●●● 9/12(木)    

 8:35発の石垣行きに乗るので、朝は慌ただしい。太田黒さんお奨めのビジネスホテルは大浴場が朝6:00から開いている。これがお奨めの理由かな?と思いつつ、ばたばたと準備に追われる。空港まではタクシーで約10分であった。1070円だったが、細かいコインがないと言うと「1000円で良いよ」と言う。この辺のルーズさがまた良いと思う。
 実は今回の旅の間、小銭が常に不足していた。後で考えたが、島では消費税を細かに取らない店が多く、その為に小銭が残らないのだった。(そんな細かいことはいい)と言われている気がしていた。

 沖縄から石垣までの空路はまた楽しいものだった。所々にある島は、エメラルドグリーンや藍色、はたまたバスクリン色の模様を配置して素晴らしく、また、「雲はこうして出来るのですよ」と子供に話せるように、海から雲が生まれる姿が見られた。乗客はほぼ満席で、夏休みを終えた平日であったからか、観光客よりも普通の人達が多く見られ、生活の足としての側面を感じた。乗っている自機の影がずっと海面に映っているのを初めてみた。それほど天気が良く空気は透明だった。

  

  

 那覇空港もそうだが、島の空港は海沿いに作られている。石垣空港は、滑走路の向こうが海という風景がまた南国らしい。機体からバスに約半数の乗客が誘導されたが、もう一台のバスが遅れたかどうかで残りの乗客は歩きとなった。その間、50m程。「そんなのなら最初から全員歩きで良いじゃない」と乗客の一人がぼやいたが、「いやいや、この大らかさが良いんですよ」と私は思った。

 今日は石垣に止まらずに、日本最南端の島「波照間(はてるま)島」まで行く。石垣空港から石垣港まではバスで3駅(200円)ほどである。女性がドライバーで、時おり観光案内が入る親切な応対だった。(石垣をゆっくり楽しむには、5日間乗り放題(1000円)のチケットも発売されている)
 石垣から八重山諸島へは高速船が運行している。ちなみに波照間島までは片道1時間(往復割引で5800円)である。出発まで時間が1時間ほどあったので、ミンサー織りや黒真珠などのお店を見てお土産の下見をしていた。そうそう、石垣にもレンタルバイク店があり、港の近くの「さんぽ」で明日の予約を入れた。

  

 高速船にはデッキと客室があったが、せっかくならばデッキで風景を楽しもう。心配の種は私が船に弱いことだ。期待と不安の中、船は出航した。しばらくして「竹富島」を右手に過ぎていく。沖縄の島には大きく2種類あり、火山隆起の山を持つ「石垣島」や「西表(イリオモテ)島」などと、珊瑚礁が隆起して出来た山を持たない「竹富島」や今から向かう「波照間島」もそうである。珊瑚が隆起した島は独特の雰囲気を持っている。右手には「小浜島」その向こうに大きく「西表島」が見えてきた。左手には、「黒島」「新城島」が過ぎていった。波照間島はこれらの島からまたぽつんと南に離れている。
 波照間とは「最果ての島」「波が照る島」などと連想する。「果てのウルマ(珊瑚礁)」のこととガイドブックには書いてあった。無数の無人島や珊瑚礁の上には誰が植物を運ぶのだろうか、土はどうして積んでいくのかなどと考えつつ、景色は透き通った緑から藍色までの海の色と青空と白い雲、ああ、日本の南端であることを実感している。そのうち船は外洋に出たからか、波の頭を飛ぶように走り出した。波と舳先が当たる度に「がつん、がつん」と音がする。風景や空気を味わっていたら酔いもせず、私にも実に快適なものだった。

 港には、各民宿からのワゴン車がならんで到着を待っていた。波照間には5-6軒の民宿があるが、実は昨日まで宿が取れていなかった。9月はシーズンオフだとたかをくくっていたのであるが、昨日、波照間の民宿へ電話をするがどこも満室で断わられた。太田黒さんお奨めの「民宿たましろ」もだめであった。やっと相部屋で取れたのが、漁師のみのるさんが経営する民宿みのる荘であった。後でわかったのだが、9月は航空会社の安売りチケットの為にけっこう混んでいるということだ。離島の宿は甘く見ては行けない。

  

 みのる荘はこの島で唯一のマイクロバスを持っている。港へもみのるさんが来ていた。「みのるさんですか?」「今日お世話になります井上です」「今日の船は快適でしたが、どんな状況ですか?」「今日はとてもいい状況だよ」。なるほど、心地よさにも納得がいった。ぜひ明日もそうあって下さいと願う。
 私の他数名の今日のお客は、マイクロバスで民宿まで向かった。島には風力発電施設がシンボルのように建っている。他に高い建物と言えば、NTTの電波中継所と、星空観測タワー、空港管制塔、サトウキビ加工所の煙突だけである。左右にはサトウキビ畑が続いている。


    さとうきび畑と風力発電
 宿で宿帳に記載をし同室の若者と挨拶を交わしたら、熊本大学の学生であった。名は吉川君。彼とレンタル・チャリで回ることにした。何をさておいても海で泳ぐことで、両者の意見は一致していたのであった(笑)。みのる荘に置いてあった、手書きコピーの案内書によると、西の浜が島一番のビーチだそうである。迷いつつ自転車を走らせるのもまた楽しい。ヤギや牛がのんびりと草を飯んでいる。

  

  

  

 元々珊瑚礁が隆起した島なので、畑などを起こすと石化したサンゴが出てくる。それを台風などへの対策として家の周辺へ石垣ならぬサンゴ垣が積まれており、赤屋根の沖縄風の民家が並んでいる。逆に木は貴重なものと思われる。生活環境が独特な家の風土を育てているのだろう。写真を撮ろうとすると、各家の縁側は開け放されており、島人の生活をのぞくようでちょっと躊躇した。
  

  

 売店などに立ち寄ってこの島でしか買えないという幻の泡盛「泡波」を聞いたが、どこにも無かった。背の高いサトウキビや南方独特の木々を抜けると突然コバルト色の海が広がった。しばらく自転車を止め、二人で呆然としてしまった。何という色だろう。

 サンゴが砕けて砂になったビーチにゴミは無く、人工物のない砂浜が続いている。道路脇にトイレと水道があるだけである。海の水はわき水のように澄んでいる。先客十数名がいたが、気にならない。二人であたふたと海へ入って行った。

  

  

  

  

  

 

 今回も簡易型水中カメラが大活躍(の予定)である。手前はサンゴのつぶの比較的荒い砂浜でその先はサンゴのリーフに砂がつもって海草がうっすらと生えている。その先にはサンゴの群落が崖のようになってそこから深くなっていた。その下はまた、細かい砂になっている。視界は遠くまで見える。サンゴの群落付近では、多くの魚を見ることが出来る。素晴らしい環境である。彼も泳ぎ潜り、時々顔を見合わせてはニコニコしている。一旦海岸へ上がり、付近を歩いてみた。サンゴのかけら等は珍しくもない。石がないのだ。大きな貝殻がころがっている。「そろそろ行こうか?」と私。「あと30分良いですか?」と彼は言った。そうしよう。もう一度泳ぐことにしよう。

 お名残惜しいけれど、水道で水をあび再び自転車にまたがった。ぐるっと島を回る「一周線道路」があり、それを行くことにした。目指すは「南の浜」(ペムチ浜)、日本最南端の碑である。島の南側から下へ下りる道へ入ると、2車線の立派な道路に出た。その道路は途中で止まっているが、これもバブル時代の名残りであろうか。補助金目当ての道路工事と思われた。二人で自転車をこいでいる間、自動車、バイクは一台も通らなかった。元々この島に農作業以外の自動車が何台あるのだろうか?2車線の必要性は何なのだろう?管理することもなく放置され、草が道路を覆っている。そのうち自然に帰るのだろうか。

  

 道路のガードが切れて海へ降りれる場所があったので海岸へ下りてみた。南の浜は素晴らしい風景だった。水がそこで湧いているような透明な海。遠くへ流れる筋状の雲。人の痕跡は皆無だった。再び二人は言葉が無くなった。ここは日本の南端であることをかみしめていた。

  

 それからしばらく自転車をこぐと日本最南端の碑がある。ここは観光ポイントであるから屋根付きの休憩所と記念碑が複数あった。複数というのは何だか変だが、最初は多分ひとつであったものが、次第に海側に作られていったという感じだ。そのひとつは「聖寿奉祝の碑」ということで神道全国青年協議会が日の丸をパネルに入れて立てていた。「・・・日の丸の元で我が民族が一体となり・・・」とある(強風では保たないとも書いてある)。

 

 

 波照間島の戦史についてここでふれておこう。以下は、波照間島についてインターネットで検索をしていてわかったことだ。改めて言いたい。海の恵みで豊かに暮らす島民にとっていや沖縄にとって、日本軍も米軍も要らなかったのだ。

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 太平洋戦争末期、米軍の上陸が懸念されることから、波照間島住民に対して西表島への強制疎開が行われた。その結果、疎開中もさることながら戦後、帰島後にマラリアが猖獗を極め、島民の98%が罹患し、3人に1人が犠牲となるという悲劇的状況となった。戦後40年以上を経てようやく八重山の遺族が補償を求めて立ち上った。国の厚い壁(厚生省?)に阻まれ、補償は認められず妥協的な結果とはなったものの、マラリア被害を後世に伝えるための祈念館建設などがどうにかして認められた。しかし、昨99年、祈念館では開館早々、展示内容の改竄が発覚し、現在も問題は継続中である。戦後55年を経てなお、マラリア被害者は翻弄されつづけている。
 特にひどいのは、日本軍が取った方針であった。山下虎雄(偽名)という者が、青年学校の教師として波照間に赴任したが、実は陸軍中野学校の教育を受け派遣された離島残置工作員だった。米軍が上陸する恐れがあるとして、島民に強制疎開を命令。従わない者に対し、軍刀を抜き、脅す。軍人であることがあきらかとなる。以降、島民に対する態度が豹変。有力者達は、米軍上陸の可能性が低いこと、西表はマラリアの猖獗地であり感染が予想されることから反対したが、山下の強硬で暴力を厭わない態度に従わざるを得なかった。
 この命令自体は石垣島の八重山守備軍(独立混成第45旅団)から出されたものとされているが、八重山の他の地域に比べ時期が早いことなど疑問が多い。また、当時、日本側から沖縄への差別意識は根強く、疎開は住民の安全を守るためと言うより、住民が米軍側につくことを恐れたものという見方が強い。(この点に関しては山下本人も「島民がスパイになる可能性」を述べている) −以上、HPから一部を引用−
 詳しくは、以下のページを参照されたい。
http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/mararia.html
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 このページは、本田 創(ほんだそう)さんが出しており、圧倒的な沖縄・八重山諸島の旅を元にした、淡々とした書き方だが、奥深い。

 さて、ここからの風景も素晴らしい。少し離れたところに見えるのは半円型の星空観測タワーである。夜には観測会が予定されている(らしい)。
 自転車はまた「一周線道路」へ戻って走った。少し先に波照間空港がある。一日一便のこの空港はのんびりしている。この空港の近くには、これもインターネットでわかったことだが、地球温暖化観測モニタリングステーションがある。人的な影響を受けない場所と言うことで、日本で二ヶ所、ここと、北海道の根室半島付け根の落石岬にあるということだ。空港の誰もいないロビーで水分を補給した。
 気がつくと返却時間まであと30分しかない。島で唯一のみやげもの店「モンパの木」まで一走りすることにした。途中、クイナの仲間だろうか、(ヤンバルクイナは有名だが)、飛べない鳥が茂みへ逃げた。道路脇の風力発電所を見上げた。白いタワーと青い空、ハイビスカスとのコントラストが美しい。どうか、このハイテクが環境を守る事へ役立ち、この環境が続いて欲しいと思う。モンパの木はオリジナルのTシャツやアクセサリーを売っている。おやじはいわゆるヒッピー系のような感じで、ずいぶん前にここに移住したのではないかな。近くに同じ様な感じの飲食店があった。
 もうひとつ、昼をまた食べていないことに気がついた。「昼飯を忘れて遊ぶなんてガキのようだ(笑)」と言うと、「たまにはそんなことでもいいんじゃないですか?(笑)」とフォローしてくれた。

  

 さて宿での夕食には、魚中心の料理が並んだ。昼を抜いた我々にはいづれも美味かった。幻の泡盛「泡波」が置いてあって、飲んで良いようになっている。この島の地下水は塩分が高いらしいが、そのせいか辛口のあっさりした飲み心地であった。欲しくて島内の四つの売店を回ってみたが無かった。その味と写真だけを記憶に止めよう。吉川君と福岡から来た田代さん(女性)と、波照間島や沖縄について語りながらの夕食となった。連絡先の交換は定番だが、久しぶりのことで何だか懐かしい。
 離島を目指す彼(女)らのパターンは、昔と変わらないのではないかと思った。豪華な海外リゾートとは異なることを求めていると思う。それぞれに想いは異なるのだろうが、もう20年ぐらい前の北海道での旅の臭いがあった。

  



 夕食時に星の観測ツアーの案内(午後8時から)があり、多くの客が参加した。昼間に見た星空観測タワーは閉まっていたが、夜には開いているのだ。なるほどそりゃそうだ。私も参加することにした。みのるさんが運転する、島内唯一のマイクロバスで一行は明かりのない道路を進んだ。星空観測所には他の民宿からもツアーが組まれているらしく、50名ほどの観客は、その日の宿泊客総動員と思えた。
 プラネタリウムへ案内され一通りの説明を受けた。が、泡盛が入っていた私は気持ちよく寝ていた・・・zzz。その後展望台へ。屋上へ出てハッとした。人工的な明かり、街明かりや漁船の明かりすら無い中で、三日月であったが月明かりが照らす海と海岸のシルエット。上空一面に瞬く星々。屋上に多くの者がいなければ、愛を語りたくなると言うものだ。すごい。阿蘇で、なれているはずの私でもそう感じた。
 しかし、この説明員は良く知っているというか、約2時間星のことについて語っているが、まだ時間が足りないと言うような勢いだ。地元の人ではないようなので、星好きが高じてここまで来たということだろうか。「季節のよってはここの緯度*分の傾きで、南十字星は、そう、その人の足の下、地球の向こう側です。構成している星の数は*個で・・・、星座で言えば・・・、*等星のの明かりは・・・・・」という感じで説明は続いていく。波照間島は偏西風と貿易風のちょうど端境にあり、空気の影響を受けにくいために星を観測するには絶好の位置にあると言うことだ。日本で唯一「南十字星(サザンクロス)」が見える島でもある。残念ながらその時期は冬期11-2月で、夏は地球の裏側に隠れている。そうそう、水平線が丸く見えていることに気がついた。この後、天体望遠鏡で星を見て、星の観測ツアーは終了した。

  

 帰り道に、ワゴン車が1台停まっている。みのるさんがマイクロバスを止め、早口で何か言っている「・・・・・」、ちょっと怒っているようだ。何があったんですか?同乗者で前に乗っていた人から「ヤシがにを捕まえていたらしい」みのるさんは、「私がさっき見つけたが、まだ小さいので逃がしたものだ。捕まえるな」と言っていたらしい。ほう、ここにもヤシがにがいるんだ・・・。後日、ガイドブックからヤシがに料理のことを知った。石垣島で他の宿泊客に聞いたら、うまいらしい。地元住民で食べるのならまだしも、観光客向けで出したら、あっという間にいなくなってしまうだろうなぁ。