遺産探訪
中国東北の流域遺産・博物館をめぐる
―民族文明の多元性を再現―
私にとって平成22年度の訪中は特に記憶に残る。それは中国東北を中心に栄えた渤海国と日本の交流回廊に関する歴史的環境を考証すべく関係地を巡回できたことによる。
とりわけ中国延辺地区では、延吉市の延辺自治州博物館をはじめとして、龍井市を経て渤海早期王城=中京顕徳府址の位置する和龍市西古城周辺にかけて巡見することができ、海蘭河や龍頭山を中心とする地勢・環境の理解に資するところが大きかった。
特に、渤海国第3代王大欽茂の第4王女貞孝公主の墓がある龍頭山を山麓から望見でき、歴史的環境を理解する上で初年度の成果となった。和龍市の龍頭山は、宮城址の確認されている中京顕徳府址から地理的に近距離にあって、数多くの王族墓を造築できる長大な山脈であることを目の当たりにした。近くを流れる海蘭(かいらん)河は、布尓哈通(ぷるはとん)河・図們江(ともんこう)を経て日本海に通じており、中京顕徳府の交通・物流環境にとって重要な役割を担っていたことを実感することができた。



同年11月、延辺大学主催の「図們江学術論壇2010」において、私は「古代日本の対渤海交渉と渤海早期王城」を報告した。朝鮮語への通訳を武貞秀之氏(現、延世大学教授)が担当された。
2011年7月13日を中心に黒龍江省最北の鶴崗市で第二回黒龍江流域文明鶴崗論壇学術報告会が開催された。鶴崗市はロシアとの境界を流れる黒龍江の畔に位置する緑野と森林景観の印象的な人口約110万人の辺境都市。「黒龍江的山水画廊」と讃えられる《龍江三峡》の景勝地で知られる。


黒龍江省鶴崗市に到着した7月12日、同市夢北県の特設会場で合唱・歌舞等の演出が加わり賑やかに開幕し、午後、中国AAA級旅遊景区として風光明媚な名山島の黒龍江流域博物館を参観した。2009年夏に開館の同博物館は、黒龍江流域の自然・歴史・民俗の展示館から成る中国唯一の界江流域博物館で、峡谷・植物・恐竜など古生物・動物・魚類や北方の遊牧・遊撈・漁撈民族、流域に活動した諸民族の特色ある生産・生活習俗が文化財・標本・実物など4000余件の展示があるとの説明をうける。鶴崗市は1200~1300年前、黒龍江流域にまで展開した渤海国の最北域に立地したことから、 歴史館で夫余・渤海・金国の解説コーナーに注目した。13日の黒龍江流域文明論壇報告会は、黒龍江省社会科学院の魏国忠研究員、大連大学中国東北史研究中心主任の王禹浪教授(本科研費協力研究員)や清華大学・日本側研究者による報告会は、ハルビン・鶴崗からの報道取材も加わり活況を呈した。私は、科研費研究の一端を「古代日本和中国东北交流」として報告した。
7月14日、鶴岡から中・日合同研究班は510キロ離れた牡丹江市へ車で移動し、共同研究を予定する牡丹江師範学院・牡丹江流域文明研究中心や同国際教育学院の教授らと合流した。
同月15~17日、牡丹江市と寧安市鏡泊湖畔の宿舎を拠点に、渤海国上京龍泉府遺址・同遺址博物館・興隆寺、そして鏡泊湖中部の半島へ船で移動し渤海時代の城牆古山城に登った。三面が湖に面する曾ての湖州城は契丹民族等の攻撃を防御する屯兵の要地で、今も 門址・古井・石塁等が残り、山頂から鏡泊湖の一面を望見することができた。

[筆者撮影]
寧安市渤海鎮の上京龍泉府遺址は、南門台基の西側から城内に入ると、宮城第一・二殿の東・西廊廡(廊下)址が復原整備され、北の第六宮殿址に向けて歩道と木製階段が整備され宮城内の観覧が可能であった。雨の中、牡丹江師範学院スタッフの案内で、整備の進んだ宮城北門址から真っ直ぐ北に向けて外城壁址まで歩いたのは、3回目にして初めてのこと。辿り着いた箇所は、緩やかな曲線を描く東西路で、西に向かえばまもなく大河、牡丹江へと通じる。同行の魏国忠研究員・王禹浪教授や牡丹江師範学院歴史系教授陣との共同で始まる牡丹江流域文明の考察に向けて、あらたな夢が膨らむ。


[筆者撮影]
17日、王・藤井・服部・鍵主の4名は、陸路で牡丹江からハルビンへと移動し、黒龍江省民族研究所の都永浩所長・同省政府発展研究中心崇偉新副主任らと懇話会をもち、今回の旅の成果を祝った。
2011年8月21・22日を中心に、吉林省東部の延吉市で図們江学術論壇2011が開催された。延吉市は 延辺朝鮮族自治州の州政府の所在地で、省境の東部にあって人口42万、そのうち朝鮮族が6割をしめるという。周囲を小高い山並みに囲まれ、市内を流れる布尓哈通河 (プルハトン)に近代的な高層建築の色彩を帯びた影が水面に投影している。


白山大厦国際会議場で開催の学術論壇は8月21日全体会、22・23日の分科会は論壇Ⅰが「辺縁からみた多元文化―辺界・流動・融合―」をテーマに歴史文化組・語言文学組、論壇Ⅱの経済組は「図們江区域の合作開発―協調・治理・対応―」をテーマとし、図們江区域の開発・開放と合作開発や中・日・韓の金融合作、投資対策、都市建設・物流計画など当該地域の内包する多岐の課題について、計50本に及ぶ報告があった。歴史文化組では、鄭永振延辺大学教授の「富居里一帯の渤海遺跡」、王禹浪大連大学教授の「図們江流域の古代歴史と文化」、藤井の「渤海早期王権と古代日本の交流特性」など13本の報告が行われた。


天候が急変した8月22日午後、王協力研究員の手配により清華大学・牡丹江師範学院の教授陣と共に、図們江口に近い防川を目指した。延吉から、長春・吉林・琿春を結ぶ新たな高速公路で、図們市を経て琿春市に到着した。途中、琿春の密江郷や英安鎮辺り、また、高速路が終わり省道(201号)・県道で防川に向かう道筋は、敬信鎮を過ぎると車窓右側に図們江の流れ、川向こうに北朝鮮の山河や集落が目に映った。遠くの山道をバスがゆく光景も再三、目にした。図們江沿いの道は、河口に向けて次第に狭くなるが、今から一千年以上もの昔、このルートは、渤海国の中京顕徳府や東京龍原府から日本へ使節団が移動するときに重要な役割をはたした。防川風景名勝区の展望塔に登ると、左にロシア、右に北朝鮮の風景がひろがり、すぐ前方に見えるロシアと北朝鮮をつなぐ鉄橋・鉄路は、北朝鮮の良港、羅津へも通じている。鉄橋の向こうには、図們江口に向けて蛇行する川筋を遠望でき、図們江口の右側には入江に富む造山湾も近いのであろう。
8月24日、延辺自治州図書館を訪問し、金勇進館長・金秀頴対外連絡部長から成間近の新館と現在館の日本・中文資料室資料の説明を受けた。翌25日北京へ移動。滞在中、王府井書店で図書を探索し、夕刻、かつて東京の中国大使館に勤務し、任終えて北京に戻った孫永剛・喬倫両氏と再会、近況を交えて懇談した。

