ぎることは出来ないであろう。一生涯このごみとつきあって行かねばならないと言うことである。そして、各家庭では、

page5


家の中のごみを毎日のごとく朝夕ごみとのつきあいがはじまるのである。人間とごみとは、毎日が常に具体的に生活の中でのつきあいがある。
 ごみは人間よりも国際的で国境を自由に越える。そう言う意味では、ごみはうらやましい限りだ。しかし、ごみは集められては捨てられるのだから人間が一番いい。ごみなんかなれない。ごみは粗大ごみであれ、小さなごみであれ、人間の廻りにごみはいる。極端かもしれないが、宇宙に輝く星もマクロをミクロ的に考えればごみの集まりと言っても、おかしくないと思っているが、如何だろうか・・・。
 地平線会議くまもとメンバーも、ごみを見つめて、夜の第三世界をラクダ・ロバに乗って、自由の旅をしようではありませんか。そう思いませんか・・・1993年はそんな年であるようとにかく頑張ろう。
 これが、小生の愉快な人生、旅の目標である。理想的には、人生を意義深く、愉快な思いを築きたく思うものの一人である。
   死を前にしても、青年でありたい。
   いつまでも、考える人間でいたい。
   ふつうよりも理想的でなくて良い。
これが、楽しみだ。ではまた。
                          原田 敏幸

 ──────────────────────

ここちよい時
 ここちよい・・・。あらためて考えてみると、“何だろう”とこめかみのところを押さえて少し悩んでしまう。まあストレートに思いつくのは、うまいものを腹一杯食べた時、朝ふとんの中でウトウトしてる時、目標を達成した時、自然の中でのんぴりくつろいでいる時、Hしてる時、とまあいっぱい思い浮かんでくる。でも、こんな一時的なことでなくもうちょっとだけ深く考えてみると・・・ 。こうして生きてること自体、無意識のうちに心地良くなりたいと願って行動しているみたいです。そう考えると、僕はやっぱり欲が深い。つまるところ、自分の一生がついに終わるその時、“あぁいい人生だった”と思いたい。その瞬間の為に目標を決めて、それに向かって突進する。
逆に言うとそれが人間なのかも知れない。そして気がつくと、とんでもない事をしでかしていたり・・・。本当はもうそんな事すら考えない、考える必要のない境地というか、心の状態になりたいと願っているのだけれどなかなかどうして、ここちよき欲望は果てしなく続く・・・。
                          森永 博文


おまけ 
病院で思ったこと
 仕事中に木片が機械に飛ばされ、顔面を直撃し、救急車で運ばれて入院。上アゴ骨折、鼻の軟骨骨折、鼻を5針ぬい、前歯は6本が折れてしまった。3週間の入院生活。もちろん、ケガの痛みや治療に伴う痛みはあったけど、それは当然だしわざわざ書いたってしかたがない。
 今回書きたいと思うのは“食べる”という事です。20日間流動食でした。内9日間はアゴを固定されていて、まったく動かせない状態。回りのベッドを見ると、皆おいしそうに食べている。食べ物のいい匂いがプ〜ンと伝わってくる。あんまりうらやましいので、病室の天井を見て回りを見ないようにした。味気ない流動食を歯と歯のすき問から無感動に流し込む。5キロ体重が減る。ただでさえ痩せていた体がさらに痩せ細る。食べ物の不自由とアゴの固定の辛さがストレスを倍増させた。寝ている間、無意識にアゴを動かそうとするらしく、その付け根の痛みで思わず目が覚める。“痛っ”と手でアゴを押さえてしまう。
 固定から9日目、ようやくその辛さから解放された。おかゆを食べる。そのおいしいこと、おいしいこと。物をかんで食べるうれしさ、おいしさはたまりません。この、あたり前のことがなんと感動的だったことか・・・。
 一つの不自由から解放される。事の大小に関係なく、その不自由さを味わった長さ、苦しみに比例して、その感動は大きくなる。すると人間は勝手なもので、次の不自由さが気になり出す。僕の場合は、アゴが痛い、前歯がない、もっと歯ごたえのあるものが食べたい・・・とか。たったいま味わった感動を忘れ、次の不自由の事で頭がいっぱい。
 自分という人間はぜいたくにできているとつくづく思う。欲張ってはいけない。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 きみは、「ダダ」という言葉を知っているか。古くからのしきたりや権威の全てを破壊する行為を「ダダ」と言った。1920年代、芸術家から起ったそれまでの芸術を否定し破壊する行為であったが、それ自体がすでに新しい芸術であったのだ。さて、1991アースデーで初めて熊本にお目見えしたロックバンド「ダダチャイルド」の話をしよう。先日熊大で行われたコンサートで、私は不覚にも心を揺さぶられてしまった。彼らの生き方や純粋な魂が、ロックの衣を身にまとい、ホールの中を走り回る。その歌声に私たちは叫び、開放された。こんな私はまちがいなく彼らのファンとなっているのであろう。
 こんな彼らは、生活道具と楽器を満載したトラックでキャンプしながらのツアーをやったりする。毎年5月の連休には、玄海原子力発電所の見えるキャンプ場で「虹の岬祭り」をやっている。この祭も平和なエネルギーで満たされている。こんな彼らに一度あってみてほしい。(本号で、彼らの詩を紹介しよう)

page6


  「INDIAN RAILWAY」

やってきたのは、天竺浪人 たどり着いてのRAILWAY
2等寝台、列車の中は 人の上に人がいるほど
あか土の街 はて無き台地 不安の轍 期待の陽炎
But it's all right それが INDIAN RAILWAY
どこへ続くか たどり着くのは俺の中

川は流れる煙は上る 人は流れる人は上る
何が善で何が悪い 何が豊かで何が貧しい
何かのパワー 何かのエネルギー 何かのヒント
強く、深く、熱い なぜー

何がきれいで何が汚い 何が嘘で何が本当
でもいいんだ それが INDIAN RAILWAY
遠回りでも たどり着くのは俺の中

ガンジス川のほとりにすわり
川の流れをただながめていたら
ドンブラコ、ドンブラコと流れてきたのは 男の死体
うつ伏せになって漂っている 男の死体
驚いている俺の背中をポンとひとつたたく奴
振り返るとひとりのインド人が
ニヤニヤしながらこう言うのさ
「ほらごらん人間だよ」

All right Just a INDIAN RAILWAY
Don't worry brother, brother Just a INDIAN RAILWAY
No problem Just a INDIAN RAILWAY
遠回りでも Just a INDIAN RAILWAY
どこへ続くか Just a INDIAN RAIIJWAY

RAILWAY RAILWAY RAILWAY…
                         ダダ・チャイルド




 この映画、映画館で見逃して、見るのを楽しみにしていました。先日、ビデオ・レンタルショップで発見しました。以下に、あらすじを書きました。お正月に、見てない人は是非どうぞ。

 この映画は、インドのカルカッタが舞台。地方から出てきた一家がだまされて有り金をみんなとられ、路上生活者となるが、地元のボスにリクシャーを借りる事で生活をたてる。図らずもそのきっかけを作ったアメリカ人の医者は、命を助けられない医術と生活に疑問を持ってインドに逃げてきていた。白人の女医の医療奉仕活動に協力する事を、最初はかたくなに拒否していたが、スラムにくらす障害者の夫婦に子供が出来たとき、水害でスラムが流されたとき等を通して、しだいに懸命に生きる人々の姿に共感を覚えていく。
 地元のボスが死んだとき、次のボスから借地料値上げやリクシャの取り上げ女性への暴力など、妨害を受けるが、医療施設や学校を守ろうとスラムの人たちは闘う。大きな暴動が起き、裁判が行われ、医療施設や学校の言い分は認められるが、リクシャの父は罰金を言い渡される。そのとき、傍聴席にいた金の無いスラムの連中がしわくちゃの金をひとりひとり掲げ、リクシャの父を助ける。
 この後、嫌がらせはさらにエスカレートし、最後の対立が起こる。ボスの残忍さに仲間の連中も離れボスは倒されるが、リクシャの父はついに刺されてしまう。
 娘の結婚の為の結納金をリクシャで稼ぎだした父は晴の席にいた。祝いの席もたけなわになり、笑顔いっぱいの父だが、刺された場所から血がにじんでいるのを医者は見逃さない。駆け寄ったが、父は皆に悟られないようにと医者に言い静かに席を離れる。

医者「あんたは十分働いた。静養して体力を付けろ」
父 「そうはいかん。生きていくのはラクじゃない」
医者「そうだな。だから困難を克服したときは素晴らしいのさ」
医者と父はスラムの中を歩いていく。遠くにハウラー橋とガンジスが浮かんでいる。

  −−−−−−−字幕−−−−−−−

  ALL THAT IS NOT GIVIN IS LOST. Hasari Bal
   「分け与えてこそ価値がある」 ハザリ・バル

page7


        「トウキョウ」を撃て

ラッキーな国民

 この五年間に変化したのはペシャワールのみではなかった。日本もまた急激な変化にさらされていた。というよりは、以前に危惧していた漠然たる予感と不安が次第に現実のものとなりつつあったと言える。進歩や発展に対する怪しげな信仰と信頼は陰りを帯びてきていた。「情報化社会」や「テクノロジーの時代」の到来を無邪気に謳歌していた時代は去り、日本はまるで高度に管理化された社会と「進歩」の奏でる喧しい不協和音で狂ったようにさえ思えた。
 1988年夏に帰国した日本の状態は、元来「日本でしか生きられぬ」と言っていた保守的な日本の庶民たる家内をさえ、「こんな国で子供を育てるのをためらう」と嘆息させた。親殺しや子殺しのニュースが続き、溺れる者を目前で見捨てた自衛官や警察官の報道が連日行われていた。街路はますます華美になり、物も豊富になったが、それに比例して人情はすたれた。
「溺死を見過ごした事件」とは、同年7月の潜水艦「なだしお」の衝突事故、溺れる子供を横目に通り過ぎた警官隊の事件である。関係者はさまざまな論評をしたが、自衛官も警察官も単に「職務に忠実であった」に過ぎない。命令があればためらわず救命処置をとったであろう。しかし、見ていた「民間人」の無関心、単なる野次馬で眺めていた態度は問題にされなかった。つまるとこ
ろ、みんな薄情だったのである。このようなことはペシャワールでは考えられない異常な事件であった。車がエンストすれば、たちまち黒山の人だかりが出来てみんなで押し始めるペシャワールの光景からは余りに遠かった。
 総てがカネに換算されて評価される「カネさえあれば」という露骨な風潮と、およそ非情な、過度に組織化された機構とが無気味な対照をなして目についた。確かに「海外協力どころではない」と思った。職務につくと、皆アリの如く情け容赦のない一つの軍団の歯車としてしか生きてゆけぬ無気味な昆虫の群れのような感覚さえ持った。
 同僚のアフガン人医師がたまたま日本に短期研修に来ていたので、印象を尋ねると「ワンダフル!清潔で美しい。日本人は幸運ラッキーな国民だ」と月並みな賞賛をするだけで、それ以上は語らなかった。日本の豊かさと国際的援助のあり方について尋ねてみた。私は、もっと困った国を助けるべきだとかアジアの同胞への生きた援助に使うべきだという答えを期待していたが、案外そっけなく言ってのけた。
 「余ったカネは太平洋に沈めるか、富士山の頂で燃やしたがよい。ロクなことはない。」
 おそらく彼は現在アフガニスタン難民に起きつつある悲劇的な状況−自給自足から突然現金生活の真っ只中にほうり込まれて蝕まれつつあるアフガン人の純朴な心と、一連の日本の出来事を重ね合わせて見ていたのであろう。後で、なるほど的を射ていると思った。


沈みかけた宝船

 かつてベトナム戦争中に「沖縄は浮沈空母」という表現が使われたが、日本列島は今や浮沈空母どころか、金を積み過ぎて沈みかけた宝船の観を呈して居た。内部があでやかになるばかりで、金の重さに耐えかねてへさきの東京から傾いている豪華船「日本丸」である。日本の70%が東京に集まっていると聞いた。
 一介の医師たるわたしが論ずるのは筋違いかも知れぬが、もとよりペシャワールくんだりから帰ってくる浦島太郎の印象である。国内でも「東京化」はますます徹底し、郷土もまた、東京を模倣させられることによって、身も心もガサガサと忙しくさせられて貧困になっていくように見えた。
 組織化・集中化による経済効率至上主義の帰結が、化け物のような「トウキョウ」であった。国民全体が「トウキョウ」に統合され、人が金を使うというよりは、金が人を使っているように思えた。こう言うわたしとて人の親で、本部から給与がないと一家が困るし、募金がなければ医療活動もできないが、最近の日本の風潮は度を越している。金は化け物である。これはアフガン・ゲリラたちが一発600万円もする地対空ミサイルを使い始めて、戦争のスケジュール化で武器の都合にふりまわされる様にになったのと似ている。
 こう見ると、ペシャワールでも問題は同じであったような気がする。難民援助が消費生活にはずみをつけ、不釣り合いな箸移と隣合って、貧困と伝統社会の破壊が進行した。

page8


進歩や近代化の名の下に、せっせと自分の古巣と自然を壊し、金を東京や西欧諸国に貢いでいる訳である。妄想をたくましくすれば、国内外を問わず、我々が眉をひそめる地域社会の打ち壊しと拝金主義の根源は、手前の都合で人間を置き去りに自己運動する「トウキョウ」にある。
 帰国時、この絶望的な状況を考えると暗い気持ちになったので、せめてもの憂さ晴らしに時々冗談を言った。「郷土九州は今や東京の植民地と化し、東京の金で蹂躙されている。関門海峡を封鎖せよ。九州にはまだ自然も人情も食べ物もある。東京と心中することはない。郷土防衛のためアジア諸国と結び、九州解放戦線を結成し、東京とワシントンを撃て!」
 皮肉を込めた軽々しい冗談にひんしゆくを買うと思ったら、以外に喝采する者もあった。浦島太郎の分析も、当たらずとも遠からずと思った。「トウキョウ」、それは我々の中にある東京、拝金主義と効率主義で人間を痴呆にした東京、人情を忘れさせ相互扶助を溺死させた東京、アメリカ化してアジアの心を失った東京、全てが自分を中心に回らねば収まりのつかぬアジアの田舎大名、東京である。「トウキョウ」を断ち切らぬ限り、国内の問題は勿論、真の国際援助もあるまい。
 こんな冗談が言えるほど、日本は平和である。ペシャワールでは考えられない。しかし、厳然たる事実は、この日本の平和はアジアの同胞の血と涙の上に築かれていることである。国内で平和を謳歌する我々が、かつて「東京解放」を信じて戦場に逝ったきまじめな将兵たちに比べて、思いやりがあるとも、平和的だとも思われない。
敗戦後の日本の、華麗な変節の中で、生き恥をさらして生活せざるを得なかった元兵士たる庶民の良心的心情を代表して、自ら世を去った一人の詩人の捨てぜりふが、ますます鮮やかに私の心を離れない。
  将軍たちよ
  もしも君達の崩れた保塁に
  古ぼけた大砲が残っているならば
  乾いた土の弾を込め
  我々を砲撃してくれないか
  華美なショーウィンドウを考且うんだ
  街路なんか土挨で埋めちまえ
  サロンには
  焼けつくようなルビーの硝煙を詰め込むんだ

 我々を砲撃せよ。「トウキョウ」を砲撃せよ。これは虚構の繁栄と余りの貧しさとの間で覚える私の正直な実感でもある。
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 これは、地平線の必読書となっている「ペシャワールにて」石風社刊の中の一節である。中村医師は外側から日本を視ることの出来る数少ない一人であり、自らの実践から出る飾らない言葉に、心が動かされる。
 これからも、応援していきたい。

※熊本ペシャワール会 <注:現在活動していません

※ペシャワール会(福岡)
 福岡市中央区大名1丁目10−25上村第2ビル307号
 092(731)2372   FARA HOUSE内
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 アジア、アフリカ、北米、南米・・・地球はまだまだ広く、地平線も限りなく続く。そんな地平線を夢に未て、又、実際に歩き、ふれあい、生活をともにして、土地の人との親交を深めたいと思っている仲間が集まったのが「地平線会議・熊本」です。
 会の発足は、1987年3月。出来合いのパック旅行では物足りない!もっとワイルドに、自由に世界を旅したい人、これから旅をしたいと思っている人がきっといるはず。そんな人たちが集まって、話をしたらどんなに楽いだろう。当時、世界一周バイク・ツーリングから帰ったばかりの森永氏(29才)の、呼びかけで始まりました。メンバーの数は現在およそ20名。コンピューターのプログラマーから、不動産屋、牧師、木工職人、公務員、季節工等いろいろな個性が並んでいます。海外での旅が長くなると、帰ってからの再就職が心配の種ですが、それでもロマンが欲しい!冒険がしたいという強者ぞろいです。
 月に一回の交流会では、旅から帰った人の話を聞いたり、今後の旅の鰊の計画を練ったりしています。そんな活動の中で最近感じてしまうことは、“これからの地球はどうをるの”という事。環境破壊、富の集中(南北間題)、人種問題、等など・・・世界を旅していると、いままで見えなかった事が見えてきます。TVや雑誌の情報とは、ひと味もふた味も違った本当の事がそこにはあります。
 使い古しの言葉だけど、命と地球は一つしかないから、なにか行動せずにはいられない。最近の我々のテーマは、世界を駆けめぐる冒険と同時に、海外での経験を、今住んでいる地域で生かす事ができないかという事です。これからも、我々は、事項錯誤を繰り返しながらも、新たなチャレンジ(冒険)を扱けて行きます。   「地平線会議・熊本」1992.6.10

最終選考には残りましたが、残念ながら入賞出来ませんでした。

page9


特集 「自然−人−環境」地平線会議・熊本から見た環境問題

 出発が遅れていましたAVENTURO川本号(13号)がこのたび出発することになりました。オメデトウ!さて、次号の担当であった中島寛氏が家業の豆腐屋の修行のため、急きょ、次次号担当の私(井上)が代打に立つこととなりました。中島氏の募集テーマである IT's MY COMFORTABLE TIME.(私の至福のとき)は、引き続き募集しています。
 そして、私の担当テーマですが、「いまさら」「やっぱり」「また?」という声を聞きながして、「自然−人−環境」で行きます。古来から人が、恐れ、敬い、挑んできた「自然」。冒険者の心には、チャレンジする心と同時に自然に対する深い畏敬の精神がありました。日本やアジア各国で行われている経済優先の機械による開発は、そこから遠く隔たり、多くの命と共に冒険の魂まで消してしまおうとしています。
 アジアで思ったこと。日本の川で思ったこと。熊本の新聞はけしからん。絶対正しいボランティアのあり方。彼は木工房を始めた。彼は豆腐屋を始めた。彼は先生を始めた。彼はアフリカヘ木を植えに行った。彼はまだサラリーマンをしている。等など。ボーダーレスな行動者の集まりである地平線。時代のアンテナであるみんなの意見を待っています。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「自然−人−環境」
 環境問題と一口に言っても、本を読んだり話を聞いたり、この目で見て体験した限りそれには色々な種類と状態があって、僕にはやっぱり難しい。常識や正義みたいなものはその時代時代によってコロコロ変わるもの。明治の頃なんて文明開化とか言って、西洋の良い所も悪い所も何も考えないでそっくりまねていたし(今でも大して変わらないけど)第二次大戦の時も“鬼畜米英”こそが常識や正義としてまかり通っていたし・・・。だから、今地球環境が危ないから、こうこうしなくてはならない・・・みたいな常識や正義の押し付けは、かえって危ないような気がします。押し付ける側と押し付けられる側、お互いに不信感や不理解が増すだろうし、そうなると対立は避けられない・・・。
 僕なりに環境問題やその他色々な問題を大きく全体として勝手に考えてみると、やはりこうなったのは人間の“業”というか“欲”というか、なるべくしてなった状態としか思えない。人間はもともとは自然と共生していけるものだと思う。今だって、そうして生きている人は世界中にたくさんいる。ところがいわゆる一見便利そうな西欧文明が入ってくると、発想が違うせいか、とことん自然をけちらしてしまう。そしてその西欧の常識がどんどん広がってあたり前になって、もうブレーキが効かない加速状態・・・。でもこれも考えてみると自然の摂理ではないかと、妙に納得してしまう。だって、地球は宇宙の子供みたいなもの。その地球の子供の人間だって、同じ宇宙の子供。だったら、その人間が創ったビルや車や3面コンクリート張りの川も、経済のシステムも、ぜ〜んぶ大自然の産物に違いない。受け入れるしかないじゃないか・・・。でも・・・と考え込んでしまう。だからといって、“ノープロブレム”なのか、と自分に問うと・・・やっぱり?マーク。じゃどうすればいいのか。
今の非力な自分にはジレンマがある。それをかかえたまま、信じた道をひたすら生きるしか手はない、とそう思ってしまうのです。
 地球の半分くらいの人が宇宙船に乗って、丸い地球を宇宙空間から眺めたら・・・。そうしたら意識が変わって、世の中のシステムが変わって、ついには本当の平和がくるかも知れない。でも、現実的に考えて可能かどうか・・・。
 今、よく言われる経済活動と環境回復を共に解決できる方法。環境問題は一大ビジネスになる、という考えは、僕には“マユツパモノ”にしか聞こえてこない。先に書いた常識や正義の押し付け、片方だけを尊重してもう片方を無視する、そんな方向につながっているような気がするから・・・。でも、だからといってどうしていいのか分からず、オロオロしているというのが今の僕の現状です。あぁ情けない・・・。
                          森永 博文
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

page10


スイカの漬けものがうまい
 地平線的な旅にでたのは、'84年9月1日成田発だったかな。帰国後もしばらく心の中で、それが続いていたが、最近ようやくその旅も終わったような感じがするとです。
旅で感じた新鮮な「思い」もいいけど、時間をかけ、漬けものになった今に残る「思い」もうまかなあと悦に入つている今日この頃ですたい。
 坂田しゃんの「思い」は別に目新しいものではなく、ただ忘れていたものを思い出しただけですたい。自然とともに暮らしている人や以前の日本人ならだれしももっていた火・土・木・水などに対する「思い」ですたいな。
今は、ちょっとした草花にもいとおしい気持ちがよみがえってきますもん。死があるから生がわかるちゅうことですかな。
 以前、坂田しゃんは、能面なんぞを打っていて、「じじくさい」とか、歯科助手のおねえちゃんたちに言われていたもんですが、木に対する「思い」、木を使う以上いいもの打ってやりたいという職人的な「思い」から始まり、五穀豊じょうの自然の恵みへの感謝やいのり、火や風、シンプルにとぎすまされた動き、また形式ばった伝統の急ぐるしさ、そうかと思えば、メトロポリタン美術館の石造物の前で能を舞ったニュースを聞いてなんかホッとするものがあったり、いろいろな思いがありましたな。能は神秘とのつながりが大きいのですが、もともと神社は自然とのつながりが大きかったし、今坂田しゃんは神秘がどうのこうのとはいいませんが、そういう基本的なことは大切だなあと思うとるしだいです。遊び場でもありましたな。
それとぽくらの新しい感覚をうまくあわせて、未来へつなげればいいなと、漬け物をかじりながら思うとるところですたいばってん。
 いずれそうなりますよといわれる時もありますが、工芸にしろ、伝統もんにしろ、すべてのものに共通しますが、実際、やろうという人は、大変ですたい。
 今、庭の栗の木をながめて書いておりますが、縁側があって、すだれがかかっていて、すだれの所まで部屋の空気がぽんやりただよっていて、その先に栗の木がある。なんか気持ちにゆとりができます。道草しながら、なんかまた新しい気持ちで旅ができそうです。 それと余談ですが、よう旅先でいわれたもんです「結婚しているのか」「いや」「ガールフレンドはいるのか」「うまくいっているのか」「ふられた」「そうか、おまえもか」などといいつつ肩をたたきあったものでした。どこの国の若者もそんなものだなと楽しくなってきたですたい。
 あんまり、漬けものばっかり食べとってもいかんけん、たまには「肉」でも食べなんね。ねえ川本しゃん。六月九日、昼すぎ。まだまだ若い坂田しゃん。
坂田しゃんの好きな色は空色の青ですたい。

                          坂田 道男
−自然>人=環境−
 「自然−人−環境」井上さんは難しいテーマを与えますね。でも、もっとも身近なことですね。
 このテーマはいろんな視点や、これから先のどの時代を念頭において考えるかによって、色々と変わってきます。自分で何を言いたいのか、わからなくなってしまう。私が一番いやな問題ですよ。
 こういう事はタラタラと書いていても支離滅裂になってしまうので極論で行きます。
 人間がむやみな自然破壊をし、生態系のバランスが崩れ、動物や人間が大量に死んでも、地球にとってはそれで良いのかも知れませんね。ほんの少しの固体が残っているなら、ゆっくりと回復して行くのではないでしょうか。AIDSやGENOCIDEにしても、自然の摂理に組み込まれた人口調整ではと考えてしまいます。水俣かどこかには、鉛を分解する微生物が現れてきた(進化したらしい)という事です。自然は人為的破壊には弱いかも知れません。しかし、しぶとい部分もけっこうあるんじやないですか。こんな事書いてますが、自分で出来る事を無理しない範囲でやろうと思います。あまり関わると矛盾につきあたり、身動きがとれなくなりそうなので・・・。

                       ヤツギ トモヒロ
 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

我々は小数につかねばならぬ
 「干潟のある海」を撮った岩永さんを訪ねて、干潟を見に行くというので、私も便乗させてもらった。酒好きな岩永さんのおかげで(?)、翌朝ガンガンする頭を抱えつつ干潟へ向かった。ガネ捕り名人を撮影するかたわらで、干潟に脚を踏み入れた。抜けない!!悪戦苦闘であったが、トビハゼやムツゴロウがたくさんいるあのもったりとした干潟の感触は、心がルンルンなるくらい快感だった。
 その帰り、諌早湾のはるか沖合いにそびえ立つ鉄塔と、辺りを飛び交う水鳥の姿に、埋め立てられてしまう海や生き物への思いがこみあげて、もう少しで涙が出そうになった。
 球磨川水源の上方、水上峠を上ったところの、標高1,500mの森−そこは命の源だった。緑深き木々の間に横たわる倒木はびっしりと苔で覆われており、まるでふかふかのソファの様な座り心地だった。尾根の部分であるこの辺り一面はやや平になっていて、雨が地面にしみ込み、地中で溜まっていき、そして「水源」と呼ぶには似っかわしくないほどにほとばしる水流となって「球磨川」の源として流れ出ているのだとか。
 森が癒してくれるような気がしたのは、子宮に還ったような心地よさ、その不思議な一体感に触れたからかも知れない。
 「我々は小数につかねばならぬ」とは、ある精神科医の言葉である。声なきものに耳を傾け、見えないものに目を向ける事を忘れないよう、心にとめておこうと思う。

                          小西 久美

page11


  
 去る3月15日と29日の2回にわたり、坪井川の水源地(改寄町)から河口(百貫港)までの約22kmをカヌー一部徒歩)で下ってみました。
 あいにく両日とも、雨の続く悪コンディションの中での実行となりました。参加メンバーの半数がカヌーは初めてと言うこともあり、肉体的な辛さが先行しがちな場面もありましたが、それ以上にみんなが痛感したのは、川と私達との接点が失われている現状です。なぜ、川と私達との間に接点が見にくくなったのでしょうか?それも、坪井川は熊本市民にとって身近な川であるはずなのに。私達と坪井川の間に溝を作っている要因は、
 @三面張りのコンクリート護岸工事
 A上流近くにある産業廃棄物処分場や
   農薬による土壌汚染
 B下流になるにつれてひどくなる合成洗剤等
   による汚水
つまり、川に対して絶縁状を送っているのは人間の側だと言うことです。
 坪井川湧水地計画を御存知でしょうか。行政は、清水町打越付近の坪井川沿いに、ニンゲンと水とのふれ合い公園を作る予定だそうです。歓迎すべき計画のようですが、現在そこは坪井川で唯一コンクリート護岸工事がなされておらず、今回のカヌー探検の中で最も景観の良い場所でした。この自然を生かした湧水地は作れないものでしょうか。
 我々は、この探検行動を通し「坪井川が危ない」との危機感を持たざるを得ません。これを機会に、我々の生活のあり方を今後も問い続けるつもりです。

     1992年4月19日 アースウィークに向けて

▲『地平線会議熊本』のメンバー。左から太田黒さん、小杉さん、森永さん、中田さん、小西さん、井上さん。そして、ライダーつなぎカッパを着ているのが俺。他に、川本さん、原田さんも活躍した。




page12


page13


 
 私たち「地平線会議・熊本」のメンバーは、昨年の坪井川探検に続き、今年は川辺川を探検した。坪井川は都市型河川で、家庭廃水、工場廃水、農薬汚染等の水問題が社会問題となっていた。一方、間だ手つかずの自然が残る川辺川も、ダム建設が着工されつつあり、この地に生息する野鳥や動植物に大きな影響が心配されている。参加者は、水没予定地でのキャンプ・村民への問いかけを行ない、可能な限り上流からカヌーによる川下りをしながら、豊かな自然の検証を行なった。
 ダム水没地、五木村では、過疎化や水の汚濁等が村民の将来に暗い影を落していた−−−。

 今回の川辺川探検は、カヌーによる出発点を五木村の南端、ダム本体工事予定地の野原小学校付近からだ。3月とは言え、春は年間でも水の少ない頃。カヌーが川底につかえ、何度となく苦戦した。静かな流れと大きな瀬が断続し、その変化にとんだ表情は、私たちを魅了した。
 谷間にこだまするウグイスの鳴き声、水辺に咲く菜の花、その合間をぬってカヌーはのんぴりと進んだ。最大2mもある瀬にぶつかり大波にのまれてあっけなくひっくり返ったり...。ここで繰り広げられるダイナミックなシーンと、仲間のすがすがしい笑顔は、清流川辺川ならではの光景だった。しかし、気になったことは、「こんな川遊びも、この先いつまで出来るのか」と言うことだ。すでに山肌はダム工事専用道路で樹木は伐採され、護岸工事で掘り返された土まじりの水が清流を汚染していた。
 私たちはこの行動の中で、村民や地元の知識人にダム開発の必要性を問うてみた。しかし、そのほとんどが開発に消極的な姿勢だった。20年前、計画されたダム建設は、計画が古いというだけで環境アセスメントすら行なわれないという。町を離れ、人里離れた山村に来ても、どこも開発されていく現実。私たちは、このダム建設に強い疑問と怒りを覚えます。

    −川面から(参加者の声)−
 ダムは完成した。人間はいつのまにか姿を消していた。やがて水がたまり始める。ひそやかに水は谷間を沈めていく。逃げ出すことが出来なかったものたちは、静かに死を待っている。声を出すことも出来ずに。かつて水を守って来たものたちは、今、水に抱かれてその命を絶たれようとしている。(K・K)

 お願いです。川で出会ったたくさんの鳥たち、タヌキやいろんな動物を殺さないで下さい。(S・T)

 行政と大資本の癒着で、巨大なダム建設が「反対の声」をよそに着工されようとしている。「ダム建設が誰のためのものか」この事実を熊日はもっと取材せんか!!(K・K)
 山でのキャンプも趣があるけど、水辺でのキャンプがこんなに良いとは!(職人)

 夜10時に野原小学校についた。車のエンジンを切ってドアを空けると同時に、たくさんの虫の声と川の音に取り囲まれる。車を下りてハツとした。おぼろ月に照らされて山々の稜線が浮かんでいた。その時、私はまぎれもなく「湖底」にいたのです。(S・T)

 静かな川をプカリ、プカリと浮かんでいると、やっぱりなんだか複雑な気持ちになって心の底から楽しめない...。15年前、初めてこの川を見た時、そのきれいさにびっくりしたのを覚えている。今の川の様子とだいぶ違う。時代の流れと言えばそれまでだけど、このままじゃ、ここに住む魚や、鳥たちがかわいそうだ。なんとか皆の力で歯止めが出来ないものだろうか−−−。(H・M)

以上はアースウイーク展示パネルの内容です。

 熊日新聞に掲載された小西さんの投書です。

page14


水俣が教えるもの
 先日私は、EEN(環境共育ネットワーク)のフィールドワークで水俣に行く機会を持った。私に取って水俣を環境問題の事で訪ねるのは初めての事だ。既に知られているように、これはチッソ水俣工場が流し続けた有機水銀に汚染された魚貝類を食べる事によって発病するという、大きな公害(環境問題)である。また、その当時の水俣が持つ誘致企業であるという背景から、そこで働く人々と被害者の間での人間関係や差別等の人権問題を含んだ、複雑な側面を持っている。当時、遅ればせながら原因が特定され始めたときに、企業・行政共にそのことをひた隠し又認めなかったために、さらに被害を広げた経過があった。環境問題の原点と言われ、既に長い年月が経過しているが、未だ解決は出来ていない。初めて見た者がここで総論が出来るはずもないが、初めて見た者が産業廃棄物の視点で感想を述べてみたい。
 日本はいくつかの公害の痛みを経験して、水質汚濁防止法という法律を制定した。この中で、水銀は規制品目に入っている。産業廃棄物処分場においては、遮断型で処理されなければならない項目である。チッソの不法投棄で蓄積された水俣湾の水銀を含むヘドロは、比較的汚染の少ない部分を竣せつして高濃度汚染場所の上にかぶせ、海との境界は護岸工事で堰堤を作っている状態(いわゆる埋め立て地の構造)である。その上から、天草の島を削った土を約2mの厚さで数回覆土しているが、まだ沈下しているようだ。
 この事業を産業廃棄物処分場の現行法で考えてみると、埋め立てられている物を有害廃棄物として考えれば当然遮断型の処分場でなければならず、単なる汚泥として考えれば管理型の処分場で無ければならない。形として安定型処分場の方法を取っていることになるが、有機水銀を含む汚泥であるのに、何故それが許されるのだろうか。それは、この事業が公害対策という言葉を使わずに、湾岸整備事業という名目上でで行われているからである。事実、膨大な面(体)積の汚染地域を掘り上げて遮断型処分場の工事をし、管理していくことは膨大な費用が掛かるのであろう。早く何とかしたかった妥協策と思える。
 飽田地区(海岸沿い)で地下水の大量使用による地盤沈下と塩害があった。これは、地下で地下水脈と海水が圧し合っていることを示している。このままで行くのならば、せめて、潮の満干潮による地下部での水の動きの調査・公開を望む。有機水銀が自然界(地中)で分解するのか知らないが、もし分解が進むとして、防波堤の堰堤の寿命とそれの比較で対策を考えるべきだろう。
 もう一つの視点として、名目は何にせよ内容は不足にせよ、行政による対処が行われた水俣から、八代の昭和同仁地区での行政の対応を考えてみたい。同処分場は手付かずのまま放置(一部アスファルトを上部へ吹き付け)され、結果として他の処理業者へ転売された。この業者は、さらに転売を考えているらしい。行政が最も心配しているのは「業者の後始末を行政がする前例が出来てしまう事」と聞いている。しかし、良く考えてみると名目は何であれ、水俣では実施されている。
実施されるのなら名目は何でもいいから実施してほしい。前例はあります。
 最後に、チッソという企業が戦争の為の需要で成長し、今は私たちの生活品(プラスチックを主とした化学品)が支えていると言う事。水俣にへの誘致がなけれは他の場所で同じ事が起こったであろうと言う事を考える。私たちの大量消費生活が生み出す点で産業廃棄物も同じである。ある場所での立地を止めても、他の場所へ求められる点でも同じである。私たちは、やはり大量消費生活を改めなければならない。企業・行政は、本当に水俣を教訓とし、同じ事を繰り返してはいけないのだ。犠牲になった人々を思うとき、私たちには教訓として心に刻む事しか出来ない。
 水俣は、私たちから遠くないのだ。
(水俣の皆さん、失礼な言葉が有れば勉強が足りない者として、お許し下さい)
                          井上 智





「僕は...」
 井上さん、聡美さん御元気ですか?僕は、月曜から土曜日まで朝4時頃から豆腐作りに励んでいます。轟学苑を去り、もう2ヵ月が過ぎようとしています。僕があそこを辞めたのは、おふくろの体調が一時悪くなったので、息子であり長男である僕はじっとしていられなかったということでした。寺尾さんの考えや行動に追いていけなくったというのもあります。
 あそこを短期間で辞めたせいで、時間も今はあまりなくて、ボランティアや農業や環境問題への関心がうすれてきています。たった半年で薄れてしまうのですから、元々そんなに関心が強くなかったのかもしれません。「理想と現実は違う」という言葉を僕は何度も吐いたと思いますが、何にしても理想を語ることはたやすいことだと思います。例えそれを100%実行に移したとしても、この一般社会では生きては行けないのではないかと思います。ヒッピーや世捨人になるしかないのです。(極端ですが)
 僕は世捨人にはなりたくなかった。キレイ事ばかり言いたくなかった。理想どうりに生きていけたらどんなに良いことだろう。国境もなく、戦争もなく、お金もない社会になったらどんなに良いことだろう。

page15


今でも心の奥ではそう思っています。でも、僕は世捨人にはなりたくなかった。今まで世話になった人、友達、親たちとの関係を絶ちたくなかった。だから、轟学苑から身を引き、地平線とも一線を置いています。地平線は大好きです。でも、僕は何にでものめり込んでしまう方だから、すぐ影響されるから、必然、友達や親から目や心が離れ、世界や理想の生活へ行ってしまうのです。一緒にいると‥.。
 ふらぶら不安定で、流されやすい自分がそこにあるわけです。まだ、自分というものを固めるには早いと思いますが、これからしばらくは、現実(忙しい2の暇のない生活)に身を置きながら、じっくり考えていこうと思います。まだ不安定な僕ですから、どう転ぶかわかりません。でも、ともかく、良い方向に向けて頑張っていることは確かです。ゲンジツはキビシ〜。また、すぐ、に遊びに来るかもしれません。地平線に顔を出すかもしれません。僕の将来は僕にもわからないのです。
 最後になりましたが、僕は元気です。


続、MY COMFORTABLE TIME.
「忙しい中にも心地よいときがあったのだ!」
 AMラジオしか付いていない軽トラの中。ラジオを聞きながら、片手にハンドル、片手にパン。これが僕の毎朝のスタイルになっている。実はこれが僕の(今の僕にとって)心地良い時だったのだと最近気づいた。
 パンは牛乳パン(今はミルクパンとなっている)がベスト。これに缶コーヒーが付く。たまにはバナナなどのおまけが付く時も。牛乳パンは最近出ているパンに比べ、味つけはあまり施されていないが、こいつは噛めば噛むほど味が出てくるスルメのようなパンなのだ。食べる時は、少しずつちぎり、軽く押えてから口の中に入れる。これが牛乳パンのオーソドックスな食べ方であると僕は信じている。
 とにかく、車を運転しながら食べるのだから一個食べるのに10分から15分はかかる。忙しい中にもこの「ひととき」は、ほっとできて至福のときでもある。
 追伸
 今日の日付は10月26日。夕方から映画の試写会に行った。作品は、山田洋次監督の作品「学校」。2時間ちょっとの作品だが、久しふりに時間を忘れて、見入ってしまったケッサクである。これが僕のREBOMMENDABLE MOVIEだ!中身は観てのおたのしみ...。
                           中嶋 寛



    「波戸岬に立って」
この島に生まれて 波の音を大昔から
この時代に生きて 出会うのも何かの縁で
もう何度もここで 立ち止まる行き止まりの

あ一波戸岬に立って 玄海に沈む夕陽と
風上にある 発電所をながめている
発電所をながめている

西の海の西の空に 陽はまた行くけれど
時が過ぎれば忘れるの これからどこへ行けるの
目に見えない力と 引き換えに何をもらうの

あ−波戸岬に立って 玄海に沈む夕陽と
風上にある 原子力発電所をながめている
発電所をながめている

我がままな王様は 子分をたくさん従えて
機嫌の悪い日には 外に出ようともしない

あ−波戸岬に立って 玄海に沈む夕陽と
風上にある 発電所をながめている
発電所をながめている

               ダダ・チャイルド

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

私はディーゼル車に乗っている
●私はタバコが嫌いです。朝、気持ち良く歩いて通勤してる時、タパコをすいながら前を歩いているおっさんがいたら、ぶんなぐってやりたくなります。このすがすがしい気分をぶち壊しやがってどうしてくれる。といいう気分なんですね。窓を締め切った部屋でタバコを吸われるのもイライラします。自分の趣味で人に迷惑をかけるなといいたくなるのです。
●さて、そんな私が、ひとたび愛車を駆ってドライブなんぞをしようものなら、後続車から同じ台詞をあびせられることになります。いわく「信号待ちでうるさい。車内は静かなんだろうけども。」「黒煙を吸わせやがってバカヤロー。燃料が安いからって人に迷惑かけるな。」等など、いろいろいわれますわな。「癌のもと」とかです。自分だって晴れた日に窓を開け放ってドライブしている時は、ディーゼル車の後方は避けたいです。
●だから、私は声高にタパコに対して抗議できんのです。人それぞれシュミの違いがありますけん。多少のシュミの違いは、社会の多様性として認めてもいいだろういう考えかたです。多様性の一部としては認められない最低限のもの。それが礼儀というものでしょう。
●さて、朝の歩きタバコは礼儀に反すると言えるか?言えると思います。タバコは吸う人個人の楽しみであるだけで、他にはなんにもいいところがありません。

page16


他人を不快にさせるだけでなく、歩きタバコの後始末はきまって道路へのポイ捨てである可能性が高い。「癌のもと」貢献度についてはディーゼル車のそれの幾倍かでありましょう。(この部分たいした根拠はありません)
●では、ディーゼル車に乗ることは礼儀に反するか?社会の多様性として認知できるシュミの範囲を越えているか?私は越えていないと思います。ディーゼル機関というものは、そのデメリットと共にメリットも確実に存在する道具だと思ってますから。「うるさい」「くさい」というのは飽くまでも「ガソリン車に比べれば」という話でありまして、誰も車そのものを社会から消してしまえとは言いません。一部にはそういう方もいらっしゃいますが、ここでは庶民感覚に基づいた現実的な「社会」についてのみに考えたいと思います。
●車というのは、人間にとって、鉄道と同様、足の進化の一部です。この進化を土台として成り立つ社会に暮らす以上、車と共存しなければいけませんよね。この車社会の一部にディーゼル車が存在する。なんで存在するかというとそれなりのメリットを我々に与えてくれるからでしょう。少なくとも個人の趣味だけにその存在意義があるような道具ではありません。
●メリットとは何かというと、思い付くのは「燃料代の安さ」です。あと「丈夫さ」ですか。他には思い付きません。この際「燃料代の安さ」イコール「石油資源の有効利用」と言い換えてもいいのではないでしょうか。実際、軽油というのは石油精製上、ガソリンを作る上でどうしても生み出される物だと認識しているのですが、違ってますか?ガソリンは軽油よりも少なく抽出される上澄みみたいなものなんじゃなかったですかね。調べてる時間がないので、ここが間違っていたらこの先の原稿は屑ということになりますが、構わず続けます。ちなみに私は今「ディーゼル車に乗ることを正当化しよう」としているのです。続けましょう。
●続けると言ったって、まあこれだけですね。経済的なんですよ。ディーゼル車は。我々が産地直送の新鮮な野菜を程々の値段で買えることや、お手紙を100円足らずで北海道の友人に郵送できる事に関して、少なからずディーゼル車は貢献していると思えるのです。軽油の部分をきちんと使ってくれるのだし、灯油でだって走る(ただしこれは排ガスがひどい)。最近は廃油を処理して低公害の燃料を作れば、そのままディーゼル車に利用できるというニュースもありましたし、色々な排ガス低減装置も話題にのぽるようになりました。もともと二酸化炭素の排出量については、ガソリン車より少ないんですよ。地球の温暖化を防ぐ為にはディーゼル車の方が「良い子」なのです。安くて丈夫。道具として手放せない特質ではありませんか。それに、私みたいな貧乏人が、家族や友人を乗せて、思い付くまま燃料代の事を考えずにドライブに行ける。まあ、この点についてはタバコと同種の個人的メリットでありますけども、社会的におおきな存在価値をもっているという点で、やはりディーゼルとタバコを同列に論じるべきでないと考えます。
●もう、かれこれ7年もディーゼル車に乗っています。最初はジェミニディーゼルという名前が好きで選んだだけでした。もともとスピードとかコーナーリングとかには興味はありません。次に選んだ車は、たまたまディーゼルエンジンの設定しかない車種でした(当時)。ガソリンのフルタイム4駆とかも検討しましたが、リッター数キロなんて車、お金以上に石油がもったいなくて乗る気がしません。果たしてどちらが環境にたいしてやさしいんでしょう。
●最近はNOx削減法なる法律ができて、見た目はいいのですが、中身がひどいらしい。身障者の人が使っている車も、趣味で何十年も大事に乗っている車も、NOxの排出基準を満たさなければ、捨てて新しいのを買いなさいという法律みたいです。規制区域外に事業所を持たない小さな運送会社は潰れてしまうだろうと言われています。ちなみに車のNOx排出量測定器というのは東京に2台しかないそうですね。まあ、資料を厳密にあたったわけではありませんが、そういうNOx削滅法に関するまわりの批判は、うなずけるものが多いと感じています。



●NOxが悪者らしいという事は分かりますが、新しい車を作って買う事に消費されるエネルギーに引き合う程に悪者なんでしょうか。どうも疑問に思います。私の車は規制対象車ではないし、住み家は規制区域でもありませんが。この手の行政の本末転倒さいうのは、毎度の事なんでしょうけど、やはり気になります。
●なんか妙な方向に話が進んでしまいました。結局、自分の「気づき」の無さを暴露しただけかも知れません。さすがに次もディーゼルを買おうとは考えていませんが、やはりいろいろな技術革新、データの推移には注意していこうと思っています。ともかく私はこの先まだまだディーゼル車に乗り続けるでしょう。ただし、それは「牛乳の紙パックを燃えるゴミとして捨てる」「割箸でラーメンを食う」「鯨を喰う」「パソコンを一晩中つけっぱなしにする」程度に反環境的な行為だと認識した上での行為です。それ以上ではないと考えます。
●正直言ってディーゼル車で環境イベントに出かけるのは気がひけるのですが、無理をしてまで貢い替えるべきであるという確信が持てません。著しい環境破壊の現場に、自分自身が足を運び、また誰かを連れていくことができれば、十分に膳罪される程度の罪だと考えているのです。
●いつか金持ちになったら、より安全、より低公害、より経済的な車に乗換えるかもしれません。が、ここで暮らす以上、車を捨てるという事はないと思います。
                          川本 正道

page17


「アフリカとは何か」
 アフリカとは何か、これが最近の私個人の課題である。つまり、私個人にとってアフリカについてなぞなぞなぞの部分が多いと言うことだろうか。そう思っています。
 アフリカは広い。どこまでも草原のような気がする。私はこの二月アフリカに行き、そのことを強く感じたのだった。各々考えていた時、井上編集長よりアベンツーロヘの原稿依頼があり、間をおかずに、「アフリカとは何か」こう主題に決めたのである。しかし、仕事の都合上、書きすすむことが出来なかった。
 かれこれ十年以上になるが、アジアアフリカ研究会を1ヵ月程行なっていた時がある。この会は、熊本ペシャワール会として発展し、中村哲医師のパキスタン救援運動へと移行して5〜6年になる。地道な運動のように思える。7月24日にこの報告会がなされた。5〜60名の集まりであったが献金も良く集まったようである。
 アフリカとは何か、アフリカと言う名称の由来から調べてみよう。まず、手はじめに簡単に掘り下げることを御容赦願いたい。アフリカとは実際には紀元7世紀にローマの軍隊が対岸と言っていた現在のリビアである。今は、ダフィ大佐の率いるリビヤ国、エジプトの左隣になるところである。
 昔々、ローマがリビヤの一部を占領占有した時がある。その時、地域の人々をアフリーと呼んでいたそうである。白人がうばいとった地域である。どこにおいても歴史上に白人は、そう言うやり方を繰り返しなして来ている。そして白人は、その地域をアフリカとした。そして長年の年月をかけ、大陸をアフリカと呼ぶに至ったのだ。何と言ったらいいか、ブリタニカ百料事典には、そう記されていたのである。
 まあ、何とかおわかりになったであろうか。このようなプロセスがあったことを知ることも、アフリカがなぜアフリカと呼ぶことになったのかを知る上で大切な初歩的なことなのである。アフリカと白人がそう呼んだのだ。だから或る面では別の名前でも良かったと言うことになる。
 黒いアフリカ=アフリカ大陸は広い。雨季の時期は、草原であり、乾期に半砂漠となる。西アフリカ・サハリ−砂漠は全期間砂漠である。


 僕個人としても、アフリカの資料の何冊かは持っているので、それらの本を手みじかに紹介しておこう。
○「アフリカは遠いか」楠原彰著
 アフリカ関係の本で、最初に読んだ本である。楠原彰さんが熊本に来た時、酒宴の席で話したことがある。アフリカ研究には、親子三代かけて研究しないとアフリカの全体像は明らかにすることは出来ないだろうと楠原さんが述べられたことを記憶しているのである。広大な面積とさまざまな人間、歴史の変換。それらを研究するには、150年程かけなければならないと言うことである。それともう一点は、功罪を抜きにして西洋との関わり抜きには論じられないと言うことであった。西洋はアフリカに何をして来たのか、その疑問は私にはますます深くなるのである。まさしく植民地化と搾取の歴史であろう。この二点が楠原さんと話した時の私くしの記憶であるのである。
○「アフリカはなぜ飢えるのか」ロイド・ティンバレイ著
 アフリカ問題研究会訳亜紀書房

 最近、よんだアフリカ関係の本だ。ロイドは現在ロンドン国際環境開発研究所の論説主幹をしている。まだ、半分もよんでいないがこれは深く良く書かれていると思っている。植民地支配の頃からのことも書かれている。住血吸虫症の事や収穫期の数千万人の季節労働者の流入(スーダン)等である。この病気と労働者流入のこの二つの関係は、住血吸虫を遊牧地へ持ち帰ってしまう
こと、スーダンではこの病気を治療出来る診療所がない筈である。アフリカの人々の流出や流入は非常に容易であるらしいのである。この2月もジンバフエの青年がタルエスサラムに来ていた。陸続きのアフリカは越境は容易ならしめる。それがアフリカである。「アフリカはなぜ飢えるのか」良く書かれていると思いたい。
 僕白身アフリカについて殆どわかっていない。それゆえに知ることが必要なのである、そう思います。
○「世界の難民」アンセルモ・マタイス編緒方貞子訳
 彼女は現在、アジア地区国連高等弁務官、難民担当であるらしい。これは、アンセルモではなくアジアのことであり難民問題としては共通の問題であろうか。
○「さまざまのアフリカ」石郷岡建著
 彼は毎日新聞カイロ支局中東特派員をしていた者である。まさしくこれは、アフリカを取りまく現実を生々しく描いている。
○「南部アフリカの自立と協同組合運動」佐藤誠著
 彼は新聞記者を辞任してのちに英国へ留学してからこの著書を書き上げている。この著書に書かれているこの国は、14〜5年前までは、北ローデシヤと言っていたところである。その後独立してジンバブエ国となったのである。
 この2月、首都タンザニアのダルーエスーサラムの街を一日間ゆっくりした足どりで日本人のわたしに群がりつく現地黒人の黒幕のような人達を振りはらいながら散策した時間があった。アフリカの空に突きささるような教会の先頭の十字架の教会に来ると一人のジンバブエの好青年がこの教会で祈りを献げていた。

page18


そして、夜の街中の酒場でその青年と再び会った。私は彼がジンバブエから来ている事を、その時の彼の話しから知ったのである。
 彼が言うには、このタンザニアには仕事がなく遅れていると言うのであった。自分は仕事をさがして旅をしていると言うことだった。私の知るジンバブエの協同組合運動は、実に進んでいるものだったのである。独立の時、白人達と妥協しつつ国家再建に立ち上がっていることを、佐藤誠は緻密に描いており、内容のある本だった事を記憶している。
 アフリカ関係の資料もかなり出されている。出版物を読み「知る」ことによってアフリカの存在の意味を自分のものに出来るのである。そして、自分自身が豊かになる事は確かであった。かつて探検家、森永博文氏が南米からセネガルに上陸しサハラ砂漠を突っ走る姿もまた実にすばらしいと思うのである。しかし、われわれが本を読み「知る」こともまたすばらしいのである。
○「南アフリカの流砂」長谷川博著
 長谷川さんは放射線技士である。熊本県菊陽町菊陽病院勤務であられる。この著書も良く、深く書かれているものである。これは、熊本の或る事務所で見つけ手に入れたものである。
 これまで紹介した著書にはそれぞれの特徴があり、アフリカに関して私自身のアフリカ理解を肉づけして行く中で本当に良き文献となったものなのである。本当にアフリカについて何も知らなかった私自身なのであった。そして、私が最初の方で言った「アフリカは遠いか」の著者、楠原彰さんが僕に語ったように親子三代はかかるだろうと言われることを僕自身は本気で聞いていいと思ったのである。
 この位いの紹介にしておこう。アフリカの勉強をすることはいくらでもできると言うことである。そして、この世に生きたからには実際行って見たい、百聞は一見にしかずと言うところかも知れないのである。
 アフリカの歴史・地理・気象条件・慣習・大きく言ったら文化だろうか・アミニズム等であろう。特に経済についてアフリカは弱いのである。本当にわれわれが理想の高い日本人であるのならば、われわれは分かちあわなければならないのだ。何を分かちあうのか、それは心の分かちあいであり、また経済の上で分かちあわなければならないだろうと思うのである。

☆「アフリカのクイズ」
 皆さん各々考えさせられて疲れたでしょうと思います。ですから面白おかしくクイズのようなものを出したいと思います。もちろんアフリカについて出したいと思います。アフリカは現在未独立も含めて何ヵ国存在するかご存じでしょうか?・・・おそらくなかなか難しいと思います。誰も答えることは出来ないと思います。
★アフリカの地図の中で、その数を調べて見ると57ヵ国ありました。57ですね。良く憶えて下さい。この中に以外なことに、独立した島国の国家がアフリカ大陸の廻りに8ヵ国あったと言うことでした。これらは人口3〜5万人の小さな島国です。
われわれの目にはいるのはあの巨大なアフリカだけだったのですから、これもまた驚きのひとつにしておきたいと思います。その1つにセシイル島があります。人口6万位です。セシイル独立国家であります。タンザニアを離陸してこの島インド洋にうかふこの島にエアロフロート機が立ち寄ることになるのです。
★海岸線のない国、つまり内陸国が14ケ国あります。20国以上あると思っていたのですが実は少なかった訳ですね。その他は独立国家島国をのぞけば、アフリカの普通の海岸線を持った国が35ケ国あることになります。
★最も不思議なことがあります。ケニアなど一番後に「ア」がつく国名ですね、これが15ヶ国あると言う事です。ソマリア、ケニア、エチオピア、エリトリア、タンザニア、ザンビア、ナムビア、赤道ギニア、モーリタニア、アルジェリア、リビア、ナイジェリア、以上15ヶ国になります。なぜだろう。アフリカ大陸の全地域にちりばめられて「ア」のつく国家があるのである。これは面白いことで、どうして最後にアがあるのか僕には今も分からないのである。

◆「タンザニア」と言う国
 轟学苑の寺尾勇苑長によって「地球緑化の会」が、熊本県宇土市で結成された。アフリカの飢餓・病気・貧困と言う課題に関わろうとする為のものである。わたしも一役この仕事に関わろうとしている。どこまでものびる草原ミクニナショナルパークでは、キリン、シマウマ、イノシシが群れる。公園の直径50Km・黒人の農民もいっしょに公園内に生活している。ライオンは何Kmもの奥にいるらしいのである。年内雨量400mm前後、日本の1/5程度である。6月から10月までの5ヶ月間はまったくの乾期、一滴の降雨量がなく草は枯れて、半砂漠となるらしい。11月より5月までは雨期でこの時期に400mmの降雨となるのである。リンゴ、プラム、ブドウ、トマト、南瓜、いも、日本にある農産物(くだもの)は何でもござれと言うところである。水稲作もキリマンジャロの近くで栽培されているのである。ほぼ赤道直下のことであり少々わたし自身も予想外のことであった。「地球緑化の会」は、砂漠を緑にする運動である。不起耕による、ヨーロッパの機械を否定する、エコロジー農業で植物の生態系を尊重する。自給自足の農業で利益を求めない、福岡正信の思想哲学を土台にした実践的自然農業研究センター的なものと言っておきましょう。タンザニアの海岸の首都、ダルーエス・サラムより600Km内陸にはいったドドマと言う場所に位置するのである。約13ヘクタールと実際にはもっと広くなったらしいが、土地を現地政府から与えられているのである。このドドマ市は将来、タンザニアの首都になるところであり、拡大な土地、草原を有しているのである。

page19


この土地は熱くマラリヤ等がある。ブラブラと事実だけを記したが、ここまでノンフィクションと言うところにしておきましょう。
 寺尾勇苑長は予算やボランティア−つまり働く人、その他、困難と言えば困難の時期にある。しかし現地政府の期待はある。牛の歩みの如くではあるが急がずゆっくりした気持ちで取り組んでいくことが大切であろう。寺尾勇苑長のリーダー性と祈りによって、アフリカの一つの小さな地域に、小さな灯しびにしようといまその芽生えがはじまるところであろう。このあかりを消さないで、小さな所から少しづつその炎を大きくしたいと願うところである。
◆「アフリカは遠いか」
 アフリカに関する著書は実に少ない。アフリカは遠いか?アフリカは遠いのでなく近いのである。又地球は一つと言うことだ。アフリカは、そう考える時近くなるのである。僕自身アフリカは近いのである。そして僕自身が自由になるのである。あらゆることから解放されること、これをを大切にしたいのである。
 人間には、劣等意識なるものがある。それとともに生まれながらの愚かさも持ち合わせている。このわたし自身もそうであろう。しかし、或る時からそうではなくなったのである。考え方次第で愚かな者からそうでないものに造り変えられる。それは小さなものを大切にして行くようになった時から愚かさから解放された状態になったのだろうと思う。自ら小さな業を用いていくこと、そのことを大切にしたいのである。
◆「アフリカに死ねるか」
 アフリカに死ねるか?これがわたしの将来のテーマである。戦中、或る日本のアナキストと言われた夫妻が、戦後アフリカに渡り、日本語学校を開かれたのだった。そして三十数年がたったのであった。アナキストにとって、戦後も職場はむずかしい時期だったと思える。、そこで二人はアフリカヘ渡ったのである。しかし、二人は老いた身となり日本へ帰ることになった。そんな新聞記事を読んだことがあった。夫妻は、日本語学校もその土地も家も資材も全部現地人に寄贈して帰られたそうである。これは新聞記事ではあったが、私自身にとって非常に新鮮で新しく何とも言えない働きであると思った。だから私の記憶からは消えなかったのである。それではいったい自分はアフリカにとって何なのだと考える。それは「アフリカに死ねるか」である。これは、私自身がと言うことである。自分の死を考える時、自分が他者により「生かされている」ことを実感として感じることが出来る時、自分は「幸せ者」と感じることが出来るのである。わたしの友人は献体している。それを最善だとして決断した友人はまた「幸せ者」と言うことが出来ようと言うものである。これもまた、アベンツーロなのである。私自身、アフリカへ再び渡る決意は十分ある。「アフリカに死す」何と大きなロマンではないかと思う。1つの地球を緑化する私自身、今、合鴨の卵字化事業をしている。現在600羽を飼育している。来春孵化し全国の水田農家に出荷するのである。儲けたお銭で世界の愛の運動に関わりたいのである。
      −−−−−−−−中略−−−−−−−−
「野の花がどうして育っているか、考えて見るが良い。働きもせず、礼儀もしない。だから何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな、まず神の国の義を求めよ、そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」
                          原田 敏幸
 ――――――――――――――――――――――
 原田先生の超大作は、読めない語句を確かめる時間もなく、私の編集にてまとめました。また、17枚目の原稿が紛失し、これも再度書いて頂く時間もなく中略としました。合わせてお詫びいたします。


 12月例会に間に合わせたかったので、力づくの編集作業で、離陸します。記録と言うのはやはり大変な作業でした。今頃こんな記事が?なんて思わずにもう一度見ると新鮮であったりします。わりといろんな事をしています。編集しながらがんばっているんだみんな!なんて感じがしました。みんなもこれで元気をもらって下さい。マックの導入ができず、写真が鮮明でないのが残念ですが、我慢してね。
 さて、次の編集ですが、ご指名できるのなら記事を書かなかった小杉さん!と言いたいところですが、カヌー対馬海峡横断記を週間金曜日に書く事になっていますので、ここはマックを買って練習したい太田黒さんへ御願いしたいと思います。みなさん、良いお年を。
                      井上 智 さとみ
 ――――――――――――――――――――――

「結詞」

浅き夢 淡き恋
遠き道 青き空

今日をかけめぐるも
立ち止るも
青き青き空の下の出来事

迷い雲 白き夏
ひとり旅 永き冬

春を想い出すも
忘れるも
遠き遠き道の途中での事

浅き夢 淡き恋
遠き道 青き空

              井上 陽水

page20