地平線会議・熊本
会報1993年6月発行

Aventuro  VOL.13
地平線のみなさん こんにちは。

 大変遅<なってしまいましたが、アヴェントゥーロVol.13の原稿依頼です。前号の庄村編集長は、オーストラリアで幸せな結婚生活を送っている模様です。そうです。アヴェントゥーロの編集をやった人は幸せになれるのです。いさなり話かそれてしまいましたが、庄村さんの編集後記「いっペん自分で作ってみい」の呼びかけに応じた形で次号、つまり今号の編集を引き受けました。あれから半年が過ぎ去ってしまいました。九州横断マラソン、坪井川探検等、刊行のタイミングはいくらでもあったはずですが、結局Vol.13を7月末刊行の92年夏号とすることになりました。春号をすっぽかしてしまった事に関して今となってはとやかく反省致しません。92年夏号あるのみです。

 今回は地平線会議・熊本が誕生して5周年にあたることもあり、全員参加型の記念特集号としたいと思います。もっペん繰り返します。全員参加です。書かな損という奴です。楽しい読み物にしようなどとは思っていません。メンバー個々の記録にしたいと思っています。ぜひみなさんの「いま」をおしらせいたださたい。

特集 これからどうする

 タイトルについて不満のある方も多いとも思いますが、これは編集を担当している自分の気分であります。迷いが無い人は、『これからこうする』とでも読みなおしてください。個々の原稿には独自のタイトルをつけていただいた方がよいかと思います。近況報告でも構いません。5年をふりかえる随想でもいいかと思います。

 リーダー森永博文の言葉に「とにかく10年は続けよう。」というのがあります。となると今年は地平線にとって丁度折り返し地点にあたるわけです。5年後の自分というのを、真面目に考えた事がありますか? 私はありません。ただしこれを機会に真面目に考えてみようと思っています。いいかげん迷う事に飽さてしまいました。5年後の自分を思い描いた原稿期待してます。

 「地平線会議とは何か」について言及して頂いてもかまいません。特集なんぞ無視して書きたい事を書くという姿勢も大いに結構な事だと思います。前号では水黒健之の原稿が大さな反響を呼びました。あの時、地平線会議とは何ぞやと思いをめぐらせた人も多いのではないでしょうか。「私はこう思う」原稿期待してます。

 個人的な意見ですが、地平線会議・熊本はプラットホ−ムみたいなものだと感じています。いろいろな路線が乗り入れてくる揚所です。ある人はいまきた路線を引き返す、ある人は、そこで電車を下りてしまう。そして大方の人はそこで乗るべき路線をみつけて、またどこかへ出かけていさます。もちろんここから乗り込む人だっているわけです。電車を待つ間に、思い思いのメッセージを書き込む落書き帳がホームにおいてある。それがVol.13だと思っていただければと思います。実際のプラットホームにはそんなものは存在しないわけですが、あれば、ペンをとろうと思う人はきっと多いはずです。

 勝手ながら原稿の〆切は7月17日とします。遅れそうな人は連紹してください。メンバーでない方の投稿も歓迎します。最近旅行した人はその旅行記でも構いません。とにかく原稿が集まらない事には始まらんのです。原稿用紙が苦手な人はメモで構いません。くどいようですが書かな損です。よろしくお願いします。


1992年6月29日月曜日 アヴェントゥーロ92夏号 編集担当 川本 正道

Aventuro(アヴェントゥーロ)とは、エスペラント語で冒険という意味です。



RIDING ON THE HORIZON
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                      井芹 博昭


地平線会議・熊本 原付部隊テーマ
田中 錦之介 作詞・作曲

風の詩が聴こえるか
翼のない俺達には
走り続けるカがある
RIDING ON THE SHINIG ROAD
太陽を背に受けて

空は見えているか
草原に寝そべって
届くまで腕を伸ばしてみた
RIDING ON THE HORIZON
夢を追いかけて

たったひとつの自分の心で
たったひとつの自分の体で
大地を感じたい

少年でいられるか
傷だらけの腕を輝かせて
陽が沈むまで走り続けた
RIDING ON THE SUNSET ROAD
夕陽を追いかけて

通が見えるか
時に流されていても
忘れられない夢がある
RIDING ON THE WIDING ROAD
先が見えなくても

この広い大地に
ただ一人の君に
一期一会のランデブー



無限軌道、再び。
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                       井上 智


 私が走り始めたのはいつの頃だっただろうか。今、私の心には、多くの切りとられた風景のスナップと共に、いくつかの何かが生まれて生きている。

 1980年、私の最初の旅は、大きなリュックを背中にしょって、汽車とヒッチの一人旅を北海道へ向かう。リュックの背のポケットには、旅行雑誌やガイドブックの切り抜きとコピーを張り付けたノートが一冊入っている。ある時はセンチになり、ある時はせこく、ある時は大きな感動に身を包まれるような旅であった。
 その時に聞いた、根室という町での話。まだ、北方領土が、今のように緩やかでなかった頃、母と娘が海岸で昆布を干す仕事をしていた。「あそこの家は、父親が漁船に乗っていて、ソビエトにだ捕されていて帰ってこないんだ。だからああして、2人で働いているんだよ。」南の島の私には、考えられない国境の現実がそこにあった。

 1984年、2回目の北海道は、KL250を友とした、熊本からの日本縦断、林道をつないでの一人旅であった。走行距離8423Km、スポークは折れ、ナンバープレートは振動で割れて落ち、クラッチは壊れながらも無事故の完走だった。風を感じる旅も素晴らしい。一日約210kmを毎日くる日もくる日も走った。走っている内に機械を運転していると言う感覚は薄れ、風の音と浮遊する自分だけの世界となる。
これがライダーズ・ハイといわれるものか。オートバイと禅をつなぐ感覚を初めて体験する。
 北海道に渡るフェリーから始まって、道内で4回偶然にも巡り会った、浜松のバイクの友人がいる。彼とふたりで渡った利尻島の民宿で、私が声をかけた女の子2人の内の一人と結ばれ、今は子供がいる。

 私の峠越えはしばらく続いたが、いつの頃からか林道を飛ばす者が増え、森を生活の手段としている人たちの視線が気になり始め、次第に遠のいて行った。

 1991年12月、私にとって記念すべき初の海外への旅は、インドへの単独行となった。遥かに地平線を見ながら列車はとめどなく進む。畑と褐色の大地。いつものように時がながれ、人々は生きている。ここでは、人間のカは小さく時の流れに遠く及ばない。
 タイのゲストハウスで、ベトナム戦争を取材していたというフリーの記者に出会う。どこかおかしい。いまだに、ベトナムでの体験から抜けでる事が出来ないようだった。その目のうつろい。彼は再度、ベトナムへ行くといっていた。
 カルカッタのマザーテレサの主催する「死を待つ人の家」へボランティアに行った。助けを求める人々の目、叫び、あれは幻か。食事の世話、洗濯、下の世話、打ちひしがれる心にただ時は過ぎ、その日のうちに3つの遺体が運び出された。私には、1日が限界だった。自然に口コミで情報が伝わって、世界のいろいろな国から多くの旅人が、ボランティアをしていく。彼(彼女)たちの心に拍手。
 カルカッタからダージリンヘ向かう列車の中。私は熱を出し、ふるえが止まらず、途方にくれていた。インド人のかれは、駅で私の寝る場所を探して確保してくれて、一夜付き添ってくれた。そのうえ、翌日の朝飯を調達し、次のルートも紹介してくれた。彼がいなければ、ひょっとしたら私は、1992年を迎える事が出来なかったかも知れない。彼の心に感謝。ありがとう(DHANYAVAADダンニャワード)。

 私たち人間の環境が危ない。そんな話を開いて、環境問題に関わりはじめ、地平線のみんなとも知り合えた。ここに紹介した一つ一つのシーンは、一人の人間のとても小さな営みであり、私はこんな風にいままで生きてきた。時はそんな想いをよそに、なに事もないように流れて行く。私は、その時が刻んだ自然にまた感動する。一方で、人間の心が生んだベルリンの壁が壊れ、東西体制が崩れていき、人々の欲望や利便性を求める心が、環境を破壊し、他の動物をまきぞえにし、差別や貧困を生んでいる。それらは、遥かな時間が作り上げたものを、一瞬にして破壊していく。
 人間はちっぼけなもの?それとも巨大なもの?私たち人間は、いったいどこへ行こうとしているのだろう。そんな人間の悩みをよそに時間は、天の摂理で流れていく。だからこそ知りたい。本当の事を。自分の足で生きている事を確かめずにはいられない。

            1992.7.21アーティスト 井上 智



アウトロー的野人
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                      太田黒 剛


 休職して異国をぶらついていた時のこと。インドのゴアで、ひとりの土産売りのおっさんと親しくなった。そのおっさんは季節ごとに店を移す、独り身の行商人。妙にウマがあったので、別れる最後の夜、自分の拠所無い事情を話した。
 「俺は日本での生活に何とも言えぬ喪失感があり、インドのような国を旅している時の方が満たされた気持ちになる。だが、うちの事情で故郷に帰り、まっとうな勤め人を演じなければならない。自分の置かれた状況はシリアスだ」と。

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 それをじっくり開いた後、おっさんはこう答えた。「さっき、お前は一人っ子だと言ったな。家はあるのか。土地は。水道は。車は。バイクは・・・。そうか全部あるのか。全部お前の財産になるじやないか。お前は恵まれている。ラッキー・ボーイだ。早く帰って財産をもらい、楽しく暮らせ。ところで何を土産に買うか決めただろうな。」
 人生、これくらいシンプルに考えることができれば、本当に楽して暮らせる気がする。彼の融通無碍の境地がうらやましい。だが、その境地にあこがれながらも、まだ一方では、元来の偏屈さを取戻し、“はみだし”をやろうかと考えたりもする。とどの詰まり、あのおっさんのようなひょうひょうとした野人でありながら、しかもアウトロー的生き方ができたらと思う。



AV13号によせて
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                      清島 貴史


 「これからどうする」か。さて、これからどうするんだろう。目標となるものはほんとにあるんだろうか。既に、人生の目標(とまでおおげさでなくてもいいのかもしれないが)が決まって、それに向かって邁進している人であればこのタイトルで文章を青くのは簡単なんだろうけど、今の私にとってこのタイトルにふさわしいモノを書くのは結構むずかしい。
 何を書こうかと思案しているうちにほとんどの人は原稿を書き上げてしまった(と聞いている)。1人だけ取り残されたような感じだ。こんなことを書くと今何もしていないようだが、別にそういったわけではない。
 今取り組んでいる仕事も、それなりに意味のあることだと思う。人間の能力を高め、その可能性を拡げるためには、今取り組んでいるネットワーキング(コンピュータを多数接続して利用者に共に作業できる環境を捷供すること。有効に活用できれば、遠く離れた人々が地域や時間の制約を逢えて共に仕事ができるようになる。)の仕事も必要不可欠のものになってくるはずだ。
 この環境の実現を「とりあえずの」目標としてもいいのかもしれない。でも、なにかが違う。自分が求めているのは一体何なのか。そもそも自分とはいったい何なのか。考えてみれば、その答をずっと探し続けていたような気がする。
 自分自身の観察や瞑想によって「もう1人の自分」と対面することもあった。ただその探求は現在中途半端な形で中断している。毎日を慌ただしく過ごしているうちに、すっかり忘れ去っていた。
 また先に進むにはかなり本腰を入れなければならない所にきている。だから今のところ先に進むだけの余裕がない。そこらあたりがいいようのない欲求不満の原因になっているのも確かなようだ。それを探すための(おそらくは内面な)旅を再開すること、これが最終的な目標になるだろうか。なんだか中途半端になってしまったが。



「地平線会議くまもと」とアヴェントゥーロ精神
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                      小杉 邦夫


 これまでのメンバーの行動をみてくると、冒険的なパイオニア指向から貧乏旅行の放浪派、探検行指向のドサ回り派などに大別できるわけですが、海外旅行ブームと言われる昨今、その主張は観光名所めぐりのツアー旅行でのメンバーの旅行はいずれも少数派です。メダカの集団みたいに群れて、旗ふって集団行動するツアー旅行の中には、エコノミックアニマル的に土産を買いあさったり、中には買春旅行で現地の反感を買う、我々にも迷惑な存在もいるわけです。地平線会議のメンバーのそこに共通した目的とは何かと問われれば、規地の人々との交わりを大切にしながら人々と原寸大の付き合いをするいうことだろうと思います。
 私自身は地平線会議の中にあって、一種のパイオニアワーク的旅にあこがれていました。やはり気になる存在は、あの堀江謙一さんです。ヨットによる数々の冒険、前回のソーラによる太平洋横断につづき、足こぎボートによる冒険行と挑戦は続きます。自然破壊せず、自分のカで自然を利用しながら世界の海をかけ回る氏の行動は親近感と共にロマンチックなものが伝わってきます。先に、「お金がなくとも海外旅行はできるのだ」との話をひとつの目的に、カヌーで韓国への単独行を試みようとした私にとって、渡航法の差別的項目、「銀行残高証明」が解消した現実では、再度の航海を試みる気持ちも減少しましたが、たとえ非合法な方法でもやる価値が思えば敢行したいと今では思っているわけです。だれしもが、自分の責任においてなら、他人に迷惑をかけない限り自由に行動できるという基本原則は、法など越えたものだと思います。そのことを実証した大胆な行動者が堀江謙一さんでしょう。(太平洋ひとりぼっち参照)最後に一言、アヴェントゥーロ(エスペラント語で冒険の意味)精神は地平線会議くまもとの大きなカナメ。これからも世間の常識にとらわれず頑張ってもらいたいと思うわけです。



スープのほどよく冷める距離がいい
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                      小西 久美


 もうすぐひとり暮らしを始めて1年になります。実家まで歩いて2時間という距離の為、何故わざわざ?と怪しげに訪ねる人もありますが、“スープのほどよく冷める距離がいい”こともあるのかも知れませんし、通勤が楽なんです。それに加え、飲んでも歩いて帰れるというのがいいんです。ホント、これは便利です。
 食事の面でも今のところ不自由なことはありません。早く帰る日の方が少ないんですが、ひとりで外で食べたり、弁当を買ってきて食べるというのは今いち気が進まないんです。なんだかわびしい気がして・・・。たとえインスタントラーメンだったとしても、ちょっとでも手をかけてから食べたいと思うんです。仕事などで遅くなっても、せめてそれくらいのゆとりは持ちたいというささやかな抵抗(?)だったりして。ついでに言えば一緒に食べる相手がいればもっといいですね。
 ところで、気がつくと自分の自由時間には何をしているのだろう。実は何もしていない(もしくはそうゆう時間がない)とゆうのが正直に言って今の現状です。これではカナシイので、少しづつ何とかしようと思っているところです。手始めに知人から、やりかけのジグソーパズルをもらったのはいいけど、今度はし始めたら止まらなくなり、かえって時間がなくなってしまい、もっとゆっくり時間がとれるまでしばらくお預けの状態です。
 こうゆうわけで、5年後どころか日々の生活の中でまだドタバタしている状態で、なかなか未来展望を描く心境には至ってません。2年後にはほぼ確実に今の職場から離れることになるので、その時点ではかなり具体的に考えていることでしょう。たぶん。「ゆるやかな所属感、ささやかな自発性、それなりの役割意識」−これは、とある文章の中の言葉ですが、読みながら地平線のことが浮かんできました。「今年で5年を迎え、10年は続けよう」ということですが、私にとっては、「今、ここで」の地平線だと思っています。この先も(例えば5年後も)ずっと交流を続けることが出来たらという期待は持っていません(敢えて言うならば)。ただ、今、地平線会議・熊本という場があり、そこに自分も交わることができるという事実があればそれでよいと思っています。
 この前インドに行ってきたことが、今では何だか夢のように思えます。いつの日かまた行くことが出来たらいいなと心の中で願いつつ、とりあえず“いま、ここで(Now and Here)”そして“これから”の日々を過ごしてみるつもりです。

2



五年後はどうなっているのか
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                      坂田 道夫


 多分、新しいことを始めているのではないかと思う。
 今の自分は、地平線ですぐ話題になる海外の事や冒険については、ほとんど興味がなくなっている。
 自営業をやっていると毎月がつなわたりで、その日暮らしの旅をしているようなものである。明日はどうなるのかわからないという緊張感。自分一人先頭になって歩いている自由な感覚。毎日、単調なようで、色んな事を考えていて、自分が以前やった前へ前へと歩いていく旅によくにているのだ。また五年後のさらに新しい挑戦のことに頭がいくと遠くに地平線をめざして歩いているようなものである。それともう一つ、「今」の自分は、一緒に暮らしたい女性がいる。
 事情があって、一緒には暮らせないのだが、こればかりは、この先、どうなるのかわからない。これも「今」である。その人のために、自分の方向性や考えが、少し変化してきているのではと思う。
 とにかく「今」は、自分の人生をフィールドにして、この先、どうなるのかわからないという「今」の生きざまこそ、自分にとって「アヴェントゥーロ」しているのではと思う。
 自分らしく生きる。これにつきる。
 SAKATA 8/4 AM1:51
 ビール 1本
 つまみ きゅうり一夜漬け



これからどうする
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                     佐々木 富雄


 往年の名画「カサブランカ」の中で、ハンフリー・ボガードは女に「明日は何をするの」と開かれ、「そんなに遠い将来の事は分からない」と答え、女が「昨日は何をしていたの」と開くと、「そんな遠い過去の事は忘れた」と返事したようだ。
 私は年をとり、残りの年数を数えるようになった今、一日一日を大切に生きて行きたい。しかし、何をすれば一番充実するのか、分からない。明後日ぐらいまでの予想は出来るが、それ以上は分からない。
 今日か明日、何かの変化があった場合、例えば、配転、交通事故、理想の女性(又は男性)に会ったとしたら、そのときから人生は変わる。それ故に、人と会う約束もしたくないし、コンサートも前売り券は買わずに、当日券でしか行かない事にしている。
 自分でどうすると言うよりも、これからの世の中はどうなるのだろうか。地球温暖化→氷が溶ける→低地の水没→農地の減少→飢餓死。地球の砂漠化による飢餓死。核兵器使用による大量殺人。後進国の大量出産→大量餓死など。あと30年、人類は生き残れるかと言う重大な岐路にきてしまった。これらの問題をどうクリアする為に、全身全力を使う事が、一番かっこいい生き方のような気がするが、さて何をしたら良いのやら分からない。NGOの一員になったとしても30年はすぐ過ぎそうだ。政治家のトップになれば全ての弊害を取り除く事が出来るが、私が立候補しても誰も投票してくれないだろうし。世界のサミットに投書するのがよいのだろうか。
 じっとしていると不安になるが、暗い事ばかり考えずに明るく考えてみよう。金、名声、豪邸、頭脳明晰な優雅な美女、友人を持ち、太陽とワインと恋と健康があれば最高であろう。しかし、それを得るために、自分ひとりの満足か、他人全員との平等な満足のために働くのか迷う。他人の不幸の分だけ自分が幸福になるような、自由経済システムに乗れない自分を感じる。
 とすれば、平凡なサラリーマンとして定年までつとめ、60歳から同程度の厚生年金で、ただじっと家でテレビを見る生活を一生送る事になりそうである。(悪い政治家がインフレを起こし、このささいな生活も踏みにじられるかも知れないが)
 不動産取引主任の免許を生かし、しばらく会社に勤め、自分で開業するか、新しく妻を娶るなら妻に不動産業をさせるか。叉は、収入のある妻なら、何もせず、たまには海外旅行にも行けるかも知れない。単身叉は二人でオーストラリア2年、台湾2年、ハワイ2年と移住もしてみたい。せのため人のためになりたいが、自分の現在の趣味が出来るなら、それだけでも良い。マウンテントレールバイク、社交ダンス、エアロビクス、アスレチック、金峰山の山小屋で、花鳥風月を見る。テレビ、クラシック音楽。この他に新しい趣味も増えるかも知れない。将来孫が生まれたら可愛いのだろうか。
 今は心が満たされない。心の隙間を埋めてくれるような、24時間密着していたくなるような伴侶を見つけるまで、お見合いなどをし続ける事が当面の私のする事であろうか。



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                     四之宮 裕子


地平線とは・・・「既成の価値観に囚われず、自分自信で考え、行動する人達」と思っていた。
 熊本で地平線に出会ったのは、昨年三月の温泉ツアー。先輩に「温泉に行かない?」と誘われ、「はい、行きます」とついて行った。ギャルだけの温泉かなあ、位に思っていたら、なんか違う雰囲気。けど直ぐに「これだ!これこそが私の居場所だ!」と妙にその場に馴染んでしまった。
 その後、数回であったが、メンバーと名残惜しい日々を過ごして大阪に就職。もう少し早く出会っていたら、と思う反面、いいタイミングだったかな、時期が悪ければ〈?)熊本を出れなかったかも、と感じることもあった。がっちりした繋がりがあるように見えて、個を尊重し、互いの領域を侵さない。NYのサラダを連想することもあった。
 現在、大阪で或山岳部の人達と交流を持っているが、皆サラリーマン生活を送りながら常に様々なことに挑戦している。また研究所では、まわりに流されようとせず、自分自信のしっかりとした志を持っている人もいる。家庭の主婦業をとっても、それは、その人達だけの人生だ。「よく、結婚して家庭を持ち、子供を持つって皆と一緒で、ふつーの生活に思えるけどそうじやない。皆、それぞれ考え、悩んで自ら決断して築き上げている。」という声を耳にした。
 何が一般的で、何が特殊か?どこで何をしていても、如何に生きるかは、その人の意識の問題であろう。そう考えると、地平線は特別なグループではないかもしれない。特に最近、そう思う。私にとっては、気楽なつき合いの場である。
 できるだけ多くの人の考え、心に触れながら、問題意識や真実を見極める目、判断力、そして感性を養いたい。現在は、吸収するのに夢中で、与えることを忘れている気もするが、とに角、今は、今一番したいことをしていたい。自分と同じ経験をしてきた者は自分しかいない。不必要に自分を卑下することなく、高飛車に出ることもなく、自信を持って生きていきたい。

別記
 真実が見えない人が多いのではないか?(私も含めて)一見してあふれる情報の中で生きているようだが、その中で現状を的確に捕えることのできる人はどれだけいるだろうか。問題意識を持たず、自分の持つ価値観だけで物事を見ていたら−何かぞっとする。
 組織をして動く時には、ルールや意識統一が必要である場合がある。しかし、それに慣らされて、社会生活における個人レベルの物の見方までそういった感覚で補えてしまうようになるのは恐ろしい。中村哲先生のように上辺だけでなく、その根底にある真実を見据えていきたい。

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自然農法とHIV研究をアフリカに求めて
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       宇土市営庄町430 轟学園 寺尾 勇


 地平線の皆さんこんにちは。地平線グループに参加させていただいて早半年、その間の坪井川探険カヌー下りや地球の日への参加など、楽しく行動しました。
 私が有機農業を始めて20年、当初は農毒薬の恐さを知り、安全な食べ物の追求でしたが、その後、合成洗剤、ゴミ問題、医療問題などにかかわり、最近はアフリカ諸国の自立に関心を寄せています。なぜなら、やがては行き詰まるであろう日本の現在の社会・文化に対し、大きな示唆を与える事ができると思うからです。
 そこで今回、アジア・アフリカ問題をこうするというテーマで、今考えている事を提案したいと思います。今、アジア・アフリカ諸国は、西洋文明の弊害によって、飢え・砂漠化・エイズ(HIV)の多発など多くの問題を抱えております。私は、20年前に西洋の「人間中心文明の問題」に気付き、それ以後「自然中心に生きる」生き方、つまり、エコロジカルな暮らしを求めてきました。そしてその暮らしのあり方や農法の技術は、アジア・アフリカ諸国における諸問題(人口爆発、飢え、HIV等)を根本的に解決するであろう事に気づいてきました。しかし、このことを現在の日本の社会環境の中で行うのは難しい。やはり、命の危機に直面し実戦できるところで実証するしかないと考え、アジア・アフリカ諸国に目を向けるに至ったのです。
 具体的には、平成4年度中に現地視察を行います。現在、タンザニヤを予定地に交渉中です。平成5年度に1〜2名現地に派遣し、地域の人々と交流を計りプロジェクトの場所等を探します。そして、本格的なプロジェクトの実施は平成6年度からになるのではと考えております。また、このプロジェクトの実施に当たってはかなりの資金が必要となりますが、この運動を支援して下さる会員の募集と寄付、補助金等でまかなう事を考えております。
 この事業を実行するに当たっての活動体制としては、事務局を轟学園内に置き、資金収集・経済基盤の確立に2〜3名のスタッフを、外務省や海外青年協力隊との連携・情報収集に付いては国際情報リサーチセンター(NGOの任意団体であり、税法上の優遇措置が受けられる)に依託し、一般会員に付いては(社)熊本県青年塾が引き受けて、お互いが力を合わせて活動して行きたいと考えております。
 失敗しても元々だと言う気持ちで取り組んでおりますが、構想どうりにもし行く事が出来れば、(1)砂漠化、HIVの増大に対応できない現実に置いて、世界中に大きな一石を投じる事になります。(2)アジア・アフリカ諸国に置ける自立・飢えからの開放、および経済状態の向上に貢献できます。(3)日本の伝統文化、特に食文化を見直す原動力となり、日本国民の幸福に大きく役立ちます。
 皆さんの参加をお待ちしています。アフリカヘ行こう!!



お楽しみはこれからだ!
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                        中島 寛


 会社に入って約1年半、地平線に入って半年が過ぎた。情報産業にタッチしている分、いろんな人と出会えたし(地平線との出会いも然り)、いろんなことも勉強できた。しかし、その半面、自分の本来の夢、やりたかったことが次第に薄れてきた(仕事をしながら自分の夢を叶えられれば、それほど素晴らしいことはないが、今の仕事をしている限り、それはできないと思った)。それは、つまらん情報も含めて多くの情報が身辺にあるため。『自分』というものがわからなくなったからだ。
 世渡り下手の僕には、もう必要以上の情報は頭に入らん!もう、情報は“捨てる”ことの方が重要だ!と感じ始めたら、マスコミ人間としては失格。元々、三年〜5年ほどしか居るつもりがなかった会社だが、辞めることにした。会社の人はイイ人が多いのだが、仕事内容に疑問を感じ、『会社』
という組織が自分には合わないとわかったのだった(7/15現在、社長には辞めることを伝えているが辞表は提出していない)。
 さて、問題です。僕は会社を辞めた後、何をするのでしょうか?(制限時間20秒)20、19、18、17、16、15、14、13、12、11、10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、ゼロ☆プー!
 残念、誰も回答できません。答は農業です。寺尾さんの轟学苑で、金のかからない生活をしようと考えている。情報、モノ、金の多すぎる俗世間から離れて(逃げて?)、静かに自分を見つめ直し、自分の存在理由を探ろうかと思っている(一生かかるだろうが・・・)。農業することで、自分の食いもんを賄い、自然と触れ合って生活するつもり。奇遇にも、僕の母方の姓は『農(のう)』なのだ。だから、これは、神のおほし召しだと勝手に考えている。ここで、四季を肌で感じるだけでも十分満足というつも
りで頑張るゾと。
 しかし、冒険もしたいので、暇を見つけては、アフリカなど何もないところへ行こうと思っている。
 23歳の割に考えが爺々臭いワシ、ン?もとい、僕だが、これから自分に正直に、自分の可能性を信じて生きていくでしょう。いくつもり。生きていくゾ!
 お楽しみはこれからだ!!

追記 井上さん、森永さん、水黒さん、小杉さん相談に乗ってくれてありがとう。



5年後の私と今
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                       中田 裕子


 原稿用紙を前にして、因ってしまった。5年後の自分、う〜ん分からない。このまま自分の思ったとおり進んでいっていいのかしらと、迷っている時期だけに難しいです。でも私幸か不幸か好きなこと以外全力で突っ走ることが出来ないので、このまま気が済むようにやってしまう。やりかけたことを途中で投げ出すのは気持ちが悪いし、あきらめがつくまでやってみます。
 初めて働きに出て、私は自分がお嬢さん育ちだったと言うことが良く分かりました。そして私は楽しみながらでないと、まともな精神状態で働けないという、悲しい事実にも気付いてしまった。勿論、仕事場はわりといい所で、私の知らなかったタイプのお客さんばっかりだったし、そこから学ばせてもらった事もいっぱいありました。
 そんな中で自分の心の中に、何か固まってきているものがあると思っています。そして当分は、そのこだわりのままに動くんだと思っています。そのこだわりが、次の段階の良いステップになるといいな・・・。
 何だかまとまりがなくなってしまったけれど、今があって未来があるのなら、私は今の気持ちを大事にして、先へつなげていきたい。ああ〜5年後、せめて彼氏の一人や二人できてるといいな・・・。



熊本地平線会議5年間をかえりみて
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                       原田 敏幸


 熊本地平線会議は、早くも五周年を迎えつつある。森永氏がスケールの大きいバイク世界一周から帰国したのも、ついこの前のような気がする。アマゾンの一人イカダ川下りニカ月間、この旅には、いまだに感動せずにはおれない。
 本田美樹子さんが、タンクマにのせられたこの世界一周探検記を読み、感動したと言っていたことを今だに新しく思い起こすのである。その後、この会一人一人の行動は、アジア、アフリカ、中米、南米と、様々な酷暑の赤道を中心とした国々におよんだ。彼らは蝶のように自分自身をエンジョイした群の一人一人だったにちがいない。



 小西久美さんはカルカッタから南の方へ3日間(マドラス地方だったのだろう)女性一人インドを行く汽車の旅をしている。
 インドを汽車に乗って行く旅がある。これも驚きの探検だった。何せ、インドの汽車の上クラスはいいと思いつつも、インド行ったことのない私自身、大変だったろうと思うからである。インド入の独特のにおいそれは強烈だったにちがいない。右田氏のペシャワールやインドネシアの旅、小黒氏の中米の旅等、男一人の旅は、男であるからこそ、どこでもやりこなせることであろう。風土病や地理的条件の違い、マラリヤや水質の違いから肝炎にかかったりする。又、下痢等アメーバの影響によるものもある。精神的なストレスもある。それは、この会の人間一人一人のユーモアとエンジョイの仕方であろうと思う。そして考えて見れば、このかけがえのない地球に一人の人間として金ではなく一人の人間の自立として精神の生きざまをさがしているのかも知れないと思うのである。私自身も、今も心はぶれながら、そんな中にいるのである。
 地球環境がこの数年叫ばれて、地球の日が全世界4月22日を中心に行われている。
 地球上の樹木が伐採されて地球の温暖化が懸念されている。私は25年前ボルネオのサバ州の奥地へ入った事がある。山また山、谷また谷、大木の樹林をくぐり抜けながらスコールの雨中をジープでジャングルの中を行ったことがある。今、考えてみると、当時、私は、このジャングルが何になるのだろう等と思っていたのである。この山奥の野外市場マーケットに12才前後の、黒衣装に身を包んだ少女達の瞳が、澄んだ真水のように美しかった事を覚えているのである。二つも三つも谷を越え山を越えて、カゴに山イモを入れて売りに来ていた。私はこの美しい瞳の目をもらって帰りたい位であった。
 この山イモを売ったお金で、学校で勉強をしているとのことだった。おそらく、壁もないヤシの家であったかもしれない。紙と鉛筆もない学校、それは寺子屋のようなものであったと思うのである。
 今、ジャングルのこれらが伐採されて褐色の大地になっているのだろうと思うと、私が25年前見たあのジャングルは、偉大な地球の生きた生態系の中の一部として地球にとって最大級の財産だっただと思うのである。
 人間の言う開発とは何だったのか。問うて問うて問わなければならない。私は今、経済発展とは何だったのか問い、全てを破壊するものであったと結論づけたい。ラーメン屋の割箸問題をとってみても、とがめもせず、その事を忘れてしまったかのように、割箸をほどいてラーメンをすする。地球環境破壊の末端に実はこのわたし自身が立っていることになったのである。
 あのボルネオの美しい瞳の少女らが、今、褐色の地表に老婆のようになった幻を想像する時、私は私自身が実に悲しいのである。何も出来なかった。
 開発の概念を変えなければならない。それは開発をしないことが開発なのだと言う根本概念の教育にあると思うのである。
 私は、これらのことを踏まえて私の町合志町の六町歩に及ぶ企業誘致の為の開発に反対した。この6月13日、町と企業に断念させたこと意味のある事だ思っている。ボルネオの少女の瞳の美しさを取り去ってしまった今、日本の隅々における開発に対して反対運動を展開させなければならない。
 日本の米の問題は、日本文化の問題でもある。私は今、小面積ではあるが、水稲作の中に合鴨を放ち、除草と害虫駆除が同時に出来る水稲合鴨同時作をはじめて3年目に入る。
 アフリカの飢餓、貧困、病気、これらが砂漠化という癌のようなものによって進行している。今、何をかをしなければならないのだろうと思っている。轟学苑のリーダー寺尾勇苑長がいる。わたしはこれを学院にしたほうがいいと思っているが理由はない。アフリカのエイズと砂漠化に実際の行動を持って参加されたいと言われる寺尾勇氏の理念に沿って何かが出来るだろうと思うのである。今後とも、寺尾勇氏の行動が、世界の貧困、病気、飢餓を救うものであると信じている。
 地平線会議も、方向性としては、各々の問題意識に広がりを持たせつつある。
 善意の心を持って行動しつつ進みたいと願っているのである。
川本さんより原稿依頼が今日来た。現在7月1日午前1時23分。7月17日までの原稿締切日に大幅に期日を残して原稿を書き終わろうとしている。
 こんなに早く書き上げるなんて私自身早過ぎるというものだ。終わりにバイブルの一節を皆さんにプレゼントしよう。

 「平和をつくりだす人々は幸いである。彼らは神の国を見るであろう」

 生命と自然、大自然の美しさから本当の学びをしたいと思っている。



これからど一する!? 92'-8
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                      本田美樹子


   8/8 AM2:OO
   家の近くのジョイフルにて。そうです、私はHungry!!

 今日は街に盆踊りを見に行った。これを見るのも今夏が最後か。さて、さてこれからどうする!?
 就職した当時、一人暮らしが初めての私は、賀来の自分のアパートが“旅の宿"という気がしてならなかった。やっとここが自分の棲み家だと感じはじめた頃に、また次の場所に移ると心に決めてしまったのである。
 とりあえず来春、熊本に戻る。そして1or2年充電した後、次の行動にでる。それが当面の計画。果たしてどういうことになるか、なってみないとわからない。

 今日は手話のレッスンがあった。今年の4月から始めた。月2回なので、かつまた私が残業や私的な用事で遅刻・欠席をするものだから仲々上達しない。でも、手話を始めてよかった!と思うことがある。まず始めた動機というのは“看護婦さん”に興味があったからである。新入職員だった頃、電話で薬局の先生が看護婦さんといつも口論しているのを見て、“怖い存在”と思ったこともあれば、イヤイヤそんな事はない、話してみて、相手の立場や業務内容がちょっとづつでもわかってくれば歩みよれるはずとも思うし、まず彼女たちと接する場が欲しかったのだ。それで手っ取り早く飛びついたのが手話サークル。実際やってみてけっこう面白い。しかし一番驚いたこと、わーっ全然知らなかった一!!って思ったのは、「聴覚障害者の方には筆談で説明すればいい、だから手話はさほど必要ない」と自分が誤解していて、それに初めて気付いだということである。この前博多で研修会があった時、北海道の某病院薬局で、そこの職員が手話をやっていることを知った。聞く話では薬局あげて手話をしている所というのは、日本でそこだけとのこと。それを思うと一見、便利で先進国の日本も、けっこう「住みにくい国」とくに聴覚障害者を含むhandycapをもった人やmainorityに属する人にとっては。
 話を少しずらすと、外国人労働者のこともそうだ。“不法就労者”というあの言い方。どーも気に入らない。祖国を離れ、家族のために仕事を求めて富める国にやってきた、とたんに犯罪者か極悪人呼ばわりれるとは!
 物分かりの悪いオジサンに“外国の友達ができた”とか言う話をすれば「どーせ東南アジア系の不法…」という言葉が返ってくる。根強い人種差別、偏見の現れである。何故!?

 日本人でそして健康な人でも少なからず居心地の悪さを感じながら、生きている。学校や職場やもしかしたら友達どうしの中ででも。価値観の違う人間やアンチテーゼしながら生きていく人は、いつも傷ついてしまう。もしくは、自分を傷つけたくないから、周囲に表面だけでも合わせて、心の中で自問自答。本当にこれでいいのか。

 後悔したくないから。周りは、自分の好きな様に生きる人をdropoutした人って言う。でも少しは“自由人"でいいなって思ってるんじゃないの。

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今の路線からそれることがdropoutかどうかは、誰が決めるのか。それは周囲の人じゃなくて本人。人が何と言おうと、自分が一番納得の行くようにしたいから、今は、“脱・現状”をするしかない。と思うんだ。

エジプトに行ったこと

    8/8 AM3:00
    賀来新川のジョイフルにて コーヒーを飲みながら。

 最近、朝起きるのが辛い。続く倦怠感。それもこれも、先月エジプトに行ったからだ。帰国後、次の土日は蒲江キャンプ、次の次は連続宿直、ひゃー。やっと明日、普通の土日がやってくる。あ一忘れちゃいかん旅の会の交流会があったんだっけ…。
 私の旅行中、心配して待っててくれた方々どうも有難う。なのに土産の一つも持って帰ってないんです。スミマセン。「どーだった〜?」て聞かれると開ロー番言うことにしているのが「熱くて死にました」二番目にいうのが「確かに貴重な体験でした。しかし同じことも再び…と言われたら絶対NEVER AGAIN!!」もう、たまらん!! 日なた60℃日陰50℃というGIZAのピラミッド、もう死にかぶりました。今回の旅の同行者と話した結果、「全く金まで使って年に一度の大切なサマーホリデーによりによってこんな所に来て。地獄のような思いをするとは…!? 何故!? やっぱりバカなんでしょうね、自分達は」というのが結論。ほんとマジかいな。しかし、そんなボロクソに言っちゃエジプトに失礼ですよ。
 私、個人的には好きです、あの国。元々イスラム大好きだし、今回の旅で接した人達はやさしく温かだった。ただ、行く時期をまちがった。それと短期間にたくさんのものを見ようと、ハードスケジュール(夜行で移動するので必然的に観光はカンカン照りの日中になる)をくんだのも災いした。次回の旅はもっとスマートに…と願ってやまない。おおまかに旅のスケジュールを書くと、7/11(土)福岡発、カイロヘ向う。7/12(日)荷物を持ったまま、ピラミッドヘ。歩いて見て回る。 (=自殺行為)7/13(月)チャリンコを借りて、乗る。それでも、けっこうハード。7/14(火)ロバに乗る。しかしロバがチンタラ進むので、日差しの中を行く時、また暑いんだこれが。7/15(水)スエズ運河へ行った。この日が一番楽勝だったね。しかしエジプト最後の夜に忘れもせぬ、あの“石”事件が起こったのである。これぞ今回の旅のハイライト!! Nile Hilton(ホテル)の売店で絵ハガキを買い、その後カイロタワーへ向って、ナイル川沿いの道を歩いている時の事である。大皿を頭に乗っけた子供とすれちがった。一応、よけたつもりだったが、肩がかすかに触れた。かと思ったら私の後ろでガジャーン!!とスゴイ音。お前がぶつかったせいでこうなった弁償しろmoney! money!とうるさくしつこく追いかけてきた。
 要求してきた額は日本円では\1000弱程度。やってもいいけどこういうのは悪い癖になるから断固拒絶。無視してサッサと過ぎ去ろうとしたが、これがまた執念深いんだ。人気の少ない所へきたら、石を投げてオドシ始めたから、益々、たちがわるい。最初は、マネだけかなと思っていたら、本当に投げてきて、それがズカーンと同行の者にナント当たってしまったのだ。ギャー!!憎たらしいけど同行者に危害が加わるくらいなら、金をわたして解
決…とも一瞬思った。だが同行者がスゴイ剣幕で怒り出し向こうもひるんだ。しかし結局、金は欲しいらしく、やっぱりひっついてきて金をせびる。このまま歩き続けると永遠に追ってきそうなので、ひとまずNile Hiltonのロビーへ避難。ここなら現地の人間は入れまい。そこで、ようやく、奴らを巻くことができた。いや〜しかし、恐ろしかった〜。この一件があって以来、同行者は私のことを厄病神呼ばわりする。どーもスミマセン。今でも突然思い出しては、まさか日本までは追ってきまい!投げても石は届くまい!と、ひやっとしたり安心したり、でも、あの一件で、エジプトの一面を垣間見た様な気がした。エジプト、カイロ、ピラミッド。神秘の国だとか何だとかミステリアスに書き立てて、結局、今、現在のエジプトについて私は何も知らなかった。というより知ろうとしていなかったのか。
 Nile Hiltonから出てきたそれも日本人、つまり金持ちという図式が彼らの頭の中にあるのだろうか。だからこんな私でも(つまり金がなく、旅先でもケチケチ旅行Cheep is best!を心掛けている)標的になるのだ。まー仕方ないか。あんな形でしか生計を立てていけない人が存在するのだ地球には。観光国であれば、あるほど、外から来た人の“金持ち”具合を見せつけられて、現地の人との貧富の差がよりクローズアップされてくる。本当は観光客なんか来ない方がいいのかもね。自分も観光客じゃなくて、その国の人と、本当に友達になれたらって思うけど、カメラや金や全ての持物や、色んな物が見えない壁となって、結局そうなれない。旅人ってむなしいね。ゆきずりでしかない。そこで最近思うのが、“旅行”では表面的なものしか見えてこない。長期滞在して何らかの形で、そこの人達と関わりあいをもちたい。そしたらいい所じゃなくてアラも見えてきて、やんなっちゃうかもしれないけど。私はもう年に一回、一週間程度の即席旅行をする。毎年それのくりかえし、そーゆーのいやだな。…とついついエジプトから話がそれたが、また少し時間をおいて今度の旅を冷静に見れるようになったら、再びペンをとることにしよう。いやーしかし、ここ3週間エジプトの砂挨を、肩に背にのっけたまま歩いた自分。ここでリズムを日本に戻そう。

       大分旅の会・水平線の呼び掛け人 本田



夕顔と私の地平線
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                       右田 一弘


 午後11時、二階で私は川本さんに出す原稿を考えていたのですが、そのときおふくろの声が聞こえてきました。 「一坊(おふくろは家で私の事をそう呼んでいます)、夕顔の庭に咲とるけん、見らんね」。私も「ほんなこつね」と言って見に行きました。直径10cm程の白い色の夕顔が一輪咲いていました。匂いを嗅ぐとほのかないい香りがしました。一晩の命とは言え、精いっぱい花を開いてそして散っていく。私は朝顔も好きですけど、夜になり人目など気にする事など無く咲く夕顔はもっと好きです。私の人生の師と言えばオーバーですが、「おまえは人生を精いっぱい生きているのか」と問いかけて散って行くような気がします。今の私の状況からすると、夜遅く自宅(自宅と言っても親父が建てた家で、私は二階の部屋を家賃を払って借りていると言う状態です)(小杉さんから口癖のように「いつまっでん親のすねかじりばっかせんで、おるがごつ、早う独立して自炊ばせなん」としょっちゅう言われます)話を戻しますと、夜遅く自宅に帰るとき、この夕顔が咲いて説教されるような気がして、勝手口から中に入りたい心境になります。
 今回の川本さんからの手紙を読んで、もう5年も経ったのかと思います。5年前私は何となく、上通りを歩いていて、パルコの方に向かっていました。オートバイの好きな私は、オートバイの展示会があっているのが分かり、中に入って行きました。そこにオートバイで世界一周した人のコーナーがあり、写真をながめていると、写真と同じ顔をした人が、そばのテーブルにちょこんと座っています。声をかけたその人が森永さんでした。それからいろいろ話をして、冒険野郎大集合という事になり、私はいろんな冒険や海外旅行した方の話が聞けて面白そうだと思い、「熊本何でも野郎隊」に入り、そして、それが今の地平線会議となりました。途中、月に一度の交流会に数ヶ月欠席する事もありましたが、やはり何か魅力があったのでしょう、また、出席し始めるようになりました。
 地平線会議に出会わなかったら、何ヵ月も海外旅行に出かける事もなかったと思います。「何のために海外旅行に行くのか」と質問する人もいますが、私はテレビや雑誌でみた事があると言うより、自分の目で、二本の足で現地を踏みしめて、生活週間や食べ物の違いなど、自分で体験してその国の人達と接してみたいだけです。東南アジアなどを旅行しますと、無意識のうちに

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俺は先進国からの旅行者(自分は何の力もないくせに)だと言う横着な態度で、現地の人に接しているのではないかと思う時があり、自分自身いやになります。またテレビとか新聞で、タイや台湾など「著しく経済発展」とか見るにつけ、喜ぶと同時に、国が発展すれば物価も高くなり旅行もしにくくなる、と考える自分がますますいやになります。
 最後に、地平線会議熊本の重鎮原田先生、原田先生と兄弟のように仲の良い顧問の小杉さん、そしてリーダーの森永さんを始め、皆様と出会った事を神に感謝せずにはいられません。川本さんも書いておられました、地平線会議はプラットホームみたいなものだと。どこかへ出かけてしばらく帰ってこない人。また、新しい人との出会いもある。忘れ物をしたかのように、また戻ってくる人もいる。今後、どのような人との出会いがあるか楽しみにしています。



僕の夢
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                      森永 博文


 やっぱり、自分にとって世界一周の体験は大きい。たぶんこれからもその影響をうけながら、自分らしい生き方を模索するしかないのだと思う。
 このところ外国の旅はごぶさたで、今はその時期ではないみたいです。最近はどうすれば満足のいく生活が実現できるのかをもっぱら考えています。なにをどうすれば納得がいくのかはっきり自覚できればいいのだけれど、それもままならず、とりあえず5年が経過。その間地平線の仲間とも色々と話しができてずいぶん色々な面で救われています。
 「幸せに生きること」幸せと言っても人それぞれとらえ方は違うと思うけど、人様の事はさておき自分自身の事を考えてみると、やっぱりアフリカでの1シーンが目の裏側に焼きついています。家は泥壁と草を束ねた屋根でつくり、家族の持物といえば2、3個のナベと人数分のおわん。ちょっと裕福な家はラジオや古い自転車が一台あるかないか。でもみんな楽しそうだった。なにかに追われているようなそんな感じではなく、悠々と堂々と生きているような、とても大きなものを感じさせられました。
 もちろんアフリカのやり方をそのまま日本ではマネできない。気候風土も社会背景だって違う。でも、それをべ一スにして生きて行けないだろうか…。必要ないモノは持たず、金のかからない生活を目指し、都市の雑踏からは極力逃れ、仕事は楽しくのんびりと、いい嫁さんをもらって、犬もかって、猫もかってガキもできて、共に生きて行けたら…。
 とりあえず29歳の今はそんな理想を抱き、現実のものとすべく、努力の日々が続いております。が、この先どうなっていくやら…。
 それぞれ目標は違っても、夢をもって一歩ずつ前進する。それが地平線の正しい姿だと僕は考えているのですが、みんなはどう考えていますか?



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                       矢次 智浩


 『現在の自分の状況を例えるならば、振子である。人生と言う円錐形の頂点を目指すが、上へ登る道が見つからず、円錐のまわりをグルグルと回っている振子である。』
 これが以前の原稿の一部である。
しかし、今やっと上へ行く道が見えてきたようだ。一歩づつ進んで行こう。
                   1993. 5.27 矢次智浩


編集後記
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                       川本 正道


 結局今になりました。まず発行が大幅に遅れてしまった事をお詫びします。12号の庄村編集長から次号の編集を引き受けたまでは良かったものの、原稿集めに重い腰をあげたのが半年後。そしてDT Pをやるんだなんぞといいつつも原稿を塩漬けにしてしまいとうとう1年が経ってしまいました。せっかくの原稿を一年近くも眠らせてしまった責任を感じています。矢次さんには、電子メールで送ってもらった原稿を紛失してしまい再度書いてもらいました。井上さんには、いくつかの原稿の入力を手伝っていただきました。今年の正月には編集手伝うからAV13号を仕上げようと言ってもらったのを、自力で仕上げたいのでと断って、やっぱり今です。
 ともかく仕上げねばの心境でやっつけ仕事となってしまいましたが、やっと発行にこぎつけました。たいして文句も言わず気長に待ってくれた皆さんどうもありがとう。何の芸もないレイアウトになってしまいましたが、内容の方はお蔭様で読み応えのある文集になったと思います。一年前の原稿ご自分で読んで何を感じましたか?今ごろやだなあと思ってる人もいるかもしれませんが、よくもこれだけ書いてもらったなあと感謝しています。いつかまたきちんとしたレイアウトで復刻したいと考えているのですが、これは言わない方がいいというものですね。
 井上さん編集の次号からはアヴェントゥーロはまともな会報として復活するでしょう。2、3週間前に預かった14号の原稿依頼これから同封します。

 さて私のこれからなのですが、今はとにかく忙しい忙しいとわめいておりますね。あと1時間程で兄の入院している病院へ出かけなければならず、それまで発送まですまそうとこの編集後記以外のぺージの印刷を済ませました。明日の夕方は、プレム主催のイベントヘ出かけて地平線の定例会には遅れるつもりです。喫茶プレム(居酒屋さぶちゃん)は私が初めて通いつめた飲み屋さんでしたが、今月の26日には店を閉めるそうです。昨夜聞いてがっかりしたものの、これも時間の流れだろうと思いました。
 学校の仕事は面白いのですが、毎日の準備に追われてアルバイトのプログラミングも中断したままです。おかげで慢性の金欠病は徐々にその症状を悪化させています。なのにマックの周辺機器を4年ローンでまた買ってしまいました。反省はしていません。金はなんとかなるでしょう。この機械(MO&CDROM)があれば、私は今よりもっと面白い物を見る事ができるのだ。というわけです。
 MOC(マックおてもやんクラブ)の自主製作CDROMの資金作りの為に、あちこちに配るDM用クラブ紹介の原稿締切は来週です。地平線と同時期に足をつっこんで以来こちらも長いつきあいとなりました。再来週の金曜日は「週間金曜日をきっかけに考える集い」に参加するでしょう。「「週間金曜日」からは振り込み用紙が既に送られて来ていますが、勢いで2年購読なんぞを申し込んでいたらしく5万なんほの金策にまたぼーっとなってます。HARAPPAでは東京の報告会の様子を記録したビデオを熊本の地平線で上映するという話が持ち上がっていて、私は大いに乗り気です。そうこうしているうちに34才になるでしょう。こんな感じの今日この頃ですたい。

 ええ天気やなあ。今年も結局「ベランダ片付けてビールを飲む夏」にほならんのだろうなあ。そう言えは不動産屋が契約更新の書類を投げ込んでたけどお金ありません。もうここに2年も住んでいるのですよ。皆さん。どこへも行かずに。です。そろそろなんちゅうか、深呼吸がしたくなりましたね。
 でもまあ、なんだかんだ言いつつ、毎日がおもしろいと(新聞ではない)感じています。
                        1993.06.05
この会報は+クラリスワークスで作成しました。

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