渤海王城と天平の交流

渤海王城と天平の交流

―よみがえる渤海遺産―

藤井 一二

遣唐留学生として阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が海を渡ったのは七一七(養老元)年、また唐招提寺の開祖鑑真が六回目にして来日したのが七五四(天平勝宝六)年のことだが、この世紀、日本は中国東北部を中心に栄えた渤海王国と北の回廊で結ばれていた。今、この国の王城を中心とする文化遺産の調査・保存・整備が進み、学術と観光の両面から脚光を浴びている。

渤海と日本の交流

中国の歴史書である『新唐書』渤海伝に、「海東盛国」と讃えられた渤海は、最盛時、現在の中国東北部・ロシア沿海地方・朝鮮半島北部一帯を支配した。建国(六九八)から滅亡(九二六)に至る約二三〇年間に、記録された対外交渉は唐国へ使節一〇〇回余、日本へ三三回余を数える。いま、奈良時代に限れば渤海使一二回、遣渤海使は九回に及んでいて、渤海から日本へ動物の貂(てん)・虎・羆(ひぐま)・豹(ひょう)の皮や人参・蜜など、日本から渤海へ絹・糸・綿・羅(ら・薄絹)や黄金・水銀・漆・椿油・水晶念珠・扇などが贈り物とされた。渤海の都は、建国以来、何度も移転したが、とくに中国黒龍江省寧安市渤海鎮にある上京龍泉府(渤海上京城)址は、優れた歴史的景観に恵まれている。

王城の情報公開

近年、二十世紀中葉以降に蓄積した調査成果にもとづいて、黒龍江省文物考古研究所『渤海上京城』(上・下巻・付図)、中国社会科学院『六頂山与渤海鎮』、朱国忱・朱威『渤海遺跡』、吉林省文物考古研究所『西古城』、同『六頂山渤海墓葬』、魏存成『渤海考古』、王禹浪・魏国忠『渤海史新考』等の図書が相つぎ公刊され、謎多き王国の内側に遺跡と文物の両面から光をあてている。たとえば、王城内の宮殿や城門址、黒龍江省博物館や渤海上京遺址博物館の展示資料、発掘された大量の瓦と文字瓦、瑪瑙(めのう)や水晶の数珠、陶・銅・金・銀・鉄・玉石器や、牡丹江・図們(ともん)江流域の渤海遺跡、三陵屯二号墓の花・草の壁画、貞孝公主墓(三代王大欽茂第四女)の彩色人物壁画など、古代の日本と交流の深かった渤海王国が到達した文明の輝きに目を見張るものがある。

渤海上京城宮城遺址入り口
(黒龍江省寧安市渤海鎮)
渤海上京城・第2宮殿址から南門を望む

渤海使と「日本道」

渤海王城から日本へ向かう道は「日本道」、日本から渤海へ向かう道は「渤海路」と呼び、両国は陸路と海路で結ばれていた。渤海使が初めて来日したのは、七二七(神亀四)年、渤海使の高斉徳という人が、天皇に渤海王の書簡と土産の貂(てん)の皮を贈ったのに始まる。翌年、送使として渤海へ渡った引田(ひけた)朝臣虫麻呂は、二年後、越前国加賀郡の津(現在の金沢港)に戻った。

日本海沿岸の中央を南北に帯状に延びる北陸地域は、七世紀に「高志国」「越国」(コシ)と呼ばれたが、対岸アジアとの交流に加え、都と出羽(現在の山形・秋田)を結ぶルートの重要な位置を占めていた。

高志国は、七世紀末の持統天皇の時代に越前・越中・越後に分かれ、平安時代にかけてさらに分立が進み、越後・佐渡・越中・能登・加賀・越前の諸国を形成した。北東アジアを舞台にして、対外交流、地域間交通・民族移動・地域支配の連関状況を考証する作業は、北陸の交流史に関心を寄せる立場からも、多くの課題と展望の広がる分野に属する。

高志国の舞台

「高志」は本来、国造(くにのみやつこ)の管轄する地域の「国」の名称であり、その範囲は、律令制下の「郡」レベルを想定できる。対岸の東北アジアとの交流窓口となった「高志」について、要点を述べると次のとおりである。

  1. 「高志」の名称について、国造の「高志」から北陸道の「高志」へ発展するのは、国造の全国的な配置が最終段階を迎える六世紀中頃(欽明十七年〈五五〉頃)までに、北陸地域の国造の配置も完了したと考えられる。
  2. 高志国から越中国へ移行する過程に、「高志道中国」(高志中国)の表記段階が存在した。そして高志(道)中国の成立は、持統三年(六八九)六月の飛鳥浄御原令による可能性が高いこと、高志中国から越中国への改称は、大宝元年(七〇一)三月の大宝令施行によると推定される。
  3. 「高志」という国名は、漢籍の吉祥句を選び、北陸の地域名に採択された。『後漢書』『文選』などの典籍から吸収した新知識は、六世紀代を中心に百済・高句麗の五行博士や僧侶らによって朝鮮半島経由で伝わった。さらに七世紀前半になると遣隋使・遣唐留学生の帰国によって本格的に摂取し諸制度の改革に反映することとなった。行政地名の表記整備もその一環として評価できるのである。

中国東北の渤海遺産

中国東北地区には、七世紀末から十世紀初めにかけて、日本と活発な外交を展開した渤海王国の遺跡が数多く分布する。二〇〇五年から文部科学省と日本学術振興会のプロジェクトで中国東北地区における文化遺産と学術資料の集積と学際的共同研究をテーマに掲げ、渤海の王城遺跡・王族墓や交流経路などの歴史文化遺産に関心を寄せてきた。

ここ十年、黒龍江省のハルビン・牡丹江・寧安市と吉林省の延辺朝鮮族自治州(敦化・延吉・琿春・和龍市など)へ計八回訪れる機会をえたが、とくに印象に残る文化遺産と今も続く交流状況について記したい。

○ハルビン-黒龍江省博物館-

渤海国領域概要図(上京龍泉府址・表示板)

[筆者撮影]

初めてハルビン(哈爾浜)市を訪れたのは、平成十六年夏、黒龍江省博物館で渤海遺跡の出土品を実見するのが目的であった。二度目は同省社会科学院の魏国忠研究員の案内で第二室の渤海王城コーナーにおいて上京龍泉府址(寧安市渤海鎮)から出土した各種瓦・開元通宝銭・緑釉獅子頭・文字瓦・宝相蓮華紋方磚(せん・レンガ)・舎利函・騎馬銅人などの解説をうけた。これが縁で三年後同氏を日本にお招きし東京で講演会「黒龍江流域の歴史と文化」を開催することとなった。近年、郊外に松花江文明をテーマとする分館が開館し、本館も太陽島に新築中である。

ハルビンから車で一時間ほどの阿城市に金代上京歴史博物館が開館し、上京会寧府址から出土した膨大な文物(銅器・金銀器・玉器・陶器・鉄器・石雕・貨幣・服飾・印符・銅鏡・骨木器など)の展示によって、十二世紀初めに中国東北部から起こった女真族のたてた金王朝の世界を再現している。私たちは黒龍江省民族研究所の協力をえて、松花江・牡丹江の支流を含む黒龍江流域の渤海文化遺産の巡見を進めているが、滞在中よく訪れるハルビンの中央大街を歩くと、随処に旧ロシア・日本統治時代の建造物が残り歴史的な証跡を今に伝えている。

○牡丹江流域

牡丹江市はハルビンから東へ約三五〇キロ。渤海上京城遺址のある寧安市へ向かう際の拠点で、ここでは牡丹江流域文明の研究に取りくむ牡丹江師範学院をよく訪れた。

二〇一一年夏、鏡泊湖畔の宿舎を拠点に、渤海国上京龍泉府遺址・同遺址博物館・興隆寺へ、さらに鏡泊湖中部の半島へ船で渡り渤海時代の古山城に登った。三面が湖に面する湖州城は往時、契丹民族らの攻撃を防御する駐屯兵の拠点として今も門址・古井戸・石垣が残り、山頂からは景勝の入り江(珍珠門)を一望できる。

鏡泊湖・湖洲山城(中国黒龍江省)

[筆者撮影]

上京龍泉府址の南門西側から城内に入ると、宮城第一―五宮殿址、東・西廊下址を含めて遺跡の整備が完了し、宮城内をすべて観覧できるようになった。今回はじめて宮城北門址から真っ直ぐ北の外城壁址まで歩いたが、たどり着いた箇所は西の牡丹江へ通じる緩やかな曲線を描く東西路であった。近くの渤海上京遺址博物館に金銅の佛像・文字瓦・「天門軍」銘銅印・三彩獣頭・銅鏡・蓮華瓦当・銅人などを展示し、近くの興隆寺では渤海時代の大型石灯塔(高さ約六メートル)の威容が、当時栄えた仏教文化の象徴的遺物として保存されている。

○図們江流域

吉林省東部に位置する延吉市は、延辺朝鮮族自治州の州政府の所在地で、人口約四二万といいます。周囲を小高い山並みが囲み、市内を流れる布尓哈通 (プルハトン)河に、近代的な高層建築の色鮮やかな影がゆらいでいた。

近年、延吉市にある延辺大学開催の国際フォーラム「辺縁からみた多元文化―辺界・流動・融合―」に参加した折、延吉市から渤海国の王城である中京顕徳府のある和龍市西古城、東京龍原府のあった琿春市八連城、さらに渤海三代王大欽茂の次女・貞慶公主墓のある六頂山古墓群(敦化市)、同四女・貞孝公主墓のある龍頭山古墓群(和龍市)などは、公開に向けて目下、整備中にある。

先年、長春・吉林・琿春を結ぶ新たな高速公路で図們(ともん)・琿春(こんしゅん)市を経て、図們江下流の防川(ぼうせん)を目ざした。図們江沿いの道は、河口に向けて次第に狭くなるが、今から一千年以上もの昔、このルートは中京顕徳府や東京龍原府から日本へ使節団が移動するときに、重要な役割をはたした道である。私にとって、延辺大学・延辺自治州図書館・同博物館との交流によって、渤海早期王城=中京顕徳府址の位置する和龍市西古城周辺を案内していただき、渤海初期における歴史的環境を理解できたのは意義深いことであった。

渤海国第三代王大欽茂の第四王女・貞孝公主の墓がある龍頭山は、宮城址の確認されている中京顕徳府址から地理的に近距離にあって、数多くの王族墓を造築できる丘陵状の山並みであることを実感した。近くを流れる海蘭(かいらん)河は、布尓哈通(ぷるはとん)・図們江(ともんこう)を経て日本海に通じており、中京顕徳府の交通と物流の環境に枢要な役割を担っていたことも理解できた。

この延辺地域と寧安周辺には渤海遺産が数多く分布し、巡回コースは幾通りも計画することができる。緊密な関係にあった渤海と日本を結ぶ交流の回廊を、もう一つの遣唐使ルートと位置づけて、あらためて万葉の世紀にあって、東アジア大交流時代の人・物・情報の移動・連動・融合のありように関心を深めることの重要性を感じている。

鏡泊湖周辺歴史遺産分布

[出典www.onegreen.net]