●●● 9/14(土)    

 さあ、もう今日は帰らねばならない。石垣空港から沖縄空港へ行き、沖縄−熊本便出発までの間、約4時間ほどを、レンタルバイクで沖縄での戦跡と首里城+土産購入というハードなスケジュールが待っている。

 朝食そこそこに、宿をチェックアウトした。おかみさんからは何と忙しい旅行者だろうと映っただろう。石垣島にはアーケード街があり、そこに地元物産センターがある。通りかかると開店の準備をしていた。沖縄の名物のひとつに、小ぶりの島唐辛子を泡盛漬けにした液体スパイスで、辛味料「こーれーぐーす」(高麗胡椒)がある。大抵の食堂には普通に置いてある。それを購入した(そんな時間はあるのか?)。



 石垣港近くのバスセンターへ行くと、空港行きのバスは出た後だった。即タクシーを探して飛び乗った。空港では、もう色々とみやげを見ている時間もない。もっと楽しみたいと思ったがよしとしよう。飛行機は、行きと同じように美しい(チュラ)島々の上を飛んでいく。本当に美しい。

 機内には、八重山日報という新聞(4面)があった。9/14(土)のヘッドラインは、「石垣港、離島桟橋再開発へ」委員会が市長へ報告。その他、国内外のNews(日朝外交や日米首脳会談など)が小さく回りに配置されている。同じぐらいの大きさの扱いで、「山川君が珠算の部で優勝(全国定通珠算競技)」と微笑ましい。2面目がスポーツ関連記事。3面は大きく「赤土流出対策で現地検討会」が開催されたとあった。沖縄総合事務局や農水省、県と石垣市、WWF-J、農家代表も参加。珊瑚に影響を与えている赤土の流出が、工事ばかりではなく、農業に起因するということでの対策会議で、農家の高齢化で作業上での無理も言えないジレンマがあるようだ。小さく「西表島山中で男性が行方不明」という記事もあった。4面はTV・ラジオ欄。

 沖縄空港からレンタルバイク屋へ電話した。これは9/11に体験済みだったが、お店を変えてみた。これが後で良い結果となるのだが、バイク屋が副業でやっているレンタル屋だった。迎えに来たのは大型スクーターだった。バイクの後ろへ乗ったのはいつの頃だっただろう。ラゲッジもいざというときに背負えるタイプで良かった。またがり店まで走った。大型のスクーターもなかなか良いね。
 バイク屋で契約書にサインし、50ccのスクーターを借りた。ひとは追いつめられると能力を発揮するが、だいたいの通りと方向は頭に入っていた(?)ようだ。大荷物を預けて、さあ今日も忙しいぞ。

 先ず、旧海軍司令壕へ向かう。ひめゆりの丘へ行くことを考えていたが時間の関係で断念し、空港に近いこの戦跡へ行くことにした。バイク屋で場所を聞いたのだが、あまり知らないようだった。沖縄の中でも若い連中(バイク屋の兄ちゃん達)にとっては、すでに風化し始めているのだろうか?実際わかりにくい場所ではあった。細かい路地をいくつか曲がり、小高い丘の上には駐車場が整備されていた。天気も良くほわっとした感じの沖縄の空気を感じていたが、それまでの旅の気持ちとは違う違和感を感じていたのは、この場に不似合いな程の天気の良さだったろうか。

 

 ここは、沖縄戦で最後まで指揮をとった海軍司令部の壕跡である。沖縄戦末期に手堀の突貫工事で作られ、中には兵士がひしめき合い、最後には兵士は突撃玉砕し、司令官は壕の中で自害した場所だ。パンフレットには「恒久平和を願い・・・」と文面があった。中にはいるとひんやりとした硬い空気が感じられる。各部屋や通路には、その当時そのままの痕跡が残されている。司令官自害の場所には、手榴弾の破片が壁に細かい無数の穴を開けていた。壁には墨だろうか、書いた文字が残っている。電線を通したガイシなども残っている。下級兵士の部屋は「数本の柱によりかかるように立ったまま眠った」と書かれていた。司令官はいよいよ最後に近くなり、「沖縄(戦)では、辣悪な条件の中、一般人も自ら非常によく戦った、このことを記録に留めてもらいたい」と電報を本土へ送っている。

  

  

  

 若いカップルが私の後ろから入ってきた。「早く出ましょうよ」(女性)、「・・・・・」(男性)。二人とも言葉があまり出ないようだった。私のデジカメはバッテリーが切れていたのだが、なぜかこの場所で復活した。
 全ての部屋を見て回った。今は閉じられている扉へ向かう通路の手前に花が添えてあった。ここから最後の突撃をして行き誰も帰ってこなかったと書かれていた。その時の情景を思うと涙が出た。平和を願い祈った。

  

  

  

 上へ上がった踊り場の両脇には折り鶴が飾ってあった。壕の上の部分は沖縄戦の資料室になっている。それぞれの資料は沖縄戦の凄惨さを物語っている。いくつかの資料から、沖縄の悲しさが私の中に重ねられていった。

 特攻とは自らを兵器として敵に向かうことだが、飛行機ばかりではなく、地上戦があった沖縄ではいろいろな形が実践された。人間魚雷、ベニヤで作ったボート、地雷を抱いてのまさに人間爆弾。911に際して、自爆テロのルーツは日本人であったと立花隆は寄稿したが、その実際はあまりに非人間的ですさまじく悲しい。コンクリートに自らを固定した写真があった。

 アメリカは、日本本土への侵攻のための航空基地として沖縄を求めたとされるが、日本降伏後のアジアの要衝として沖縄の位置の重要性を認識しており、沖縄戦は「完全占領」することを目的として実行されていた。それは、その後の朝鮮戦争、ベトナム、湾岸戦争、アフガニスタン報復と、いまだに継続されているのだ。

  

  

  

 沖縄戦での全戦没者数は実に20万人(広島原爆による犠牲者数とほぼ同じ)、米兵12,520名、沖縄県民(一般県民)37,139名、沖縄県民(戦闘参加者)56,861名、沖縄県出身日本兵28,228名、他県出身日本兵65,908名である。また、アメリカ軍が使用した砲弾は、2,716,691発で、当時の沖縄人口57万人で考えると1人に対し、4.72発の砲弾を使用したことになる。(資料より)いくつかの写真が掲載されている。一般人の写真は子供や老人など、着の身着のままで、砲撃の中をさまよったことが伺える。ハジメに似た写真もあった。
 日本兵(兵隊)でない戦闘参加者の戦没者数を考えれば、当時は無差別であったことだろう。アフガンでもだれがタリバンでだれが違うのか?という状況下での報復爆撃。やっていることは何も変わっていない。

 大田司令官が海軍次官に宛てた電文が掲示されていた。以下に全文を記載したい。
===============================================================
 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう、取りはからってください。
 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県はすでに通信する力はなく、三二軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことが出来ないので、代わって緊急にお知らせいたします。
 沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で、娘を軍へ預ける親もいます。
 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍においての作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定されたとき、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
 これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最後を迎えてしまいました。
 沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえ全てが焼けてしまい、食べ物も六月(今月)一杯を支えるだけということです。
 沖縄県民はこのように戦いました。
 県民に対して後世特別のご配慮をしてくださいますように。

昭和20年6月6日20時16分発
===============================================================

 私は、司令官へ感情移入しているのではない。報われずさまよった人々の悲しみや苦しみを思う。悲しくて言葉にもならない。怒りのもっていきようもない。いったい誰が何の夢を見て誰が犠牲となったのか?その苦しみは後世で報われたのだろうか?
 戦争をゲームのように簡単に言う人たちがいる。アメリカに対して戦うと言う。私には、その言葉が、結果として犠牲になるであろう多くの人々の「痛み」を含み代弁しているとは思えない。我々は平和に慣れ、それへの努力を失いつつある。私たちがしなければならないのは、沖縄の人々が得た「痛み」を共有し、伝えていくことではないか。痛かったでしょう。つらかったでしょうね。そうならない社会を継続するように努力したい。

  


 頭が冷え放心状態になった。しかし、残った時間は少ない。振り切るように、バイクに乗り首里城へ向かう。首里城は今は街の中の小高い丘の上にあった。近くには首里高校がある。まことに申し訳ないが、首里城のことはコミック「花の慶次」で身近に知った。乱世時代の侍達の友情などをかなりハードに描いたものだが、想像力をかき立てられた。(北斗の拳を書いた原哲夫の作品)

  

  

 首里城は世界遺産にもなっている。ほとんどの部分は再建されているものだが、一部に当時を留めるものが残っている。中国からのカラフルな赤い色彩(意匠)と、建築様式は日本からのものであるそうだ。古くから、海を生かした貿易で琉球王国は栄えてきた。現代につながる面白い結果があると知った。沖縄の昆布の消費量は全国平均の4倍近いそうだである。それは伝統的な沖縄料理に取り入れられているからということだが、沖縄近海では昆布は取れない。日本の東北・北海道方面との海上貿易が盛んであった結果であろうと推定されている。

  

  

 琉球衣装を着た女性がほほえんでいる。「綺麗だな」と思う。首里高校では文化祭が開催されていた。感じることは、「平和」であるということだった。

 

 さて、本当に時間が無くなってきた。レンタルバイク屋へ帰る途中で国際通りへ寄って土産を買わなければならない。最後の一走りを、事故に遭わないように急ぐのだった。国際通りについては、すでに書いているので多くは書かないが、観光県らしく多くの土産物屋が並んでいる。異様に長い通りだ。ちょっと離れた所へ琉球焼きが集まっている通りがあるが、通り過ぎるだけでこれも次回の楽しみとなった。さあ、時間との追いかけっこだ。

 レンタルバイクは満タン返しが流儀であるが、時間が無いときには何もかもが煩雑に思える。付いてからの契約書の確認、時間のチェック「時間延長・割り増しですね」「ハイハイ」。傷のチェック。「転けたりしていません」。「お支払いは・・・」「ありがとうございました」「こちらこそ助かりました」。・・・って、おいおい、空港まで送ってくれるとパンフレットに書いてあるじゃないの。
 空港まで送るように言い、担当者を待ったが、なかなか出てこない。レンタル専業の者がいるのではなく、販売や修理の合間にやっているようなのだった。時間は刻々と過ぎていく(このパックチケットの場合、乗れないとどうなるのだろう?と心配する)。「飛行機の時間があるんだ。急いで頼むよ」。やっと大型スクーターの後ろへまたがった。
 それからは、車ではとうてい間に合わなかっただろう。バイクならではの機動力で、車を右へ左へと追い越し、信号では前に出て、なんとか沖縄空港へ滑り込んだ。

  

 空港の発着ロビーでは三線(サンシン・蛇皮線)が響いていた。旅程中ついに見る機会がついになかった「琉球民謡」をやっているではありませんか!旅行中の天気に恵まれ、急ぐ旅程に事故もなく、最後にこんなプレゼントを。沖縄の旅神に感謝します。ありがとう。出発のギリギリまで2曲ほど見て、熊本便へ乗りこんだ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 通り過ぎていく島々を見ながらオリオンビールを飲んだ。あっという間だったが、たくさんのことがあった。ずっと感じていたのは「平和」のことと、地方が持つ魅力「個性」のことだった。

 琉球(島)の文化が流行っている。坂本龍一がアルバムで取り上げたのもかなり前で、沖縄出身の若い歌手の活躍、NHKの連続ドラマ「チュラさん」。島唄。元チトセ。今会う沖縄の人々は明るい。音楽も軽やかで癒される。琉球時代の中国と日本の狭間での苦悩と、大東亜戦争での犠牲を経て伝えられている文化は、この地が本来、豊かで平和な地であったことを示していると思う。越えてなお生きているメッセージに、また、涙が出そうになる。できれば流行だけで癒しを求めるだけではなく、その重たい背景も知り感じてもらいたいと願う。

 私たち旅する者は、その内容の差はあれ、「旅」を通じて個性との出会いを求めているだろう。全国にある東京のマネをした銀座、その向こうにあるアメリカとグローバリゼーション、それらと対岸にある「個性」に私は共鳴する。沖縄の島々には、世代を越えて行く「平和」と「自然」に基づく個性があった。ありがとう。(終わり)