日常の中の楽しみ (2003.4.16)
先日銀座の現代美術の画廊で作品を見ていたら、出口のところでずっとそわそわとしている一人の女性に、「この作者は知り合いの息子さんで、もうすぐ彼がここに来るのだが、なんて言っていいのか分からないのですが、あなたはこの作品分かりますか?」と聞かれた。私はこう感じますとか言う感想を漠然とお答えしたのだが、確かに日常の中にないこの感じはあまり現代美術にふれたことのない人には頭を抱えてしまうモノらしい。
人にはそれぞれの歴史があって、その人の歴史の目を通して、観る作品を感じていけばいいと思うのだが、「こうでなければ」といういろいろな既成概念やらアカデミックな知識やらが介入し、そんな縛りが「こんな私じゃわからないかも」になってしまい、見ることからもふれることからも遠ざけてしまうのか。(これは美術教育の責任か。)この女性は私よりもずっと年上で、きっと私より人生でいろいろなことをたくさん経験してきておられるわけで、きっともっといろいろなことを感じておられたのだと思うのだが。現代美術の方も突然作品!として提示するほかにもっとすることあるのかも知れないなとも思った。でも、私がその時お答えした感想というのもいわゆるアカデミックな美術!という感じではなかったので、「え?」と思われたのではないかと少し心配にはなりましたが。
別に美術館や画廊などではなくても美術的な体験というのは日常どこででもできることだと思う。ただそれを意識しているか、目を向けているかが大切で。究極の表現の場として、美術館や画廊などは存在するわけで、鑑賞者の方からしてみれば、それにこだわらず、博物館や本や草木や日常見慣れていても突然角度を変えてみたら違うものに見えたりと言った現象など、日々、きれいだなとかかっこいいなとかこれは新しい!とかこの色合いは普通じゃない!とかおもしろい形だなとか気持ちいいとかいった美術的体験はできるものである。生活のちょっとした中からいろいろなことを感じていきたいものである。というかそれこそが美術の目的という感じもする。
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